8 マモンの力
「悪魔マモン、だと……? 仮にお前が本当の悪魔だったとして、私に何を求める? まさか、この『力』全てとは言わないよな……?」
ヘルガは動揺を出来るだけ隠そうと、少年の発言を鼻で笑い飛ばした。黒髪の少年はそれをただ冷めた目で見ている。
「怖いのかい、ヘルガ・ルシッカ。今の君は、牙を失った獣のような顔をしているよ。とても勇敢な魔女だと聞いていたけど……どうやら違っていたみたいだ」
「バカが、違うのはお前の見込みだ。私は恐れてなどいない。いつでもお前の腹をかっ捌く覚悟でいるよ」
自分と相手の声以外の音が聞こえない。少年の能力かは知らないが、今のヘルガの聴力は大きく制限されていた。もしくは──自分と相手の他は全部、時が止まってしまっているのか。
強気に笑みを浮かべ、喋りながらヘルガは考える。
──どうやってこの状況を打破する? 魔法は使えない、武器は長杖と懐に忍ばせた小太刀のみ。魔法を自由に行使できる敵に、肉弾戦で勝てる策などあるのか──?
黒髪の少年はやや長めの前髪を掻き上げた。露になった瞳は深い墨色。どす黒い邪気を内包したそれがヘルガの目を貫き、ぞっと背筋に寒気を走らせる。
「『力よ、目覚めよ』」
たった二節の超短文詠唱が少年の口から発された。
身構える隙さえ相手に与えない。少年の杖が青白い閃光を放ち、稲妻が渦を巻いて彼自身の体へ纏わりついた。
「……ッ!?」
突然の光にヘルガは目を細め、今起こった現象を懸命に理解しようとする。この時、彼女はまだ『神化』の知識を得ていなかった。
自分に何かしらの力が働いたわけではない。では、何が──?
その答えは、すぐ目の前に用意されていた。
少年の姿が変化している。黒い髪はそのままに、纏う衣装が白いマントへ。白の手袋が掴むのは漆黒の長杖。何より特徴的なのはその顔を隠す奇妙な仮面──鳥を象っているように見える──と、フードを突き破って伸びる二本の山羊の角だった。
「な、何なんだ、これは……ッ!?」
愕然と目を見開く。体は震え、顎がガチガチと歯を鳴らしていた。背に嫌な汗が伝うのを感じながら、ヘルガは意識せず言葉を口にしていた。
そんな彼女に対し、少年はこの時初めて嬉しそうな声色になる。
「悪魔マモン──つまり僕本来の力をこの身に宿したのさ。普段、一学生として過ごす際はこの姿になれないからね……久しぶりに力が使えて、高揚感もひとしおだよ」
にっこりと──おそらく仮面の下で少年は笑みを深めていた。杖を手の中でヒュンヒュンと回す彼が心の底から歓喜していることを、ヘルガは察する。
彼がこれからどうしようというのかも、完全に理解した。
──自分はこれから、『強欲』の力に『声』を奪われる。
「ちっ……ッ!」
──そんなのは嫌だ。ヘルガは歯を食い縛り、よろけそうになる足で懸命に踏ん張った。
この少年が悪魔でないと、彼女にはもう言えない。この悪魔へまともに戦いを挑んでも、勝てない。
チャンスは一度きりだ。絶対に失敗は許されない。許してしまえば、彼女の力──存在意義が失われてしまう。
仮面の穴から覗くマモンの眼は、焦燥に駆られるヘルガの瞳をじっと見据えていた。
見るものを引きずり込む魔力を持った『眼』だった。生命力をたぎらせるそれをずっと見ていると、何だか力を吸われてしまう気がして、ヘルガは視線をずらす。
と、同時に。杖を回すのを止め、マモンが腕を前方へ真っ直ぐ向けた。
──魔法を撃つ気か!
撃たれる前にやらなければ勝機はない。
ヘルガは懐の小太刀を抜き放ち、足を大きく踏み出した。柔らかな雪を強く踏み締め、蹴り、悪魔へと一直線に突撃していく。
「はああああああああッ!!」
恐怖、不安、自分の中の負の感情を振り払う叫び。
獣のように吠えながら、魔女は己の魂をこの一撃に賭した。
「何っ────」
マモンの驚声をヘルガは確かに耳に捉えた。
火事場の馬鹿力とでも言うべきだろうか、彼女の生涯最速の刃が一閃を刻む。銀の光が少年の視界の下方で瞬き、次には──彼の纏うローブの胸元を切り裂いた。
「ぐあっ……! ぐ、こいつッ……!!」
鮮血が舞い散る。飛散した血液が白い大地を真っ赤に染め上げる中、ヘルガは刃を少年の左胸へ突き入れていった。
苦痛に呻き、叫ぶ少年。ここで絶命させ、この森にかけられた魔術を解除しなくては──魔女の刃が悪魔の心臓を抉り、少年の黒い瞳を貫くように睨んだ。
「はぁ、はぁっ──大罪の悪魔よ! 今、ここで死ねッ!」
どぷっ、と赤い液体が彼の胸から溢れだし、ヘルガの腕や服の前を濡らす。
徐々に力を失っていく少年の身体を、彼女は顔をしかめながら刃ごと雪の上へ押し倒した。敵に馬乗りになって、何度も、何度も小太刀を彼の胸へ突き刺していく。
「死ね、死ね、死ねッ! お前たちはこの世に災厄をもたらす、疫病神だ。お前たちのせいで私の故郷は滅んだんだ! 滅ぼしてやる──」
女の脳裏に戦乱の末に燃え尽きた故郷の光景が甦った。《傲慢の悪魔》によって殺された同胞の仇を討とうと、彼女は身に宿した憎悪を少年へぶつける。
彼の仮面を剥ぎ取り、その下にある美顔を正面から見た。復讐を誓った悪魔の一柱を、憤怒の瞳で睨み付けた。
だが、その時だった。
「滅ぼす、だって……? ありえないね、君なんかが僕を殺せるとでも思ったのかい? この肉体を殺すことで、僕の魂が滅びると──本気で思っていたとしたら、愚かだったと言わざるを得ない」
話す少年の瞳が、瞠目するヘルガの目を直視する。
魔女の手から力が抜けた。肉体を殺しても魂は潰えない、だとしたら──魔法を封じられた自分は、どうやっても彼を倒すことは出来ない。
「だったら……だったら、何故」
「何故、なんだい? 続けてごらんよ」
「どうして、その身体を犠牲にしたんだ!? 抵抗することも出来たはずだ、お前が取り憑いた少年の命が尽きることもなかったはずなのに──!」
少年はヘルガの問いかけに、ただ笑みだけを返した。狂気を孕んだ笑顔。ヘルガの表情が凍りついていくのを楽しむように、彼は言葉を紡いだ。
「君を油断させるにはこうするのが一番だった。いくら魔法を封じたとはいえ、魔道具の類いを隠し持っていないとも限らないからね」
少年の瞳はヘルガの両目を視たまま離れない。入念に見つめてくる彼を訝しく思う頃には、すでに手遅れとなっていた。
にやり、と少年は死に際に笑顔を深める。
ヘルガには咄嗟に何が起こったのか分からなかった。自分にかけられた術が何であり、本当にそれが失われたのだと確認が取れたのは、これから少し後の話である。
「じゃあね、ヘルガ・ルシッカ。僕はしばし魂だけの存在となってしまうけれど、また新しい身体を見つける。次に会うことはもうないだろう。だから言っておくよ──君の憎悪は美味だった」
そう言い残したきり、悪魔はもう何も話さなかった。少年の遺骸の前に膝を突き、ヘルガは自分のやるせなさに顔を俯ける。
少年の声の残響が、頭の中でわんわんと鳴って止まなかった。
◆
「悪魔マモンが奪っていったのは、私がかつて有していたある秘技……『共意識』の魔法だった。この魔法は、対象の思考を自らの意識と同調させる──言ってしまえば『自分の思うままに服従させられる』というものだ。今、私は精霊や動物、鳥たちなど生命に呼び掛け、力を貸してもらうことができるが、この魔法では短時間でなら完全に思考を支配することが可能だった」
かつてヘルガさんが持っていたという魔法――それは『声』を用いて対象を操るいわゆる『服従の魔法』であった。
その事実に僕は驚く。善良な魔導士である彼女が過去に能力を悪用したことはないと分かってはいたが、悪魔ベルフェゴールの力とよく似たそれに薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。
「悪魔マモンはどうしてもその力が必要だった……ってことですね。奴が『服従の魔法』をどれほど悪用したのか、考えるのも恐ろしいくらいです」
「ああ……だが、奴が今どこにいるのか、新たな肉体に誰を選んだのか、私は知り得ていない。君たちもそれは同じだな」
重々しい声音で言うヘルガさんに頷きを返す。
現状、僕たちが行方を掴んでいる『悪器』は二つ。一つはアマンダ・リューズの持つ【色欲】、もう一つがエイン・リューズが所有する【暴食】。怠惰のベルフェゴールが討伐され、残った六つの悪器の内、四つの所在は未だ不明となっていた。
「あの……一つ、聞いていいですか?」
僕とヘルガさんが押し黙る中、口を開いたのはシアンだった。皆の視線が彼女に集中し、シアンは一瞬うろたえるような素振りを見せるも、ヘルガさんに促され話し出す。
「ヘルガさんの魔法の一つをマモンは奪ったんですよね。強欲の悪魔がどうやってあなたの力を奪ったのか……分かることは、ありますか?」
僕も気になっていたことだ。悪魔の対策を練る上で最も重要になる情報――マモンとの戦いもいつかは訪れる。その時のためにも知識を蓄えておくべきだろう。
「良い質問だ。私もこれから話そうと思っていたところだったが……マモンの『奪う』能力は、単純に相手の力を我が物とするわけではないようだ」
強欲の力を直接受けた女性は語る。マモンの『強奪』能力の真相は次のようなものだった。
「これは私の推測に過ぎんから、鵜呑みにはしないように。――奴の力は対象の目を『見る』ことによって発動する。それは今話した戦闘から鑑みるに、わずかな時間……最低でも十秒以下対象と目を合わせることが必要になる。大体五秒前後と考えておけばいいだろう。そしてその魔法の正確な効果は、『対象からその能力に関する記憶を奪う』というものだ」
ヘルガさんによると、『服従の魔法』を過去に使えたことは覚えているけれど、その発動の仕方を思い出せなくなってしまったという。
魔法を使うには呪文をただ唱えればいいわけではない。書に記された詠唱文を詠み、声に出しても『服従の魔法』は成功しなかった。彼女は魔法を使う上で最も大事な『魔素』の組み合わせ方を忘れてしまっていた。
「魔法は何か一つでも構成要素が欠けると発動できない。その魔法の『全て』を書物にでも残しておけば、また使えたはずなんだが……当時の私は、傲慢にもこの魔法が他の誰かに使われることを拒んだ。自分だけが使えればいい――そんな風に思い上がっていたんだ。まぁ、思い返せばあれはおぞましい力だった。今はもう、そいつを失ったことに未練はない」
魔導士はきっぱりと言い切った。
強大な力は人を狂わせる。どんな人でも、神でも悪魔でも、力に振り回されて変わってしまう。この人が自らの魔法に溺れなくて本当によかった――僕は淀みない深い紫の瞳を見て、そう思った。
「私には声を『聞き』、『語りかける』力だけで十分さ。無理やり意識に介入して、思うままに何かを動かすなんて面白くないしくだらない。この世界は、誰かの思うままにならないから素晴らしいんだ。それを否定し、暗く堕ちた世界を作ろうとしている悪魔たちは間違っている」
静かな、それでも力ある口調でヘルガさんは訴えた。
瞋恚の炎を宿した瞳が僕たちを射抜く。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に揺さぶられた。
この人の悪魔への怒り、憎しみは僕やエルともまた異なる。彼女は悪魔マモンとの戦いを経て、奴らの残酷さを知った。僕よりもずっと、他の下級の悪魔たちによって人々が悲しむ姿を見てきた。誰かの死に直面し、心をすり減らした回数は僕とは比べ物にならないほどになるだろう。
これまでに死んだ人、傷ついた人の分の憎悪をこの人は背負ってきている。必ず奴らを絶滅させると、彼らに誓っている。
「……ヘルガさん。今日は、ありがとうございました」
「ああ。だがすまんな、悪魔アスモデウスについての話をしてやれなくて」
「いえ、【大罪の悪魔】のことを少しでも知られれば、それで良いんです。本当に、感謝してます」
話に区切りがついたのを見てとって、僕はヘルガさんにお礼を告げた。
他のみんなも彼女にぺこりと頭を下げる中、ヘルガさんはちょっと申し訳なさそうな顔をする。
僕はそんな魔導士の女性に笑みを向けた。彼女も、どんな表情をするべきか一瞬迷ってから、苦々しげな笑顔を作る。
「今日はこれでお別れだが、私は特別な用がない限り学園にいる。──エル、お前は魔導士だな。学園には魔導士たちにとって垂涎ものの書物が幾本も眠っている。他の者も、興味があればぜひ寄っていってくれ。フィルンの魔導士はお前たちを歓迎する」
「はい! 全部終わらせたら、必ず見に行きます。あぁ、楽しみだなぁ」
その申し出にエルが興奮した声で答えた。
ヘルガさんは、ここに来るまで顔を隠していたフードを再び被り直した。
立ち上がる彼女に合わせて僕たちも席を立つ。ヘルガさんが皆に順々に握手していき、最後に僕はこの人の瞳を見上げた。アメジストの瞳が瞬き、穏やかに見返してくる。
「僕たち、悪魔アスモデウスに絶対勝ちます。だから、心配しなくて大丈夫です」
「……そうか。なら、安心だ」
彼女の目に浮かんだ感情は、安堵だったろうか。それとも消えない不安だったろうか。フードと前髪に隠れた目の奥にある感情の種類までは、僕は測り知ることが出来なかった。
少し俯けていた顔を上げたヘルガさんは、一言さよならを告げたきり、何も言わず僕たちに背を向ける。
「みんな、勝とう。僕たちの力で、悪魔アスモデウス──アマンダ・リューズに勝利するんだ。あの人の思いに応えるためにもね」
その背中を見送りながら、僕はエルたちを鼓舞する言葉を声にした。
来るべき戦いの日に、気持ちが揺らいでしまわないように──恐れ、逃げ出してしまわないように、僕は自分に言い聞かせる。
「はい。私たちなら行けます。共に勝利を掴み取りましょう!」
「そうね、トーヤの言う通りだわ。私たちがあの女を倒さなくちゃ、他に誰がやるってのよ」
「俺たちが力を合わせれば、止められる敵なんていない。あんな悪魔なんか、蹴散らしてやる」
「死闘になるだろうが、私はそうなればなるほど燃え上がる質なのでな。今回も思いっきり暴れさせてもらおうかの」
シアン、ユーミ、ジェード、リオと、気合いと覚悟を込めた声が続く。
「その日」はもう、すぐそこまで迫ってきていた。




