15 魔女の予言
「女王が目を覚ました、だって……!? 本当なのか!?」
カイ・ルノウェルスは臣下からそう知らせを受け、思わず席から立ち上がっていた。
ガタンと勢いよく音を鳴らしたカイは、この円卓につく者の多くに顰蹙を買われるも、そんなことは気にしていられない。
あの戦い以来1ヶ月以上に渡って眠り続けていた母親が、ようやく意識を取り戻してくれた。カイがそこへ飛んでいく理由はそれで十分であった。
「すまない、お前たち。会議は中断だ」
金髪碧眼の青年は、円卓の会議場を見渡して頭を下げる。
人の上に立つ王が頭を下げるなど──と臣下たちがざわめく中、魔導士オリビエは一人微笑んだ。
「行っておいで、カイ。きっと母君も会いたがっているだろうからね」
怠惰の女王モーガンからカイへ王位が引き継がれた際、王城で政を行う文官の面々も多くが一新された。
その中の一人であるオリビエは今、国の防衛大臣として敏腕を振るっている。最初は政治に関わりたがらなかった彼だが、カイの懸命な説得に折れて大臣となったのだ。
培った魔導の技術、そして多くの国を渡り歩いた経験がここに来て大いに活かされている。
兵の動かし方、軍全体の指揮の仕方、さらには各国の政治事情……国防に必要な知識を、オリビエはこのわずかな期間中に完璧に頭に叩き込んでいた。
「ありがとう。……この続きは正午に改めて執り行うこととする」
若者から老兵まで年齢層の厚い大臣たちに告げ、カイはこの場を後にする。
ルノウェルス王城の中央塔、最上階に設えられた『円卓の間』から出た青年は、その部屋の扉付近に設置された円形のパネルに足を踏み入れた。
「一階まで」
短く呟く。オリビエの作った『転送魔法板』は、その声を聞いて使用者を目的の場所へ正しく運んでいった。
瞬き一つしない間に、カイは塔の玄関ホールに置かれた『転送魔法板』の一つに転移する。
と、次の瞬間には彼は走り出していた。
時刻は午前10時半。この塔を出入りする役人たちが驚愕の目をカイに向ける中、彼は思考に没入する。
──やっと会える。悪魔から母親を解放すると誓ってから、5年ぶりに。
長年『眠り』続けていた母親が覚醒したのだというのだから、それは嬉しいに決まっている。
だがカイには懸念が二つあった。
目覚めた母親が果たして以前と同じ記憶を、人格を有しているのかどうか。
そして、それらに変化がなかったとして、カイやミウを昔のように愛してくれるのか──というものだ。
怠惰の悪魔ベルフェゴールの話によると、あの戦いの時点で『怠惰』の固有能力は悪魔でなくモーガンの魂が主導権を握っていたという。
『私こそが悪魔の継承者』──モーガンの言葉が真実であるのなら、もうカイが望んだ母親はいなくなってしまったのかもしれない。
それでもカイは信じたい。
母親とまた笑顔で過ごせる時間が戻ってくるのだと、願っていた。
「はぁ、はぁ……っ!」
ルノウェルス王城は、円形の城壁の中に大小いくつもの塔が屹立している作りになっている。
中央部の『白の塔』を飛び出したカイは、城壁の北端に接した寝所へ向かった。
肩で息をしながらその建物に踏み込んだ彼は、女王の報せに慌ただしくなる役人たちの間を早足で縫っていく。
「カイ殿下――じゃなかった、カイ陛下! モーガン様がお呼びです!」
「わかっている。──皆のもの、通してくれ!」
女王の寝室前には小さな人だかりが形成されていた。彼らに声を投じてから、カイはその部屋のドアノブを掴む。
この扉一枚を隔てて、モーガン・ルノウェルスはカイを待っている。それが現実なのだということに、青年は否応なしに緊張を強いられた。
汗の滲んだ手を服で拭い、彼はそのドアを開く。
「……おはよう、カイ」
か細い女の声がカイを迎えた。
長い金色の髪に深い海のような蒼の瞳、精緻な人形のごとく整った少女じみた相貌。
白いワンピースの魔女、モーガン・ルノウェルスは広いベッドの上で上体を起こし、部屋に来たカイを見つめていた。
豪奢な調度品の並べられた部屋には、彼女の他に世話役の女官が数人いるのみである。
「母さん──おはよう」
恐る恐る、といった風に青年は母親に挨拶を返す。
そんな彼の様子にモーガンはクスリと微笑んだ。彼女が女官たちに『今だけは二人にさせて』と頼むと、メイド服の彼女らは一礼して部屋を後にした。
「怖がらなくていいのよ……。私はもう、悪魔の継承者ではないから……。今は、モーガン・ルノウェルスという、ただ一人の人間に過ぎないわ……」
ベッドに面した壁に背を預けるモーガンは、自分のすぐ隣をポンポンと軽く叩いて示す。
少し躊躇したカイだが母親の目を見て何かを感じとり、それに従った。
──モーガンはカイに、彼にだけしか言えないことを言おうとしている。
「母さん……俺、ずっと母さんに会いたかった。悪魔の魔手が母さんを絡め取ってから五年……その間、ひたすら戦ってたんだ。そしてやっと、こうして取り戻すことが出来た」
魔女モーガンの見た目は五年前のあの頃と変わらなかった。
柔らかな母親の笑みに、カイも表情を緩める。以前と比べると随分と小さく感じられる手を握って、青年は言った。
「私を救い出すために、あなたはこれまで無我夢中で頑張ってくれたのね……。私は、ここ数年間ずうっと眠っていたように感じていたけど……あなたの声だけは、聞こえていたわ……」
モーガンのゆっくりとした、間を長く挟む話し方も昔に戻っていた。
懐かしさに胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを堪えつつ、カイは母親の言葉に頷いて答える。
「ねえ、カイ……? あなたは王になったのね……。ところで、ミウはどこかしら……?」
「姉さんは今、南の塔にいるよ。悪魔の洗脳から逃れた王族……俺にとって伯父にあたる男と妻、その二人の子供に会っている」
その男は三年前に事故死したことになっていた、皇位継承権第一位の皇太子であった。カイと同じく悪魔の支配から免れた彼は、自分とごく僅かの側近を連れて南の大山脈の麓に潜伏していたのだという。
彼が中々行動に踏み切れずにいる間にカイが悪魔を倒してしまったため、何も出来なかったことを不甲斐なく思いながら王都まで上がってきたのだ。
「スヴェンね……。よかった、彼も来ているのね……。後で、ミウと一緒に会いたいわ……」
モーガンが目を弓なりに細めるのを見て、カイはほっと安心感を覚えた。
『怠惰』の悪魔ベルフェゴールの影響下で薬物中毒になり、結果的に廃人となった王族は少なくなかった。
彼らは悪魔ベルフェゴールが殺したようなものだ。そのことにモーガンが苦しんでいないはずがない。
その中で生存が判明した王族たちの知らせに、彼女は一筋の希望のようなものを抱いたのだ。
「母さん……何か俺に話したいことがあって、二人の時間を作ったんだよな? 何でも言ってくれ」
どんなに他愛のないことでも構わない。そんな軽い気持ちでカイは母親に促した。
だが、モーガンの口から放たれた言葉は彼の想像より遥かに重く、温度の低いものだった。
「カイ……。この地方の各所で今後、悪魔の脅威は迫ることになるわ……。まず始めに、フィンドラ王国……。次に、ルノウェルスよ……」
『怠惰』が倒れた今、他の大罪の悪魔たちが動き出し始めることは予期していた。
奴らが滅びない限り、その懸念は消え去ることはない。ここで重要になる情報は、どの悪魔がいつ、どこに現れるかということだ。
モーガンがその予言を可能とするなら、起こりうる悲劇を事前に止めることも出来るかもしれない。
カイは身を乗り出して母親に問い詰める。纏う雰囲気を鋭く変貌させる息子に、女は全く態度を変えなかった。
「十二時の鐘がなる時……明後日の午前零時、南の島にて『色欲』を司る悪魔が目覚める……。そして、それからほど遠くない未来……『強欲』の魂も力を解き放つ。カイ、それを止めるのがあなたの役目……。特に『強欲』は、あなたの手で討たなくてはならない……」
「『色欲』が明後日にも目を覚ますだって――!? それに、『強欲』も……。なあ母さん、どうして『強欲』は俺が倒さなくてはならないんだ? 『強欲』が出現する場所や時間は、はっきりとは分からないのか?」
明確な焦りを孕んだ声音のカイに、モーガンは瞑目しつつ首を横に振った。
申し訳なさそうに彼女はうな垂れ、弱々しい声で語る。
「私が夢の中で見た光景からは、それしか推測できなかったの……。私にこの夢を見せた誰かは、そこまで親切じゃなかったのね……。でも、何も分からないよりはマシでしょう……?」
今のモーガンの『予言』が何者かがかけた《夢の中に干渉する》魔法によるものであることに内心驚きつつ、カイは頷いた。
そう、何も情報を得られていないよりは断然いい。いつやって来るのか知っていれば対策だって幾らでも立てられる。短い時間でも仲間の知恵を合わせれば、大きな力になるはずだ。
「南の島となると、フィンドラのヴェンド諸島か。あの国へ向かったトーヤたちも、もしかしたらそこへ向かっているかもしれないな……」
「『色欲』の方は心配いらないわ……フィンドラには《神器使い》がいるようだし、そのトーヤという少年も立派な戦士だと聞いているし……」
「母さん、トーヤを知っているのか?」
今まで眠っていたモーガンが何故――と思って尋ねると、モーガンは苦笑を返した。
意外な母親の顔にカイが面食らう中、彼女は真顔に戻って指摘する。
「だってあなた……私が眠っている間、しょっちゅうトーヤ君の話をしていたじゃない。彼と彼の仲間たちのおかげでベルフェゴールに勝てたって、誇らしげに……」
どうやらモーガンは寝ている間も時折、外の世界の音を聞いていたらしい。
カイの手を握る彼女は瞳に穏やかな光を宿し、心からの喜びを滲ませた声で言う。
「あなたにも、素晴らしい仲間ができたのね……。彼らはきっと、あなたを大きく成長させてくれたのでしょう……。いつか私も、会ってみたい……」
少年たちの笑顔を思い出していたカイは、『会えるさ』と言い切った。
トーヤたちは別れの際、この国をまた訪れると約束してくれた。カイもそれを望んでいる。彼らが再びルノウェルスに来た際には、変わりつつあるこの国の姿を見せてやりたい。
モーガンは小さく頷いて、カイを見上げる。
彼女はこれから王としての道を歩んでいく青年へ、先達として言葉を送った。
「カイ……私はかつて悪魔に憑かれた身で、もう政には関われないけれど……。あなたに、忠告するわ……。──政治の世界では、味方だと思っていた相手がある日敵に回る、そんなことが少なからず起きる。あなたは狡猾さとは縁のない人間……でも、周囲はそうじゃないわ。だから、『何か決める前に、疑う』これを覚えなさい……」
他人の言うことを何でも鵜呑みにしてはならず、どんなに小さなことでもまず疑問を投げ掛けろ。
モーガンの教えは、彼女自身が母親から学んだことであった。
「ああ。肝に命じておく」
カイはまだ若い。臣下の多くは彼よりも年上で、彼を思うままに操ってしまおうと画策する者もいるだろう。
激動の時代の中で生き抜くには単純な力だけでは駄目だ。必要なのは、あらゆる『人』の思惑に押し潰されない『精神の強さ』。
カイの尊敬するオリビエやヴァルグ、トーヤ、ミウが持っているそれを、彼自身も身に付けなくてはならないのだ。
「ふふっ……頑張ってね。私はここで、ずっと見守ってるから……」
モーガン・ルノウェルスは新たな王の誕生を祝福する。
そこに怠惰の魔女の面影はなく、一人の母親、そして元為政者としての顔のみがあった。
「──ありがとう、母さん」
カイ・ルノウェルスは古き女王へ挑戦的な笑みを向ける。
自分の未来の活躍を楽しみにしていてくれと、彼はモーガンにそう告げた。
悪魔マモンについては依然、未知数というのが現状だ。
ミウも強欲の悪魔の存在について語っていたが、詳細が不明な以上具体的な対策は立てられそうにない。
だがそんな中でもやれることはある。
《神器使い》としての力を磨き、自分の器を更なるものに昇華させる──より大きな英雄の器となることが、今カイに出来ることだ。
──トーヤ、見ていろ。俺はもっと強くなる。強くなって、お前が倒す予定の悪魔どもを先に討伐してやるさ。
隣国へ発った少年へ対抗心を燃やし、カイは心の中で呟く。
彼の腰に据えられた《魔剣レーヴァテイン》の刀身は、鞘に収められながらも虹色の輝きをひときわ強く放つのだった。
◆
『影の傭兵団』はフィンドラ王国を目指して、王都スオロを南東に進んでいた。
先のルノウェルス革命ではカイ王の陣営に加わった彼らだが、自らが元来流浪の傭兵であることを理由に、戦いが終わるとすぐにそこから出立した。
彼らの頭であるヴァルグは、その選択を後悔していない。
カイ・ルノウェルスは『影の傭兵団』に国内での十分な地位と財産を与えることも提案してくれたが、ヴァルグが欲したのはそんなものではなかった。
ひとえに彼が求めるのは戦いであり、それ以外のことは考えられない。
酒も女も彼は興味がなく、ルノウェルスの戦いが終結してしばらく大きな争いがないことに退屈を感じる日々が始まってしまっていた。
「はっ──セイッ!」
鋭い呼気と共に若々しい女性の気合いが放たれる。
視界の下方から斜めに迫る蹴り上げを肘で払いつつ、ヴァルグはその女の首根っこを掴んで地面に組み伏せた。
がはっ、と女の咳き込む声。
「ちっ、堂々と来やがって。いつもは不意打ちだろーが」
「だって、毎日同じじゃ団長も飽きてしまうかと……。たまにはこういうのも良いと思いません?」
湿った苔の匂いを鼻に吸い込みながら笑う女性は、アマゾネスのリリアンだ。
傭兵団は現在、広大なツンドラ地帯に部隊を休ませていた。その最中、一人離れた位置で佇んでいたヴァルグにリリアンはいきなり突撃し、見事返り討ちにあったというわけである。
柔らかい苔の上でごろんと体を仰向けにしたリリアンは、無邪気な笑顔を団長に向けた。
「……はぁ」
そんな彼女にヴァルグは怒鳴る気力もなくしてしまう。
しょうがない奴だ、と呟き、彼は紫髪の頭をかきむしった。
と、そこで、
「……ん?」
ヴァルグの視野の奥、こちらに向かって歩いてくる二人の人影を見つける。
ボロのマントを纏っており、どちらも小柄。子供のようだ。
上体を起こしたリリアンもそれに気がついた。怪訝そうに目を細め、団長の顔を仰ぐ。
「団長、どうします?」
「俺たちに用がありそうだな。まず話を聞く」
あのカイの影響か、最近のヴァルグは人助けする回数が妙に増えた気がした。
特に目的もないから構いはしないのだが、昔の自分と比べると何だかむず痒くなる。
傭兵団の面々の注目を集める中、二人の子供は頭目であるヴァルグのもとまで赴き、彼を見上げた。
「何だ、ガキども」
威圧的な言葉にも子供たちは怯まない。そのことにヴァルグは少し感嘆した。
「……傭兵団、ですよね? あなたたちが東へ向かうのなら、私たちも同行させてほしい」
そう言ったのは女の子だった。
青い長髪の、大きな目をした少女。もう一人は白い短髪に赤い目をした少年。どちらもよく整った顔立ちをしている。
ヴァルグは、その子供たちの頼みに静かに頷いた。
胸のざわめきに気づきながらも、子供たちの正体を知らない彼は『人助け』をしてしまっていた。




