13 告白
シアンの申し出をトーヤは微笑んで快諾してくれた。
頷く彼にほっとする獣人の少女に、少年は聞いてくる。
「それで、どこへ向かうんだい?」
問われ、彼女は獣人の耳をぴくぴく動かして考える素振りをみせる。
彼に声をかけられ、チャンスは今夜しかないと思って言い出したシアンだったが、勢いに任せた発言のため具体的なことは何にも考えていなかった。
――しまった、これではまずい。
「えっと……」
細い顎を指でなぞりつつ、シアンは海に面した窓の外へ目線をやった。
日が沈んだ海水浴場には未だ人が多い。確か、何かイベントがあったような……。
と、そのイベントについて思い出したシアンは答えを出す。
「夜の海でも一緒に見るっていうのはどうですか? アイナさんが話してくれたんですけど、今日はビーチで花火が上がるんですよ」
「おっ、花火かあ。僕、誰かと花火なんて見たことなかったから、嬉しいな」
トーヤの反応は悪くない。瞳を輝かせる彼の手を、シアンはぎゅっと握り直した。
「じゃあ、行きましょうか?」
頬を赤く染めながら、少女は少年の手を引いて歩く。
いつもならこんなことは出来ない。トーヤの隣にいるのはエルで、彼と最も触れ合える存在もまた彼女だから。
しかし今は違う。エルやユーミ、アリスやリオもここにはおらず、彼と共にいるのはシアン一人だ。
――私には、こんなやり方しか出来ないのですね。
穏やかな表情の下でシアンは自嘲する。
エルと直接ぶつかっても勝てないから、彼女の不在という隙を利用してトーヤを連れ出した。人の良い彼が断れないのをいいことに。
「あ、ねえシアン。せっかくだし、エルたちも誘ったらどうかな? みんなで見てあげた方が、花火もきっと喜ぶよ」
足を進めるトーヤが後ろ手を引かれるような思いで言う。
彼にとっての一番は『みんなが仲良くしていること』。心優しい彼の周りには常に笑顔が溢れ、調和で満たされている。それをシアンは否定するつもりはない。
そのつもりはないのだが──この時、シアンは胸の内に芽生えたちっぽけな独占欲に負けた。
「花火が喜ぶなんて、変わった言い回しをしますね。でも、ごめんなさい……私、やっぱり今夜はあなたと二人でいたい」
誤魔化しのない本心を口にしたシアンに、トーヤは少しばかり驚いた顔をして──それから声を返した。
「大事な話があるんだね。わかった、今夜は君と付き合うよ」
そう言ってくれる少年の顔と、先程風呂の中でエルが向けてくれた表情が重なる。
おそらくトーヤは心配しているのだ。シアンが他人に打ち明けにくい悩みを抱えているのだと思って、寄り添おうとしている。
この感情が……恋情が悩みであるというのは間違っていないだろう。
だが、トーヤはその悩みの解決には携われない。そんなことが出来るわけがない。
これは、シアンが自分で終わらせなくてはならない問題だ。
ホテルの門を出てビーチへ向かうまで、シアンたちの間で会話は一言二言交わされる程度だった。
物静かなトーヤと、特別おしゃべりな訳でもないシアン。少年が黙っているのなら自分も合わせようとする彼女は、ちらと手を繋ぎ合う彼の横顔を見た。
「……」
トーヤは凪いだ海のように穏やかな目をしていた。
──彼は何を考えているのだろう。シアンはその横顔を目にして、ふと疑問に思う。
ユーミは可愛い弟のように彼を扱うが、シアンには少年はまるで猫のように感じられた。
まず見た目だ。
彼の黒いシャツはノースリーブで、白い剥き出しの肩が晒されている。ハーフパンツから覗く脚はすらりと細く、女のシアンが羨むほど綺麗だった。
頭の後ろで短く結ばれた髪は艶やかで、前髪の下で伏せがちになっている目は大きめである。
猫のように愛らしい、華奢な体躯。旅先で彼に惹かれる女性が続出するのも無理のない外見だった。
だが、彼を猫のようだと言うシアンの感想の本質は、もっと別の部分にある。
今シアンが疑問を抱いたように、彼の思考はぱっと見ただけでは窺いにくいのだ。
トーヤの言葉自体には嘘はない。けれども、その言葉の裏に何か思いを隠している──時おり、そんな気がする。
彼は『太陽』ではないのかもしれない。彼の心は真っ白ではなく、少しの黒が混じっているのだろう。
だからシアンは彼の思いを捉えづらい。捕まえようとしてもするりと腕をすり抜ける猫のようだと、トーヤをそう認識していた。
そのことにユーミたちは気づいているのだろうか。
もしかしたら、彼の抱く『黒』を見ているのは自分とエルだけなのかもしれない──そこまで考えたところで、シアンはトーヤの声に思考の渦から引き戻された。
「二人きりで話したいんだよね……。なるべく人の少ない所に移動した方がいいか」
トーヤは辺りをきょろきょろと見回し、丁度良さそうな場所を探していた。
花火はまだ打ち上がっていない。それを前にして、夜のビーチに集まった人の数は増していた。ざわめきの中を二人は歩いていく。
「そうですね。見渡しの良い場所は既に人が多くいますから、そこは避けていきましょう」
この際、花火をベストポジションで見られないのは仕方ない。
今大事なのはトーヤと二人きりで話すこと。そして、彼にシアンの想いを伝えることだ。
「今日は本当に楽しかったな……。ねえ、シアンはどうだった?」
「あなたと同じです。久々に自分を解放できた気がして、すっきりしました。温泉も気持ちよかったですし」
「へえ、シアンも温泉入ったんだね。前に浸かったアリスの家のお風呂もよかったけど、ここのは格別だよ。もう何度でも行きたいくらいさ」
やや興奮ぎみに話すトーヤに相槌を打ちながら、シアンは昼間彼のために買ったプレゼントのことを考えていた。
彼とこうして話すタイミングで渡せたらよかったが、やはり唐突に勢いで行動したせいでそれを持ち合わせていない。
──戻ったら渡そう。シアンは内心で呟き、同時に獣人の耳が他の者より早く捉えた音に気づく。
「トーヤ、来ますよ」
「……え?」
と、彼がポカンとした直後、水平線の向こうから赤い光の球が上がり、弾けた。
それは次々と打ち放たれ、夜の星空を極彩色に彩っていく。
人々の間から歓声が上がる。シアンとトーヤも思わず立ち止まり、咲き誇る花火にしばし見入った。
「わぁ……! 想像以上だよ。すっごくキラキラしてて、綺麗で──なんか上手く言い表せないんだけど、僕、いま心から感動してる!」
瞳を輝かせて子供みたいに叫ぶトーヤに、シアンは笑みをこぼした。
彼はこういった美しいものを純粋に愛でることの出来る心を持っている。自然のものも、人の作る芸術も。
そんなところもシアンは好きだった。彼といると、花火のような派手なものだけでなく、これまで特に目も向けなかったほんの小さな美しさにも気づかされる。
かつては奴隷として生き、そんなことを考える余裕もなかったからなおさらだ。
「魔法で上げているもののようですね。さっき、呪文を唱える声が海上から聞こえてきました」
「船から打ち上げてるってことか……って、シアンすごいね!? 船はここから見えないのに、呪文の声が聞こえたなんて!」
ふむふむと頷くトーヤは一転、目をまん丸にしてシアンを称賛してくる。
人間の何十倍も優れた五感は獣人の特権だ。シアンは得意気になり、えへへと口元を緩めた。
「そんなことないですよー。こんなの、なんてことないです。私にはこのくらいしかありませんから……」
──逆に言えば、取り柄らしい取り柄などこれしかない。
笑顔の陰で卑屈な感情が首をもたげて、彼女は緩んだ口元を戻した。
その表情の変化に、トーヤが心配そうに聞いてくる。
「どうしたの……? 具合悪い?」
「だ、大丈夫です。ちょっと、疲れが出ただけなので……寝て起きれば治る程度のものですから」
慌てて取り繕う。トーヤは彼女の言葉をそのまま飲み込んで、「大事にしなよ」と口にした。表情は不安げで変わらない。
「トーヤ、あの……今、ここで言ってもいいですか」
どうせ周りには自分達とは無関係な人たちしかいない。それに、シアンの胸の痛みは収まる気配を見せなかった。
これ以上二人でいたら、シアンは自分が本当に嫌いになる。エルやユーミたちと自分を比べて、トーヤに心配をかけてばかりの自分を消してしまいたくなる。
この想いはきっと報われない。彼の恋心は既にエルに向けられていて、シアンは家族の一人のようにしか見られていない。
トーヤが彼女に抱くのは姉や妹に抱く親愛の情であって、それ以上でも以下でもないのだ。
ただ、それでも。想いを心に封じ込め、一人涙を流せるほどシアンは強くなかった。
この恋を終わらせる前に、せめて自分の心を彼に知ってもらいたい――奇遇にも彼への気持ちを諦めたユーミと同じことを彼女は考えて、少年に訊ねる。
「うん……いいよ」
トーヤは静かにうなずいて、これからシアンが告げようとしている言葉を待っていた。
彼の瞳は変わらずに穏やかだった。シアンの言いたいことを察しながら、少年はその言葉を聞こうと待っている。
周囲の喧騒の中で、二人だけが一瞬の静寂に包まれた。
言わなくちゃ──この気持ちに片をつけるために。
シアンは一度瞳を閉じ、最後に自分の心に告げた。
この時彼女の脳裏に甦るのは、少年との大切な思い出の数々だった。
──『顔を上げて』
初めて出会った日……奴隷の身分から解放されたあの日に、トーヤにかけられた言葉。彼の笑顔は温かく、柔らかだった。
少年は、絶望の淵に沈んでいた少女を救った。
『シアンが無事でいてくれて、よかった……』
エールブルーの路地裏で悪漢に教われそうになっていたシアンを助けてくれたトーヤ。
この時のことは、どれだけ感謝しても足りないくらいだ。シアンが自分の弱さを呪い始めたのも、この事件がきっかけとなった。
『エルには内緒だよ』
『君が僕にとっての一番になればいいじゃないか』
潮騒の街の波止場にて、少年はそう口にした。
本気なのかからかい半分なのか、当時のシアンはどちらか判断つかなかったが──きっと本心だったのだろう。
あの時の彼はまだ、幼い男の子の面影を残していた。おそらく彼は、女の子と二人きりという状況に舞い上がって、普段は言わないような台詞を口に出してしまったのだ。
思い返すと笑ってしまう。トーヤもシアンも、あの頃はまだ幼かった。
そんな彼も、今は『男の子』から一人の女性を愛する『男性』になった。見た目こそまだ小柄で幼いが、数年後にはシアンらをあっと言わせる美青年になっているに違いない。
彼が変わったとシアンが気づいたのは、エルが『アールヴの森』で悪魔の罠にかけられた事件の後だった。
エルの身が危険にさらされ、初めて失われようとした時、少年はどれほど自分が少女を想っているのか自覚したのだ。
そしてシアンは、この頃からちくりとした胸の痛みを覚えるようになった。
──獣人の少女は瞳を開く。
「トーヤ……私は、あなたのことが、異性として好きでした。その気持ちは、今も変わりません」
花火の目映い光の下、トーヤはシアンの告白に瞳をわずかに揺らしていた。
最近はアプローチを控えていた彼女からそんな直接的な言葉を聞いて、驚いたのかもしれない。
そして彼は哀しげに笑った。空を彩る花火たちを見上げながら、トーヤはシアンに言う。
「ありがとう。でも、君も……僕への気持ちを諦めると、そう言うんだろうね」
やはり分かっていたのかと、少女は少年と同じ場所へ視線を向ける。
盛大に弾け、炎の花を満開にする花火。今のシアンの感情はそれとは正反対のものだった。
「……先に言われてしまうと、伝えたいことも伝えられません……。トーヤ、あなたは本当に優しい人です。私やジェードにとって、あなたは灯火だった。前へ歩いていくための道標……そんな存在なんです」
シアンたちにとってトーヤとは何なのか、彼自身にここで告げた。
自分達がどれだけ彼に感謝しているのか、知ってほしかったから。──思いの丈の大きさを、分かってほしかったから。諦めようとしても最後に形を成した未練が邪魔をする。
「あなたに救われたあの時から、私はあなたに心を奪われていた。卑小な奴隷であった私に手を差しのべてくれ、笑いかけてくれたあなたを、私は愛したんです」
言葉が口を衝いて出てくる中、シアンの視界は滲んでいた。
──どうして、泣かないと決めたのに。
視線を戻し、まっすぐ見つめてくる少年に、彼女はくしゃっと顔を歪めて笑った。
自分は辛くないと、悲しくなんかないと懸命にアピールしようとする。そうすればするほど胸の痛みが強くなるのを知りながら。
「……返事、した方がいい?」
ぱちぱちと瞬きして、シアンは涙から視界を取り戻そうとした。
真剣な声音で問うてくるトーヤに、静かに首を横に振ることで答える。
「いいえ……。ただ、一つだけお願いしても、いいですか?」
この恋を終わらせる前の、ささやかな少女の願い。
トーヤが頷くのを確かめて、シアンはそれを口にした。
彼女の願いをトーヤは拒みはせず、これまでと同じ優しげな表情で応えてくれる。
その事にシアンはほっとしてしまった。無感情に突き放されなくてよかったと──そう、思ってしまった。
「シアン……好きだよ。僕は、君のことが大好きだ」
トーヤの声に嘘はなかった。ただそれが、異性への恋愛感情ではないだけで。
──けれど、これで満足だ。最後に彼に好きと言ってもらえた。それだけで十分、シアンの思いは救われた。
もう、思い残すことはない。もう……何も。
これで本当に終わったのだ。これからは、使命のために戦う彼を支える仲間として生きる。
「トーヤ、ありがとうございます。……私、もう行きますね」
どうして今トーヤの顔を見ることが出来ないのか、シアンには分からなかった。
腕を押さえ、浅く喘ぎながら彼女はここから立ち去ろうとする。
だが、
「──待って」
鋭いトーヤの声、咄嗟に掴まれる左手。
ぐっと強く掴む力は強く、まるで何かを恐れているかのようだった。
「……離して、ください。今は、もう……一人になりたいんです」
止めてくれ。ようやく自分の気持ちに始末をつけられたというのに、そんなことをしないでくれ。
シアンはそう心の中で叫ぶ。人の温もりが失われることを怖がる少年に対し、少女は人の温度から離れていたかった。消したはずの思いが蘇ってしまわないように、今夜は一人きりで自分と向き合っていたかった。
だからシアンはトーヤの手を振り払った。
彼のことを見もせずに、その場から走り去って人波に呑まれていった。
「シアン……」
トーヤは立ち尽くす。
彼の瞳は少女のいなくなった方向へ向けられたまま、唇はそれ以上の言葉を発そうとはしなかった。
少年は佇み続ける。
シアンに振りほどかれた右手を握り締める銀の左手は、冷たい。
花火の咲く夜空を見上げて、少年はいつまでもそこに立ち続ける──。




