12 『好き』という気持ち
エルと肩を並べて、僕はホテルの廊下を歩く。
これから向かう大浴場は僕たちの泊まる部屋とは別館にあった。今僕たちが通っているのは、そこへ繋がる渡り廊下だ。
エルは楽しげに鼻唄を口ずさみながら窓から見える夜景を眺めている。
そんな彼女を他所に、僕は何だか落ち着かなくてしょうがなかった。……さっきのエルの発言が本気なのか、確かめたい。
「ねえ、エル……」
「なあに? トーヤくん」
おずおずと訊ねる僕に、魔導士の少女は小首をかしげた。
あどけないエルの顔を見ていると、こんなことを聞いていいものかと内心躊躇してしまう。
「……いや、何でもないよ。──景色、綺麗だね」
「そうかい? ……うん、綺麗だよね」
一拍、間を置いてから彼女は相槌を打った。
日は完全に沈み、銀の月と無数の星々が真っ暗な空の中で静かな輝きを放っている。青白い月光が水面を穏やかに照らし、昼間とは全く異なる幻想的な風景を作り出していた。
「ね、トーヤくん」
今度はエルの方から訊ねてくる。上目遣いにこちらを見上げてくる彼女は、目を細めて言った。
「君は大きくなったね。身体も心も、前よりずっと。私にはそれが誇らしいよ」
「エル…………」
出会った当初から殆ど変化のないエルとは逆に、僕はここ最近で変わりっぱなし──エルによると、そういうことらしい。
確かに小さかった背も少しばかりは伸びた。戦いの中で精神的に強くなれたとも思う。
でもそれは僕一人だけでは大して伸ばせなかったんじゃないか、そうも感じた。エルやシアンたちといった仲間、更にはリューズ家や組織といった敵勢力までもが、僕を育てる糧となったのだ。
「始めはあれだけ頼りなかった君が神器を手にし、仲間を得て、強く──大きくなっていく。これ以上の喜びはないよ。もし君の失踪したお父さんが今の君を目にしたら、私と同じことを思うだろう。家族の成長を見届けるっていうのは、そういうことなのさ」
渡り廊下を抜け、広い別館の通路を進む。
すれ違う宿泊客の親子連れ、若いカップル、老夫婦……彼ら彼女らが作る『家族』と僕が呼ぶ『家族』とでは、少し違うのかもしれない。僕の家族はただの埋め合わせにすぎないから。
エルの口から『お父さん』と言葉が出たことも、この胸の疼きをより強めた。
「エルは僕のことを、家族だと思ってくれているんだね……。君にとって僕は弟? それとも兄? まさかとは思うけど──息子って線もあったりするの?」
最後は冗談めかして聞く。問われたエルは前を見つめたまま、ふふっと笑みを漏らした。そして答える。
「トーヤくんはトーヤくんだからなあ……はっきりとこれだとは言えないかも。うーん、強いて言うなら弟かな。一応、身体年齢的にはそれが一番近いし」
エルの体は十五歳の少女のまま、これからも変わることはないのだろう。となると、今は姉のように見えている彼女もいずれは、妹みたいに思えてくるのだろうか? 何だか想像も出来ない話だ。
「まあ、そんな感じだよね。……あ、お風呂見えてきたよ」
「お、ほんとだ」
彼女の答えに納得しつつ、廊下の突き当たりに見えるドアを指差す。
『男湯』『女湯』と書かれたそれに、僕たちはつい足を早める。もうずっと前にお風呂騒動があったきり、僕は風呂にゆっくり浸かれていない。あの温かさが急に恋しくなってきて、そのせいで、小走りになる足を遅めるなんてことは出来なかった。
と、そこで。
「こらっ、廊下で走っちゃダメ! いくらあたしでも、看過できない問題だってあるんだからね!」
ホテルの看板娘ことアイナさんが、僕とエルを大声で注意した。
びくっとしながら僕は勢いよく頭を下げる。この人、怒ると案外怖いんだな……。
「ご、ごめんなさい! 久々のお風呂だったものですから、うっかり……。本当にすみません」
「私もごめんよ、アイナさん! もーしません!」
「やーだね、許さないよ──なんて、言うわけないない! 素直に謝ってくれるなら、それでもういいさね。それに、このホテルの大浴場とあらば、二人が舞い上がっても仕方ないしー」
目の前にある浴場を指して自慢げに言うオーナーの娘は、目を弓なりにして笑った。
アイナさんは僕たちの肩に手を置き、ぐいぐいと押してくる。
「ささ、私がさっき見たときはそこまで混んでなかったから、入るなら今のうちだよ! ふふっ、あとで感想聞かせてね!」
実に愉快そうなアイナさんに、僕は「はい」と頷いた。
エルの手を取り、一歩前に踏み出して──肝心なことを聞いていなかったことに気づく。
「あ、あの……。ここ、男女別のお風呂しかないみたいですけど、その……」
「んー? そうだけど、それがどうかしたの?」
「い、いや……ならいいんですけど……」
エルさん? ちょっと話が違いませんか。
僕を部屋から連れ出したとき、確かに彼女は一緒に入ろうって言ってたんだけど……。
僕がエルに無言の問いかけをすると、視線を受けた少女はポカンとした顔をしていた。
先に質問の意図に気づいたらしいアイナさんがにやにやしている中、たっぷり十秒以上考えたエルは、あははと苦笑いする。
「と、トーヤくん……。私、あのとき一緒に行こうって意味で言ったんだけど、勘違いさせちゃったみたいだね……?」
「べ、別に──勘違いも何もしてないよ! そう、何も期待してた訳じゃないし、そんなことがあるわけない」
「なーに言ってるんだね、少年。顔にぜーんぶ書いてあるぞー」
──死んでしまいたい。穴があったら飛び込んで、しばらくそこに閉じ籠っていたいくらい恥ずかしかった。
顔が真っ赤になってるのがわかる。エルの苦笑も、アイナさんのにやけ面も、僕を羞恥に苦しめるのには十分すぎるものだった。
「い、いいから行くよ! ぼ、僕、長湯するかもしれないし、エルの方が早く上がったら先に戻ってていいから!」
浴場に水風呂があれば、とりあえずそこに入ってこの体の火照りを冷ますべきだろう。
僕は荷物をぎゅっと胸に抱えながら、早足で男湯へ向かっていく。
…………はぁ。
◆
白い湯気が立ち上る大浴場。その湯船に浸かっていたシアンは瞑目し、ほっと吐息した。
この島の火山の麓から沸き上がる温泉は少女の体を優しく抱き、これまで溜まった疲れを癒してくれる。
「はぁ……気持ちいいですねー……」
これが極楽か、とシアンはすっかり緩みきった笑みを浮かべた。
「こんなに気持ちいいんだから、アリスとリオさんも来たら良かったのに……。ね、ユーミさん?」
「……え? そーね、明日も誘ってみたらいいんじゃないかしら。ほら、その日の気分ってもんがあるでしょ」
巨大な双丘を水面に浮かべたまま船を漕ぎ出していたユーミが、欠伸混じりに答える。
ピンク色に火照った彼女の艶かしい体は、同性のシアンでも見入ってしまうほど扇情的であった。
あのお風呂騒動の時にユーミがいなくてよかった──シアンは本気でそんな安心感を覚えながら、そういえばリオもなかなかプロポーションの良い体型をしていたな、と思い返す。
「あの、一つ訊ねたいんですけど……やっぱり男性って、胸の大きな女性の方が好きなんですかねー?」
「何、気にしてるの? あたしが揉んで大きくしてあげようか」
「いえ、それは遠慮しておきます……。い、一応真剣に聞いてるので、ユーミさんから見て男性の方がどう思っているのか、わかることを教えてほしいです!」
積極的ね、と微笑むユーミ。
彼女は目に掛かりそうな前髪をさっと払いつつ、考え込むように天井を睨んだ。答えを待つシアンはごくりと唾を飲んでいた。
「そうね……。あ、トーヤは大きい胸の方が好きかも。あたしの胸に顔を埋めて、ご満悦の表情だったから」
──そ、そんなぁ!?
シアンは声には出さなかったが内心で悲痛の叫びを上げる。
ユーミの胸の容量は規格外だ。巨人族の彼女のそのサイズは、人間比で見てもかなり大きい。あのシルやエルを軽く越える、いわゆる巨乳だった。
「……ちょっと待ってください。今、トーヤがユーミさんの胸に顔を埋めたって──どういうことなんですか、ユーミさん!?」
「そんな顔しなくても良いわよ、別に打算も策略もなかったことだから。温もりを求めた彼を慰めようと抱き締めた……それだけのこと」
ユーミの性格はシアンも良く分かっている。おおらかで快活な彼女が嘘とは縁遠い人物であることも。
それでも、シアンの胸はちくりと痛んだ。その痛みの理由も、獣人の少女は気づいている。
自分は少年に慰められてばかりだ。いつも自分は彼に気にかけてもらって、助けられてばかり。
シアンは彼に対して何もしてやれていない。いつも彼はずっと先へ行っていて、シアンを振り返って待っている。
――ユーミには巨人の膂力と神話の知識がある。リオには唯一無二の《風》の魔法、アリスは類まれなる弓の才能。そして少年が最も信頼する少女には、説明するまでもないことだが《精霊の魔法》が。
少年が共にする少女たちは皆、誰が見ても賞賛する能力を持っていた。《神器使い》であるトーヤのそばにいるのに相応しい、特別な力を宿している。
けれど、シアンにはそれがない。魔具こそ持ってはいるが、自分は力で劣ると――少年の足手まといになってしまっているのだと、彼女はそう思えて仕方なかった。
「そう……なんですか。ユーミさんには、トーヤはそんな顔を見せるんですね」
シアンには寂しそうな顔も泣き顔も見せないのに。
彼女の言葉を聞いたユーミは少しの間を置いて、それから口を開いた。
「あたしなんて、彼からしたらただの優しいお姉さんでしかないから……。あの子、あたしならどんなに心配かけてもいいと思ってんのよ。――まったく、ひどい子よね」
そう言って、真っ赤な瞳が映し出す感情をシアンから隠すように、ユーミは俯く。
獣人の少女、巨人の女性――二人が口を閉ざす中、そこで控えめに三人目の少女が声を投じた。
「……シアン、ユーミ。二人も来ていたんだね」
瑞々しい肢体を持つ、滑らかな緑髪を頭の上でまとめた少女。
二人の様子を見て心配そうな表情のエルに、先に笑いかけたのはユーミだった。
「あら、エルじゃない。ここの温泉、ほんとに気持ちいいわよ~。さ、入った入った」
「じゃあお邪魔するよ。……あぁ~、これは最高だねー」
ふへぇ~と顔を完全に弛緩させるエルに、「親父かっ」とユーミがツッコミを入れる。笑い合う少女たちに、シアンもまた口元に小さく笑みを浮かべた。
彼女たちのことは嫌いではないのだ。大切で手放せない、大好きな存在。
本当に嫌いなのは――。
「入口までトーヤくんと一緒に来たんだけどさ、彼、私と一緒にお風呂に入るものかと勘違いしちゃって……。前にお風呂に入った時は混浴だったから、期待してたのかな」
「あらあら。それじゃあトーヤ、今は隣の男湯にいるのね?」
「うん。自分の勘違いに気づいて、もうすっごく恥ずかしそうにしてね……その場に居合わせたアイナさんがゲラゲラ笑うものだから、何だか私まで居たたまれない気持ちになったよ」
「あははは! いやー、トーヤ少年も災難ね。あの元気娘、からかいのネタを見つけて大喜びしてるわよ」
トーヤが今、壁一枚挟んだ向こう側の浴場にいる――。
エルとユーミの会話の中にあった情報に、シアンは自分の頬が妙に熱くなっていることに気づけなかった。
いつもなら考えないようなことが頭に浮かんでくる中、彼女の異変を気にかけたエルが聞いてくる。
「シアン? どうしたの?」
「い、いえ、なんでもありません! お、お気になさらず!」
ブンブンと首を振るシアンに、エルは「そうかい」と頷く。それから付け加えた。
「でも、何か心配ごとがあったり、不安があったら言ってね? 友達として、家族として、話を聞くよ」
エルの笑顔が、トーヤのそれと重なった。
昼間、あの砂浜での少年の言葉を思い出す。
そうして――シアンは知ってしまった。
この少女と、トーヤは根っから似たもの同士なのだ。馬鹿みたいにお人好しで、信じられないくらい優しい、綺麗な心を持っている。どんな強敵相手にも決して屈しない強靭な精神力も、二人が共有しているものだ。
果たして、シアンはそのどれかでも持っているのだろうか。
――もし持っていないとして、少年のそばにいる資格などあるのだろうか?
「エルさん、トーヤに似てきましたね」
声音は硬い。ゆらゆらと煙る湯気を通して、この声は少女にどう届いたのか。シアンは考えて――答えが出る前に、エル自身がくすりと笑みをこぼした。
「似てる……かな? でも、流石に毎日一緒に寝起きしてれば、似てくる部分もあるんだろうね。ねえ、具体的にはどの辺が似てるの?」
「――あの、私、そろそろ上がってもいいですか? これ以上いたら、のぼせてしまいそうで……」
興味深そうに質問してくるエルに、シアンは答えを拒むように言い、その返事を聞かずに立ち上がった。
小ぶりな胸を腕で隠しながら、彼女はエルたちに頭を下げてその場を離れようとする。
ユーミは立ち去るシアンの背中に声をかけた。
「あたしはもう少しいるわ。エルと話したいこともあるし……。そうだシアン、後で一緒に売店でも行きましょ。この島のご当地グッズ、もうちょっと見てみたいじゃない?」
「はい、一緒に色々見ましょう。……では、私はこれで」
逃げるように出口へ向かうシアンに、エルが心配そうな顔になる。
獣人の少女にかける言葉が出てこない彼女はもどかしさを抱えつつ、隣で瞑目しているユーミに訊ねた。
「私──シアンにどう接するのが正解か、わからない。ユーミがもし私だったら、あの子に何て言うのかな」
少年への想いを諦めた少女は瞼を開き、真っ赤な瞳でエルを見る。
突き放すような口調で、それでもエルのことを思っているユーミは言った。
「あの子が離れてしまったら、今の私たちの関係は壊れてしまうかもしれない──あんたはそれが怖いのね。でもね、エル。いつかは決着をつけなきゃいけない。何もせず目を逸らし続けてることが本当に正しい選択だとは、あたしは思えないわ」
自分の心が見透かされていることに、エルは驚くと共に反論出来なかった。
彼女が頷くのを見て取り、ユーミは続ける。
「迷うことは間違いじゃないわ。迷って、迷って、導きだした答えに価値がある。あんたはあんたの選択を信じなさい。あたしから言うことは、それだけよ」
浴槽の中で膝を抱え、エルは考える。
トーヤやシアンたちと共に過ごす、今の関係を変えたくない。変わらないようにするにはどうするか──その答えがすぐに出るような問題ではないだろう。
だが一つだけはっきりと分かることがある。
エルは、目を逸らさずシアンと正面から向き合わなくてはならない。
「ユーミ……ありがとう」
「いいのよ。あんたたちの背中を押してやるのも、あたしの役割だと思ってるから」
ユーミが微笑む。エルは彼女の笑顔に、胸に抱える塊が少しは軽くなったような気がした。
◆
風呂上がりにほんのりと頬を上気させ、ラフな部屋着に着替えたシアンは廊下を歩いていた。
今日は朝から本当に疲れた。これから部屋に戻って、明日に備えて一人でゆっくり休もう──そう考えていた矢先、彼女は今一番会うと困る人物に声をかけられてしまった。
突然のことに心臓がドクンと跳ね上がる中、彼は普段通りの柔和な笑みを浮かべている。
「やあ、シアン」
黒い瞳に穏やかな光を宿した少年──トーヤだ。ノースリーブのシャツとハーフパンツといった涼しげな格好の彼は、歩くシアンの隣に付いてにっと笑う。
「トーヤ……」
何故だか顔が熱い。彼のこんな表情はこれまで何度も見て、何度も普通に話してきたのに、今ばかりは高まる鼓動を押さえられなかった。
きっとあれのせいだ。昼の海水浴場で、少年が自分にかけた言葉。
彼にはエルがいるのだから、と常に言い聞かせてきたシアンの意思は揺るがされている。彼のことを考えるだけで、胸がきゅーっと痛くなるのだ。
「あの、私……」
揺らいだ意思は、少女に普段ならしないような思いきった行動を取らせる。
トーヤの手を掴んだシアンは、彼の目をまっすぐ見つめて頼み込んでいた。
「私、あなたと二人きりで話したいことがあるんです。これから一緒に、私と来ていただけませんか?」




