14 心のともしび
シアンは走っていた。
嗚咽をこらえ、後ろを振り向くまいと懸命に人波の間を縫って駆けていた。
周囲の観光客たちが奇異の視線を彼女に向けていることも、今の彼女にはどうだっていい。
とにかく一人になりたかった。自分の周りから余計な何もかも取り払って、明日には笑っていられるように、この涙の雨に濡れた心を晴らしたかった。
視界が涙で滲む度、彼女の脚はよろよろと力を失っていく。途中、何度も人にぶつかりそうになりながら、シアンは人通りのない道路でついに足を止めた。
「あ……あぁ……あああああっ……」
もう我慢できなかった。道の隅に崩れ落ちた少女は、地面に手を突いて大粒の涙を流す。
「ぐすっ、ううっ……ああああっ……」
好きにならなければ、恋をしなければ、こんなに辛くなることもなかったのに。
どうして、人は人に恋をするのだろう。神様はなぜ、人に恋心というものを与えたのだろう。
それは幸せを生む一方で、あまりにも残酷だ。一人が満たされれば、また別の一人は傷を負うこともある。
「ああ……うあああああっ……」
顔をくしゃくしゃに歪めて、シアンは大声で泣いた。本当にみっともなく悲しみを叫んだ。
泣いて全てを洗い流そうと思った。そうすれば、この傷も少しは癒えてくれる──そう信じた。
少女の泣き声は無人の道路に響き渡る。
誰に知られることもなく、その涙は彼女の痛みを包み込んで落ちていった。
◆
花火は相変わらず派手に夜空に打ち上がっている。
「おい、トーヤ! ……シアンは?」
少し離れた場所から声を投げ掛けられ、僕はそちらを振り向いた。
半袖シャツにパンツといった普段着のジェードが、浅く息を吐きながら駆け寄ってくる。
彼の問いかけに僕は首を横に振って答えた。
「一緒じゃなかったのか? 困ったな、さっきからどこにも姿が見えないんだよ。……あいつ、こんな夜にわざわざ一人で外に出ることもないだろうに」
ジェードは眉間に皺を寄せて愚痴っぽく言う。
彼は、今さっき僕とシアンの間で起こった出来事を知らないのだ。
「明日はアマンダさんに会うってのに、心構えってもんがなってない。──そうだよな、トーヤ?」
「え……いや、それは……」
同意を求めようとしてきたジェードに、僕はどう答えるべきか言葉に詰まる。
獣人の耳をぴくりと動かして怪訝な顔つきになる彼は、質問の内容を変えてきた。
「シアンと二人で、花火を見ていたのか?」
シアンと過ごしたのと同じだけ、ジェードも僕との付き合いがある。……誤魔化そうとしても、無駄だろう。
僕は彼の推察を肯定した。そして自分の中にある思いも織り混ぜつつ、何があったか語る。
シアンが僕を花火大会に誘ったこと。
その事に意外だとちょっと驚いたこと。
想いを告白したシアンは僕からの返事を求めず、この手を振りきって走り去ってしまったこと。
全部、話した。ジェードはそれを、嘘みたいに明るい花火を見つめながら聞いていた。
「初めて、シアンに拒絶されて……僕は悲しかった。人に拒まれる痛みと、自分のもとから離れていってしまう怖さ──それを思い出して、どうしたらいいか分からなくなった。……ねえ、ジェード。シアンはこれからも僕の側にいてくれるのかな? それとも、近くにいることも辛くて、どこかへ行ってしま──」
「バカ野郎、そんなこと言うな!」
俯く僕の胸ぐらを獣人の少年は掴み上げ、翡翠色の眼で睨み据えてくる。
い、いきなり何──!?
地面から足が浮いてしまうほどの力で捕まれた僕は浅く喘ぎながら、続く彼の言葉を聞かされた。
「何なよなよしたこと言ってる、そんなのお前らしくない! それに……シアンはお前から離れたりなんかしない。俺たちは仲間だろ、どうしてそんなこと言える……!?」
笑ってしまいたくなるほどに、ぐさりときた。
そうだ。僕たちはこれまで信じ合い、共に戦ってきた仲間だったじゃないか。共に使命のために突き進むと、決めたじゃないか。シアンがどれだけ僕のことを大切に思っているのか、僕自身が一番分かっていたはずなのに──どうして、信じられなかったんだ。
「トーヤ……俺はシアンを捜しに行く。お前は先にホテルに戻っとけ」
ジェードの語調は僕に有無を言わせない。僕が黙って頷くと、彼は目を合わせてから、肩に手を軽く手を置いて言った。
「いいか、お前は悪くない。だから、自分を責めるな。きっとエルもそう言う」
彼の言葉に、この行き場をなくした感情から少しは解放されたような気がした。
礼を告げるとジェードは照れ臭そうに鼻を掻き、微笑する。
「シアンのこと……頼んだよ」
「ああ、任せろ」
どんと胸を叩いてジェードは答えてくれた。
そして身を翻し、シアンを捜すため人波の中へ戻っていく。
「…………」
僕もまた、この場から離れていく。
人々の歩く動き、話す声、飛び交う彼らの視線──洪水のようなそれらを掻き分けながら、一人僕は道を辿った。
僕にできるのはシアンをただ待つこと、それだけだ。今は、彼女がまた笑顔で帰ってきてくれることを信じよう。そうしないと今度はジェードどころか、エルやユーミたちにも怒られてしまうだろうから。
「……シアン」
僕はもう何度目とも知れずに彼女の名を呟く。
見上げた空は雲一つなく晴れ渡り、星々が穏やかに僕たちを見下ろしていた。
◆
「……ここにいたのか、シアン」
少し掠れた少年の声。それはトーヤのものとは別の、それでいて同じ温度を持ったものだった。
誰もいない波止場の一角にうずくまっていたシアンは、その声の主へと首を回す。
「どうして、この場所が分かったの? ……ジェード」
「ニオイを辿ってきた。──心配したぞ」
獣人の鼻は誰にも見つかりたくなかった少女の居場所を、いとも簡単に見破ってしまう。そのことを涙の中で失念していた。
シアンはこちらを見つめている翡翠色の瞳に、何だかばつが悪くなって顔を背けてしまった。
今は放っておいてほしい、けれど──シアンは彼に見つけてもらえたことに、小さな安心感を抱いたのを自覚した。
「さっきトーヤに会って、何があったかは知ってる。なあ、シアン……俺でよければ、話聞こうか? こんな俺でも、力になれるかもしれない」
やや遠慮がちだったが、彼の声音は優しかった。
ようやく止まった涙がまた滲み出しそうになって、シアンは膝を抱えて顔を埋める。
するとこちらに歩み寄ってくる気配と、少年が隣に腰をどさっと下ろす音。
ジェードは一呼吸おいて、彼の思いを口にした。
「俺は、シアンのことがすごいと思う。ちゃんと恋愛して、まっすぐな想いを好きな人に伝えられて……本当に真剣に自分の恋と向き合ってた。俺は誰かに本気で恋したことがないから、素直に称賛する」
彼に慰められてしまうのだろうというシアンの考えは、ジェードのその台詞に打ち破られた。
ジェードはシアンのことを心から称え、尊敬の念まで告げてくれたのだ。それは獣人の少女にとって思ってもみないことだった。
「……ジェードは、わたしを軽蔑しないの? 叶わないって分かってる恋なのに、未練たらしく告白して、それでいてトーヤに『好きだ』なんて言わせた惨めなわたしを、バカにしないの……?」
顔にひきつった笑みを浮かべて、シアンはジェードを上目遣いで見た。
言いながら、なんて醜い、なんて面倒な女なんだろうと自分を呪う。シアンの中の黒い心が吐き出す言の葉を、彼女は止められない。
「同じ恋でもユーミさんはきっちり諦めて、トーヤを困らせるようなことはしなかったのに──。どうして、わたしはこんなに意地汚くなっちゃったのかな……? わたし、こんなに泣いたのに、心のどこかではまだ諦めきれてない……。ねぇジェード、この気持ちはどうすればいいの? わたし、もうわかんないよ……」
普段の敬語ではなく、ありのままの彼女の言葉でシアンは心の内を吐露した。
ジェードはそれを何も言わず聞いていた。渦巻いて荒れ狂うシアンの心を、彼は静かに受け止める。
「まず一つ……ユーミはお前が言うようにあっさりとトーヤを諦めた訳じゃない。あいつはトーヤに自分の想いを告げた夜、一人泣いたそうだ。誰にも知られないように、部屋でひっそりとな。ダンスパーティの翌朝、廊下で話してくれたよ」
シアンはユーミが一人で泣いていたことと、彼女がそれをジェードに話したこと、その二つに驚いた。
シアンが見ていたよりもユーミの心は『弱さ』を持っていて、それを話すことで気持ちを楽にしようとしたのだろう。
その相手がジェードだったのは偶然なのか、あるいは必然だったのか──シアンにはどちらかとは断言できないが、おそらくは後者だろう。
獣人の少年と巨人族の少女はあの《ルノウェルス革命》の後から、男女の仲とはいかないものの良い雰囲気になっていた。
ユーミが気持ちを話そうと思うくらいには、少年は彼女との距離を縮めている。
「だから……シアンだけが苦しんだわけじゃない。自分だけが意地汚いとか、そんなことはないんだよ」
泣いているシアンを見ていると、ジェードはかつて奴隷として生きた日々を思い出す。
あの頃も少女は泣いていた。トーヤと出会ってから変わったが、以前の彼女は泣き虫だったのだ。
シアンが泣くたびにジェードは怒鳴る主から彼女を庇った。不安定な情緒の彼女を守れるのは、自分しかいない――少年は自己に使命を与えた。
少女を守り抜くという、幼馴染としての絶対の誓い。
その誓いは今も忘れてはいない。
「お前は立派だよ、シアン。トーヤに救われてから、どんなピンチの局面でもお前は泣き言を言わなかった。戦いの中で成長して、怪物にも立ち向かう勇気を手に入れたじゃないか。そんなお前を、これくらいのことで見損なうやつなんていない。少なくとも俺は、お前に対する見方も感情も変わってない」
たとえ世界の全てがシアンを蔑もうと、排斥しようと、ジェードだけは彼女を見捨てない。
自分とシアンは二人で一人だ。故郷で生まれ育ってから現在まで、自分たちはずっと一緒だった。
その思いはトーヤがエルに対して向けるものと同じである。
「…………」
シアンはジェードの肩に頭を預け、流れる涙を必死に指先で拭っていた。
互いに呼吸を感じられる距離で、二人は言葉を交わす。
「トーヤは、わたしのことどう思ってるのかな……? 話をしたって言ってたけど、何か……聞いてない……?」
「そうだな……。あいつは、お前が自分の側から離れるのが怖いって。あいつはお前も俺達もみんなが大切で、失いたくないって思ってる。だからお前を嫌いになっちゃいない。これまで通りやっていきたいっていうのが、あいつの本心だろう」
嗚咽を漏らし続けるシアンの背を、ジェードは昔日のようにさすった。
そうしていると激しくしゃくり上げていた彼女も徐々に落ち着きをみせてくる。
「トーヤはいいやつで、見た目もよくて、それでもって『神器使い』だ。そんなの惚れて当然だよな。俺だって、自分がもし女だったらあいつに恋したと思う。というか……絶対に惚れ込むね」
照れくさそうに笑うジェードに、シアンは赤らんだ目を細めてクスッと微笑んだ。
その様子に少年は声を上げてまた笑う。ひとしきり彼が笑ったあと、シアンは訊ねた。
「ねえ……その話はわかったけど、わたしはあなたがトーヤに抱く気持ちとか、そこまで興味ないんだけれど……」
「ちぇっ、ひどいなあ。ま、とにかくお前の恋は間違ってなんかないって、俺は言いたかったんだよ。種族も境遇も他の大勢の人たちとは違うかもしれない――それでも、お前の気持ちはありきたりで当然のものだ」
ジェードはシアンを肯定する。涙を流し、少年のもとから離れようとする彼女を繋ぎ留めるために。
そこにいていいんだと認め、これからも自分たちの日常を送るために。
「お前さっき、この気持ちをどうしたらいいか分からないって言ったよな。それはトーヤへの気持ちなのか、もしくは誰かに恋をしていたいという感情そのものなのか……本当はどっちなんだ?」
何を言ってるんだという目でシアンは犬耳の少年を見つめた。
ジェードの台詞、その後者の意味が咄嗟には理解できなかった。
シアンが答えを出すより先に、ジェードは言葉を続ける。
「お前がトーヤを諦めた後も、誰かの温もりを欲するなら……俺が側にいてやる。お前が求めるなら、恋愛関係になってもいい。余計なお世話かもしれないけど……」
彼の眼差しは曇りなく、真っ直ぐだった。
その声の優しさと温かさが心に染みわたり、シアンは自然と微笑していた。
「……ありがとう、ジェード。わたし、あなたとなら、前に進んでいけるかもしれない」
自分と一番長く寄り添ってきたのは、この少年だ。
同じ故郷、同じ種族、同じ境遇。喜びも悲しみも共有してきた彼は、トーヤよりも不器用で、弱っちいけれど。
――だからこそ、守ろうと誰よりも必死になってくれる。大きな敵からシアンたちを護ろうと、懸命に戦える。
そんな彼がシアンは愛しくなった。
「そうか。なら、よかった」
ジェードは目を細め、安心したように吐息した。そしてシアンの背中に腕を回し、そっと抱きしめる。
その腕の温度がシアンの心の灯火を保ってくれた。
少女はもう、涙を流さなかった。




