38 血の饗宴
「やぁ、よく来たね、神オーディンの《神器使い》たち。歓迎するよ」
少年のようなはつらつとした口調で、怠惰の悪魔はそう僕たちを迎えた。
女王モーガンが鎮座する王宮の尖塔、最上階。窓から沈みかけている月光が差す《女王の間》と呼ばれているここで、僕たちは驚きの声を発する前に敵側から今しがた起こった現象の説明を受けることになる。
「あぁ、カイ君は『魔女モーガン』が勝手に自分の作った領域に引きずり込んでしまったようだね。完全にボクの不手際だ。そこは謝ろう。すまない。──さて、神器使いは君だね? 名前は?」
「……トーヤ」
色素が完全に抜け落ちた真っ白な長髪に、深紅の目。僕より背の低い小柄な体格をした彼女は、一目見て思わず息を飲んでしまう美貌を持っていた。大きな瞳の童顔はあどけなく、全く敵意を感じさせない。衣装は黒いローブであり、一目で魔導士とわかる風貌であった。
この少女が、悪魔──?
僕は半信半疑になりながらも、絞り出すように自分の名を告げた。
「トーヤ君、か。いい名前だ。前世様に似て中々の美少年……嫌いじゃないね」
「ちょっと、《色欲》でもないくせにトーヤくんに色目使うなー! 彼の側にいられる女の子は私たちだけで十分だ!」
「残念だね、その『私たち』にボクは含まれていないのかい? ……と、名前を聞いといてボクが名乗ってなかったね」
エルの反応を楽しむがごとくクスクス笑い、悪魔の少女は僕たち全員をぐるりと見渡した。
オリビエさん、シアンたち、エル、それに僕──。皆の顔をじっと見つめてから、少女は後世に残った『悪名』をその声に乗せて伝える。
「ボクの名前はベルフェゴール。リリスによって作られた【七つの大罪】のうちの【怠惰】を司る悪魔だよ」
「────っ」
僕の脳裏に再びあの奇妙な感覚──過去の記憶が首をもたげる。
ぼんやりと浮かびかける少女の笑顔。それと目の前の悪魔の姿を重ねるが、どうにも違和感が拭い去れない。
この子は本当に悪魔なのか。もしこの子が本物の悪魔だというのなら、奴らが持ち合わせるあの強烈な敵意と憎悪はどこにいったのだ。
これまで戦った悪魔と徹底的に違うのはそこだ。この女の子は、僕という《神器使い》──悪魔にとって最も憎むべき存在に殺意を向けてこない。
そう思ったのは僕だけではなかったようで、
「エル、本当に彼女がベルフェゴールなのか……?」
オリビエさんが眉根を寄せ、かつての世界の記憶を有するエルに訊ねた。
だが彼女が答えるより早く、悪魔自身の口からその問いの回答が与えられる。
「ボクがベルフェゴールであるというのはある意味では正しく、またある意味では間違いだ。これは《リューズの民》としてのボクの姿であり、人格に過ぎないのだからね」
どういう、意味……?
リューズの民って、何だ。あのノエル・リューズやアマンダ・リューズと何か関係があるのか。
確かに白髪赤目の特徴は同じだけど、彼女は千年以上も前の人物であり──いや、そもそも悪魔だから人ですらなく──あのリューズとの関係性なんて、現実的に考えてありえるはずが……。
「分かりにくい言い方だったかな。正確に言えば、今のボクは《悪魔》とは到底呼べない存在なんだよ。悪魔の力を奪われ、残った精神と魔力だけの虚像を見せている。実体なんてあったものじゃない」
「……ちょっと待って」
今、彼女はなんて言った。
悪魔の力がない? 実体すらない精神体だって?
どういうことなんだ。それじゃ、つまり彼女は──。
「【怠惰】じゃ、ない……? 【怠惰】としての力は、今ここには存在しないってこと……?」
「察しが早くて助かるよ。これはボクの長すぎる人生でも最悪の失敗と言っていいだろうね。宿主に力を吸われてしまうなんて」
「や、宿主……!? それって、まさか──」
僕の隣で、静かにエルが息を止めた。
オリビエさんは目をあらん限りに見開き、やや遅れて何が起こっているのか気づいたユーミたちも、視線を部屋の中央にある異質な物体へ向ける。
虹色に輝く、楕円形の物体。それは巨大な果実のような、もしくは昆虫の蛹のような、そんな喩えが相応しい見た目をしていた。
「眠りの女王」のゆりかごとも言えるそれを見、僕はこの部屋に入った途端に消失してしまったカイを案じた。
「ルノウェルスの魔女、モーガン……彼女がベルフェゴールから【怠惰】の能力を奪い、今や【悪魔】と呼ぶべきは彼女となった。そういうことかな?」
「正解だよ、魔導士くん。今のボクは《リューズの民》の一人というだけで、他の魔導士となんら変わらない人間さ。だからここでボクと戦うのは無意味だ、そう言っておこう」
怠惰の悪魔だった少女は美しい顔に哀しげな表情を浮かべる。
他の人間となんら変わらない――つまり、少なくとも【怠惰の悪魔】は元々人間だったってこと……?
これまで倒すべき敵として見ていた彼女らの正体に、僕は瞠目し、そして困惑した。
僕がこれまで知っていた《神話》に描かれた悪魔、その根本を揺るがす事実が少女の口から語られた。ほかでもない悪魔本人が言うことなのだから、真実なのだろう。ここで彼女に嘘を吐く理由がない。
「エル……」
彼女はそのことを知っていたはずだ。にも関わらず、僕に真実を教えてくれなかった。
「……知るべき時が来るまで、黙ってるつもりだった。すまない、トーヤくん」
僕が彼女に問い詰めるのを先越して、エルは目を伏せがちに謝った。
「……謝らなくていいよ。エルはそれが正しい選択だと思ってたんだよね。責めるつもりはない……」
白髪赤目の美少女――《リューズの民》の一人と名乗った彼女は、僕たちのやり取りを神妙な面持ちで眺めていた。
腕を組み、小首をかしげてから、彼女は口を開く。
「君たちはカイ・ルノウェルスと共に【悪魔ベルフェゴール】を討伐するため、ここに来た。違わないかい?」
「その通りだよ。……でも、悪魔のいる場所には僕たちは干渉出来ないんでしょ?」
「ご明察。魔女モーガンの切り札、《空間創造魔法》で生み出された場所にカイ君とモーガン本人はいる。魔導の法則に従って術者が解除するか、術者が倒れるかしないと魔法が消えない以上――ここにいるボクたちからは手出しのしようがない」
「あの中身を引きずり出してモーガンを目覚めさせる……それは出来ないの?」
「それが出来たらこんなことにはなってないさ。それに……君たちに出来るとしても、ボクがさせはしないよ」
白髪の少女はきっぱりと宣言した。
腰元から銀色の杖を抜き、彼女はそれを僕たちに向ける。
その瞬間、少女の赤い目がぎらりと輝いて明確な敵意を帯びた。
「悪魔としての力が奪われたとはいえ、ボクはリリス様との契約を反故にするつもりは一切ない。ここで君たちを潰し、《悪魔教》に敵対する者を根絶やしにする。それがボクに残された役割だから」
少女の周囲に緑色の精霊の光が集束していく。
まさか、この子も僕と同じ──!?
驚愕に目を剥く。一体、この子は、《リューズの民》とは何なんだ……!?
「っ……! エル、オリビエさん、みんな──戦闘準備だ、急げ!!」
僕は神器である黄金の片手剣、《テュールの剣》を抜き放ちながら叫んだ。
精霊が人間に与える魔力の大きさ、彼らが託してくれる魔法の威力のほどを僕は肌で知っている。彼女が本気を出せば、シアンたちなど一捻りだ。攻撃に移らせてはいけない──。
「喰らえ、《連斬撃》!」
斬撃を「飛ばす」ことが出来るテュールの剣の、高速三連撃。
緑光の粒が旋風のごとく巻き起こっていく中、僕はそれを少女へと撃ち込んだ。
「へえ、面白い技だね。でも──悲しいかな、力不足さ」
力任せに斬り付けた刃の斬撃が空を切る快音を響かせるが、少女は嘲笑うように呟く。
短い間合いから出された攻撃を、杖を横に振って光の障壁を生み出すことで防いで見せた。ガツン、と激しい衝撃音が鳴る。
「傷一つ、つかない……!」
「ふふっ……すごいだろ? まあ、片腕を損傷している君が全力を出せないのは分かってる。弱った相手を苛めにかかるのは、正直嫌いなんだけど──容赦はしないつもりだよ」
目の前から少女の姿が消える。
その、次の瞬間──
「死になよ、トーヤ君」
喉元を掠めた鋭い杖の刺突に、僕は咄嗟に刃を滑り込ませることで防御した。
もう片方しか残っていない腕には黄金の炎。神テュールの神化を発動することで、少女の超人的な速度の技を防ぐことに成功する。
「……そう簡単には死ねない。ベルフェゴール……いや、《リューズ》」
「あぁ、そっちの名前で呼んでもらえて嬉しいよ。ボクはこの名前──リューズを気に入っているんだ。さあ、君たち……これから地獄を見せてあげるよ!」
リューズは叫ぶ。ぎりぎりと杖と剣はせめぎ合い、短い衝突のあと僕たちは互いに距離を取った。
ふわりと大きく後退したリューズの身体には精霊の光が纏って離れない。僕はもしや、と思って小声で「彼ら」へ呼び掛ける。
「……やられた」
返事がない。この地の《精霊》は既に僕ではなく、リューズだけと契約を結んでしまっているのだ。
彼らが一度契約を結べば、それを履行するまで上書きも無かったことにすることも出来ない。精霊の血を引き、《精霊使い》となれる者に彼らは忠誠を誓ってくれる。その者が強ければ強いほど、固く契約を守ってくれるのだ。
つまり、彼らは僕よりもリューズを強い《精霊使い》として認めた。彼女との契約を果たすまで、彼らは僕に力を貸してはくれない。
「【怠惰】となる前、ボクは女ながら王国の《騎士》として生きていたんだ。魔法よりも、剣技の方が本領ってわけさ」
踏み込み、一瞬にして間合いをゼロにする。
どうしてそんなに速くなれる? 神化の力もあって迎撃を何とか間に合わせる僕は、内心で問いかけた。
精霊の助けももちろんあるだろう。でも、それだけではないはずだ。その《神化》にも匹敵する力の大きさは、どこから来ている──?
「っ──」
「どうした? 君の力はそんなものじゃないはずだよ。あの時と同じ胸の高鳴りが、今ボクの中で鳴り響いている。君はどうかな?」
魔力を纏った杖を剣のように繰り、リューズは僕の目をまっすぐ見て訊いてくる。
一合、二合、剣を撃ち合わせながら、僕は考えた。
この少女の言葉から察するに、僕はかつての世界で彼女と剣で戦ったのだ。
彼女はその時の胸の高鳴りを今も覚えている。僕の前世──「ハルマ」との剣劇の興奮を、今の僕との戦いでも感じている。
そして彼女は、僕にあの時以上の戦いを求めているのだ。
血がたぎる剣と剣の戦闘──《騎士》として生きたリューズにとって、それは最も自らを楽しませる行為であるに違いない。
「僕も──それは、同じだ!」
熱く激しい剣劇は僕も好きだ。鍛えた腕で敵と戦い、勝つことに何よりも喜びを覚える。
力を得、技術を得、敗北を知った今の僕にはリューズとの戦いは最後の仕上げと言えた。ここを乗り越えれば、ここで勝利すれば自分は新たなる領域へ進める。そんな気がした。
「トーヤ殿! 私達もサポートを──」
「おっと、ボクたちの戦闘に邪魔はさせないよ」
頼もしいアリスの声を即座にリューズは遮った。
彼女は杖を片手に持ち直し、空いた左手の指をパチンと鳴らす。
途端に精霊の光が集まり、小さな蝿のような形状を作り出した。リューズの周りに幾つも出現したそれは物凄い勢いでアリスたちのもとへ向かっていく。
主を守る兵のごとく、その虫型精霊たちは高威力の光線を撃ち放っていった。
「アリス──! くそっ……!」
「よそ見は許さないよ。これはボクと君だけの戦いなんだ。例え君の大切な人たちでも、横やりだけはさせられない」
リューズは、【悪魔】であったとは思えないほどに勝負に対して真摯であった。
その証拠に精霊への指示を出しながらも彼女は攻撃、防御行動を一切遅らせていない。
《神化》したテュールの剣を完璧に防ぎ、返しの斬撃も執拗に僕の弱点である左側を狙ってくる。
「あの子たちに意識は向けなくていい。ボクだけを見ていろ。怠惰にも決着を付けられなかったあの頃のボクは、もう死んだ……。ボクは現在、この時代に生きるリューズとして最高の力を有している! 誰にも負けるつもりはない!」
リューズは、明言した。
赤い目を爛々と輝かせ、にっと口許を吊り上げながら。
奇跡も何も許しはしない。決められた結末から逃れることも、勝負に未知の可能性を持ち込むことも。
【怠惰】を選んだ一人の少女は、確信をもって僕にそんな言葉を叩きつけた。
「《神器》など、所詮はオリジナルの神に敵わぬ劣化品だ。悪魔の力が長年溜め込まれたボクのこの身体には、傷一つつけることも出来ない」
その笑みからは余裕すら滲み出ていた。
彼女は自分が僕に破れる可能性をこれっぽっちも考慮していない。勝つことだけを目指し、杖を振り続ける。それが出来る者がどれだけ強いのか──僕は、肌で知っていた。
「君は強い。それは分かってる。でも、僕だって、ここで負けるわけにはいかないんだ!」
僕は叫ぶ。
気合いと共に剣を敵にぶつけ、そのまま押し通した。
「っ──! 相当な力だね」
せめぎ合う暇など与えない。いっそ暴力的までの僕の力に、リューズは踏ん張ることも出来ずに後退させられる。
石の床を削りながら、彼女は炎を宿した瞳でこちらを睨んできた。
反撃なんてさせない。リューズの攻めが途切れた今が、最大のチャンス──。
「はあああああああああッ!」
神速で間合いを詰め、黄金の剣による刺突攻撃を放つ。
狙うはリューズの左胸、心臓だ。
この一撃で決める。怠惰の悪魔を倒すには、この少女に邪魔されてはならない。ここで終わらせる!
「死んでくれ、リューズ!」
「くそッ──精霊よ!」
甲高い金属音が鳴り響き、僕の剣は「止まった」。
神化により大幅に強化された力での、最大最強の突撃。それが目の前に出現した緑色の光の盾──精霊の守護魔法に防がれてしまっている。
範囲を一点に狭めた代わりに、硬度を極限まで増した防御の魔法。リューズが命じた精霊の技に僕の必殺は封じられた。
「そんな……ッ」
軍神の剣でさえ通らない、精霊の盾。そんなものが存在しているなんて、ありえない。ありえるはずがない。
僕は瞠目した。次にはその仕掛けに気づき、唇を噛む。
「この王宮に溢れる魔力……フェンリルとヨルムンガンドの炎、それにヘルの魔法の残滓であるそれを、精霊たちは吸収していたのか……」
三体の怪物だけでなく、僕たちが使った魔法の《魔素》も吸われていた。その量は計り知れない。そしてまた、計り知れない魔力量から得られる力の大きさも莫大なものになるのだろう。
神化で上昇した僕の力よりも、精霊の魔力が勝ったのだ。
「そう、この精霊たちがボクに味方する限り、君はボクを倒せない! 《悪魔教》が怪物を放ったのは幸いだった……運命の神に感謝しなくてはね」
リューズの不敵な笑みに僕は歯噛みする。
彼女が小さく唇を震わせたのを見るや、出来る限りの速度で床を蹴りつけて後ろへ飛び退いた。
──来る!
「【遥か遠い夜天よ、夢幻の星よ。穢れた我が血に明星の粛清を──】」
リューズの「魔法」の詠唱が始まる。
長文詠唱。高威力の攻撃を予想して、僕はそれに備えた魔法を展開しようとするが──リューズはそれさえもさせてくれなかった。
接敵し、呪文を淀みなく唱えながら、巧みな杖術でこちらに詠唱する隙を与えない。
「ちっ──!」
「【──血の海よ、破壊の咆哮よ、炎の女帝よ。粛清されし我が身を糧に、蘇れ。破滅の時は今訪れる──】」
剣筋が完璧に読まれている。刃が流され、弾かれる。瞬間的に魔力を暴発させ、動きを加速させるが、それでもリューズは僕の速度に追い付いてきた。
一切無駄のない動作で、詠唱と両立させながら彼女は踊り子のように舞った。
僕の心身に既に余裕はない。心臓がこれまでにないほど鼓動を鳴り響かせ、肺が空気を求めて喘ぐ中──追い討ちをかけるかのように耳に飛び込んでくる悲鳴。
「ああああッ──!?」
女の子の痛ましい絶叫だった。その声が誰のものであるか、理解したくなくて耳を塞ぎたくなるが、リューズの残酷な笑みがそれを拒絶する。
長文詠唱を続行しながら、彼女は眼を輝かせて精霊を操った。
「ぐっ、あっ……! まだ、終われない、のに……!」
止めてくれ。これ以上、彼女たちを傷つけないでくれ。
その牙をあの子たちに向けないでくれ。
──僕の大切な人たちを、殺さないでくれ。
「【王よ、怠惰な我らに裁きを下したまえ──《血餓の災獄》!」
無慈悲に魔法は放たれた。
赤い光が、血の炎が視界を埋め尽くしていく。
その中で僕は切り裂かれる己の胸部、炎に蝕まれる少女たちの姿を見──そして、悪魔の狂った笑顔を目に焼き付けた。
「血に還れ、愚者たちよ……」
絶望は、終わらない。




