18 叫ぶ者
僕たちの前に現れたのは、大剣を構えたマティアスだった。
彼は僕たちを虚ろな目で見ると、大剣を大きく振りかぶってくる。
「防衛魔法!」
エルがマティアスの攻撃をバリア魔法で受け止める。
僕は、普通ではない様子のマティアスに声をかけた。
「マティアス! どうしちゃったんだ!?」
すると、頭の中にオーディンの声が聞こえてきた。
『最後の試練だ。この剣士を倒す事が出来たら、【神器】を渡してやっても良い』
僕が、マティアスを倒す……でも、あの大剣は手強い。どうすれば勝てる?
「オーディン様! 彼は貴方が操っているのですか?」
『そうだ。この青年は【英雄】の器ではないが、強い力を感じたのでな。自害しようとしていたところを、ここまで連れてきた』
エルが訊き、オーディンは楽しそうに笑う。僕たちの闘いを、楽しみにしている。
神の言葉からそんな気持ちが伝わってきた。
「マティアス、僕は、君に……絶対に勝つ!!」
僕は短剣を構え、駆け出した。
ミノタウロスとの戦いで消耗した刃だが、人を倒せるだけの力はまだある。
マティアスは大剣を横に薙いだ。大味なその攻撃を僕は素早い動きでかわし、相手の懐に入り込む。
「くらえッ!!」
だがマティアスもそう簡単にはいかせてくれない。すっと身を引き、彼は僕の短剣を左足で蹴り上げた。
マティアスに蹴り上げられ、小さな剣は宙を舞う。
右手に、鋭い痛みが走った。
まだだっ……!!
僕はすかさず左手に【ジャックナイフ】を装備。
僕の理想を、正義を貫くために……ッ!
「はああああああああッッッ!!!」
僕は前に向かって【ジャックナイフ】を突き出す。
主の意思と同調するように、深紅に染まったナイフは激しい熱を放った。
『ほう……【魔剣】か』
神オーディンの興味深そうな呟きが聞こえた。
マティアスが一瞬怯んだ。
僕は【ジャックナイフ】を突き出した姿勢のまま、マティアスへ突っ込む。
しかしマティアスは次の瞬間、大剣を盾にして攻撃を防いできた。
更に、長いリーチを持つ脚で僕の足を掬おうとしてくる。
バランスを崩し僕は転びそうになるも、何とか飛び退いて体勢を整えた。
「やり方が卑怯だぞ!」
僕は怒りの声を上げる。
「…………」
マティアスは何も言わず、剣で返してきた。
彼が振り回す大剣は重くて硬い。
当たれば命取りだが、重い剣はそう素早く扱えない。
僕の速さと、この【ジャックナイフ】があれば……!
僕はマティアスの攻撃を避け、彼の左胸に【ジャックナイフ】を突き立てる。
熱を帯びたナイフが防具を突き抜け、彼の心臓へと達しようとしていたその時――。
「……えっ?」
マティアスは、僕の熱を帯びたナイフを掴んだ。僕が振りほどこうとしても、掴んだまま離さない。
手が焼けただれようが構わず、マティアスは僕のナイフを掴み続けた。
「くっ……こいつ……!?」
僕は驚愕に目を見開く。
マティアスは自分の手が燃えているにも関わらず、表情を一切変えず無表情だった。
彼は魂の抜けたような虚ろな目で、僕と、ナイフを見ていた。その手はまだ力強くナイフを掴んでいる。
もしかしたら……彼はもう、痛みすら感じられなくなってしまったのかもしれない。
彼が高熱を放つナイフを掴んでいられるのは、彼の戦いへの執念なのか。それとも、神がそうさせているのか。
もし、そうだとしたら……神様は随分と残酷なことをするものだ。
マティアスはその手が燃え尽きて骨だけとなっても、ナイフを握ったままだった。
僕は、彼の手の中からナイフを引き抜く。そして、彼の左胸……心臓の真上に刃を向けた。
「マティアス、僕は……」
「……トーヤ」
マティアスが、唇を微かに動かした。
僕はナイフを持つ腕を硬直させてしまう。
「トーヤ……。お前は、俺を許せないか?」
手の皮と肉を失った痛みに顔をしかめ、マティアスは訊いてくる。神の意思を退け、最後の気力を振り絞って。
僕は今にも床に崩れ落ちそうな彼の顔を見上げ、表情を歪める。
これまでにされた仕打ちを考えれば、僕が『許す』なんて言う訳ないじゃないか……。彼は、頭がおかしくなってしまったのか?
僕は今にも張り裂けそうな震える声で呟く。
「……僕が、君を許すと思うの?」
「……そう、だよな。俺は、酷いことをした。人にあらざる、悪魔の所業だったと思ってるよ」
マティアスの瞳と僕の瞳が交錯する。
決して、繋がる事のなかった僕たち。そんな僕たちだが、たった一時だけ、『繋がった』瞬間があった。
ミノタウロスに殺されそうになっていた僕と、それを助けたマティアス。
その一瞬を思い返し、複雑な心境に陥る。
僕は一度彼に救われた。彼が現れなかったら僕は、とっくに死んでいたじゃないか。
「……なあ、トーヤ。俺は、お前にある意味では嫉妬していたのかもしれない。お前は、父さんに大事にされていたからな。俺はそんなお前の姿を見て、嫉妬して、あんな事を……」
マティアスは乾いた涙を流す。
僕は彼の目から自分の目を離さず、揺れる瞳を彼に向け続けた。息は荒い。
心の中で、嵐のように感情が渦巻いている。
「トーヤ……痛かっただろう? 怖かっただろう? 本当に、ごめんな……」
感情の渦は激しさを増す。
荒れ狂う心とは逆に、口からは言葉一つ出ない。
「ようやく分かったよ。お前が今までどれだけ痛かったか。どれだけ怖かったか。お前だけじゃない、お前の妹もだ。殴られて、蹴られて、なぶられて、犯されて……。お前達の体も心も傷付けてきた、その痛みがようやく分かった」
浮かぶのは思い出したくもない悪夢の数々。
目の前の彼から受けた様々な暴力。肉体的、精神的にも追い詰められ、壊れかけた心。
僕の目からも涙が流れ出してくる。
「妹の体の痣は、最期まで消えることはなかった。僕なんかの事はいい、でも妹が傷付けられたことは絶対に許せない」
マティアスは目を閉じる。
涙が一筋、彼の頬を伝って落ちた。
「……すまなかった」
怒りが、爆発した。
「すまなかったで済まされる事じゃないでしょ? 妹は、妹はもう死んだんだよ!?」
僕は肩で息をしながら、マティアスに突き付けるナイフを持つ手を震わせる。
だがそう叫んでから、僕はユグドのおじいちゃんの言葉を思い出した。
『憎しみや恨みを抱えたまま生きるのは、不幸な事じゃ』
妹は、死んだ。いくらマティアスを恨んでも憎んでも、妹は帰って来ない。
それに、彼女を死に追いやってしまった本当の罪人は、僕自身だ。
湧き上がった僕の怒りの感情は、急速に矛を収めていく。
「なぁ、トーヤ……。俺に、償わせてくれないか? お前の怒りや苦しみが、それで薄れてくれるならいい……」
マティアスの手から大剣が音を立てて落ちた。
彼は瞼を開き、赤くなった瞳を僕に向ける。
「さあ、トーヤ。俺をそのナイフで刺してくれ。……俺を殺してくれ」
僕の手は震える事を止めない。
涙が溢れ出し、首は横に振られる。
「駄目だよ……。僕には、出来ない……」
「……【神器】を手に入れて、【英雄】になるんだろ? そこの緑の髪の子と約束してたじゃないか。俺を殺さなければ、お前は【神器】を手に入れる事は出来ない」
僕は視線をエルに向ける。
エルは、何も言うことなく僕を見つめ返してきた。
なんで何も答えてくれないんだ、エル。僕にはどうしたらいいか、もうわからないよ……。
「殺せ、トーヤ。すぐ終わる。そのナイフで一突きだ。ミノタウロスを倒した時のように……俺を怪物だと思って刺せ」
マティアスの声が、彼の声じゃないみたいだ。
悪魔か怪物か、その声が別の生物の声のように聞こえてくる。
「お前に殺される事が、今の俺の一番の望みだ。……トーヤ、どうか俺の望みを叶えてくれ」
マティアスは囁くように、だが強い語気で思いを吐く。
「俺を殺すことで、お前の苦しみは一つ断ち切れるんだ。お前が前に進むには、俺という存在を断ち切らないといけないんだよ」
「マティアス、僕は、君の事を……」
「いいから、殺してくれよ……。そうすれば、お前は俺から解放される。もう苦しまなくていいんだ。俺を殺せば、俺も、お前も楽になるんだよ!」
乾いた声で懇願する彼に、僕は自分の感情を捨てた。
震える手でナイフを持ち直し、マティアスの左胸に切っ先を向ける。
「──マティアス、さよなら」




