エピローグa 月は沈み
怠惰の悪魔を巡る戦いから、一週間が経った夜。
王都のとある空き家を貸してもらっているカイは、寝室のベッドの脇に佇んで、そこで眠る少女のような女性の寝顔を眺めていた。
「母さん……」
母親──モーガンは、あれから未だに目を覚まさない。
悪魔が彼女から離れ、呪縛から解放されたはずなのに、モーガンは一向に起き出す気配を見せなかった。
そんな母親の様子を周囲の人たちは心配するが、しかしカイはそれほど気に病んでいなかった。
きっとすぐ起きて、あの時のように穏やかな笑みを向けてくれる。カイはそう確信していた。直感的なものでしかないが、絶対に目を覚ましてくれると分かっていた。
だから、彼は待っている。
母親が眠りから覚め、また以前のような生活を送れるようになるまで待っている。
「母さん。今日は姉さんやオリビエ達と一緒に、これからこの国をどうしていくか話し合ったんだ。あの戦いに手を貸してくれたフィンドラ王の助言も受けて、再び進んでいくための準備をした。大変だけど、みんな頑張ってる。もちろん俺も、この国の民たちを導けるリーダーになれるように、少しずつやれることをやってるよ」
カイは母親の白く骨ばった手を両手で包み込み、今日あった出来事を語り聞かせていく。
あの戦いが終わってからはカイにとって怒濤の展開であった。
戦いの後処理や【怠惰】によって衰退した国の復興など、やるべきことが山積みで、休む余裕もなく彼は働き通しだった。
けれどそんなものは、あの戦いに比べればどうってことない。
それに、あの戦い以上に余裕のない場面が今後来るとしたら、そんなの願い下げだ。
「……だから、見ててくれよ。みんなが笑顔で過ごせる国を作れるように、もう悪魔の悲劇を繰り返させないように、俺は戦い続けるから」
カイは王子として、敬愛する女王に誓いを立てる。
瞳を閉じた彼女の顔を見つめ、彼は握った手に微かに力を込めた。声よ届けと祈るように、真っ直ぐな視線を母親へ送る。
「……カイ」
と、そこで誰かがカイに声をかけた。
母親──ではない。声はカイのいる部屋のドア越しに聞こえてきていて、その主は控えめなノックを三回した。
「入れ」と王子は返事をする。
「やあ。遅くまで大変だね、少しは休んでもいいのに」
にこっ、と笑って言うのはトーヤだった。
彼はこの一週間、戦後処理の協力を自分から申し出て行っていた。カイは「こちらでやるからいい」と断ったのだが、共に戦った僕にも責任がある、と少年に押しきられてしまったのだ。
本当に頭が上がらない。
「母さんがいつ目を覚ますのか分からないからな……誰かが見ていないと。それよりトーヤ、こんな時間にどうした? エル達と一緒にいてやらなくていいのか」
「ちょっと気晴らしに散歩してたんだ。近くを通りかかったから、どうせならってね。あと、君に話したいこともあったし」
「……そうか。適当に掛けてくれ」
カイはモーガンを心配げに見やるトーヤに、部屋にいくつかある椅子を指し示した。
簡素なテーブルの側に置かれた丸椅子に座ったトーヤは、部屋を軽く見回して呟く。
「素敵な部屋だね。落ち着くな」
「そうか。空き家を掃除して、勝手に拝借しただけなんだが……」
「落ち着くのは、僕の昔の家に似てるからかも……ちょうど寝室がこんな感じだった気がする」
かつての居室と重ねて少年は懐かしむように吐息した。
柔らかなオレンジの照明の下、自然と口許を緩めるカイはトーヤに訊ねる。
「……話したいことって、何だ」
「あぁ、それはね──【悪魔】に関わることなんだ。昼間エルと話して考えたことなんだけど、聞いてくれるかな?」
黒髪の少年は穏やかに微笑しながら答えた。
その答えに対する返事を求める彼に、カイは静かに頷く。
トーヤは浮かべた微笑を引っ込め、至って真剣な表情を纏い直してから改めて口を開いた。
「ありがとう。じゃあ、言うね……。知ってると思うけど、悪魔はベルフェゴール以外にもいる。【七つの大罪】のうち、怠惰以外の悪魔は未だ健在なんだ。そこで、神器使いであるカイの協力があれば……って思うんだ。どうかな?」
「悪魔が現れ次第、飛んでいって交戦しろということか。そんなの、頼まれるまでもないだろう」
「協力感謝するよ。あ、でも君には王族としての責務もあるから……出来るときでいい。出来るときに力を貸してくれれば、それで十分だよ」
カイの中で戦いはひとまず終わりを迎えた。だが、トーヤの戦いはまだ終わっていない。彼にとっては七人の大罪の悪魔、その一人を倒したにすぎないのだ。
残り六人の悪魔たち──この全てを討伐する使命を帯びた少年の重荷を、責任をひしひしと感じながら、カイは慎重に言葉を選んで訊ねた。
「これからトーヤはこの国を出て、残った悪魔を探しに行くのか? 七人の悪魔を討伐し終えるまで、戦うことを止めないのか……?」
問われ、トーヤは少し驚いたような顔をした。問われるまで気付かなかったとでもいうような驚愕の仕方だった。
彼は失った左腕の付け根の辺りを撫でながら、苦々しげに表情を歪める。
「そう、なるのかな。でも、僕は戦い自体は嫌いじゃないんだ。そこまで心配することでもないよ」
「……嘘だ」
カイは反射的にそう口に出していた。
言葉が口を衝いて出てきてしまえば、それはもう止められない。彼はトーヤの深い黒の瞳を見つめつつ、早口で捲し立てた。
「俺にはわかる……いや、俺じゃなくてもわかる。お前がこの【怠惰】を巡る戦いと同じようなことを、何度も繰り返すことが出来ないことくらい。今のお前は隻腕で、神化してようやく槍を持てる程度の力しかないんだ。そんな身で無茶をしてみろ──すぐに命を燃やし尽くすぞ」
本音の忠告。世界に何人といない神器使いだとか、そんなことは関係なしに少年の親友としてカイは言った。トーヤの肩を両手で掴み、強い口調で。
そんなカイにトーヤは目を見張り、そしてゆっくりと瞑目する。
「僕、案外余裕なかったんだなあ……」
これまで命がけで戦ってきた少年は、自分でも意外だという風にそう口にした。
トーヤの肩から手を離して、カイは月明かりの差し込む窓際へ足を運ぶ。彼の瞳に映る銀色の月は、あの戦いの夜と同じ様に美しかった。
「これから、どうする?」
窓の外の景色を眺めながらカイが訊く。
彼としては、神器使いであるトーヤの力を出来るだけ借りたい。もし可能なら、これからもこの国に滞在して欲しいと思っている。
しかしそう誘ったとしても、カイはトーヤが断るのではないかと直感していた。神殿攻略の時、『ヴァンヘイム高原』でのあの朝──見晴らしのいい崖の上で語り合った時に見た彼の瞳は、広い世界に憧れを抱く『冒険者』の目だった。
「うーん、そうだね……もしかして、カイは僕達にまだここにいて欲しいって思ってた?」
相変わらず勘の鋭い奴だ、と心中で呟く。
まあ、カイが知らずと顔に出してしまっていた可能性もあるが……それでも、カイは驚いていた。
「よく、分かったな」
「まあね。共に本物の修羅場を乗り越えてきた仲だし、それくらいわかるさ」
背後でくすりと笑むトーヤの気配。
彼やエル、シアンやリオ達──彼ら全員の意思を尊重したいというのがカイの第一の気持ちであった。
カイは少年に振り返り、知り合った頃はする余裕もなかった微笑みで告げる。
「行けばいい。広い世界をどこまでも巡る、それがお前の夢なんだろう」
「……いいのかい? 僕たちを手離して」
「手離しても何も問題はない。神器使い一人に支えられるほど、この国の人達は弱くはないから」
トーヤの挑発に乗ったカイだが、実際それを疑ってはいなかった。
カイやミウ、オリビエ達実力者はもちろん、国軍にも歴戦の戦士がいる。国民全てが悪魔の影響下から脱した今、この国は少しずつかつての力を取り戻しつつあった。
「なら、安泰だね。良かった」
カイからその言葉を引き出したトーヤは安堵に表情を弛緩させる。
右手で左腕のあったところをさすりながら、言葉を続けた。
「アレクシル王の話だと、フィンドラで僕の義手を作れるっていうんだ。魔力で動く、本物に限りなく近い腕。──僕達はフィンドラへ行くよ。この国とはちょっとのお別れだけど、またそのうち戻ってくる。だからそれまでに、ルノウェルスを今よりもっと素晴らしい国にしておいてくれよ」
「ああ……必ず」
決意を胸にカイは頷く。
これからは自分がこの国を引っ張っていかなくてはならないのだ。責任は重大──だが、不思議とプレッシャーはあまり感じなかった。
王宮にあった歴史は殆どが焼失してしまっているが、先達の記憶はまだ残っている。彼らからそれを継承し、これからの未来に活かすことも考えていかねばならない。
失ったものは大きかった。けれど、失われなかったものもそれ以上にあった。やるべきことは山積み──それでもカイは、生き残った仲間達の手を借りて、この国を変えていけるような気がしていた。
「……トーヤ、ありがとう。お前は俺を強くしてくれた。俺に世界の残酷さを教えてくれた。誰かのために戦うことの尊さも、お前がいたから知ることが出来た。本当に、感謝している」
歩み寄り、手を差し出す。
心からの礼を──一時の別れの台詞を、カイは少年へ伝えた。
「こちらこそ、お礼を言わせてもらうよ。君のおかげで僕は初心に帰ることが出来た。神殿攻略も刺激的だったし……過ごした時間は短かったけれど、面白かった。ありがとう」
トーヤがカイの手を握り返し、目を細めて言う。
見上げてくる少年はにこりと満面の笑みを作ると、
「君と友達になれて、良かった」
そう言葉にしてくれた。
そのことが何より、カイには嬉しかった。




