3 依頼と舞踏
「お話って……?」
穏やかな笑みを浮かべるエミリア王女に訊ねる。
緩くウェーブをかけた茶色の髪を撫で付けるように触りながら、彼女はこくりと頷いてみせた。
「トーヤ君……。君に、どうしても伝えておかなくちゃいけない話なんです。エルさん達もご一緒に、どうか聞いてください」
胸に手を当て、王女が僕の背後のエル達を順々に見る。
オーケストラの奏でるワルツ、そして人々の低められた話し声の中で、彼女の言葉は異様な力を持っていた。
──今、ここで彼女の話を聞かなければならない。僕たちにそれ以外の選択肢を与えさせない真剣さが、王女の声音から、口調から伝わってくる。
「はい。……あ、王様は一緒じゃなくても……?」
「いえ、父様とは関係なしに、私と君とで話したいんです。あと……すみません、少しこちらに寄っていただけますか」
ちらりと舞台上を仰ぎ見たエミリア王女に言われ、僕は彼女との距離を詰めた。
王女も一歩こちらに近づき、互いに文字通り目と鼻の先の位置関係となる。
白い手袋に包まれた彼女の手に右手を握られて、思わず赤面してしまった。
「あっ……ごめんなさい」
「い、いえ、お気になさらず! と、とにかく、お話をどうぞ」
一瞬感じた背後からの殺気に冷や汗をかきながら、僕はエミリア王女に話を促した。
なんだろう、彼女に手を握られた時、妙に鼓動が高鳴った。それに、王女の纏う羽衣がほんの微かに光ったような……。
き、気のせい、だよね?
「トーヤ君。私の『神器』が司る属性が何か、知っていますか」
僕の挙動不審な態度も特に気にせず、王女は問いかけてきた。
彼女の神器──豊穣の女神フレイヤの『鷹の羽衣』。それが宿す力の属性は、
「大地の魔法。土属性、ですよね」
「正解です。だけど、フレイヤにはもう一種の特別な力があるんです。何か分かりますか?」
えっと……。確かフレイヤ様はフレイ様の双子の妹で、とても美しい女神様だから……。
しかし、僕が答えを導き出す前に別の女の子が口を開いた。
「『情愛』の力。あの『悪魔アスモデウス』と同種の、あまりの美しさで誰もを魅了してのける力だよ。その神に魅了された者は絶対に逆らうことが出来なくなり、神の傀儡となってしまう」
僕は後ろを振り返る。
強い光を瞳に湛えてエミリア王女を見据えるのは、エルだった。その目には警戒の色がはっきりと表れている。
「よくご存じですね、エルさん。私はこの神器、『鷹の羽衣』を纏っている間は『魅了』の力を好きなように使うことが出来ます。兄の『勝利の剣』とは違って殺傷力は皆無の神器ですが、ある意味ではそれより遥かに恐ろしい魔法が込められている。使い方を一歩間違えれば、悪事だって起こしてしまえる代物です」
オーケストラのワルツが僕達の沈黙を埋めた。
さっきの感覚はフレイヤの『魅了』だったのか──。無意識に後ずさってしまった僕に対し、エミリア王女は変わらぬ笑みを向けてくる。
「私が怖いですか?」
驚くべきことに、彼女は純粋に心配するように訊いてきた。
伸ばしかけた手を引っ込め、胸に収める。そんな王女の様子に、僕はどう答えるべきか迷った。
けれど、やっぱり正直に言うべきだろう。少し間を置いてから返答する。
「今の話を聞いて、少し怖いなって思いました。僕自身、以前『色欲』の悪魔に似たような術をかけられたことがあるので。でも……エミリア王女は、その力を悪用するつもりはないんですよね」
僕の目をまっすぐ見つめ、王女は深く頷いた。
「はい。私はトーヤ君たちと志を同じくする同胞です。共に悪魔を討ち、この地方に──世界に、平和をもたらすために戦う。そのために私は神器使いになったんですから」
まだ幼さの残る少女の顔に、息を呑むほど凛々しい覚悟の表情が浮かび上がる。
その顔を僕は知っていた。悪魔ベルフェゴールとの戦いの前、カイ・ルノウェルスも全く同じ表情を見せていたから。
頷きで応える僕の反応を見て、エミリア王女は続ける。
「では本題に入りましょう。私は、トーヤ君たちに協力を求めたいのです。『色欲』の悪魔を討つために」
「色欲──『アスモデウス』を、倒す……」
三月ほど前、マーデル王国で起こった『スウェルダ王女誘拐事件』。それを引き起こしたのが、アスモデウスに取りつかれたマーデルのマリウス王子だった。
あの時僕たちは王子が持つ『悪器』を破壊し、【大罪】の悪魔を一人倒したと喜んでいたんだけど……それからすぐに、あの悪魔に片割れが存在することを知らされた。
二つに別れた『悪器』のもう一人の持ち主は、この地方の経済を牛耳っているリューズ家──その長女であるアマンダ・リューズ。アマンダはアスモデウスとの『神化』を完璧に使いこなし、当時の僕を圧倒した。
リューズ家と決別し、いつか必ず倒すと決意して僕たちは旅立った。そして、ようやくその時が──。
「おい、それじゃあ……アマンダさんと、戦うってことかよ」
「ジェード……」
獣人の少年は声を震わせて言った。
ダークブラウンの瞳を揺らす彼の名を静かに呼ぶのは、シアンである。
「勝てるのか? あの女に──あの悪魔に。アマンダ・リューズはただの魔法使いじゃない。あれは鬼だ、狂った戦鬼だ。俺は、あの女が死ぬところなんて想像できない……」
ジェードの顔には本物の恐怖が刻まれていた。
あるいは、それは僕が初めて目にする彼の表情だったかもしれなかった。
「ジェード、どういうこと……?」
僕は訊ねた。間近でアマンダさんと相対し、彼女の技を受けた僕よりも、ジェードは彼女を恐れている。
その理由を知りたかった。
「アマンダ・リューズという女は、それほどまで恐ろしい女なのか?」
「あのモーガンやリリス級に強いってこと?」
アマンダさんを直接は知らないリオとユーミも首を傾げる。
シアン、そしてアリスに見守られながらジェードは僕の問いに答えた。
「最初は、マーデル王城で兵士と戦った時だった。百を超える数の敵を、あの女は殆ど一人で蹴散らしていったんだ。炎を纏う奇妙な体術を駆使しながら、目を猛獣のようにぎらつかせて。──あれは人間じゃないって思った。化け物だって、心に刻み付けた……」
ジェードの話を聞きつつ、僕はアマンダ・リューズという女性のイメージを頭に起こしていた。
紅茶作りが趣味だと言った、快活で優しいお姉さん。理知的で父親を献身的に支え、戦闘面でも飛び抜けた力を有する魔導士……。
「もう一つ……それは、あの女が屋敷でトーヤを襲った時のことだ。炎の魔法を使った直後のアマンダの顔を、俺は物陰から見てたんだ。力に酔いしれた奴の顔……悪魔アスモデウスと同化したあいつはもう、正気とは思えない形相をしていた。息を荒く吐きながら、うわ言のように何かを呟いて──俺はアマンダがそこから動くまで、何も出来ずにただ見ているしかなかった……」
力なくジェードがうなだれる。
当時の彼にとって、その出来事は非常に大きなショックであったはずだ。最悪、トラウマになっていてもおかしくない。
そんな彼を気遣うように、僕は礼を言った。
「話してくれてありがとう。ジェード……いや、みんなも聞いてくれ。例えどんなに強大で、どれほどの巨悪が立ちはだかったとしても、僕は屈しない。それは約束しよう」
突然王女から告げられた「頼み」に不安を抱いているだろう彼ら彼女らに、僕ははっきりと意思を表明した。
みんなを引っ張っていくのがリーダーの役割だとしたら、僕が彼らの旗印にならなきゃ。
「トーヤくんなら、そう言ってくれると思った」
「頼もしいですね。では、協力して頂けるのですね?」
微笑するエル、ほっと胸を撫で下ろすエミリア王女。
僕は確認する王女に首肯し、詳細について訊ねた。
「はい。それで、計画の実行はいつになるんですか? ──悪魔アスモデウス、アマンダ・リューズとの接触は、図れるんですか」
「ごめんなさい、ここではまだ何も言えません。なにしろ場所が場所ですので……詳しいことは後に私の部屋で」
申し訳なさそうにエミリア王女は言うけれど、パーティー会場で喋って誰かに聞かれても困る話だ。
わかりましたと答えて、僕はこれまで我慢していた料理へ手を伸ばす。
右手だけで何とかステーキを切り分けようとすると、王女が隣に来て手伝ってくれた。ナイフを持つ手に添えられた彼女の手──手袋越しだが肌と肌が接触して、またしても僕の胸はドクンと跳ね上がる。
「あ、ありがとうございます、エミリア王女。そ、それにしても触れるだけでこうだなんて、《フレイヤ》の神器使いも大変ですね」
「そうなんですよ~。だから、これを着ているときは不用意に他人と触れ合うことが出来なくて。……あ、あと、私のことはエミリアでいいですよ」
「そうですか。じゃあ、エミリアさん」
「さん付けしなくていいのに……まあ、トーヤ君が呼びやすければ何でもいいんですけど」
会話を交わしながら、成り行きで僕はエミリアさんからお肉を「あーん」されていた。
彼女がフォークで差し出したステーキをぱくりとくわえ、ゆっくりと咀嚼。肉汁が口の中にじゅわーっと広がり、ジューシーな味わいが舌を楽しませてくれる。
「うん、おいしい……って、何でエミリアさんにこんなことやってもらってんだ僕」
「そうだ、お前がエミリアに「あーん」されるなんて百億年早い」
ごつん、と僕の頭にげんこつが落ち、目の前にあったエミリアさんの手の中からフォークが抜き取られる。
い、痛い……。涙目になりながら見上げると、そこにはエミリアさんと瓜二つの顔が、彼女とは似ても似つかぬ怒り顔を浮かべていた。
「エミリアも……お前の力は面倒事を引き起こすんだから、ところ構わず他人と触れ合おうとすんな。お前が原因の揉め事をいっつも始末させられんのは俺なんだからな」
エミリアさんの頭を両手でぐりぐり攻撃しているのは、彼女の双子のお兄さんであるエンシオさん。
フレイヤと対をなすフレイの神器使いである彼は、妹と同じく整った顔に疲労の色を見せつつ、溜め息を吐いた。
「まったく、無自覚にトラブルを発生させようというんだから、たちが悪い。──お前たち、こいつが迷惑かけただろうが、どうか許してくれ。こいつに悪気はないんだ」
「いや、エミリア王女は何も変なことはしてませんよ。あたしたちとちょっと喋ってただけですから」
「そうなのか。……よかった」
ユーミの言葉に心底安堵した風にエンシオさんは表情を緩ませた。
するとユーミが何故か頬を染め、彼女の腕をジェードが強くつねる。
「いたっ、何すんのよ!?」
「えっ? あ……、ご、ごめん!」
自分の行為に言われて初めて気づいたらしく、ジェードは慌てて手を離した。
「もー、痣になっちゃったじゃない。あんた力強いんだから、多少は遠慮しなさいよね」
「そ、それはお前も大概だろ!? というかお前が男に色目ばっか使うから」
「使ってない! ……もう、この話は終わりよ!」
「あはは、お二人とも仲良しですね~」
言い争う二人にエミリアさんが温かい眼差しを送る。
喧嘩するほど仲がいい、ってことなのかな。僕らの中で喧嘩が起こる時は大体この二人だ。
「そういやお前たち、せっかくのダンスパーティーなんだ。遠慮せず、楽しんだらどうだ?」
エンシオさんの勧めにおずおすとだけど頷く。
周囲を見ると、多くの人がオーケストラの演奏に乗って踊っていた。僕たちが話している間にいつの間にか曲目も変わっており、今度はアップテンポな曲調になっている。
「じゃあ、トーヤくん。踊ろう!」
僕の手を取り、エルはにこっと笑った。
持ち前の行動力を発揮してぐいぐいと引っ張ってくれる彼女に感謝しながら、僕はその誘いに応える。
「うん。――喜んで」
少し激しい曲で正直ちゃんと踊れるかは不安だった。けれど、エルは苦戦する僕に合わせてステップを踏んでくれ、何とかダンスらしいものは踊ることが出来た。
互いに見つめ合い、言葉がなくとも心を通わせる。リズムに乗って思うがまま、だけど動きはエルに合わせて。
――すごく、楽しい。これまで色々な心配事を抱えてきた僕だけど、そんなこと忘れて夢中になれるくらい、この瞬間は楽しかった。
「トーヤくん、ダンス上手いじゃないか。私、また君に惚れ直しちゃったかも」
「ありがと。エルも素敵だよ。君と踊ってると、何だか心が浮き立って……ずっとこうしていたい気持ちになる」
その場でくるりとターンし、僕らは言葉を交わす。
悪戯っぽくウィンクを飛ばすエルに、僕は笑みを返した。
──オーケストラの演奏が一旦止まる。
「ふふっ、あっという間だったね」
「うん。でも、一曲で終わるつもりはないんでしょ」
「あはは、大当たり! ついてきてくれるよね?」
「もちろんさ」
頬を紅潮させ、浅く呼吸する僕ら。額の汗を拭いつつにやりと笑って訊ねると、エルは口調を弾ませて答える。
周囲には踊りを一通り終えた人たちが会食へ戻っているのが散見された。リオたちもダンスに興じていたようで、こちらに近寄ると声をかけてくる。
「初めて尽くしのダンスパーティーじゃが、これは想像以上に面白いのう。人間たちの考える催しは、本当に素晴らしい」
「あたしのダンスについてこれるなんて流石はリオね……。二人も、中々激しいダンスをしたようね」
リオ&ユーミペアは体格差がかなりあるが、リオの頑張りでどうにか踊ることは出来たようだった。当のリオは全く疲れた様子はなく、僕は彼女に心の底から尊敬の念を送る。
「トーヤ」
「ん、シアン……君は踊らなかったの?」
控えめな声量で名を呼ばれ、振り返る。料理テーブルの側で立っているシアンは、僕の問いに頷いて答えた。
「左腕のないハンデもものともしない踊りっぷり、凄かったです。やっぱりトーヤは強い人──エルさんに支えられながらも、自分の力で出来る最大限のことをやっている。私、感動しちゃいました」
「お、大げさだよ……。僕なんて、みんなの助けがなきゃ、何も──むにゅ」
「謙遜しないで。それは貴方の美徳かもしれませんが、もっと自分を誇ってもいいと思います。胸を張ってください」
首を横に振りかけた僕の顔を、シアンが両手でぎゅっと挟み込む。
頬っぺたをぐにゅーっと押されて、反論を無理やり封じられた。
「トーヤが前を向いて歩いていけるなら、私はそれで嬉しいんです。この気持ちは変わることはありません」
「君にも心配かけてばかりだね……ごめん。それと、いつも感謝しているよ。今度は君と踊りたいな」
離れたシアンの手を握り込み、日頃のお礼も合わせて誘う。
顔を赤くしながら獣人の尻尾を振る彼女は、慌てて言った。
「い、いいんですか!?」
「そ、そんな驚くことかな……。せっかくの機会だし、君も一緒に楽しんだらと思ってね。──ほら、次の曲が始まったよ。行こう」
僕はシアンに笑いかける。やや緊張ぎみに頷いた彼女は、ゆっくりとした足取りで前へ進み出た。
バイオリンの美しい調べが静かに奏でられ、穏やかな川の流れのような曲が始まる。
「トーヤ、あなたと色々な場所を巡って、素敵な体験が出来て……私、本当に良かったです」
「僕も同じ風に思っているよ。きっと、みんなもそうじゃないかな」
長く続いてほしい時間は、それに反して無情にも早く過ぎていく。
シアンやアリス、リオ、ユーミ……そしてエル。彼女らと踊り通した僕がすっかりへとへとになり、壁に背中を預けて息をついた頃には、もうすぐ午前零時を迎えるところだった。
「はぁ……踊りもそうだけど、合間合間に色んな人に話しかけられて、疲れたな……」
『神器使い』に対してこの国の人たちはかなり関心があるようで、僕は何度も話をせがまれていた。二度の神殿攻略の話を聞いた彼らは皆、感激の表情で握手を求めてきた。
王様が神器使いだからだろうけど、この国では『神器使い』は無条件で崇められる対象になっているようだった。
エルやシアンはお酒も入ってほんのり頬を染めつつ、談話している。アリスは椅子に座ってうつらうつらと船を漕ぎ、それをヒューゴさんが微笑ましげに見守っていた。眠気が伝播したのかジェードも頻りに欠伸している。
会場を見渡すと、もう踊っている人はそんなにいない。オーケストラももう片付けを始め、今流れているのは魔法道具のレコードからのオルゴールだ。
「ふあぁ……眠い。明日はゆっくり休みたいな……」
「お疲れのようね、トーヤ君」
睡魔に襲われる僕に、一人の女性が声をかけてくる。
誰だろう。どこかで聞き覚えのある声音だ。
俯けていた顔を上げると、その人の微笑が目の前にあった。
「え……?」
美しい女性だった。小ぶりな唇、すらっと通った鼻筋、やや切れ長の大きな瞳の色は、燃える炎の赤。絹のように艶やかな長髪は透き通る白。
「久し振りね。また会えて嬉しいわ」
どうして、ここに──!?
眠気に代わって動揺、そして困惑が僕の頭を支配する。
目を見開いたこちらの反応を面白がるように、『魔族』の女は笑った。
「ふふっ……貴族の方々との話がようやく終わってね。短い時間だけれど、君ともお話ししたいと思って来たの」
冷たい手に頬を撫でられる。
悪魔アスモデウスの主、アマンダ・リューズ。彼女の眼に射竦められ、僕はそこから一歩も動くことが出来なかった。




