16 ある雨の日に
雨は静かに降っていた。
曇天の下、凪いだ黒い海に注がれて染み渡っていく。
いやに早起きしてしまった僕は一人、ベランダに佇んでそれをぼうっと眺めていた。
久しぶりの雨だ。恵みの雨だと喜んでもいいところだったが、この天気が今の自分の心を鏡写しにしているようで、余計に憂鬱になるだけだった。
「…………」
夢を見たのだ。ここ最近になって頻度を増している、『前世の夢』。
あの少年――『ハルマ』が、過去の記憶を僕に見せてくるのだ。
夢の中で僕は彼の生きた道を隣で見ている。彼がエルと出会って『神器』を得、悪魔との戦いで命を落とすまで。
目が覚めた時、まず感じたのは頭痛だった。それから吐き気と、酷い倦怠感。
どうして今日この日なんだ、と前世を呪う。アマンダ・リューズと『神殿』へ向かう大事な日に限って、こんな状態になるわけにはいかないのに……。
「――トーヤくん」
声を掛けられ、振り返る。
緑髪の少女はベッドの端にちょこんと座り、僕を見上げていた。
「何だい、エル?」
澄んだエメラルドの瞳を見返して、訊ねた。
彼女は一度瞑目し、それから穏やかな口調で答える。
「昨晩のこと、考えてくれてたのかな……ってね。それにしては顔色が優れないけど」
「そのことは後で決める。それと――僕も君に聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
『昨晩のこと』というのは、エルが僕のベッドに潜り込んで「子供がほしい」と言ったことだ。
いきなりのことに僕は驚き、同時に困惑した。戦いを控えた僕らがそんなことをしている余裕なんてない。それに、もしエルが妊娠してしまったら彼女を戦力として数えられなくなる。
『使命』のためと僕を神殿に導いた張本人のエルが、どうしてそう言い出すのか――その理由を僕は察したけど、口に出したりはしなかった。
「僕に『前世』の夢を見せているのは、君だよね。『夢現魔法』で、過去の出来事を見せたんだろう?」
エルはすぐには口を開かなかった。僕と目を合わせ、しばらく見つめ合った後――彼女は頷きを返す。
「そうだよ、私がやった。最初にやったのは『ヨトゥン渓谷』を抜けた晩。それから徐々に頻度を上げていき、君に過去の私達を知ってもらったの」
悪びれずにエルはそうのたまった。長い髪をかき上げながら、彼女は微笑を向けてくる。
僕はそれに同じ表情で返し、問いを重ねた。
「君が見せた夢は正しいものだったのかな? 虚構の夢で、僕を惑わそうとはしていないよね?」
「嫌だな、トーヤくん。最近の君は妙に疑い深くなったり、勘が鋭くなったり……私に似てきたのかな」
「……もともと僕はこういう人間さ。全てを失って、そうさせられてしまったんだ」
彼女が嘘を僕に教える理由なんてない。
それを分かっていながら、僕は聞いてしまっていた。
自分でも今の問いはおかしいと思う。仲間であるはずのエルを疑ったことは、これまで一度たりともなかったのに。
「君の問いかけは間違ってはいないよ。自分の知らない間に魔法が掛けられていて、黙っているほうが危ない。それがたとえ信じた味方であってもね。……何も疑わないことは罪だ。なんでもかんでも信じたら、嘘に踊らされてしまうだろう?」
例えば――とエルは続けた。
「君の身内の誰かが『悪魔』に憑かれたとする。もしくは裏切って敵の勢力についたとする。その時に、この人は敵になってしまったのかと、疑えなかったらどうなるか……。考えてみてごらん」
魔女は僕に問いかける。曇りなき瞳で僕を見据えて、試している。
彼女の例えで、気づいていながら誰も疑えなかったら。悪の種子が芽吹く前に潰せなかったらどうなるか。
そんなこと考えなくても明白だ。
僕たちの間にあった安寧は崩れ去り、そこにあった絆が引き裂かれる。それは絶対にあってはならないことだ。
「……ねえ、エル。少し気分が優れないんだ。魔法をかけてくれないかな」
答えの代わりに、僕は彼女に頼んだ。
◆
『神話研究所』はヴェンド諸島北端のイリス島にある、国営の研究施設だ。
半径五キロの島の中心部に存在するそれは、この国の中でも限られた者しか入れない特殊な場所である。
雨足が強まる中、僕たちはアイナさんに見送られてマリー島を発ち、この島の港まで到着していた。
「すっごい雨ね……全身ビショビショじゃない」
「すまないユーミ、巨人族サイズの雨具がなかったのじゃ」
小型の連絡船から降りながらユーミが唇を尖らせる。
彼女に謝るリオを横目に、僕は自分がリラックスできていることを確認した。
先程エルにかけてもらった『回復魔法』の副次効果で、肉体だけでなく精神的にも癒されている。この魔法の効果はしばらく続くため、アマンダさんと相対しても緊張で身を固くするようなことはないはずだ。
「じゃあ早速いくよ。一刻も早く屋根のあるところへ向かいたいからね!」
エルが先頭になり、僕らは走り出した。
森と果物畑が面積の大半を占めるイリス島の地形は、ほとんど高低差がなく平坦だ。円い島を四分割する大通りをまっすぐ北上すれば、研究所まで辿り着ける。
雨のせいか通りの店は軒並み閉まっており、人通りもない。無人の道路を僕たちは進んでいく。
「ゴーストタウンって感じだな。普段は人も多いんだろうけど」
「これから誰に会うか考えれば、おあつらえ向きの雰囲気になりますね……」
ヒューゴさんとアリスの兄妹コンビが小声でこぼす。
道に障害物などは特になく、僕たちは迷うことなく目的地へ到着することが出来た。
雨天で黄昏時にも近い暗さの中、その窓から漏れ出す光はよく目立っていた。そしてそれ以上に、建造物の形状はこの場にそぐわない異質さを放っている。
巨大な三角錐──遠い南の国の古代遺跡のような見た目。壁面が黒い石で作られた建物は薄闇に紛れ、目を凝らさないと見えないほどだった。
高さは優に50メートルを超えている。並々ならぬ威圧感をもって迎えてくるこの研究所に、僕たちは一瞬立ち竦んでしまった。
「……フィンドラは、こんなものまで作れるのか」
僕が今まで見てきた中で、このような特異なデザインの建物なんてなかった。
神話研究所というくらいだから、作成者が『砂漠の国』の『神殿』を参考にしたのだろうけど──それでいても、衝撃を受けざるを得ない。人類の千年の歴史でも、『神殿』を完璧に模倣した建造物が出来たことは一度たりともなかったのだ。
「本当に、すごいです。莫大なお金をかけてまで、フィンドラは神話の研究に力を入れているってことですよね」
「ああ。だから神器使いを三人も有する強国になれたんだろう。神器の能力は、国をも動かせるくらい大きなものだからな」
シアンが感嘆し、ジェードは納得したように頷いた。
研究所の出入り口はピラミッドの下部、僕たちから見て真正面にある。その引き戸まで近寄り、僕はノックして来訪を告げた。
「すみません、僕はトーヤという者です。フラメル博士はいらっしゃいますか?」
「……どうぞ、入ってちょうだい」
訊ねると、若い女性の声が返ってくる。
アダム・フラメル博士ではない。ここで働く研究員の一人だろう。
「ようこそ、待っていたわ。『神器使い』とその友人たちよ」
間を置かずに扉が開けられ、女性は僕らを歓迎してくれた。
細い縁の眼鏡をかけた、金髪ショートヘアの女性だ。眉毛の辺りで切り揃えた前髪が特徴的な美人である。ゆったりとした白衣を纏い、手にはクリップボードを持っていた。
「歓迎感謝します。本当に早速なんですが、アマンダ・リューズ氏に会わせていただけますか?」
「構わないわ。あの人も君たちの顔を見たいようだし、そんなところにずっといたら風邪を引くし」
研究員の女性の言葉をありがたく受け取り、僕たちはピラミッド内部に足を踏み入れた。
玄関口となる場所は狭めの正方形の部屋で、僕ら以外には誰もいない。この部屋の手前奥、右手、そして左手には一つずつ通路口があり、まだ全貌を見ていないにも関わらず、この施設の通路が迷路のように入り組んでいることを予感させた。
「あと、雨具はそこに掛けておいて」
女性は部屋の壁際に設置されたハンガーラックを示した。
僕たちが雨具を脱いでそれにかけると、彼女は懐から短杖を取り出して軽く振る。
温風が吹き出し、びしょ濡れだったレインコートは瞬く間に乾いていった。
──この人、魔法使いだったのか……。
内心で驚く僕の心情を読んだのか、女性は小さく微笑んだ。
「この施設では、魔法使いは珍しくないのよ。──名乗り遅れていたわね。私はライサ。気軽に呼び捨てでいいわ」
見た目は真面目そうな雰囲気の人だけど、案外気さくな面もあるようだ。
だけど、年上の女性に呼び捨ては良くないよなぁ。
眼鏡をちょこっと押し上げる彼女に、僕はなんとも言えない表情を作ってしまう。
「よろしくお願いします……ライサさん」
「私たちからも、よろしくお願いするよ。短い時間だけど、ここで見ることはトーヤくんたちにとってすごく大事になるから」
僕とエルたちが頭を下げると、ライサさんは「ええ」と頷いた。
白衣を翻す彼女は、部屋の正面奥の通路へ足を向ける。僕たちはそれに付いていった。
通路を出ると長い廊下。ずうっと奥まで続いているような、薄闇に包まれた廊下だった。
ここの壁や天井も黒いタイル張りになっていて、濡れ羽色の光沢を持つそれは僕たちに冷たい印象を植え付けた。点々と設置されている照明の青色も、その温度をより下げている。
無音の道を、人が歩く音が埋めていく。あまりに寒々しい場所であるここから、僕は早く抜け出したくて仕方なかった。
「何だか、神テュールの『暗黒洞窟』を思い出しますね……」
「うん……。人の温度が感じられない所だよ、ここは」
囁くシアンに、それ以上に小さな声で返す。
案内人のライサさんが気を悪くしないかと思ったが、そこは彼女も理解してくれているようだった。
「始めは私も居心地悪かったわ。比較的温暖なこの諸島にありながら、なんでこんなに冷たいのかしらってね。でも……時間が経てば慣れるわ」
真っ直ぐ前を見たままライサさんは言う。
抑揚のない彼女の言葉に、僕らは声を返せなかった。
この研究施設には何かがある。それは分かるけど、正体は不明だ。得体の知れない『何か』の気配に、僕は気づかぬ間に震えていた。
「大丈夫、トーヤ?」
「へ、平気さ! 心配しないで」
後ろから肩に手を置きながら、ユーミが穏やかな声音で訊いてくる。
訊かれて自分の状態を知った僕は、それでも強気に笑い飛ばした。
「この先は第一実験室になるわね。『神器』の力を知る君たちに、ぜひ見てもらいたいものがある」
こちらを振り返り、ライサさんは神妙な面持ちで告げた。
今感じた『何か』の気配はあの部屋からもたらされている。
気配──というよりも、『魔力』と言い換えてもいいだろう。非常に大きなエネルギーが、そこにはある。
ライサさんは、不自然なほど縦長の扉の前で立ち止まった。
その扉の足元に置かれた人型の石像の頭に触れ、彼女は唇を小さく動かす。
すると、石像の両眼が赤い光を発し始めた。同時に扉が横にスライドされ、内部の光景が僕たちの目に入ってくる。
「ここがピラミッドの中心よ。さ、来て」
ライサさんの後を僕たちはついて歩く。
扉の狭さとは対照的に、部屋は広大だった。円環を描くそこの中央床は吹き抜けになっており、どうやら地下にも空間があるようだった。
床にぽっかりと空いた穴の縁では、柵の側に立った数人の研究者が下を見下ろしている。穴の奥からは紫紺の光が立ち上り、激しく明滅して、照明の絞られた空間をまばゆく染めていた。
「──博士! 『神杖』の魔力反応が異常値を示しています! ど、どうすれば……!?」
僕たちがここに足を踏み入れた瞬間、若い男性の悲鳴じみた声が上がった。
炎のように揺らめく光に僕たちが立ち竦む中、ライサさんは正面でこちらに背を向けている白衣姿に駆け寄っていく。
「フラメル博士!!」
「……慌てるな、ライサ。実験はこのまま続行する」
老人のしわがれ声は、この大部屋にあってもよく響いた。
アダム・フラメル博士はライサさんに落ち着き払った口調で答え、僕たちの方へ体を向ける。
モノクルの下からこちらを見据える瞳は鋭い。すっかり色の抜けきった髪とは異なり、鮮やかな蒼色が僕を捉えていた。
「君が『神器使い』のトーヤか。待ちわびたぞ」
痩身の老人はそう、静かに目を細めた。




