18 『神殿ノルン』へ
「ええ、アマンダさん……僕は変わったんです」
微笑む魔女に僕は笑みを返す。
絹のような髪を指で巻きながら、アマンダさんはこちらに近づいてきた。エルやシアンたちには目もくれず、彼女は僕のもとへ一直線に進んでくる。
「いい顔をするようになったわね。ルノウェルスでの戦いを経て、一皮剥けたってところかしら」
細い指に頬を撫でられ、一瞬ゾクッとするも表情は平静を保った。
――今はアスモデウスの力を使ってない、か。
単純に彼女に触れられたことで、僕は背筋を泡立てたのだ。身体を火照らせる【色欲】の情熱とは異なり、魔女の手は酷く冷たい。
「フラメル博士、お久しぶりです。……新しい神器の魔力、ピラミッドの外から感じられるほど素晴らしいものでしたよ」
僕から手を離したアマンダさんは、人のいい笑顔で言った。
フラメル博士は満足げに頷く。アマンダさんの微笑は、彼女の正体を知らない者からみたら心底優しいものに映るのだ。きっと彼も、アマンダさんを『リューズ商会の大令嬢』としか思っていないのだろう。
「そうだろう。まあもちろん、神器の使い手であるエンシオ殿下が力を上手く引き出せているおかげでもあるがね……先ほどトーヤには聞いたのだが、アマンダ嬢、君は私の研究に助力してくれるんだったな?」
「はい。私が『神殿ノルン』を攻略した暁には、神器を貴方のために貸すことをお約束いたします。その代わり、貸出料はしっかりと頂きますが」
「商人の娘らしい台詞だな。……金なら幾らでも払おう」
自信に満ち溢れたアマンダさんの言葉を、フラメル博士は頼もしそうに受け取った。
傲慢とも取れる強者の余裕。虚勢ではなく本気で言う彼女に、僕は挑発的な口調で吹っ掛けた。
「僕たちも『神殿ノルン』に向かいます。神器を得られる候補者は、貴女だけじゃありませんよ」
「あら、そうだったのね。……じゃあ、私たちと君たちで競争する形になるのかしら」
「そうなりますね。もちろん、負けるつもりなんて微塵もありませんが」
私たち、と言うからには向こうもアマンダさん個人でなく、部下と共に行くのだろう。流石に一人で神の試練を受けるのは恐れた──そういうことなのか。
睨み合う僕とアマンダさんを眺め、フラメル博士は目を細める。
「競争は人を高める、いつの時代もそれは変わらない。未だ誰の手にも渡っていない『三つの神器』……どちらが手にするか、楽しみだ」
『三つの神器』。今回挑む『神殿ノルン』を統べる女神は三柱で、過去を司るウルズ、現在を司るベルザンディ、未来を司るスクルドの三姉妹だ。
神話ではこの三柱を総称して、運命の女神ノルンと呼んでいる。
◆
「私についてきてください、トーヤ君」
あのダンスパーティーの夜。
僕は一人、既に閉館になっている王城内の図書室に足を運んでいた。
廊下を進みながら、固く閉ざされた扉の前で待っていてくれたエミリアさんを見つけると、彼女は笑いながら後ろ手で扉に触れる。
カチャリ──解錠音がして驚く。今のは、魔法……?
「魔法、使えたんですね」
「もともとは駄目だったんですけどね。神器を手にしてから、急に使えるようになりました」
壁に掛けられた松明に照らされるエミリアさんの表情は、照れ笑いだった。
僕の方を向いたまま数歩後ろに下がり、背中で扉を開く。
「あ、一応訊いておきますけど、誰にも付けられていないですよね? その、聞かれると困る話ですから……」
「大丈夫です。僕が廊下を一人で歩いていても、誰も気に留めていませんでしたよ」
「……一安心です。部外者に手をかける必要がなくなりました」
ウィンクしながら恐ろしいことを言ったよ、この子。
僕が内心ぞわっと冷や汗を流していると、知ってか知らずか彼女は口元に手を当てて「あら、いけない」と笑った。
「一番奥の部屋まで向かいましょう。暗いですからお気をつけて──そうだ、手でも繋いで行きましょうか?」
当然のように手を差し出されたけど、断固として拒否する。
エミリアさんは女神フレイヤの神器使いだ。彼女に『魅了』されてしまえば、思うままに操られてしまう可能性がある。
可愛い子だし勿体ないけれど、ここは我慢だ。
「……そう、ですか……」
ちょっとしょんぼりしているエミリアさんに申し訳なく思いつつ、窓から差し込む月明かりに浮かぶ図書室を見渡す。
幾つもの本棚が整然と立ち並ぶこの場所は、きっと昼間は普通に多くの人が利用していて賑わっているはずだ。だけど深夜となると全く雰囲気が変わってくる。光の差さない棚の奥は真っ暗で何も見えない。
これから自分達がすることは真剣な話し合いだとわかっていながら、僕はまるで肝試しでもしているかのように思ってしまった。
「あの、光魔法、使ってもいいですか……?」
「トーヤ君、怖いんですか~?」
「べ、別にそんなわけじゃないですけど……。と、とにかく! いいですよね!?」
「しっ、静かにしてください。通りがかった人に見つかったらどうするんですか。──光魔法、使うなら最低限の光量でお願いします。何度も言いますが、これは密談ですからね」
呪文を囁き、手のひらにごく小さな光球を出現させる。
明るさを絞ったそれを見て頷いたエミリアさんは、僕に先へ進むよう促した。
突き当たりに出るまでまっすぐ歩くよう指示され、その通りにする。
長い本棚の間を抜けると、やはり壁際に棚がぎっしり並べられていた。
一番奥の部屋とやらは一体どこにあるんだろう……? 考えている僕の後ろからエミリアさんは出てきて、その棚の縁を手でゆっくり撫でた。
「開け、ゴマっ」
またしても、カチャリと解錠音。今のはそのための呪文──合言葉だったのか。
重低音を立てながら、壁に沿って置かれているはずの棚がさらに奥へ押し込まれていく。棚の動きが完全に止まると、そこには人が二人通れるほどの通路が現れていた。
「へえ、すごいですね」
「ふふっ、この先にドアがもう一つあります。そこを開ければ、私だけの秘密基地があるんですよ」
探検を楽しむ子供のようにエミリアさんは笑った。
L字型の通路はさほど長くなく、一分と歩かずに白樺の扉が見えてくる。
「さ、入ってください」
正方形の部屋はやはり広くはなかった。
中央に卓があり、書物が幾つか重ねて置かれている。卓の下には木箱が二つ、この中にも本の表紙が見て取れた。光魔法を明るくして見てみると、壁にランプが掛けてある。
埃臭い部屋を想像していたのだが、最近掃除されたのかそんなことはなかった。
エミリアさんがドアを閉め、鍵がかけられたのを確認する。僕を逃げられなくした上で、話を始めるつもりだ。
「どうぞ、座ってください。私は立ったままで構いませんから」
彼女は部屋に一つだけ用意された椅子に腰を下ろすよう勧めてくる。
王女様を立たせるのはどうなんだと思いつつも、僕は彼女に逆らわないようにした。この場の主導権はエミリアさんが握っている、余計なことは言わない方がいいだろう。
「あら、ちゃんと座ってくれるんですね。……では、悪魔アスモデウス討伐作戦の概略を説明しましょうか」
安心したように僕を見下ろして、卓に片手をついたエミリアさんが言った。
勝てるのか不安視もされていたアマンダさんとの戦い……そのための作戦が、いよいよ始まる──。
「作戦の決行は明後日の昼。ヴェンド諸島の『神殿ノルン』内でアマンダ・リューズと交戦し、悪器を破壊、悪魔を討ってください」
早口に告げられ、否応なしに緊張させられる。
あの時カイがベルフェゴールの青宝玉を断ったように、僕がアスモデウスの指輪を壊すのだ。悪器を破壊できるのは神器だけ……僕の責任は重大である。
それと同時に、神殿に向かえと言う指令に驚く。神殿内なら一般市民もいないし、僕たちと悪魔の戦いに誰も巻き込まないとの判断なのだろうけど──そのためだけに神殿を利用するなんて、神様は怒らないのかな……?
「それについては大丈夫です。神々の願いは悪魔が滅びることであり、奴らを倒すためなら神殿を使うことくらいお許しになるでしょう。もともと、神器は悪魔殺しの道具なのですから」
まあ、確かに……。僕はエミリアさんの言い分にとりあえず納得する。
「リューズ商会の協力者からの情報によると、アマンダ・リューズは彼女を中心とした部隊を組み、神殿攻略に挑むそうです。彼女らが何故神器を欲しているかは不明ですが、それを渡してはならないことだけは明白です。ノルンが持つ力は、他の神々のものとは大きく異なる、世界の法則ごと変えてしまうものですから」
過去、現在、未来を司る女神たちは、『時』に干渉する力を有している。
これを悪用されたらどうなるか──考えただけで背筋が寒くなり、僕は目をきつく瞑って頭を振った。
「僕たちの二つ目の目的は、アマンダ・リューズにノルンの神器を渡さないように妨害すること。……いや、むしろこっちの方が大事になってくるんでしょうか」
「そうなりますね。何度でも言いますが、ノルンの力は神々の中でも最上位に位置するものです。敵として立ちはだかるなら、アスモデウスよりよっぽど脅威になるでしょう」
細い腕で体を掻き抱きながらエミリアさんは首肯する。
言われて、色欲を相手取った時のことを僕は思い起こした。
自分の心身を全て《彼女》に委ねてしまいたくなる強烈な誘惑。それは美しい異性に惹かれるような、もしくは子供が母親を無性に求める感覚にも似ている。人の心の隙に付け込む悪魔の力を、あの時僕はエルの助けもあって振り払うことが出来たけど……ノルンの技はきっと、『振り払う』ことすら不可能な次元にあるのだろう。
「──ノルンの話は今回のメインではありません。トーヤ君、キミをここに呼び出したのは、キミに悪魔対策のある魔法を仕込むため。アスモデウスの魅了を打ち消す、フレイヤの同種の力をキミに使います」
「……えっ?」
つまり、エミリアさんが予め僕に『魅了』能力を使用しておくってこと、なのか……?
僕を彼女の意のままに動く人形に先に仕立て上げておくことで、アマンダさんの魔法に対抗するだって?
「フレイヤがアスモデウスに勝てるって、あなたはそう言い切るのですね」
「ええ。アスモデウスの力は完全ではない……一部は既にキミが破壊していますからね。単純に神器と悪器をぶつけ合えば、アスモデウス側はまず勝てません。こちらが負けたとしたら、それはアマンダ・リューズ個人の能力があなた、そして私を上回って作用したということになります」
エミリアさんは瞬き一つせず、僕をじっと見詰めてきた。
僕がどうするか、静かに彼女は待ってくれていた。
──いきなり僕を魅了すると言われても困る、それが本音だ。単純にフレイヤの技を今からかけるというのなら、断らざるを得ない。
そう伝えると、エミリアさんは「手荒な真似はしませんよ」と微笑して詳細を語り出した。
「何もこれからアマンダ・リューズとの戦いまでずっと『魅了』し続ける訳ではありません。キミはこの魔具──女神フレイヤの魔法を込めたこれを、腕にはめておけばそれで十分なのです」
王女様が懐から取り出したのは、白銀の腕輪だった。腕輪には古代文字が細かく刻まれ、一つの小さなクリスタルがはめられている。
「装着した段階では、この魔具は効果を発揮しません。はめられたクリスタルが砕けた時、中に込められた魔法が解き放たれる。その時点で対象者は三分間、私の操り人形になります」
もちろん、強い意思の力でそれを跳ね返すことも可能ですが──エミリアさんはそう付け加えた。
ここで僕は疑問に思う。クリスタルの魔法が解き放たれた時、その対象を自分でなく別の誰かに逸らすことは出来るのだろうか?
「……今の僕の考え、どうですかね?」
「腕輪に接触していた者に『魅了』の魔法はかかります。ですから、クリスタルが砕けたタイミングで敵に腕輪を押し付ければ、やれなくはないです。その場合、魔法は二者のどちらかにかかることになりますが」
では、確実に敵を魅了する手立てはないということか。僕は腕組みしながら渋面を作る。
「トーヤ君、私のこの提案を受け入れるかは、キミが決めてください。キミが拒むなら私は力を使いません。──さあ、選んで」
エミリアさんはしゃがみ込み、椅子に座る僕と目線を合わせて迫ってきた。
彼女は僕がアマンダさんに屈した時の保険として、フレイヤの力を使うと言っている。色欲の悪魔の魅了に二度も犯されはしない──そう強く思っているが、やはりその時になって気持ちが揺らいでしまう可能性も捨てきれなかった。さっきアマンダさんと相対して、恐怖心を少しでも抱いてしまったのがいい証拠だ。
「……わかりました。その腕輪、預かります」
僕が答えると、エミリアさんは無言でゆっくり頷いた。
澄んだ青の瞳でこちらをまっすぐ見つめ、それから彼女は立ち上がる。
「キミが、神殿で今よりもっと成長して帰ってきてくれることを……私は祈ります」
◆
今朝がたから降っていた雨は未だ止む気配がなく、むしろ雨足は強まり続けていた。
『神話研究所』を後にした僕たちは、荒海の中を船で『神殿ノルン』のある島へ向かっている。
『ヴェンド諸島』の中央に位置する無人島、『ギュルヴィ』。その島がこれから僕たちが挑む迷宮の名だ。
「船乗りのおじいさん。こんな酷い天気の中、乗せてくれてどうもありがとう。僕たち、絶対に神殿を攻略して帰ってくるから……土産話、楽しみにしておいてください」
『イリス島』に来る時も船に乗せてくれたおじいさんに、僕はにこっと笑って言う。
少し大きめの伝統的なカヌーを漕ぐ彼は、好々爺のように大声で笑い返した。
「わっはっは! 少年よ、随分と自身があるようじゃのう。――まあ、気楽に待つとするか、のっ!」
激しい横波がカヌー側面にぶつかり、船はぐらりと揺れる。僕たちが振り落とされないよう踏ん張る中、おじいさんは櫂を操って船体の体勢を何とか維持しようとする。
「ぐぅっ……しかしお前さんらも、わざわざこんな日にしなくてもよかろうに」
「ごめんよおじいさん! でも、私たちにも事情があってね。一刻も早く、神器を手に入れないといけないんだ」
僕たちの足となってくれているこの人には悪いけど、リューズが絡んでいるだけに詳しい事情は話せない。
だが、エルの理由を隠した言い方にもおじいさんは理解を示してくれた。
「何かが起こる、その前に行動しなければならん……そういうことじゃな。さて、そろそろ着くぞ!」
荒れ狂う海の向こうに見えていた『ギュルヴィ島』はもうすぐ近くだった。
僕は額に張り付いた前髪を払いながら、目を細めてその島を見据える。
「あれが、神の迷宮――」
これまでの神殿攻略では『古の森』や『暗黒洞窟』、『ヴァンヘイム高原』など、神殿に着く前に挑戦者を阻む『迷宮』があった。今回もその例に漏れず、三柱の女神が仕掛けた自然の迷宮が僕たちを待ち構えている。
島のほぼ全域を占める、険しい山。その頂きは雪に白く染まり、岩石の灰色には植物一つ生えていない。
フラメル博士からの情報によると、あの山の内部で神殿は待っているらしい。てっきり頂上まで登るものかと思っていた僕はそう聞いて驚いたものだが、この雨なら外を通らなくていい分、あつらえ向きかもしれない。
「トーヤくん、流石に今回は無茶しすぎないでくれよ。君のお守りをするのも、案外大変なんだからね!」
「次は右腕――なんてことにはならないよ。僕は逆に、君たちの心配をしたい。ちゃんとついてきてくれよ?」
「あったりまえさ。――ね、みんな!」
「「「おう!!」」」
互いに発破をかける――神殿攻略前の恒例行事も済ませる。
ヒューゴさんを除き、皆が神の地を一度は踏んでいる。過度に緊張はせず、かといって緩みすぎず。皆の覚悟の表情を見渡して、僕は最後にヒューゴさんに言った。
「ヒューゴさん、あなたとアリスの矢が僕たちを支える鍵となります。全力を尽くしましょう」
「ああ。小人族の頭の子として、君やジェードくんたちが存分に戦えるよう援護する。後ろは任せておいて」
ヒューゴさんは強気に笑って頷いた。
これから僕の四度目の神殿攻略が始まる。
一度は敗北を喫した相手――【悪魔の母】リリスを超えるため、そしてノエル・リューズやシルさんをも打ち破れるようになるため、僕は強くならなきゃならない。
ここでアマンダさんを倒し、悪魔アスモデウスも殺し、『神器』を手に入れる。
それを成してようやく、僕はまた新たな力を得られるのだ。
「……父さん。僕は、僕の憧れた英雄になる」
そして、消息を絶った父に誓う。どこかで見ているであろう彼に、僕は言葉を捧げた。




