2 宴の始まり
午後7時50分。
壁に据え付けられた時計を見上げた僕は、鏡の前で髪型を確かめながら首をひねっていた。
「うーん、なんか違う気がするんだよなぁ……ねぇ、エル。これどう思う?」
立てかけた大きな鏡に写るのは、黒いタキシード姿に着替えた僕。同じく深い黒の瞳がじっと見返してくる中、そこにエメラルドグリーンの髪をした美少女が顔を出す。
「トーヤくんも意外と細かいんだね。ダンスパーティーなんだから、清潔な感じにしてれば何でもありだと思うよ?」
エルは薄い緑のドレスを纏って普段とは見違えるように綺麗になっていた。胸元と背中が開かれ、細い肩まで剥き出しになっている彼女を見て、僕はさっきからドギマギせずにはいられない。
彼女は淡いピンクのリボンで髪を結わえつつ、僕の後ろに回ると改めて立ち姿を眺めてくる。
「うん、十分かっこいいよ。君は顔立ちも整ってるんだし、もっと自信もっていいのに」
「……そ、そうかな。なら、いいんだけど……」
「どうしたんだい? 別に心配事でもある?」
「…………」
覗き込んでくるエルから目を逸らし、黙ってしまう。
彼女に余計な心配をかけさせたくない。……かけさせちゃ、いけない。
「何でもないよ。もうそろそろ時間だし、移動しよう」
「もしかして、トーヤくん……その左腕、気にしてる?」
やっぱり、わかっちゃうか。本当に、かなわないな……。
僕はゆっくりと首を縦に振り、だらりと下がった袖の付け根に手を沿わせた。
「王様の好意は嬉しいよ。こんな僕らを快く城に招いてくれた彼が悪い人じゃないってのはわかってる。でも……この腕じゃダンスもまともに踊れないし、それに周りの目が気になって──」
「──トーヤくん!」
エルに右手を取られて僕は彼女の顔を呆然と見つめた。
掴んだ手をぐっと胸に引き寄せ、強い口調でエルは言う。
「君は踊れるよ。君は私の大切なパートナーだから、一緒に踊ってもらわないと私が困っちゃう。それに、周囲の目なんか気にしてちゃ始まらないよ。胸を張って、堂々としてればいいさ」
にこっと微笑したエルに、僕も笑みを返した。
そこにあるはずのものがない──その事実が、強くなったはずだった僕の心の力を削ぎ、弱らせていたのだ。以前の僕なら気にも留めず、鼻で笑うような些細なこと。エルの言う通り、こんなことで悩んでいたって仕方ない。
「せっかくのパーティーなんだ、どうせなら思いっきり楽しもうじゃないか! ね、トーヤくん」
「う、うん! そうだよね、楽しまなくちゃね」
エルに手を引かれ、僕は閉じた部屋から廊下へ飛び出した。
こうしているとあの時『神殿』を目指して村を出たことを思い出す。未知なる冒険を、新しい楽しみを求めて駆け出した僕ら──過去の自分と今の自分達を重ね合わせながら、今宵開かれる舞踏会へ向かっていく。
◆
「す、すごい人だかり……」
「流石はフィンドラ王宮だね」
パーティー会場となる『紫玉塔』一階の大広間に到着した僕らは、そこにいる人の多さに目を白黒させた。
優雅に談笑する貴族たち、彼らに付き従う色とりどりのドレスを着こなした貴婦人。この国のお偉方が軒並み集まっているここに、僕たちの居場所は果たしてあるのか……と、つい不安になってしまうのも無理はないくらいだった。
広い部屋の壁沿いに丸テーブルがいくつも置かれ、中央には広くスペースが取られている。きっとそこでダンスを踊るのだろう。
入口から見てずっと奥のステージに目を凝らすと、オーケストラが楽器を準備しているところだった。各テーブルに用意された料理の匂いとも相まって、何だかわくわくしてくる。
「……あっ、みんな!」
視界の中にユーミたちの姿を捉え、僕は手を振りながら声を上げた。
僕たちから少し離れた場所で所在なさげに立っている彼女らは、こちらに気づくと安堵の表情を浮かべる。
早足で歩み寄ってきた彼女らの晴れ姿を目にして僕は息を呑んだ。その反応が嬉しかったようで、ユーミやリオはにこっと笑みを作る。
「こんな服、着たことないから似合ってるか不安だったけど──あんたの顔を見たら、大丈夫だって安心できた」
「本当はこういう服は苦手なんじゃが……まあ、今夜限りは着飾るのも悪くない」
眩しいオレンジの照明の下で、彼女たちは誰もが纏う衣装も相まって美しく見えた。
ユーミのドレスは情熱的な赤。ぴったりとした薄い生地が彼女のスタイルの良さを際立たせ、豊かな胸元から腰のくびれにかけて曲線美を醸し出す。
対するリオの衣装は僕のと似たような黒い礼装で、ジェンダーレスな魅力を放っていた。凛々しい顔つきに長い脚を持つリオは、僕なんか敵わないほど格好いい。
「君たちらしい素敵な衣装だね。シアン達も、可愛くていいと思う」
「そ、そうですか!? 頑張って選んだ甲斐がありました~」
顔を綻ばせるシアンは青色のふわっとした裾のドレス、アリスは淡い紫のものを着ていた。ネックレスや髪飾りで彩られた彼女たちに、僕は心から称賛の言葉をかける。
嬉しそうに獣の尻尾を振るシアンの頭を優しく撫でてから、やや後ろで佇むジェードとヒューゴさんへ目を向けた。
「ジェードもヒューゴさんもバッチリ決まってるね。……よかった、ちゃんとみんな揃ってるね」
「トーヤ君、アレクシル王はステージのすぐ近くの席で待っていると言ってたよ。今のうちにそっちに行こう」
ヒューゴさんがステージを指さして言い、僕は頷く。
首もとのネクタイを窮屈そうに触るジェードは、もう一方の手でワックスで決めた髪型を気にしていた。僕と考えることは同じなのかと苦笑すると、ちょっと恥ずかしそうに目を逸らされる。
「いつもは、こんな風にお洒落することもないから……別に、変じゃないよな」
「何よジェード、あたしのスタイリングに間違いはないわよ?」
「へえ、ジェードくんの髪と衣装はユーミが手入れしたのかい。中々いい感じじゃないか」
「わかってるじゃない、エル! いやー、あたしって意外とこういうの向いてたりするのかも」
エルに誉められてユーミは照れ臭げに笑った。
僕たちは賑やかに喋りながら、王様が待つ席へ歩く。その中で僕は、ここにいる人たちのことをよく観察した。
「どうですかな、この話は悪くないと思いますが」
「うーむ、もう少し考える時間をくれ」
フィンドラ王国の貴族たち──ここにいる人全員がそうだと思っていたけど、どうやら少し違う。
あそこで貴族のおじさんに何やら話を持ちかけているのは、おそらく商人だ。あの羽振りの良さから見るに豪商だろう。
他にも、貴族とは纏う空気の異なる人が何人かいる。武骨な雰囲気の初老の男、眼鏡をかけた学者風の若者、ゆったりとしたローブの魔法使いの女性、胸に剣のエンブレムを付けた騎士であろう男性──ぱっと見渡しただけでこれほど見つけられた。
きっと、この国では功績を上げた者や優れた能力を持つ者が貴族と同等に扱われるのだ。
実力さえあればどんな生まれの人だって這い上がれる、そんな社会をこの国は実現している。
「エル、このパーティーが終わって明日になったら……僕はこの街の様子も見に行きたい」
「そうだね。行こう」
エルは僕の目線の先を辿るように見て、言った。
パーティーの開始時刻まであと一分を切った。前方の席へ向かう僕たちは、緊張に口数を減らしつつ歩く足を速める。
視線の先にアレクシル王を見つけ、声をかけた。
「アレクシル王!」
「やあ、みんな。来てくれたか」
茶髪の長身の王はにこやかな表情で僕たちを迎える。近づいてきた彼は僕たち一人ひとりの手を握って、本当に嬉しそうに言った。
「いやあ、『神器使い』であるトーヤ君、それに素晴らしい力を持つ君たちと共に時間を過ごせることを、私は心底楽しみにしていたんだ。今夜は存分に食もダンスも満喫してくれたまえ」
「はい。あんまりこういうのは慣れてないんですけど、僕たちなりに楽しもうと思います」
僕の言葉にアレクシル王は頷き、手元の懐中時計へ目を落とす。そしてステージへ顔を向けると、「すまないな」と口にした。
「始めの挨拶をしなくてはならない。私は一度、ステージへ上がってくるよ。君たちはそこで食事でもしていてくれ」
「わ、わかりました」
一つのテーブルには僕たちみんなでようやく食べきれるような量の料理たちが、ぎっしりと並べられていた。
こんがりと焼かれて甘辛い香りを漂わせるお肉、みずみずしさたっぷりのシーフード入りサラダ、小皿に満たされたあっさりめのスープ、他にもパンやライス、お酒など、ここ最近まともなディナーをとっていなかった僕たちの胃袋を大いに刺激するラインナップが勢揃いしている。
「う、うわあっ……! 美味しそう!」
よだれが出そうになるのを懸命に堪え、口許に手を当てながら横目でエルを見る。
じゅるり、と涎を引っ込める瞬間をちょうど見てしまい、僕はさっと目を背けた。
「こ、堪えきれなかったんだね……」
「仕方ないだろ、こんなのを前にしたら!」
恥ずかしさに悶えるような口調でエルが返す。
僕は苦笑いし、ステージを見上げた。すると、全く同じタイミングで広間の照明が一斉に絞られ、直後舞台のみが眩しいスポットライトに照らされる。
ここにいる者の目が全てそちらへ向けられた。
拡声器の魔具を手にしたアレクシル王は、開始の挨拶を述べる。
「皆、今夜は私の宴に集まってくれてありがとう。常日頃の感謝を込めて、本日はこのフィルン近郊で採れた品々を使った料理を用意してみた。共に食べ、踊り、目一杯楽しんでくれ! ……と、その前に、皆には紹介しておきたい者がいる。──来なさい」
突如スポットライトが僕たちを照らし、人々の注目がこちらに集中する。
たじたじと汗を流す僕は王に手招きされ、慌ててステージへ駆け上がった。エルたちもそれに続く。
僕たち全員が舞台に並んだのを確認してアレクシル王は紹介した。
「彼らは先のルノウェルス動乱で武功を上げた勇敢なる戦士たちだ。そして、旅人でもある。彼らの滞在は長くはないだろうが、国賓として皆も歓迎してやってほしい。──では、トーヤ君」
棒の形をした拡声器の魔具を手渡され、ごくりと生唾を呑みながら僕は一段高い目線から会場を見渡した。
い、いきなり何を言えば……ええっと……。
「ぼ、僕はトーヤといいます。王様には命を救われたので、ここにいる間に恩返しできたらと思ってます。よ、よろしくお願いします!」
声が震えていないか若干心配だったけど、何とか言えた。
思わずほっと吐息しそうになる僕の背をアレクシル王が軽く叩き、付け加える。
「なんと彼は神オーディン、神テュールの二柱に認められた『神器使い』だ。腕に自信のある者は挑んでみるといい──この少年は、この国の武人が束になっても敵わないほど、強い」
王の登場から静まっていた会場がざわめきに包まれ始めた。
この瞬間、彼らの僕へ向ける目の色がはっきりと変化するのを僕は感じる。驚き、そして畏敬の念──その感情にむず痒さを抱きつつ、僕はぺこりと頭を下げた。
「トーヤ君以外の子たちも、神器を持たないとはいえ優れた技を有する子供たちだ。特に緑髪のエルは《転送魔法陣》を一人で発動できるほどの魔導士だから、気になる者は後で来るといい。きっと深き魔導の世界について語ってくれよう」
優雅にスカートの裾をつまみ上げてエルがお辞儀する。
王に評価されてよっぽど嬉しかったのか、彼女の下向けられた口許は綻んでいた。もちろん、顔を上げた時にはもう表情は凛々しく改めていたけど。
「さて、待ちくたびれた者もいるかもしれないから、挨拶はこの辺で。──では始めよう!」
アレクシル王が両手を広げて宣言すると、会場はどっと沸き上がる。
背後で穏やかにオーケストラの演奏が始まり、僕も胸を高鳴らせずにはいられなかった。エルやシアンたちと視線を交わし、笑う。
「よーし、トーヤくん! 踊ろう!」
「えー、いきなりー?」
はしゃぎ出すエルに苦笑い。最初からそんなにかっ飛ばすと最後までもたないよ。
「じゃあとりあえず料理食べますか。私、お腹ぺこぺこなんですよー」
「食べ過ぎると後に響くぞ。ほどほどにしとけよ」
「こんな美味しそうな料理が目の前にあって我慢するなんて、とんでもないです! 今夜だけの機会なんですよ?」
「……やれやれ」
ステージ脇の階段を下りながら、シアンとジェードの他愛ない会話を聞き流す。
先程アレクシル王がいた席へ戻ると、そこでは一人の少女が僕たちを待っていた。
赤茶色の長髪をパーティー用にシニョンにした女の子──頭にティアラを載せ、鷹の羽衣を纏った彼女は、久々に見るエミリア王女だ。
「ここまでの道中、なかなか会えなくてごめんなさい。あの……よかったら、私もここでご一緒させてもらってもいいですか? 同じ神器使いとして、トーヤ君とお話ししたいことがあるんです」
柔らかく微笑んだエミリア王女は、しかし真剣な色を宿した瞳で僕をまっすぐ見上げてくる。
一体、何を話すつもりなんだろう……?
神妙な表情を作りながら、僕は彼女の言葉にゆっくりと頷くのだった。




