プロローグ フィンドラへ
「楽しみだね、フィンドラ王国」
箱馬車の窓から外の景色を眺めながら、僕は隣のエルに話しかけた。
「うん。皆で広い世界を見る──君の野望の一つが順調に進んで、私も嬉しいよ。それに、向こうに着いたら新しい義手を作ってもらえるし」
「戦いに勝つには仕方なかったとはいえ、片腕がないと本当に不便だからね……重いものは片手じゃろくに持てないし。フロッティさんの『魔力で動く義手』には、僕も凄く期待してる」
怠惰の悪魔ベルフェゴールとの戦いから、今日で2週間が経つ。
今朝ルノウェルス王国を発った僕たちはフィンドラの馬車団に付き、スレイプニルが引くいつもの馬車に揺られていた。
季節はもうすぐ初夏を迎えるが、沿道の景色にはまだまばらに雪が残っている。
ルノウェルス北から東へ行くこの道の辺りは、寒冷な『ミトガルド地方』の中でも特に気温が低い地域で、まだ半袖の時期には程遠い。
「トーヤ殿。聞くところによると、フィンドラの王都はリゾート地としても有名だそうですよ。私、着いたらビーチでたっぷり遊んでみたいです!」
「ビーチかぁ、まだ寒いんじゃないかな……。でも、これまでそういうこと全然出来なかったし、面白いかもね」
後部座席から観光ガイドブックを広げて見せてくるアリスが、楽しみに弾んだ口調で言った。
そういえば水着で泳いだことなんてなかったな、と今さら気づく僕は旅先でやれる体験に胸を踊らせる。
「皆の水着姿も一度見てみたいな。リオなんかスタイルいいし、きっと似合うと思う」
「そ、そうか? トーヤが言うなら、頑張って着てみようかのぅ」
「水着ですか……私はちょっと恥ずかしいですね」
アリスの隣、窓枠に肘を置くリオが張り切った様に頷く。
四人掛けの席が四列並ぶ馬車の前列、僕とエルと通路を挟んで対岸に座るシアンは羞恥に頬を染めた。
「トーヤ君もそんなことを考えるようになったかー。まあ年頃の男の子だし、女の子の水着くらい見たがって当然か」
「や、やだトーヤ……さっきの台詞、そーいう意味で言ったんですか……?」
「あ、あたしもそんな目で見られてたの!? い、いやらしいわよトーヤ……!」
え、エル、何を言い出すの!?
僕は別に変なことを考えてた訳じゃなくて、普通にみんな似合いそうだと思って言っただけなんだけど……。
しかしそこに追い打ちをかけるように、フィンドラへの旅に同行するようになったヒューゴさんが納得した風に口にする。
「トーヤ君にそんなイメージはなかったけど、もうじき15の男子としては実に健全じゃないか。いいことだ」
「あ、兄上、誤解です! トーヤ殿に邪な考えはありませんよ。ね、トーヤ殿?」
理解者がいた! よかった、アリスはわかってくれてた!
僕は彼女の言葉にこくこくと頷き、皆の誤解を解こうと弁明した。
「みんないつも綺麗だから、可愛い水着を着たら映えるかなって。それに、いつもの服とは違う姿も見てみたいし……。それって別に悪いことじゃないでしょう?」
この場にいる女の子達に訊く。
肯定なり否定なり答えが聞きたかったんだけど──「綺麗だって」「可愛いのが、映える……」「やだ、トーヤったら」など、まともな返事は来そうになかった。
「これが俺だったら、こんな反応はされないんだろうな……」
「イケメン大正義って感じ?」
ジェードの溜め息、肩を竦めるヒューゴさん。
一応ジェードは精悍な整った顔立ちをしていて、ヒューゴさんに至ってはアリスと同じく目を引くような美形である。だから二人ともそんなこと言わなくていいのに、って思うんだけどなあ。
二人の視線を受けて苦笑しか返せない僕は、咄嗟に別の話題を探してこの話を打ち切ろうとした。
「あー、そうだ。カイやミウさん達、今ごろ上手くやってるかな?」
「何だ、トーヤも心配性じゃのう。あの二人なら、お主に心配されなくとも国民を導いていける。オリビエ殿もいるし、大丈夫じゃろ」
杞憂だと答えるリオに首肯を返す。
あの事件の後、カイは暫定的にルノウェルスの王となることが決定していた。彼はミウさんやオリビエさん、狼人のルプスさん達と協力して、これからより良い国作りに尽力すると言っていた。
だから僕達が心配する必要もない。彼らは自分達の足で、この先の未来を歩んでいける。
「カイ達の作る新しい『ルノウェルス王国』が、今から楽しみだよ。平和な国になってるといいな……」
「そうよね。平和が何より一番!」
巨人族の王族であるユーミが噛み締めるように口にした。同じくエルフ王族の立場なリオも、片目を閉じて肯定する。
「争いは悲しみをもたらす──カルとの戦いで、それは私もしかと心得ておる。……これから行くフィンドラは治安の良い所のようじゃから、久々にくつろげそうじゃな」
ほっと一息つく彼女の気持ちを僕らは共有した。
アールヴの森での戦い、そしてルノウェルスでの悪魔ベルフェゴールを巡る戦闘は息つく間もなく続いた。王都スオロの戦後処理を手伝ったこともあって、これまでろくに休めていなかった僕らには、今がやっと与えられた休息ということになる。
「……あ、そう言えばトーヤくん、髪伸びたんじゃないかい? 向こうに着いたら切ってあげようか?」
「確かに、長くなってきたかな。お願いしたいね」
僕は肩にかかりそうなくらいに伸びた襟足を触りながら、エルの提案に乗った。
今まで本当に慌ただしかったからなぁ……伸びた髪の長さに、感慨深いものを覚える。
「ひとまず、私のように短く結んでみたらどうじゃ? トーヤなら似合うと思うぞ」
「誰か、紐持ってない? あたしが結んであげる」
リオが後ろで括った髪を示して言い、ユーミが即座に名乗りを上げた。
アリスが懐から出した紐を受けとり、僕の真後ろの座席の彼女は手早く髪を結んでくれる。
「ありがとう、ユーミ」
「どーいたしまして。ほら、よく似合ってわよ」
何だか首もとがすっきりした感覚だ。
ユーミに渡された手鏡を覗くと、リオとお揃いの髪型をした僕が瞬きを返してくる。
「なんか、女の子みたいじゃない? やっぱり今すぐ切っちゃいたい」
あくまでも男である僕には、いまいちこの髪型はしっくりこない。
ぼやいたが、ユーミを始めこの場の女性陣は逆の意見のようだった。
「そんなのもったいないわ! あんたの気持ちを尊重するべきなのは分かってるんだけど……。ね、少しの間でいいから、そのヘアスタイルで過ごしてみない?」
「短くしてしまえばそんな髪型は出来ませんし、せめて向こうに着くまではそれでいきましょうよ。ジェード殿はともかく、貴方はそれでもよく似合います」
「そ、そうかい……。じゃあ、フィンドラ着くまでなら」
「俺の名前出さなくてもいいだろ!?」とアリスの言いぐさにジェードが憤慨する中、そこまで言うなら……と僕はこの髪型を受け入れた。
小さなポニーテールを指先で弄りながら、窓の外の景色に目を向ける。
雲一つない空を見つめて、フィンドラのアレクシル王やエミリア王女、エンシオ王子とのやり取りを回想した。
「カイ王子と共に、悪魔ベルフェゴールとの戦いに尽力した『神器使い』と仲間達よ──私はアレクシル・フィンドラ。知っているかもしれないが、隣のフィンドラ国の王を務めている」
戦いが終わった朝、傷だらけの鎧を纏ってアレクシル王は僕らの前に顔を出した。
僕の後を継いでリリスとの戦いに臨んだ彼が生きて戻ったのを見て、その時は安堵に腰を抜かしそうになったものだ。リリスの力と言うものはそれだけ強く、恐ろしい代物だと痛感していたから。
堀に下ろされた橋から都市へ脱出した僕らは、とりあえず新政府の拠点に決まった王国議会の建物にいた。
そこに来たアレクシル王に訊ねる。しかし、返ってきた答えは決して喜べるものではなかった。
「よかった。リリスに、勝ったんですね?」
「いや……奴に止めを刺す一歩手前で、逃げられた。あれは神にも劣らない、もしかしたら神すらも超える力を持っている。私の魔法も最後には打ち消され、その瞬間に奴は姿を消した……」
青筋が立つほどに拳を握り込み、アレクシル王は歯を食い縛った。
会議場のドアを開けて入ってきた双子の男女──エンシオ王子とエミリア王女が、父親の言葉に補足を加える。
「トーヤ君……あのね、私達も父様がリリスの異空間から出てきてすぐ、あの女の行方を追おうとしたんです。だけど、兄様──エンシオっていいます──の魔法でも、追尾することは不可能でした……」
「俺の魔法は、見えないものを視ることが出来る。これまで見えなかったものはなかったんだよ。それなのに──」
顔を俯けるエミリア王女と、ぐしゃぐしゃと茶色の髪をかきむしって吐き捨てるエンシオ王子。
魔女を逃したことを悔やむ彼らに、僕はかける言葉を迷った。
「……でも」
「いいんです。最良の結果じゃなかったけれど、父様が死ななかっただけで、私達には十分。それに、得られたものはゼロじゃありませんから」
絞り出した声を遮ってエミリア王女は微笑んだ。
彼女を不機嫌そうな顔でじろっとエンシオ王子が見る中、僕はその「得られたもの」について訊ねる。
「リリスのこと、何が分かったんですか?」
「それは私から話そう」
双子と同じ茶髪の王様が腕組みし、厳かな口調で語りだした。
「リリスは魔法で彼女が権限を持つ特殊な空間を作り出し、私をそこへ引きずり込んだ。この力についてはトーヤ君も体感させられただろう。暗黒の中、動く速度も力も制限された状態で戦わざるを得なくなった訳だが……そこで、リリスはある台詞をこぼした」
僕だけでなく、この部屋にいる他の全ての者が沈黙し、王の声に耳を傾ける。
諸悪の根元である女の情報に、誰もがこの先の戦況を打開する期待を抱いた。
「《アナザーワールド》……彼女の台詞の中にあった一単語だ。それが何を表すのかは、私には分からないが……」
「──僕、知ってます」
アレクシル王の眼が大きく見開かれる。エミリア王女が息を呑み、エンシオ王子の眉間に刻まれた皺が更に深くなった。
生き残った王宮の兵士達、そして《傭兵団》の人達の視線も感じながら、僕はその単語の意味を口にする。
「アスガルド神話に語られる、かつてこの地上にあったという世界のこと……だと思います。神話にはその名称は出てこないんですけど、恐らくそれです」
「……なんと」
この時、アレクシル王が浮かべた表情を僕はきっと忘れない。
彼はまるで難問を解き終えた瞬間の学者のような、歓喜の感情を確かに見せた。
すぐに咳払いで取り繕う彼は、腕を組んだままその場をぐるぐる歩き回る。
「そうか……そんな世界が、本当に……。リリスの漏らした呟きは、『《アナザーワールド》に再び干渉する必要がある』というものだった。これが何を意味するか、君には見えるか?」
まっすぐな目が僕を見据え、身動きを──逃げ道を封じた。
獅子に睨まれた兎となった僕は、正直に首を横に振る。
「《アナザーワールド》は過去の世界です。干渉する手段なんて僕には思い付きません。もしあるとしたら、それはリリスだけが知る方策かと……」
露骨にがっかりはしなかったものの、少し残念そうに王は頷いた。
「そうか。エンシオ、エミリア──私達にはまだ、探らなくてはならないものが沢山あるようだ」
「そ、そうですね、父様……」
「俺達は必ず真理を掴む。だろ、親父」
双子は父である王を見上げ、王は強い口調で言う。
それからアレクシル王は僕に半歩近寄り、肩に軽く手を置いてにこやかに笑った。
「話は変わるが、君に一つ提案があるんだ。──これから私達と共にフィンドラに来てくれないだろうか? もちろん君に損はさせない。あの少女達も一緒に、出来る限りのもてなしは行おう。……どうかな?」
「何か、理由があるんですか」
王に対して真顔で聞き返す。
この人はいい人そうだけど、何だか裏の顔もあるような、そんな気がしたのだ。
「単純に、君やエル君と話がしたいだけさ。悪魔に立ち向かう同志としてね。そのついでに、我が国で最も優れた技工士に君の義手を作らせることも出来る。悪い話じゃないと思うがね」
この王様を完全に信用したわけじゃない。だけど、この人の言葉が嘘ではないことは直感で分かった。
「わかりました。僕達、フィンドラに行きます」
「ありがとう。……出立は二週間後だ。この国の復興の手伝いも、少しはしておきたいからね。では、私はカイ王子のもとへ向かわなくては」
用件を全部終わらせた王様は短くこれからのプランを伝え、足早にここを後にした。
別れ際に手を振ってくるエミリア王女に手を振り返し(振られた王女様の手は王子様に引かれてすぐに見えなくなったが)、頭の中に今後の展望を描くのだった。
「……また、忙しくなりそうだ」
「トーヤくん、どうしたの?」
エルの声で僕は現在に意識を戻す。
横を向くと、怪訝な面持ちでこちらを見つめているエルの顔があった。
「何でもない、心配しないで。それよりこれからの事でも考えよう。苦しい戦いを乗り越えた分、たくさん遊ぶんだからさ」
懸念事項が何もないわけではない。でも、彼女に──彼女達に心配をかけたくはなかった。
心なし弾んだ口調になったことに安堵しつつ、エルの手を軽く握り込む。指と指を絡め、温もりを感じて確かな安らぎを抱く。
「そうだね。……うん、そうだよ。トーヤくんやみんなと穏やかな時間を過ごせる──それが一番幸せなことだ」
そう、それが僕が求めた温もりだ。失ったものを埋めてくれる、平穏な時だ。
フィンドラへの思いを馳せながら僕はまた窓から空を見上げる。
東の方角は少しずつ、ゆっくりと曇天へと変わっていた。




