35 雷神降臨
風が吹きすさび、落ちる雷が大地を削る。
魔導士リリスが発動する魔法に、消耗しきった体の僕は必死に防戦していた。
「くっ──」
「どうした、こんなものか? 神器使いとしてのお前の力、もっと見せてみろ!」
水色の美しい髪をなびかせながらリリスは空中で杖を振るう。
一撃一撃の威力が桁違いの攻撃。それを何とかかわしていられるのは、奇跡に限りなく近いことだったろう。
くそっ……いつまで、この体が持つか。
僕はヨルムンガンドを下敷きにしている岩山を飛び越え、リリスに見えないよう唇を噛んだ。
腕を噛み千切られ、それに加えて僕は長時間《神化》を発動している。普通ならもう死んでしまってもおかしくない負担が全身にかかっているのだ。
それでも倒れずにいるのは、ただ「負けられない」と強く思う心があるから。この闘志が消える時が自分の死ぬ時だ──僕はそう悟る。
悟りつつ、リリスを見上げる。
彼女は笑っていた。エルやシルさんと同じ「かつての世界」の魔導士である彼女は、この世界の魔導士にはあり得ないほどの無尽蔵の魔力を有している。
虫の息である僕を無限の魔力で蹂躙する──その光景を思い浮かべているのか、僕と目が合ったリリスは口許の笑みを深めた。
「ハァ、ハァ……まだ、終わらないよ……!」
苦し紛れに吐く台詞。声を張り上げ、無理矢理にでも笑みを作る。
「どうしたらお前の心は折れるのか……《神》の力を潰すにはどれ程の魔法をぶつけたら良いのか? あの《蛇》ではないが、私も興味がある」
槍のような長杖の先端に、紫紺の魔力光が集約していく。
【悪魔の母】の破壊の魔法が放たれた。
「《大災厄》!」
たった一言の短い詠唱が行われ、小さな魔力の球が地表へ落下する。
阻止することは叶わない。僕とリリスとの距離は30メートルほどで、魔法の発動前にこちらから魔法をぶつけることは出来なかった。
「っ──《破邪の防壁》ッ!」
僕は咄嗟に防衛魔法を展開し、その攻撃に備える。
燃える地面の上にあって体力がどんどん削られる中、精霊達から借りた魔力で純白の防壁をドーム状に生み出した。
直後、魔力球が爆発する。
「────ッ、あああッ!?」
世界が壊れたのかと本気で思った。
思わざるを得なかった。
閃光と爆風、衝撃に立っていることすらままならない。
まさしく《大災厄》と呼ぶに相応しい魔法は、大地を引き裂き空間すら歪め、僕を奈落の底まで突き落とした。
視界が暗黒に染まっていく。
これが死なのか──その瞬間、脳裏によぎる考えを僕は頭を振って払い除けた。
リリスの笑い声が耳の奥に反響する。僕の顔を見て、あの女は嗤っている。
「リリ、ス……まだ、僕はッ……!」
槍が手から抜け落ちるが、それでも残った片腕を天へ伸ばした。
伸ばし、掴もうと懸命に手を動かすも、この手は何も掴めない。
「負けるわけには、いかない……僕は、負けたくない……! こんなの、こんなの、嫌だ……っ!」
涙が流れ出してくる。血の涙だ。
奈落の黒に血の赤が混じった。僕はここから抜け出そうと足を蹴り出し、もがく。
「く、そっ……! リリス……!!」
なんて無様な姿なんだ。
掠れ声で敵の名を呼びながら、僕はそんなことを思った。
もう抵抗する力も残っておらず、あるのは醜く足掻くちっぽけな姿だけ。
僕は目の上にかかっていた白い髪が元の黒髪に戻っているのを見て、自分の《神化》が解除されたことを知った。
「ごめん……エル。僕は、勝てなかった……」
リリスの本気に敵わなかった。
僕の、負けだ。
彼女との戦いを想定していなかった僕の失態だ。怪物との戦いで疲弊したところを狙われる――その可能性を考慮していなかった僕の失敗だ。
「くそ、くそッ……!」
エル達に申し訳ない気持ちが胸の内に際限なく沸き上がってくる中、それと同時にたまらなく悔しいという思いがあった。
あの時エルに倒すと誓った相手。全ての元凶である悪の権化。その相手に、消耗していたとはいえ全く敵わなかった。
それが悔しい。力を得た《神器使い》として、戦士として、そして一人の男として、この敗北が悔しい。
「シアン、ジェード、アリス、ユーミ、リオ……オリビエさん、ヴァルグさん、レアさん……それに、カイ。僕は、リリスを倒せなかった。ごめん……」
僕の意識と肉体は深淵へと沈んでいく。
もがくことさえ既に許されていなかった。【悪魔の母】が作り出した《死》の世界に、僕は引きずりこまれていく――。
*
その時だった。
闇の中にいた僕に、どこからか語りかける声があった。
『敗けて悔しかったら泣け。そうして敗けを受け入れろ。だがな、トーヤ……負けたからって《反撃》を諦めちゃあいけない』
それは懐かしい声だった。
幼い僕を育ててくれた、一番尊敬すべき人。僕に戦い方、生き方を教えてくれた、この世界に一人の父さん。
幻聴だろうか。それとも、これがいわゆる「走馬灯」というやつなのだろうか。
でも、それにしてはこの声は鮮明すぎる気がした。耳に直接流れ込んでくるような、そんな感じ……。
「父さん、なの……?」
僕は問いかける。
もしかしたら、父さんが近くにいて僕のことを見ているかもしれない。そう期待して言葉が返ってくるのを待った。
……でも。
『俺は君の父親じゃあないよ。そうだな……まあ、《同志》とだけ言っておこうか』
父さんじゃないなら、一体誰なんだ?
尋ねるが、その人は答えてくれなかった。
答えの代わりに彼は強い声音で僕に呼びかける。
『さあ、戻ろう。俺の力ならその空間から君を出す手助けができる。だが、それを成すには君自身の強い《心》のエネルギーも必要なんだ』
――《心》。
剣や槍を振るって戦うにも、魔導の力を使うにも、強い「精神力」がなくては出来ない。
僕にはそれがあったはずだ。実力で勝てない相手にも《心》の力では負けてない、そう思ってこれまでの戦いを乗り越えてきたつもりだった。
アマンダさんや巨人王に敗れた時も、その思いを胸に次へ繋げてきた。
それが、リリスに負けた途端にこの様か。そんなの、エル達にどう顔向け出来るっていうんだ?
僕は自分に問いかける。
自分の心に、《闘志》に呼び掛ける。
本当にここで死んだままでいいのか。
死んだように倒れ、眠り、怠惰に魔女に操り人形にされる──そうなったらどうなる?
僕は自分の手でエル達を傷つけてしまうだろう。そしてエル達は苦渋の思いで杖を僕へ向けることになる。
──そんなの、嫌だ。
彼女達に血を流させるようなことは、決してあってはならない。
僕は彼女達が笑って過ごせる世界が欲しい、そう願ったはずだ。自らそれを壊すなんて、絶対にしたくない。
それに……。
「僕は、リリスに勝ちたい……! あの女に敗れたまま、この命を終わらせられない! この悔しさを晴らすまでは、僕は死ねない!」
顔を上げ、叫んだ。
それは魂からの叫びだった。僕の中にある気持ち、望み、それらを声にして表明する。
その直後。
僕がいた暗黒は白く転じ、それから世界は元の風景を取り戻した。
*
「チッ、余計な邪魔をしてくれるな……」
リリスの舌打ちが耳に届いたことで、僕は自分がまだ生きていて正常な感覚を有していることに気づいた。
目だけを動かして辺りを見ようとすると、一面雲のない夜空である。どうやら僕は今、地面に横たわった姿勢でいるらしい。
「っ……さっきの声は……?」
僕はさっきの声の主を探すため立ち上がろうとしたが、左腕を失った上に体力を限界まで消耗しているため、それが出来ない。
そんな僕の声を聞いたのだろう。声の主らしき男性が、僕の様子に気づいて言葉を投げ掛けてくる。
「目を覚ましたか、トーヤ。……おっと、まだ身体を動かしちゃいけない。そこで大人しくしていなさい」
このタイミングでこの場所に来ることが出来、なおかつリリスの「邪魔」をすることが可能な人物。
この人は、一体……?
「あなたが話に聞く『リリス』殿ですか。噂に違わずお美しい」
「……《神器使い》が、無駄口を叩くな」
「そんな表情をしては綺麗な顔が台無しですよ。まぁ、私はそんな貴女も魅力的だと思いますが」
怒気を帯びたリリスの声が《神器使い》と呼ばれた男へ浴びせかけられた。
しかしそれに一切怯まず、というか全く気にせず、男は笑い混じりに言う。
リリスが歯軋りする気配。二人は睨み合っているのだろう、しばらく沈黙したままの時間が続いたが──僕が息を呑んで状況を必死に頭で整理していると、突如耳元で柔らかい少女の囁きが聞こえてきた。
「トーヤ君、だよね? 待っててね、今癒してあげるから」
僕の知らない声だ。
──この人達は、誰だ……?
僕を助けてくれたことから、敵ではないはずだ。あの男の人は自分が僕の「同志」であると語っていた。それにリリスの《神器使い》という言葉……。
神器を有した第三勢力。そんな勢力があるとしたら、それは─。
「──フィンドラ、王国」
いつの間にか僕に膝枕をしてくれている少女を見つめ、その国の名を呟く。
フィンドラ王国はこの「ミトガルド地方」の四か国のうちの一国だ。スウェルダ、ルノウェルス、マーデルの三国より比較的歴史は短いものの、近年ある力を得て国力を増した国と言われている。
その力こそが、おそらく《神器》なのだ。
「……」
僕の呟きに少女は目を細めるだけで何も口にしない。
ただその微笑みが、答えを現していた。
「私はフィンドラ王国国王、アレクシル・フィンドラ。神トールに選ばれし者としてここに来た。リリス殿、既に弱りきった彼をいたぶるのもつまらないでしょう。ここは私が、貴女と一戦交えましょう」
少し楽になってきた首を傾けて、僕はアレクシル王とリリスを見た。
後ろで一つに束ねられた長髪は黄金に輝き、同じ色の瞳は鋭い。その整った面差しからは、強者を目の前にして燃え上がる強い戦意を感じられる。彼の長身にはこれも金色の全身鎧が纏い、手には巨大な鉄槌が握られていた。
青い稲妻を迸らせるハンマー──雷神トールの神器、《ミョルニル》である。
「アスガルドの最高神がオーディンなら、最強神であるのがトール……まさか、あんな力をフィンドラ国が持っていたなんて……」
驚嘆することしか出来ない。
だが、どんな理由かはさておき彼は僕の代わりにリリスと戦うと言っている。その協力を拒む選択は愚かというものだろう。
リリスは少女に治癒魔法をかけられる僕を一瞥し、舌打ちするとアレクシル王に視線を戻した。
殺意と憎悪を宿した眼が王を強く睨み据える。
「……邪魔者には容赦はしない。私の魔法にひれ伏すつもりがないのなら、残念だが死んでもらうしかないな」
リリスは赤い舌で唇を舐めた。美しい顔に笑みを浮かべ、彼女はふわりと上空へ浮き上がった。
アレクシル王もそれを追う。《雷神》と《悪魔の母》が空中で対峙し、僕にとって全くの異次元の戦闘が幕を開いた。
圧倒的だった。
その戦いは《神器使い》である僕が知る「戦闘」の範囲を遥かに超えたものだった。
雷神の稲妻が闇を切り裂いたと思えば、魔女の光線が赤黒くそれを塗り返していく。
二人の姿を目視することはもはやかなわなかった。光の明滅、それを目で追うことしか僕には出来ない。
「あれが、トールの力……。そして、リリスの本気なのか……」
自分とはけた違いの実力を有したアレクシル王にも驚愕したが、それよりもっとリリスの本当の力の大きさに、僕は心底畏怖の念を覚えずにはいられなかった。
これまで自分は強者だと恥ずかしながら思っていた。だけど、そんなのは僕の思い上がりに過ぎなかった。
最初から僕にはリリスと戦って勝てる可能性などなかったのだ。きっとあの女は、それを知らずに立ち向かおうとした僕を内心で愚かだと笑っていたのだろう。
「──ッ」
悔しさに唇を噛む。舌の先に血の味を感じる。
「だめですよ、傷つけちゃあ……。気持ちは痛いほどわかります。でも、今は堪えてください」
切れた唇に女の子の細い指が沿うように触れ、たちまち癒されていった。
救われている立場の僕は、大人しく彼女の言葉に従って歯を食い縛る力を抜く。
「……君は、あんなものをいつも見せられていたの……?」
アレクシル王のことを指して僕は訊ねた。
少し首を傾げて考えてから、赤茶色の髪の少女は答える。
「いえ。……私も父様が本気で戦う場面は初めて見ました。何だか、本当に人じゃない、神様みたいですねぇ……」
すごいです、と雲の上にいる彼らを少女はそう評した。
父様……となると、彼女はフィンドラの王女なのか。王の側近だとばかり思っていた僕は、慌てて彼女の膝から頭を跳ね起こす。
突然の僕の行動に王女様はびっくりした声を上げた。
「ふぇっ……!? あ、治りましたか? よかった……!」
「す、すみません皇女様! 体を治してくださって、本当にありがとうございます。その……僕、行かなきゃならない場所があるので──」
「わかってます、見返りは求めません……ですから、早くカイさんの所へ向かってあげてください。悪魔を、倒してきてください」
王女様は僕の手を両手で包み込み、瞳を覗き込むようにして言った。
悪魔を許してはおかない──僕達と意思を同じくする彼女の願いを受け、立ち上がる。
「……あっ、あの、私エミリアっていいます! あの、その……戦いが終わったら、また会いましょう!」
思い出したように付け加えられた王女様の声に頷き、僕は走り出した。
エミリア王女、そしてアレクシル王に感謝しつつ、一直線に王宮の尖塔、その最上階に鎮座する女王のもとを目指す。
あのリリスに敵わなかった僕の《神化》がベルフェゴール/モーガンに通用するかは正直わからない。でも、やる前から諦めるのは論外だ。
悔しさに歯を食い縛るのも、涙を流すのも全てが終わったあとだ。今はただ、敗北から再起して突き進むだけ。
「この戦いを乗り越えて、僕はもっと強くなる。現在の僕より大きな、この手でみんなを守れる力を手に入れるんだ。僕はもう、守り抜くことを諦めたくない……!」
彼女を戦闘から逃がす──スレイプニルがいるとはいえ、僕はエルを戦場の中に放り出してしまった。
怪物と戦うよりも命の危険が少ない選択肢だったが、その選択の理由には、彼女を守れる自信がなくて遠ざけたというものがあった。
そんな自分が許せなかった。悔しかった。
そして、そうなったのは僕が弱かったから。
「僕は弱い自分を変えてみせる。彼女を永遠に守る──あの時の誓いを果たすために。みんなが笑顔でいられる世界のために、巨悪に立ち向かう力をつけなくちゃいけないんだ。……だから、これはそのためのリスタートだ」
諦めることも、後悔することももうしたくない。
僕は自分の理想の「最強」になるため、ただひたすら前へ走っていく。
夜明けはすぐそこまで迫ってきていた。




