21 『はじめまして』
聞こえてきた高笑いに、僕は思わず駆け出していた。
背筋を凍らせる女の笑声。アマンダさんのものではない、僕の知らない誰かのものだ。
一本道を道なりに突き進む。氷が所々張っており滑りやすい道だったが、鋲付きのブーツを履いてきているため転ぶことなく走ることが出来た。
しかし、それでも油断していると危ない。パーティから一人先行し、僕はアマンダさんらのもとへ急ぐ。
「ハァ、ハァ……早く、行かなきゃ……」
後ろを振り向いている余裕は最早なかった。
エルたちが追いかけてくるのを背中で感じながら、ただひたすらに前を目指す。
冷気が足元から僕らを掬おうとしてくるが、振り切った。
だけど、迷宮は簡単に挑戦者を行かせようとはしない。洞窟はますます温度を下げる。
くそっ、わざわざそんな邪魔までするなんて、女神様はどうしても僕たちをあっちに近づけさせたくないのか……!
「光魔法!」
手のひらに灯す魔法の光──その熱で、少しでも自分達を暖めようと試みる。
「帯熱魔法!」
すると後ろでエルも呪文を唱え出した。彼女の詠唱が短く響き渡ると、僕たちパーティ全体をオレンジの暖かい光が包み込む。
途端に全身の動きを鈍らせかけていた寒さが和らぎ、僕は素直に驚いた。
「便利な魔法だね。今度、僕にも教えてよ!」
「この神殿攻略を終えたら、いつでも教授するよ。今はとにかく走るんだ!」
僕が抱いている危機感をエルも共有していた。
言下に彼女はパーティの殿から全体へ向けて告げる。
「この先から大量の魔力の流れを感じる。あのフェンリルやヨルムンガンドほどじゃないけど、高い魔法適性を持った怪物がいるんだ。アマンダさんたちを喰らい尽くしたら、奴は今にも私たちを襲いにやって来るよ」
「マジかよっ……! そいつと戦ったところで勝てるんだろうな、トーヤ!?」
「勝てる──というか、勝たなきゃダメなんだ。僕たちは止まれない。何としてでも、障害はぶち壊す」
エルの言葉に焦燥に駆られるジェードへ、僕は冷静な声音で答える。
曲がりくねった道を僕たちは猛進した。途中現れるモンスター《ゴブリン》の群れを切り捨てながら、近づいてくる女の声に耳を傾ける。
『キシャアッ!』
醜悪な面をした人型の小さな怪物が、地面に突き出すクリスタルの陰から飛びかかってくる。
ゴブリンの力自体は大したことはない。彼らの面倒なところは群れをなして人間たちへ襲いかかってくること、その一点に尽きた。
剣で一匹切る間に、もう一匹が逆方向から出てきて剣──人の武器のように見える刃を振るってくる。森や山に棲息するゴブリンとはまるで違い、今のゴブリンたちは明確なチームワークをもって僕たちに攻撃をしかけるのだ。
「何匹も何匹も、鬱陶しいわね! ジェード、どいて──纏めて魔剣で吹っ飛ばす!」
「お、おう! 頼んだッ!」
僕の前を疾駆するユーミが、並走しているジェードに告げる。
剣や弓矢を用いて攻めてくるゴブリンたちへ、彼女は緋色の剣を思いっきり薙いだ。
真一文字の刃の一閃。深紅の炎が地を走り、先へいる敵に近づく暇も与えず燃やし尽くす。
氷点下の岩窟内はたちまち熱気に溢れ、ゴブリンたちの叫喚で満たされた。
「モンスターを倒したのはいいけど、これどうすんだよ!? 炎の中を走っていけ、なんて言わないよな!?」
「ゴブリンどもに食われるよりましでしょ! あれは普通のモンスターじゃなかった──もたついてたら危なかったのよ」
炎の前で足を止めたユーミは言う。
彼女の言葉通り、あのゴブリンたちは剣や弓矢を扱い、仲間と連携を取ってこちらを攻撃してきた。その戦い方は、人間と全く変わらない。
この迷宮のモンスターは、これまでとは違うのかもしれない。最初のモンスターとの遭遇を経て、僕はそう感じた。
後衛のエルに振り向き、指示を出す。
「エル、さっきの魔法の『反対魔法』──あれを使うんだ。体の表面を冷たい水のベールで覆えば、この炎も切り抜けられるだろう」
「うん! いくよ──『水膜魔法』!」
エルの詠唱と共に、僕たちの体には水のベールが纏わりついた。鼻や口を覆っては呼吸が出来なくなるため、防護されるのは首から下の全ての範囲である。
激しく炎上している道を通過するのは流石に怖かったけれど、意を決して走り出す。大丈夫、あのルノウェルスの戦いで炎は散々浴びた。
「立ち止まらないで、前だけ見て走るんだ! この炎は熱くない!」
魔法に守られているとはいえ、全員が躊躇いなく炎へ飛び込めるわけじゃない。
足がすくんでしまっているシアンやアリスへ声を飛ばし、僕はすぐ隣にいた獣人の少女の腕を掴んだ。アリスの方はヒューゴさんが受け持ち、手を引いて燃え盛る炎へ突き進んでいく。
「炎といえば──苦い思い出しかないのう! 憤怒の悪魔に森を燃やされたり、怠惰の本体の魔法を浴びたり……。今回は悪いことではないからマシじゃがな!」
「しかし、あの魔剣の威力もすごいな。燃やせるようなものはゴブリンの死体くらいしかないのに、ここまで激しく燃えるか……!」
リオとヒューゴさんが突っ走りながら叫び散らす。
冷静そうな顔をして、彼女らも内心では怖がっているのかもしれない──そう思いながら、僕はシアンをちらりと横目で見た。
目をきゅっと細め、右手で口元を覆う彼女に、「大丈夫だよ」と囁きかける。
「トーヤ……あの」
「なんだい、シアン? 炎を抜けるまでは、あとちょっとだけど」
不安げな──そんな言葉では片付けられないような、顔中に恐怖の色を浮かべてシアンは見てきた。
炎を恐れる獣人の本能か? いや……それにしてはおかしい。シアンが扱うのは炎を操る足具だ。彼女が今更炎を嫌うとは考えられない。
じゃあ、何が……?
「シアン……? どうした────」
僕は言葉を続けることが出来なかった。
彼女の視線の先、高い高い洞窟の天井を見上げ、そこにあるものを見てしまったから。
それは人あらざるものだが、人の形をしていた。
それは凄絶な笑みを浮かべていたが、決して人間のような感情は持ちえていなかった。
『彼女』は僕らを見下ろして、その紅い唇を長い舌で舐める。あたかも獲物を見つけて舌舐めずりするかのように。
『見~つけた』
銀色の長い髪の、白い肌をした一糸纏わぬ美しい少女。それが『彼女』の姿だった。
天井に張り付いて青い目を光らせていた少女は──笑みを深めると、その手からふっと力を抜く。
両手を広げて落下してくる女に、僕は声を上げて皆へ警鐘を鳴らした。
「上から来るぞ!! 急げッ!!」
顔を上げてそいつを見ている余裕はもうない。
シアンの腕を強引に引っ張って、ただひたすらに逃走する。
エルたちの瞠目する気配、女の甲高い笑い声。それらを背中で感じながら僕は歯を食い縛った。
間に合うか──いや、間に合わない。あの女が着地するまで、あと五秒あるかどうか。いや、着地してから攻撃してくるのならまだいい。落ちてきながら、空中で魔法を放ってきたら……僕たちは避けきれない。
『死んでくださいね、「英雄」さん』
人と遜色ない滑らかな喋りで、銀髪の少女はそう口にした。
不味い、くそっ、やられる……!
魔力の高まりと、急速に低下していく周囲の温度。少女の魔法が、氷魔法が撃たれようとしている。
「みんな伏せろっ!!!」
叫び、走るのを中断する。炎の中に潜めば氷属性の攻撃は防げるはずだ。この魔剣の灼熱なら、僕たちを必ず守ってくれる──。
『恥ずかしがらなくていいのに……。お顔を見せて、「英雄」さん!』
あどけない女の子の声に、僕は反応しなかった。
聞き入れちゃいけない。顔を向けた瞬間、そこを狙って確実に撃たれる。僕の目を潰せば、後は奴の好き放題だ。そんなことにはさせない!
『ほんとにシャイな男の子なんですね。ま、いいでしょう……。あなたはあたしを見ざるをえなくなるから』
少女はくすりと笑む。その途端、僕の背筋に猛烈な寒気が走った。
恐怖などの感情から生じる寒気なんかじゃない。本物の、冷気によるそれ。炎、そして全身を覆った水のベールをも通過して届いた、絶対零度。
音もなく解放された少女の魔力が、刹那にして世界を凍てつかせていく。
──なんだよ、これっ……!?
ありえない。こんなの、あってはいけない!
僕は自分の置かれた状況をまず否定することしか出来なかった。
だって、炎の中に伏せた自分の体が、その炎ごと凍りついているんだよ? そんなの、普通は無理だ。この温度の炎を凍てつかせる魔法なんて、あるわけない……。
脚が、腕が、動かなくなっている。揺らめく火炎が硬直し、世界は完全に停止した。
その中で少女は一人高笑いしている。耳障りな音だけが、僕の耳に届いてきている。
『アハハハハッ! これでもう逃げられません。さあ……可愛い「英雄」さん、ようやく対面できますね。ふふっ、あたし、あなたに会うのを本当に楽しみにしてたんですよ』
氷の床を踏んで、彼女はこちらに近づいてきた。僕やシアンたちが逃走できないことを確信している少女の歩みは、一切の焦りを見せない緩やかなものだった。
──どんなに手足を動かそうとしてもかなわない。動作するのは首から上の範囲だけで、これはおそらくあの少女がそうなるよう仕向けたのだ。
僕と一対一で会話するために。その証拠に、僕以外のパーティーメンバーは皆、全身が凍結されている。
「……あ」
声は出る。僕はまだちゃんと生きていた。エルの水のベール、そしてその下にかけられっぱなしだった『帯熱魔法』があったおかげだ。何の加護もない状態であの魔法を受けていたら、僕たちは確実にショック死していただろう。
少女が僕の前まで歩いてくる間、彼女の正体について思索する。
彼女の姿を見上げたとき、僕は直感的に彼女を「人間ではない」と認識した。人と変わらぬ知性を持つモンスター、「異端者」ではないかと判断したのだ。
だが、この少女の見た目は人間と酷似している。というか、全く同じように見えた。素っ裸でこの氷の洞窟にいるなど妙な点もあるものの、容姿は完全に人間のそれである。
僕が彼女を人でないと判断した理由はただ一つ──並々ならぬ「敵意」だ。
「憎悪」と言い換えてもいいかもしれない。それだけの強い負の感情が、あの少女から向けられていたのだ。柔らかな口調とは真逆の感情が。
初めて見る相手に対し、普通の人間が「敵意」を真っ先に抱くことはそうそうない。その相手を殺すように命じられていて初めて、殺意が生まれる。敵意はまだしも、憎悪を初対面の人間にぶつけられることは限りなく少ない。
『はじめまして、「英雄」さん♥ ……いいえ、トーヤ君』
しかし、それも人間に限定した話でモンスターは違う。
彼らは人間と亜人に対し、激しく明確な敵意をもって襲いかかってくる。それは彼らが原初から受け継いできた逆らえない本能だ。普通の怪物も異端者も同一に持ちうる、理由などない闘争への衝動なのだ。
「……はじめまして」
にっこり笑って丁寧にも挨拶してきた少女に、僕は言葉をそっくりそのまま返した。
僕とほぼ同じ背丈の彼女は青の瞳をこちらの目と合わせ、見詰めてくる。
『ルノウェルスでは大活躍だったそうですね。私は直接見てはいなかったのですが、あなたの力は存分に味わった……そう言っていいでしょうね』
──神殿の異端者じゃない! この女の子は外部の……組織に関わる者なのか!?
驚き、そして僕は少女を睨み付けた。
「君は何者なんだ!? 僕たちをここで捕らえて、一体何を……!」
少女に問う。今の僕に、この状況をどうにかする手段はまだ思い付いていない。だから……会話して少しでも時間を稼がなければ。
『あたしですか~? あたしは、貴方たち神器使いの敵対者です。「主」から貴方たちを潰すよう命じられています』
「やっぱりそうだったか……。じゃあ、君はこれから僕らを殺すんだね」
殺されるつもりなんて毛頭ない。ここから脱出するために何をするか──考えろ。
炎魔法や光魔法の熱で僕らを凍らせる氷を溶かすという方法を、まず僕は思い付いた。だが、それが簡単に通じないことにもすぐ思い至る。あのフロッティさんの作った魔剣の炎を超える熱を生み出さなければ、この氷から逃れることは出来ない。
氷を力魔法で無理やり砕くという策もある。けれどこれは失敗した時のリスクがでかすぎた。氷像と化したエルたちごと破砕してしまっては意味がない。
『殺しはしません。あたしたちは、貴方の持つ「力」が欲しいのです。強引にでも貴方を魔法であたしのモノにして、持ち帰ります♥』
微笑みながら少女は僕の顔へ手を伸ばした。
──しまった、やられる……!
僕は瞳を閉じ、頭の中でエルから習った呪文を唱えるイメージをした。
敵に悟られぬよう魔法を発動させるための技、『無音詠唱』。イメージの力だけで魔力を練り上げる、普通の詠唱よりもかなり不安定な技術である。失敗したら魔力を暴発させてしまう恐れがあるけれど──やるしかない。
──【大自然の王よ、世界樹よ。この我が手に大いなる漆黒を】」
時間がない。この少女が僕に触れ、何らかの術をかけるまで、ほんの数十秒もかからないはずだ。
それまでに何としてでも完成させる。僕が精霊から貰った、この闇の奥義を──!




