1 精霊の子
葉擦れの音。柔らかい緑の匂い。遠くから届く、獣の声。
森の奥にある泉のほとりに立つトネリコの巨木のもとに背中を預け、僕は透き通った水面をぼうっと眺めていた。
「……君は……」
昨夜見た奇妙な夢の光景がまだ、瞼の裏に張り付いて離れない。
綺麗な少女だった――僕の感想がそれだけだったなら、ここまで意識はしていない。
あの子には見覚えがあるのだ。実際に会った記憶はない、でも、どこかで昔会っている気がしていた。
「ねぇ、おじいちゃん」
寄りかかっている大きなトネリコの木を見上げ、僕は訊ねた。
するとすぐに、少し眠たそうな声が返ってくる。
「……なんじゃ、トーヤ?」
「昨夜、妙な夢を見たんだ。僕の前に、緑色の髪をした綺麗な女の子が現れる夢。僕が彼女に『君は誰なの』って訊いたら、その子は答えようとして……そこで、夢は終わっちゃった」
僕がおじいちゃんと慕っているのは、この樹に宿る精霊であるユグド。
千年以上にもわたって生き続けているという彼は、この森で暮らす僕のことを幼い頃からずっと見守ってくれていた。
僕は、家族を亡くした。
剣を教えてくれたり神話を語って聞かせてくれた、穏やかな父さん。優しく僕や妹を抱きしめてくれた母さん。そして、いつも僕に笑顔を向けてくれていた妹のルリア。
皆、僕を残していなくなってしまった。彼らの後を追おうかと考えたことは何度もある。だけど、そんな僕をおじいちゃんは引き止めてくれたのだ。
「生きていればきっといいことがある」――口癖みたいに、何度もおじいちゃんはそう言っていた。
「ふあぁ……っ。その夢は……何かの、導きかもしれんのぅ」
欠伸混じりにユグドのおじいちゃんは答えてくれた。
普段見るそれよりも鮮明に記憶に焼きついているあの夢は、確かに特別なものなのかもしれない。
何かの導き――例えば、それは……。
「おじいちゃんみたいな精霊とか、それか魔法使いとかが、僕を導こうとしているってこと?」
「ふむ……それも、ありうる。じゃが、結局儂には推測することしかできん。その夢に意味があるのだとしたら、それを読み解くのは当事者であるお前じゃよ、トーヤ」
おじいちゃんの言葉に僕はゆっくりと頷いた。
「ありがとう、考えてみるよ。そうしたら、僕がこれから何をすべきなのかも分かるかもしれないし」
天涯孤独となってから僕はこの森と、その外れにある家とを行き来する生活を続けてきた。
父さんに習った狩りで動物の肉を手に入れて、近くの街に足を運んでお金を稼ぐ。僕一人でできることは少ないけれど、それでもどうにか食べ物には困らずに過ごせていた。
ただ――大切な人がもう側にいないのに以前と変わらない日々を過ごしても、空虚になるだけだった。
「転機……なのかもしれないのぅ。精霊の儂が人の生き方を語るのは烏滸がましい話かもしれないが……トーヤ、お前に一つ、言っておこう」
眠気が覚めてきたのか、先程よりもはっきりした声音でおじいちゃんはそう口にした。
僕は表情に緊張を纏わせて、おじいちゃんを仰ぐ。
「お前の父親、母親、それから妹が伝えた大切なこと――それはお前の中で必ず生きているはずじゃ。これから生きていく上で、それは大きな糧になる。何かに迷った時や、辛いと思った時は、家族に教わったことを思い出すのじゃぞ」
僕は異国の血を引いているのを理由に、村の少年たちにいじめられた。
おじいちゃんや森に住む精霊――小さな光の粒のような姿をしていて、おじいちゃんと同じように喋る――以外に、味方はいない。
おじいちゃんは僕の心が磨り減ってしまっているのを見逃してはいなかったんだろう。彼に心配をかけたくなくて、何も言いはしなかったけれど――全部、お見通しだったんだ。
「……うん。わかったよ、おじいちゃん」
「わかったならば良いのじゃ。もうじき日が暮れる、そろそろお別れの時間じゃな」
「寂しいけど、夜の森は危ないもんね。……じゃあ、またね」
もっと話したかった。一人きりになりたくなかった。
痛いくらいの名残惜しさを胸に抱えながらも、僕は微笑んでおじいちゃんへ手を振る。
泉を背後に森の出口へと早足に向かいながら、僕は、「あの夢の続きが見たいなぁ」と考えている自分に気づいた。
*
家に戻った僕は、いつものように食事の支度を始めた。
蓄えていた肉がそろそろ切れるなと考えながら、慣れた手つきでさっと料理を済ませる。
これまでろくに料理をしたことがなかった僕でも、一人になって二ヶ月も経った今では簡単な料理なら大体のものは作れるようになっていた。
僕はこんがりと焼けた肉を口に運びながら、さっきユグドおじいちゃんに言われたことを反芻していた。
何かの導き。転機。
自分を変えるのは――弱い自分から脱却するのは、今なのか?
家族から教わった大切なこと。父さんが語った神話と剣術、母さんが知識を伝えてくれた魔法。
魔力を上手く使えない僕には魔法は扱えないけど、剣なら同い年の村の子供にも負けない自信がある。
いじめっ子たちにも負けない武器は、既に持っているのだ。なのにそれを使えないのは、僕の心が弱く、敵に歯向かう勇気がないから。
――強くなりたい。
何度もそう願った。
けれど、それは現実になる前に胸の奥に引っ込んでしまっていた。
「はぁ……」
すっかり板についた溜め息が喉を震わせ、漏れ出る。
古い木造のベッドがギシリと軋む音を聞きながら、横になった僕は枕元の本を手に取って、そのページを無造作にめくった。
父さんが生前よく読んでいたその本は、このミトガルド地方に伝わる神話『アスガルド神話』を記したものだった。
父さんは、僕が幼い頃からその神話を僕と妹に語り聞かせ、神に祈りを捧げていた。
しかし父さんが信じた『アスガルド神話』の後にこの地方に入ってきた宗教『ユダグル教』が人々の信仰の対象となっている現在、『アスガルド神話』は消滅の一途を辿りつつあり、それを信じている者は異端扱いされ、迫害されるまでになってしまっていた。
父さんが語ってくれた神話の英雄。剣を持ち、邪悪を討つ正義の存在。
僕は物心付いた頃から、彼らに憧れの感情を抱いていた。
『僕もいつかこんな風に、いろんな人を助けられる人になりたい!』
そう言った時、父さんは、
『おおっ、そうか。それなら、強くならなくちゃな』
そう言って、その日から僕に剣術の稽古をつけてくれるようになったのだ。
父さんは剣がそんなに上手くないし、剣じゃなくて小さなナイフだったけれど、彼が教えてくれた技はこの体にしっかりと染み付いている。
――父さんが僕に残したもの。父さんと僕の絆の証明。それを無駄にしたくはない。強くなりたいという願いを諦めて、弱い自分に甘んじるのは、もうやめたい。
染み付いた卑屈さは簡単には抜けない。だけど、僕は――。
神話の英雄が手にしたと言われている『神の力』を、僕は思い浮かべる。
『英雄がその剣を抜いた時、剣には「神」の力が宿った』
神様が地上に残したと言われる、彼らが特別な力を込めたという剣や盾、宝玉。
それを手に入れた者は、巨万の富も、永遠の命も、世界でさえ思うがままにすることができるという。
まさに、『神の力』と呼ぶのに相応しいものだ。
「もしも、その力が手に入ったら……こんな臆病者の僕でも強くなれるのかな……」
そう考えてから、自嘲するように笑う。
所詮は伝説だ。実際に僕のような人間がそんな大層な力を得るなんて、あるわけない。
でも、どうしても、夢を見ていたかった。
このまどろみの中で――いつか大人になることも忘れて、「強くなった自分」を夢想する。
『君は……そこにいるの?』
ふと聞こえた少女の声。
上体をがばっと起こして頭を振っても、あの夢の少女の声は耳に鮮やかに残ったままであった。
*
それからちょっとぼうっとした後、僕は少し風に当たりたくなり、外に出ようとドアを開ける。
と、何か黒っぽい物体が家の前に落ちていることに気付いた。
ん、何だろう、これ……?
どうやら布……に包まれた何からしい。結構大きく、中身はぱっと見た限りじゃ不明だ。
僕は恐る恐る、それを指で突っついてみる。
するとその物体は、なんと呻き声を出した。
「うんっ……」
「うわああああああああああっっっっっっ!!?」
僕は悲鳴を上げて飛び上がった。
少し距離を置いてそれを見、頭を振る。
落ち着け僕っ……! こんなんでビビってちゃ強くなんてなれない。
僕は、英雄みたいになるんだっ……!
恐怖心を振り切り、その物体にそうっと近付き、よーく見てみると……。
「――お、女の子?」