36 果たすべき使命
王都から少し離れた森の中での話である。
「……やれやれ。どうやら捨てるはずだった命を取り戻してしまったようだ。感謝するよ、少年」
魔導士オリビエは怪物ヨルムンガンドとの戦闘中、敵の「魔力封印」能力に《浮遊魔法》を封じられ、剣士ヴァルグと共に堀の中へ沈んだはずだった。
魔法を使えなくなった魔導士に水中から脱出するすべはなく、泳いで岸を目指そうにもそうする体力は残されていなかった。
彼はその時、生まれて何度目かの《死》を覚悟した。怪物に敗れ、敵を足止めすることが出来なかった自責の念に駆られながら、彼は暗闇の奥へ引きずり込まれていった。
──しかし。
オリビエは生き長らえてしまった。体の感覚は正常であり、目も見えるし耳もきちんと聞こえる。
彼の隣ではヴァルグが疲弊しきった表情で樹にもたれかかっていた。
乾いた地面に座り込む姿勢のオリビエは、目の前で剣を鞘に収めている少年を見上げて礼を言う。
「本当に、君のお陰で助かった。《フレイ》の神器使いよ」
「この剣が教えてくれたからな。あんたらは他人だけど、死にそうな奴を放ってくほど俺は人でなしじゃない」
赤茶色の髪と瞳をした、整った顔の少年であった。
自分が《神器使い》であるということを看破されてもなお表情を変えない彼に、オリビエは力なく笑いかける。
「君はフィンドラ王の第三王子だったね……。《フレイ》と《フレイヤ》、双子の神器使いの兄で、名はエンシオ。……ということは、お父さんもこっちに……?」
「ああ。親父は今頃、エミリア──俺の妹と一緒に王宮内部に入っているはずだ。そこでルノウェルスの王子と鬼蛇人の神器使いに加勢する手筈になっている」
エンシオ王子は木々の切れ間から夜空を見上げながら、淡々と答えた。
彼らフィンドラ王家が何故自分達に手を貸すのか、そしてどうやってこの動乱の情報を得たのかなど、聞きたいことはあったがオリビエはひとまず後回しにする。
今するべきことは、カイ達の戦う王宮へ向かうことだ。
「……魔力もある程度は回復してもらえたようだ。ヴァルグ、君はどうだ?」
「俺の魔力はこの剣に依存している。俺本体が本来持つ魔力はそう多くねえ、魔法は使えて五分ってところだな……」
オリビエと比べてヴァルグの体力は大きく消耗しているように見えた。彼はヨルムンガンドとの戦い以前に王宮兵や組織の魔導士との戦いも乗り越えてきている。剣を振る体力も、魔法を使う魔力も完全に限界を迎えてしまっていた。
「《屍霊操作》能力ももう使えねぇ。本当なら今すぐにでもあいつらの所に飛んでいきたいところなんだがな……すまん」
「謝るな、君はここで休んでいてくれ。私が王宮に飛び、カイ達の支援を再開するから」
「あぁ、頼んだぜ……。ガキどもが死なねーように、お前がちゃんと守ってやれ。それと……死ぬなよ」
ヴァルグはオリビエの肩に手を置き、トーヤ達の命運を彼に託す。
同じことが二度とないとは限らない。最後にしっかりと釘を刺すも、剣士の憂慮は簡単には消えなかった。
「同じ過ちは何度も犯さないよ。能力が分かっているなら対策はいくらでも取れるしね。──じゃあ、行ってくる」
オリビエは杖を振り、地面に小さめの魔方陣を出現させる。
《転送魔法陣》だ。目的の場所を鮮明にイメージすることで転移が可能となるこれなら、一瞬で王宮まで戻ることが出来る。
陣に足を踏み入れかけた魔導士は、そこでふとエンシオ王子に訊ねた。
「エンシオ王子、君はどうする?」
「あんた達を保護した後、この場で待機することを親父から指示されている。俺はここにいるつもりだ」
エンシオ王子はぶっきらぼうな口調で返答する。
腕組みしつつヴァルグから少し離れた樹に背を預ける彼は、赤茶の瞳で魔導士をじっと見つめた。
「……! 三体の怪物の意識が途絶えたな。残るは悪魔ベルフェゴール、そしてリリス。リリスとは親父が戦闘を継続中だから、あんたは悪魔の方に当たれ」
妹とは逆に少々荒い言葉遣いの王子は、高度な《情報認識魔法》を用いて戦況を告げる。
エンシオ王子には神器の力とは別に、魔法使いとしての実力も十二分にあった。オリビエはヴァルグ共々驚きながら、魔法陣の中に姿を消していく。
黒いローブが翻り、短い風切り音が鳴るとそこに魔導士の姿は跡形もなく消え失せていた。
*
「我が槌のもとに、走れ雷──《迅雷槌》!!」
「どこまでやれるかな。《空間転移陣》!」
雷神トールの神器ミョルニルを扱うアレクシル王と、かつて【悪魔の母】と呼ばれたリリスはルノウェルス王宮上空で激戦を繰り広げていた。
最強の神器ミョルニルから放たれる桁違いな火力の稲妻。その攻撃は、リリスほどの強力な魔導士をもってしても完全に無効化することは不可能であった。
「はああッ!」
アレクシル王は青白い稲妻の円環を背後に宿し、正しく雷神というべき姿へ変容していた。
鋭い気合いと同時に何本もの電流の束が放たれる。
しかし夜の空を真っ白く染め上げるほどに目映い雷撃は、リリスが無数に展開した魔法陣の中に吸収され、別の場所へ転移させられてしまった。
アレクシル王は魔導士の技を素直に称賛する。
「中々やりますね。トールの魔法をそもそも当たる前に転移させてしまうとは……。どんな攻撃でもそれで実質的に無効化する、そういう算段ですか」
笑みを浮かべて王は言った。
──こいつはどうして笑っていられる? 彼の挙動にリリスは意表を突かれていた。
アレクシル王は喋りながら今も雷撃を撃ち続けている。その動きに無駄はなく、全方位から降り注ぐ雨のごとき光線は《転移陣》を持つリリスにしか防げない──彼女は王の魔法を見てそう判断した。
最強の神の攻撃でさえ、最強の魔女──【神の創造者】であるリリスには通用しない。アレクシル王はこの攻防でそれを理解したはずだ。にもかかわらず、笑みを崩そうとしない。
「どこから湧いて出るのかな、その余裕は。その30パーセントくらい私に分けてもらいたいところだね」
「分けられるものならそうしたいですが──生憎、人の余裕というものはその人の心の有り様にすぎないのですよ」
「……」
やられっぱなしではいられない。
リリスの目的はトーヤを手中に入れることだ。もう少しで自分のものに出来た少年を、今度こそ傀儡にする。
邪魔をする者は徹底的に潰し、排除する──それが彼女のやり方だった。
「《暴乱の風撃》!」
先の戦いでオリビエ達を襲った竜巻が王宮上空に再び現れる。
トールの《神化》により空に呼び出された雷雲を利用して、彼女はこの場所に嵐を巻き起こした。
「はははははっっ!! 喰らいな、《撃滅の氷嵐》!」
竜巻から嵐へと魔法が昇華する。
《高位魔法》や《神化》の魔法の威力に匹敵する、いやそれさえも超越した短文詠唱。
広範囲に渡る嵐の魔法は、その手に触れたものが何であろうと破壊し尽くす。たとえ《神器使い》であろうと、これを受けて無傷でいられるものなどいないはずだ。
──そのはずだった。
しかし、リリスの確信は次の瞬間には打ち破られることになる。
「生温い……【悪魔の母】とも呼ばれし貴女が、この程度の魔法しか使えないとは。がっかりさせないでくださいよ」
アレクシル王は、なおも微笑みを浮かべながらのたまった。
あり得ない。神器使いとはいえ、相手はただの人間だ。敵はかつての神の力を借りているだけで、オリジナルの神には遠く及ばないはずなのに。
これでは、まるで本物の──。
「互いに攻撃が通らない。さて、どう勝負をつけましょうか」
既に魔女の目には、その王の笑みが不気味なものとしか映っていなかった。
彼女は焦る感情を懸命に押さえ付けながらも、攻撃の手を緩めない。──緩めてはならなかった。
もしかしたら先程までの敵の雷撃は本気ではなかったのかもしれない。魔女の脳裏にその可能性が閃いた時にはもう、リリスの杖は振り払われていた。
──この世界でも最強の魔女は私のはずだ。私が、最強なのだ。
シルやエル、あの男ですらない。
この世界で最も強い魔導士はリリスだ。【リリス】が最強でなくてはならないのだ。
「葬ってやるよ、忌々しき《神器使い》! 私は誓った──間違った神による歴史の過ちを正し、正常な新世界を作ると。あの時、あの場所で、私は私の民に誓ったんだ! それは彼らの悲願だった……私が使命を果たさなければ、彼らは報われない! だから死ね、トールの神器使いッ!」
魔女は叫ぶ。この世界の誰も知ることのない、かつての世界での《誓い》を衝動のままに表明した。
命を懸けて成し遂げなくてはならない使命だ。それはリリスだけでなく、エルやトーヤ、カイ達にもある。そして、今彼女と相対しているアレクシル王も例外ではなかった。
「使命、か」
王は呟く。魔女の炎を潜り抜け、突風を突っ切り、氷の刃をハンマーで破壊しながら彼はリリスへ接近していった。
アレクシル王の瞳が魔女の目を射抜く。
「私にも使命があります。きっとカイ王子が持つものと似たものでしょうが……この世界を無駄な争いのない平穏な場所にする、それが私の使命だと思っています」
リリスは青の眼で王の視線を睨み返した。
──無駄な争いのない世界だって? 愚かな、本気で言っているのか。
彼女の中でそんな言葉が生まれる。しかしそれを声に出さず、魔女は杖を掲げ直した。
超高速での詠唱が開始される。
「────!」
その詠唱はあまりに早く、何と言っているのか王には聞き取れなかった。
発動されようとしている魔法に備え、アレクシル王はミョルニルを握る手に力を込める。電気の檻で自らの周りを固め、超高圧の電磁バリアを展開した。
「……っ、これは……!?」
王の視界が黒く染まっていく。
トーヤにかけた魔術と同じものか──魂の深部に侵入する禁術を行使され、彼は驚愕と共に意識にねじ込んでくる気配を感じた。
『私のものになりな、神器使い!』
トーヤが無理ならこの男を傀儡として扱ってやる。
リリスの笑みは醜く歪み、魂を刈り取る死神のようにそこへ手を差し込んだ。
ぐっと男の胸ぐらを掴み上げる。
「肉体を潰せないなら精神から……この手の対抗策はゼロではありませんが、厳しいですね」
王の表情からついに不敵な笑みが消えた。
二人は精神世界で対峙する。神と悪魔──互いに最強を自負する彼らの戦いは、舞台を変えても変わらず続く。
その決着は、少年達が悪魔との決戦を終える直前につけられることになるが、もちろん異界の彼らには知る由もなかった。
*
トーヤくん、どうして──。
少年の手によって戦場から逃がされたエルは、黒馬スレイプニルの背に揺られながらずっとそのことを考えていた。
主を失ったスレイプニルはその役目を終える。未だ燃える大地を駆け続けている黒馬を見て、エルはトーヤの生存を悟ってはいた。
しかし、それでも胸は心配に張り裂けそうだった。
隻腕の彼一人にあの恐るべき怪物と戦い、勝つことが出来るのか。トーヤは強い。しかし彼にだって限界がある。もし、もし万が一に彼が倒れるようなことがあったら、エルは──。
「お願いだよ、トーヤくん……! どうか、生きて戻ってきてくれ──」
その声をこの地の精霊に伝え、エルは祈った。
彼とまた会いたい。会って、話をしたい。抱き締めたい。キスをしたい。また、皆で笑い合いたい。
「私、待ってるから……だから、絶対に帰ってきて……」
目に涙が滲んだ。それを堪えようと上を向き、ぎゅっと瞼を閉じる。
水滴が一粒こぼれ、エルの頬を伝って一筋流れ落ちた。
「…………あ」
と、その時だった。
エルの耳にこれまで絶えず聞こえてきていた怪物の咆哮が、止んだ。
スレイプニルが走る脚を止める。
「怪物が、倒れた? でも、トーヤ君は……!」
黒馬が動きを止めたことの意味を、この時になってエルは知らないふりをしようとした。
しかし、出来なかった。スレイプニルの首に頭を預け、馬の耳元で「動いて」と囁きかけるも答えはない。
「……やだ……トーヤくん、そんな、いやだよ、トーヤくん……」
信じたくなかった。再会の約束をしたことが、もう何年も前のことのように彼女には感じられた。
時間を巻き戻して、あの時に戻れたら。
もし戻ることが可能であったなら、あの時の自分に言えたのに。
「ほんと、馬鹿だよなぁ、私……彼をずっと支え続ける、そのつもりでこれまで生きてきたのに……。いざって時に、何も出来ないじゃないか……」
強引にでも彼を引き止め、一緒に逃げればよかったのだ。
あの怪物と戦って生きて戻る確率の方が低いのだから、二人でカイ達のところへ合流すればよかったのだ。
『ブルルル……』
スレイプニルが哀しげに鳴く。彼が首を持ち上げ、頭上の何かを見上げたことに気づき、エルは空を仰いだ。
「あれは……!? そんな、まさか──」
夜空に眩く輝く雷光。青白い稲妻が闇を切り裂いたのを目にして、少女はそれが何であるのか確信を持てないまま呟く。
「まさか、神トールの《神化》……!? でも神器使いが、どうして今になって……!?」
彼女の驚愕はそれだけに留まらない。
雷神トールの神器使いの登場直後、もう一つの光が王宮上空、先程までトーヤが戦いを繰り広げていた付近に現れたのだ。
「もう一人の神器使いだって!? この国にはカイくんの他に神器使いがいるという話は聞いてない。もしや、あの国の……!?」
少年が彼らの正体を理解する少し前に、エルは「フィンドラ王国」という一単語を胸の内で口にした。
二つ目の光──あの緑色の光はおそらく「土」属性の神化だ。アスガルド神話で該当するのは主なものでフレイ、フレイヤあたりか。
土属性は全ての魔法の中でも最も「生命」に近しいものと言われている。その属性の神化を使う者になら、トーヤを救う力もあるかもしれない。
「行くよ、スレイプニル。トーヤくんはきっと復活する。私にはわかる。彼は絶対にこんなところで倒れる器じゃない! ……私が直接君に命令できる立場じゃないのは知っている。でも今は時間がないんだ。お願いだよ、スレイプニル! 私を、彼のもとへ運んでほしい」
エルはフィンドラの神器使いがもたらした一筋の希望にかけた。
トーヤがどんな危機に陥っているのか──エルには考えたくもないことだが、シルやリリスのような《組織》の幹部、首領級の人物がそこにいることだって可能性はゼロではない。
今すぐにでも向かわなくてはならない。そう強くエルはスレイプニルに訴えかけた。
『ブルルッ……』
スレイプニルは首を頷かせるように縦に振った。それが答えだった。
「ありがとう」
エルが短く礼を告げたときにはもう、スレイプニルは駆け出していた。もと来た方向に全速力で走っていく。
手綱を握りしめ、ぐっと歯を食い縛って馬を駆りながら、エルは愛する少年へ呼び掛けた。
「トーヤくん、私、信じてるから。君が生きているって、信じてるからね」
夜の闇の中、青い稲妻と赤い炎が交わっては消えていく。
神器使いと魔女の鮮烈な戦闘の光景は、少女の目に美しくも悲しいものに映っていた。




