37 カイ・ルノウェルスの見る世界
「トーヤくん!」
涙混じりの女の子の声に、王宮の尖塔へ足を運んでいた僕は振り返った。
一度は手放した彼女の姿。それを視界に収めてたまらなく愛しい感情が胸の底から溢れ出る。
僕は黒馬に乗ってこちらへ駆けてくるエルを見つめ、静かに名を呼んだ。
「エル……」
生きていて、良かった。
また出会えて、本当に良かった。
もう二度と会えないことも覚悟していた僕にとって、これ以上の喜びはなかった。
「エル……本当に、本当に良かった。よく、生きて戻ってきてくれたね……」
「……もう、それは私の台詞だよ。でも、君とまた会えて嬉しい」
スレイプニルから降りて僕の前に立ったエルを、もう片方しかない腕で強く抱き締める。
彼女の体温、鼓動や息遣いを間近で感じて、胸の奥から込み上げてくるものを抑えることが僕には出来なかった。
声が涙混じりになってしまう。そんな僕に対し、エルは穏やかな笑顔で応えた。
「フェンリルとヨルムンガンド、君はこの二体の怪物と本気で戦って、勝ってきたんだよね。すごいことだよ。私は君を誇りに思う」
「正直、かなりぎりぎりだったけどね……。エル、その、ごめん。僕、君の強さを信じてあげられなかった。これまで一緒に戦ってきて、君の力は知っていたんだけど……」
「私からも色々言いたいことはあるけど、今は謝るのは後だよ。カイくん達はきっと今ごろヘルと決着をつけているはずだ。彼らに合流して、悪魔との戦いに向かわなくちゃ」
エルの眼差しは真っ直ぐ、頭上の塔の天辺を見つめていた。
僕は目に溜まった滴を拭ってから頷きを返す。
「うん、そうだよね。それが僕達に課せられた使命なんだから」
僕の運命が決まったあの日に告げられた使命。今は大精霊となっている《世界樹ユグドラシル》からも託された、過去の歴史を終わらせるための戦い──。
その一歩をこれから踏み出していくのだ。
「行こう、トーヤくん。私達が力を合わせればどんな敵だって怖くない! さあ、上ろう」
既に開け放たれている塔の入り口を抜け、一度は途中まで上った螺旋階段を再び駆け上がっていく。
一段飛ばしに階段を蹴り上げながら、そこでふと僕は頭の中に一つの強烈な光景が浮かぶのを感じた。
「……っ」
どこか知らない場所で、とある少年が一人の女魔導士と対峙している場面。白い柱が無数に並んだ神殿のような場所で、青い髪の女性は少年に柔らかい笑みを投げ掛けている。
この人は誰だ、この場所はどこなんだ? 僕の脳内に生まれたそんな疑問は、しかし一瞬で解決された。
これは前世の僕と《怠惰》の悪魔が出会い、戦いを始めようという光景なのだ。
悪魔の強烈な存在感が僕の中に眠る記憶を呼び覚ましたのか。しかしどんな要因でそれが甦ろうと、何の意味もないということはないはずだ。
「エル……一つ、訊いていい?」
「いいけど、どうしたんだい。何か思い付いた?」
階段を必死に上りながら訊ねる。
聞き返してくるエルに、僕は逸る気持ちを抑えつつ答えた。
「イメージが浮かんだんだ。僕の前世の」
「──!」
「かつての記憶が僕の中にもあるのなら、それがヒントになるのかもしれない……だから、教えてほしいんだ。前世のことを知れば、何か思い出せることがあるかもしれない。彼の名前とか……何でもいい、僕に教えて」
僕が早口に言うとエルは目を大きく見開いた。
一呼吸置いて、彼女はかつて共に戦った親友の名を静かに告げる。
「……『ハルマ』。それが、彼の名前だよ」
──ハル、マ。ハルマ。
それが僕の生きる時代よりずっと前、エルと二人で悪魔に立ち向かった少年の名前。
「ありがとう、エル。大丈夫、悪魔ベルフェゴールには負けない……僕達がここで終わらせるんだ」
僕はエルの手を取り、彼女の翠の瞳を見据えた。
あの時代で悪魔ベルフェゴールと剣を交えたのは、この世界に転生した者の中では僕一人だ。
彼女との戦いの記憶は僕の魂に刻み込まれて消えていない。
記憶を紐解き、過去を知る。それがこの戦いを制する鍵になるはずだ。
「力を貸してくれよ、ハルマ……僕に真実を教えてくれ」
僕は千年前の彼へ呟く。
塔の最上階への道は、既にあと僅かとなっていた。
*
──カイは優しい子ね。
かつて、母にそう言われたことを覚えている。
母だけではない。姉や侍従、カイの周囲にいた人々は皆、彼をそう評した。
幼少のカイは小動物どころか虫すら殺せない臆病な子供であった。彼は弱い自分を恥じ、変えようと努力した。しかし、根っからの人格を変えることはどう頑張っても出来なかった。
──何も恥ずかしいことじゃないのよ。誰もが陛下のように勇敢じゃない。あなたのような人ももちろんいる。それは当たり前のことで、皆それぞれ素敵な個性を持っているのよ。
柔らかい微笑みは、狩りに失敗して戻ってきた少年を温かく包み込んだ。
母親の言葉は嬉しかった。それは臆病な自分を責め、苦しんでいた少年を救ってくれた。
カイは生き方というのは剣の道だけではないのだと、母親に言われて初めて気づけた。
閉ざされていた道が開けたような気がした。未来を想像してわくわくすることの素晴らしさを、この時彼は知った。
今の自分は、あの時の未来図と比べてどうだろうか。
少なくとも、剣を掲げ、悪魔を討つべく血と炎の戦いに身を投じている今の姿は、当時は想像すら出来ていなかったはずだ。
望んだ結果ではなかった。悪魔さえいなければと何度考えたか知れない。
自分の運命を恨みすらした。それでも、諦めることはしなかった。
諦めたらそこで全てが崩れ去ってしまう──これまでの思い出も未来の自分も全て、壊れてしまう。そんな気がして、彼は剣をとって立ち上がった。
──姉さんのように、何にも屈しない戦士となろう。
どんな敵が相手でも負けない強い男になろう。
悪魔に囚われた母さんを救えるくらいの力をつけて、この国の闇を払う英雄になろう。
これまで目を背けてきた自分の弱さと向き合い、14歳のカイは自ら戦いの道へ足を踏み入れた。
まだ悪魔の洗脳に侵されていなかった王宮騎士の一人に師事し、《組織》の手が及び始めた宮中でひたすらに剣を振るった。
辛くはなかった。そこには母親を解放するという大きな目的があったから。
日夜剣の特訓に明け暮れるカイに、母親や組織の魔導士は何の関心も示さなかった。自分など悪魔から見ればその程度の存在なのか──悔しかったが、そこは邪魔されないだけましだと割りきった。
そんなカイに関心を示した唯一の人間が、オリビエであった。
──やあ、王子殿下。随分汗だくになってるようだけど、少しは休憩したらどうだい? 丁度冷たい飲み物があるんだ。よければどうぞ。
変わった奴だな、というのが初見の印象だった。
それでも話していく内にカイは不思議とオリビエと打ち解けていった。悪魔を討つという目的、そのために自分は強くならなくてはいけない──カイが語ると、魔導士は彼が全く思いもしなかったことを口にした。
それが、《神殿》攻略だった。
神の力を契約者の身に宿し、現世に神の化身を出現させる──。
オリビエの大袈裟な語り口に、カイはこれまでにないくらい食いついて聞き入った。
神器の存在を知識で知ってはいたものの、本気で実在するとは思っていなかった彼にとって、この選択肢は突如目の前に放られた希望となり得るのは当然だった。
やがて自分に剣を教えていた騎士も完全に悪魔に洗脳され、味方はオリビエただ一人となった頃──カイは、王宮を抜け出すことを決意した。
彼は都市を離れ、神殿に挑めるだけの実力をつけるために魔導士とともに各地を転々としていった。
《組織》の追手との争い、予想外のモンスターとの戦いを経て再び王都へ舞い戻った彼は──トーヤ達と出会い、神殿へ挑むことになった。
「……この戦いの道も、これで終わりだ」
回想から現実へ意識を戻し、青年は前を向く。
長い階段を上った末にたどり着いた最上階、『女王の間』。その部屋に繋がる扉に手をかけながら、彼は一度後ろを振り返った。
「――よく、来てくれた。行こう」
階段を上がって彼のもとに追いついたのは、トーヤとエル、そしてオリビエだった。カイは三人を加えた仲間たちを見て、最後の戦いへ覚悟を決める。
「ああ。これで終わらせよう。この国に降りかかった闇を払うのは、私たちだ」
カイと二人で長い道のりを歩んできた魔導士が頷いた。
トーヤも青年の隣に立ち、彼の肩を軽く叩いて言う。
「緊張はしなくていい。相手は悪魔一人、僕達は九人だ。エルとオリビエさんができる限りの支援もする。僕達は安心して戦えばいいんだ」
カイの凝り固まった心を見透かしたようにトーヤは小さく笑いかけた。
神殿攻略の時も、革命の戦いを始めた直後も、トーヤはこうしてカイを元気付けてくれていた。
またしても救われる思いでいるカイだが、そこで少年の腕が一本失われていることに気づき、胸が痛むのを抑えられなかった。
「トーヤ、その腕……フェンリルにやられたのか。……ごめん、俺の戦いに巻き込んだせいで、そんなことに──」
「気に病まないで。僕は僕自身の意思でこの戦いに参加したんだ。これは君だけの戦いじゃない。僕やエル、オリビエさん、ヴァルグさん、皆の戦いなんだ」
──皆の、戦い。
そうだった。自分には、共に戦ってくれた同志達がいた。洗脳から逃れた市民達、《影の傭兵団》の皆、武器商人のフロッティ、酒場のロイ、それに姉さん……トーヤ達だけでなく、こんなにも多くの人達がカイを支え、付いてきてくれた。
彼らのためにも、自分はこの先の敵を倒さなくてはならない。彼らをこの国の新しい道へ導くのが、カイの使命だから。
「ベルフェゴール──俺はお前を、倒す!」
扉を押し開ける。
燃える塔の頂上、『怠惰』の城に青年と少年達は足を踏み入れていく。
──直後、身体に訪れた奇妙な浮遊感。《転送魔方陣》を使った時とよく似た感覚を覚えながら、彼らはその空間に入り込んだ。
一切の汚れのない静寂の世界で、カイはそこに佇む母親と再会する。
*
広々とした空間だった。そして、妙に肌寒い場所でもあった。
すり鉢状に設計された石造りの空間。斜面には階段のように段差があり、最下部には高い卓のようなものが一対用意されている。
天井はどこまでも続いているのではないかと思えるほどに高い。頭上を見上げると、すり鉢の最上部にそこから張り出した舞台があったが、誰がいるわけでもなく寂れた様相を呈していた。
「来たのね、カイ」
すり鉢の底にいるカイに投じられた女性の声。それは紛れもなくこれまで何度も聞いてきた母親の声だ。
コツ、コツと階段を下りてくるモーガン・ルノウェルスに視線を向け、青年はごくりと唾を飲む。
「ここは、どこだ? お前は、本物の母さんなのか……?」
「安心して、私は本物よ。あなたの母親のモーガンは、この私」
緩くウェーブのかかった長い金髪とサファイアの瞳、柔らかい微笑みはかつての母親のものと同じだった。
モーガンはゆっくりとした足取りでカイのもとに近づいてくる。そこから動くことも出来ない彼は、ふと横を見てトーヤ達の姿が消え失せていることに気がついた。
「ここには、俺と母さんしかいないのか……」
「その通りよ。親子の再会に余計な邪魔はいらないもの……ここは私が生み出した『閉鎖空間』。外の世界の干渉は一切受けない、私達だけの世界」
白いワンピースを纏う少女じみた容貌の母親は、その言葉を噛み締めるように言った。
胸に手を当て、瞳を閉じて恍惚とした表情になる。
「さて……どうしようかしら? カイ、あなたは私を殺しに来たのよね。ここで殺し合いでもする? それとも、心の準備が出来るまでお話ししましょうか?」
目を開き、淀んだ瞳でモーガンはカイを見た。
──向こうのペースに乗せられるな。俺は、俺のやるべきことをやる……!
不気味な異空間に閉じ込められたカイにとって、ここでの主導権を母親に完全に握られては反抗のしようがない。
昔から母親は優しい人であったが、同時に掴み所のない人間でもあった。悪魔の力を得てからはそういった部分はより強まった気もする。
洗脳に頼らずとも「人を思うままに操る力」がこの女にはあるのだ。多くの者を魅了する彼女の笑みは、相手の逆らう意思を意図も簡単に挫けさせる。
魔性の女──勇猛な王を献身的に支える后には、政治面へ介入する姿を指されてそう呼ばれた過去があった。
「……っ」
──どうすればいい?
この女とこの場所で殺し合うか、対話での説得を試みるか。
出来ることなら殺し合いは回避したい。悪魔に憑かれているとはいえ、モーガンはカイの母親だ。優しかったあの頃の母親が戻ってくる可能性がゼロでない以上、未来に希望を見出だすことを諦めたくない。
しかし、対話したとしてモーガンはカイの言い分を聞いてくれるのか。
そもそも今カイが向き合おうとしているこの女は、本当にモーガンの意思、モーガンの人格なのか。彼女の人格とすり替わった悪魔なのではないか。
だとしたら、やはり剣を向けるしかないのか。
いやでも、本当に母親だったらどうする──。
カイの中で葛藤が渦を巻く。考えは堂々巡りに達し、ここで迷っていること自体がすでにモーガンの意のままになっていることに気づいた彼は、顔を上げた。
「母さん……こんな形で会うことになるとは思ってなかったけど、やっぱり母さんは母さんだな。昔と何も変わってない」
にこっ、と。
青年は最愛の母を見つめ、笑った。
モーガンの瞳が凍りつく。妖艶に光っていた翠の目は、カイの顔に釘付けになって動かない。
「再会できて嬉しいよ、母さん。俺、都市を離れている間に結構成長したんだ。俺の新しい力、見てほしいな」
先程までの逡巡から一転し、カイは迷いを一切感じさせない足取りで段上の母親のもとへ歩み寄る。
表情は笑顔のまま、内心では震えつつ。『殺す気』で人に刃を向けられなかった青年は、ゆっくりと、しかし確かな意思を持って《魔女》との距離を詰めていった。
「あらあら……どんな力なのかしらね。それにしても──何とまあ、父親そっくりの表情をするようになって」
亡き夫の面影をありありと残した息子の姿に、モーガンは喜びを滲ませた笑みを薄く浮かべる。
カイの容姿は勿論のこと、その瞳に宿る炎の色は偉大なる王の係累であることを語っていた。
その事実に、成長した息子にモーガンは素直に喜んでいる。一人の母親としてそれが嬉しくない訳がない。
「カイ、もっと近くで顔を見せて。私の可愛い息子……本当に、凛々しくなったわ……」
「……母さん」
手を伸ばして自分の頭を撫でてくるモーガンを、カイは拒みはしなかった。
されるがままになりながら、笑顔の仮面を張り付けて青年は口を開く。
「母さん……やっぱり、母さんなんだよな。悪魔ベルフェゴールの人格じゃない、本物の」
「何を言っているの? さっきも言ったことじゃない。私はあなたとミウの母親で、前王アーサー七世の后だった人間。正真正銘、モーガン・ルノウェルスは私しかいないわ」
「じゃあ……この場所は母さん自身の意思で生み出された空間、って認識で間違いないのか? 悪魔ベルフェゴールのしたことではなく、母さん本人の力でしていることだと」
「私は《魔女》よ。このくらいのことなら簡単に出来るわ」
この女の発言に嘘はない。人の感情の機微を誰よりも察するのが得意なカイは、そう判断した。
かつて不敗と称えられたアーサー七世の活躍の影には、魔女モーガンの幾度とない献身があった。
彼女が扱う魔法は治癒など支援向きのものが多かったが、空間法則に干渉する魔法も過去に一度発動していたはずだ。その事実から鑑みるに、母親の言うことは全くの出鱈目ではない。
怠惰の悪魔が空間魔法を使えるという話は聞いたことがないため、それが悪魔の隠し玉でない限りは、ここにいる女は本物のモーガンだということになるだろう。
ならば、するべきことは──?
「母さん……俺は、決着をつけに来た。母さんの身体から悪魔を取り払い、また穏やかな暮らしを送るために……俺は、強くなった」
モーガンが作り上げた別世界の中で、カイはどう動き、どう戦えば良いのか。
彼はまずそこから探らなければならない。何もかも分からないことだらけのこの場所で、これまでに得た知識、そして観察眼で勝利の糸口を見つけ出さなくてはならないのだ。
トーヤやエル、オリビエのそれでもなく、カイ・ルノウェルスという一人の人間のやり方で。
ここでモーガンと向き合い、対話できるのはカイだけだ。
彼にしか出来ない。望んだ結末を迎えるためには彼自身の力で、モーガンを悪魔の支配から解放する以外に道はない。
「そう。よくやったわ、カイ。本当に……あなたはよくやった」
モーガンの笑みは穏やかで、過去に見せた慈愛に満ちた母親と変わらないように思えた。
彼女の本質、心優しく柔らかな性格は今もそのまま残っているのか。しかし、先程覗かせた凶暴な牙──彼女の口から出た「殺し合い」という言葉からは悪魔的な恐ろしさが感じられた。
おそらく、今のモーガンには本物の母親の人格と悪魔の人格が共存しているのだろう。となると、悪魔の意思はそこに確実に存在している。
それならば、やはりカイが最初にとるべき選択肢は──。
「母さん……《魔法》の勝負をしよう。母さんに教わり、オリビエに鍛えられ、トーヤとエルが更なる高みへ導いてくれたこの技──今ならきっと、いい勝負になるはずだ」
モーガンの青い瞳の中で、暗い色の光が揺らぐ。
薄く笑む彼女をまっすぐ見つめ、カイは最大の目標であった母親に《挑戦状》を叩きつけた。




