33 槍を掲げ
激しく燃え上がる地面を僕は歩いていく。
見上げる先にいるのは、二体の怪物だ。
フェンリルと、ヨルムンガンド。とある科学者の手で『神話』の世界から蘇った、破壊の権化。
「僕が、終わらせる。あの子は死なせない……僕だけでこいつらを止めて、《組織》と決着をつける……!」
全身が軋み、痛みに悲鳴を上げている。
だけど僕は進みだす足を止めはしなかった。残された右手で《神槍グングニル》を握り、顔にかかる白髪を頭を振って払う。
歯を食い縛って闘志を奮い立たせ、叫んだ。
「おい、化け物! 僕はここにいる! お前達が倒し、殺し、征服したい敵である僕は、ここに立っているぞ!」
本能のままに睨み合っていた怪物達は、闘争の始まりを邪魔した僕を一瞥した。
赤い目だ。血走り、破壊の衝動に突き動かされる怪物の瞳。さっきまで理性を保っていたフェンリルも、大蛇と邂逅した途端にその瞳になっていた。
──なんて恐ろしい、なんて狂暴さを宿した目なんだ。
この二体の前では僕なんかあまりにも小さい。
脚となるスレイプニルももうおらず、フェンリルの神速には追い付けないかもしれない。ヨルムンガンドの毒に侵されて成すすべなく倒れてしまうかもしれない。
それでも、僕が戦うことでエルの命が守れるなら。
カイやシアン、アリス達に怪物の牙が向けられないように出来るなら。
僕は槍を掲げ、命を懸けて戦える。
「ヨルムンガンド! お前にも『中身』、本体となっている人間がいるんだろう!? オリビエさんは……ヴァルグさんは、お前がやったのか……!?」
答えの代わりに返ってきたのは、口から吐かれる毒液だった。
黄金の光を帯びる槍で円弧を描き、魔力のベールを出現させて僕は防御する。
──やはり、彼らはもう……。
真実を悟っても、下を向くことは許されない。
彼らの犠牲を無駄にすることなんて、絶対にあってはならないのだから。
あの時エルに選ばれたトーヤとして、神オーディンから《神器》を授かった『英雄』として、怪物をこの手で討つ。
「二度目の《黄昏》……終末を訪れさせはしない! さあ、この槍の餌食となれ!」
僕は燃える大地を蹴りつけ、駆け出した。
雄叫びを高く上げながら、槍を振り回す。精霊の光を全身に浴びる僕はこの時、戦場を壊す《怪物》にすらなれると思った。
『アアアアアアアアアア────ッ!』
『キシャアアアアアッッ────!!』
狼と蛇の咆哮も僕のそれを打ち消す大音量で響き渡った。
戦場である王宮を激震させる叫びから、僕と怪物達の戦いは始まっていく。
*
「ぁぁああああああああああっ……!」
少女の悲痛な叫びが、紅の炎の中で打ち上がった。
美しい白と黒の髪は焼け落ち、ドレスはボロボロに。全身を焼かれる苦痛に顔を歪めながら、彼女は敵対する青年を睨み付ける。
「……っ」
──頼むから、そんな目で睨まないでくれ。
朱色の髪と瞳、紫紺のローブを纏う神ロキの《神化》を発動させているカイは、内心でそう呟く。
少女──ヘル/ヴァニタスが受けている痛みの大きさは、カイがこれまでに体感したことのないもののはずだ。
敵対勢力との戦いとはいえ、自分と殆ど年の変わらない少女にこれほどの苦痛を与えたことに、青年は心に痛みを抱えてしまう。
「……ここまでか」
《蛇》は浮遊する円盤形の《魔具》の上から戦場を俯瞰し、ロキの炎に焼かれるヘルを見て声を漏らす。
彼の瞳に宿るのは、ただ残念だという感情であった。
先程までの戦闘の熱ももう冷めてしまっている。
「他二体と比較しても、ヘルにはまだ改良の余地があるようだ。……さて、用済みの個体は処分しなければ」
「……おい」
無感情に腰から何やら道具を取り出しながら言う《蛇》に、カイは声を投じた。
灰色の眼が青年を捉える。
「何だ、カイ・ルノウェルス。戦いが終わった以上、私には君と関わる理由などない」
「お前……この女をこれからどうするつもりだ?」
カイは《蛇》の言葉を聞かずに、ヴァニタスの行く末を訊ねた。
背後でシアン達が緊迫しつつ見守るなか、彼は取手の付いた短い筒型の道具を持つ科学者に問いかけ続ける。
「この戦いの中で俺がした質問、忘れたわけじゃないよな。お前にとって、ヴァニタスは『作品』で代わりはいくらでもいる。そうなんだよな?」
「使えなくなったものは処分する、ごく当たり前の事だ。君も要らなくなったものを捨てたりするだろう? 同じことだ」
カイはこの時、自分の中で衝動的な怒りが沸き上がってくるのを抑えられなかった。
蛇の言う通り、もちろんカイだって不要なものを捨てることはある。だが、その対象が一人の『人間』であるとなると話は別だ。
「例え怪物に身を変えたとはいえ、ヴァニタスだって一人の人間じゃないか! 人間が人間を捨て、処分する……? そんなことは間違ってる!」
「それは君の価値観だろう。私はそうは思わん。これ以上使えないものを延命、維持させることは無駄だ。役目を終えたものを敬意を払って片付け、その記録を次へ活かす──実に合理的なことだ」
カイの周りにいる人は、カイを一個人として尊重する扱いをしてくれた。あの悪魔に憑かれた母でさえ、カイを見下したことは一度としてない。
だがヴァニタスは違った。彼女の主である《蛇》は、彼女をただの実験動物としか見ていない。
「お前からしたらそうなのかもしれない。だが……俺は、一国の王子として、その考えを受け入れることは出来ない。誰もが尊重さされる権利がある国……それを作るのが俺の目標の一つだからだ」
「……このままでは平行線だな。子供の主張にいつまでも付き合う義理はない」
カイが声を上げるも、蛇はそれを無視して筒型の《魔具》を炎の中のヴァニタスへ向けた。
取っ手に付けられた引き金に男の指がかけられる。ギラリとした銀の輝きを目にしたカイは、背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
「──もう戦えない者に攻撃するな。お前も、お前の《ヘル》も負けたんだ。ここから立ち去ってくれ」
蛇が魔具の力を使う直前、早口で訴える。
しかし蛇は彼の言葉に耳を貸さなかった。トリガーが引かれ、乾いた射撃音が短く鳴る。
「…………ぁ」
《神化》したカイの眼には、その弾丸が炎の中へ真っ直ぐ撃ち出されていく光景がはっきり見えていた。
だが、硬直した身体は瞬時に動いてくれない。彼が剣を振り放った時にはもう、弾はヘル/ヴァニタスの身体に到達していた。
光が、そこから溢れだした。
視界を埋め尽くす白い閃光。耳なりのような嫌な音が反響する中、カイはそれ以外の何も感じることが出来なかった。
わずかな間を置き、世界は暗転する。
……取り戻した視覚が捉えたこの場所で、《蛇》も、ヴァニタスの姿も全て掻き消えてしまっていた。
「…………っ」
カイの《神化》が解かれる。戻った彼の碧眼は、痛みに耐えるようにきつく閉じられていた。
そのまま力なく、地面へ膝をつく。
「……あぁ、また、守れなかった……」
組織の怪物を一人、倒した。悪魔との決戦へ臨むため、乗り越えなくてはならない試練だった。
それを分かっていてもなお、カイは守れたはずの命を救えなかったことを悔やまずにはいられなかった。
怪物の身が死のうと、その本体であるヴァニタスの身体はまだ助けられたはずなのに……。
「カイ……」
炎の防壁が解除され、そこからカイの元へシアン達は歩み寄っていた。
彼女らは無力さにうちひしがれる青年に何と声をかけたら良いか分からず、ただ小さく彼の名を呼ぶことしか出来ない。
しばらく青年はそうしていたが、やがてシアン達が来ていることに気づいて視線をそちらへ向けた。
沈痛な面持ちでいる少女達に、カイは掠れた声で言う。
「……行こう。《組織》を、悪魔を討つ。あの塔の最上階で、怠惰の女王と決着をつけるんだ」
青年は立ち上がった。既に全身に傷を負いながらも、彼は剣を握って離さない。
シアン達も彼に応える道を選んだ。彼を助け、悪魔を倒すことがこの世界の未来を少しでも明るくするのなら──自分達は彼を支えよう。そう思った。
離れた場所、広大な王宮の庭園の向こうから怪物の咆哮が鳴り響いてくる。
狼と蛇の叫び。先程から聞こえていたそれは激しさを増し、時おりその中に少年の雄叫びが混じってきていた。
トーヤが、戦っている。
「トーヤ……」
エルの声は聞こえてこない。その現場を見ていないカイには推測しか出来ないが、エルは恐らく倒れるかして戦えない状態にあるはずだ。
そんな状況の中、一人で果敢に戦う少年の名をカイは呟く。
「カイさん、どうしますか……? あの人の、トーヤの元へ向かうんですか」
皆を代表してシアンが訊ねた。
悪魔との戦いが第一、それはこの国の未来を平和にするためだということは解っている。
だが、カイは短い間ながら共に戦ってくれた少年を助けたかった。命を燃やし、咆哮を上げて戦っている彼を、何としてでも支えてやりたかった。
「──っ」
それでも、カイは選ばなければならない。
一人を取るか、この国の大勢の未来を優先するか。
ルノウェルス王国の王族として生まれたカイは葛藤の末、その選択を口にする。
「俺は、悪魔の元へと向かう。それが俺に与えられた使命であり、宿命だからだ」
悪魔の呪いからこの国を解放する。
トーヤやオリビエ、ヴァルグ、リリアン、この戦いに手を貸してくれた全ての者がそれを望んでいるなら、報いるのが彼の義務だ。
カイは歩き出す。再び塔を上り、頂点に鎮座する女王と対面するまで彼は止まれない。
ヘルとの戦闘で魔力は殆ど使い果たした。剣を振るう体力も気力ももう限界が近づいている。彼の身体は擦りきれそうなほどに疲弊し、傷だらけだ。
──これで終わらせる。
最後の力を振り絞って青年は進む。
視界の端から火の手が迫ってくる中、少女達と共に彼は塔の入り口に再び足を踏み入れた。
*
「ああ……これが、《終末》なのか」
狼の呟きが、王宮の外壁上から静かに落とされる。
この国の王子にルプスと名付けられたその獣人の男は、眼下に広がる戦闘の光景に瞳を細めた。
そして、力なく笑う。自分が《蛇》から受け継ぐはずだったフェンリルとは、あのような化け物だったのかと今更ながら畏怖の感情が湧き出してきた。
「早めに目が覚めて良かった……私があの化け物だったとしたら、到底あの少年に敵うとは思えないからな」
彼は胸壁に背中を預け、浅く呼吸しながら首を回して後ろを見ていた。
その姿は血化粧に彩られており、混戦の中で敵兵を幾人と葬って来たことが窺える。
満月の下で力を増すことが出来る『狼人』の爪と牙で戦場を潜り抜けてきた彼も、多くの剣傷を受けて、今はろくに動くこともままならなくなっていた。
「私は一度、道を踏み誤った。今選んだ道が正しいものなのか、それも正直わからん。……だが、これだけは言える。私は私として生まれてきた。名前があろうとなかろうと、私は私なのだ」
押さえた腹から血液が流れ落ちて足元に血溜まりを作っている。
目を閉じた彼の耳には、少年と怪物が命を懸けて戦う音だけが届いていた。
自分のしたことに後悔は尽きない。この手で傷つけた人間は、憤怒に任せて焼き殺した人間の数は少なくはない。彼は《憤怒》に憑かれていたとはいえ、決して許されざる過ちを犯した。
「許せとは言わん。私に愛した家族がいたように、私が殺した者達にも家族はいた……そのことを見失っていた私は、地獄に落ちて当然の罪人なのだからな」
掠れた声でルプスは言う。
死に際に懺悔する彼の言葉に、そこで返す声があった。
「ルプス……あなた、その傷……!」
目を開けてみると、そこにいたのは金髪碧眼の少女──ミウ・ルノウェルスだった。
小人族の少年、ヒューゴと共に駆け寄ってくる彼女は短杖をかざし、治癒魔法の詠唱を開始する。
「……死に損なったね、おじさん」
「……ああ。ここで終わると思ったんだがな……つくづく、私は運が悪いらしい」
「間違ってもそんなこと二度と言わないことね。この戦いの中で、散った命も少なくはないのだから」
微笑みつつ声をかけるヒューゴ、強ばっていた身体から力を抜くルプス。
自分が治癒する男の台詞に、声を震わせてミウは言った。
ルプスは彼女の顔色が青白いことに気づき、その細い腕を掴んで呪文の詠唱を止めようとする。
「おい……お前、もう身体に殆ど魔力が残っていないんじゃないか? 私の治療はいい……これ以上魔力を失っては、お前の命が危なくなる」
「目の前で人が死のうっていうのに、放っておけるもんですか。……悲しい戦いで人が死ぬなんて、私は嫌なの」
ミウの瞳は涙で潤んでいた。ルプスは歯を食い縛って胸に突き刺さる痛みに堪える。
彼も彼女もその目で見てしまった。怪物に立ち向かい、最後まで戦うことを諦めずに散っていった戦士たちの姿を。
その時、彼らは何をすることも出来なかった。自分たちの領域を超越した、まさしく《神》の力ともいえる怪物の能力に怯え、立ちすくむことしか出来なかった。
「……私達は弱い。いくら敵を倒そうと、いくら刃を振るい続けようと、あの少年が見ている場所には決してたどり着けないだろう」
男は悟る。彼はドサリと壁の床面に腰を落とし、背中の向こうで繰り広げられているトーヤと怪物達の戦闘を賞賛した。
「……この世界で最も強い者は、きっと彼だ。どんな強大な怪物でも、悪魔でも、彼を潰すことは決して出来ない」
ミウの治癒魔法の光が怪物の炎の赤と交わり、儚い輝きを放つ。
彼らが見守る先で、少年は槍を操り怪物との舞踏を繰り広げていた。




