32 また、会おうね
「さぁ、行くよ」
トーヤの言葉の直後、馬蹄が地面を踏み鳴らす重い音が響いて聞こえてきた。
その音を聞いた少年は槍を背の帯に器用に取り付けて、エルを素早く片腕で抱き寄せる。
ごくりとエルは唾を呑んだ。トーヤは彼女に「大丈夫だよ」と囁きかけながら、神速の脚でやって来てくれた八脚の黒馬を視界に捉える。
『ヒィイイイイイイン!!』
神オーディンの愛馬スレイプニルは、甲高い嘶きが聞こえたと思えばもう目の前に現れていた。
満を持して戦場に馳せ参じた神の馬は、トーヤとエルの姿を見つけて甘えたいような目を一瞬するものの、すぐにきりっとした眼差しで主人を見つめてくる。
フェンリルが動き出すまでもう間もない。満月の下で十分に魔力を回復させた狼は一切の容赦なく敵を殲滅しにかかるだろう。
「頼むよ、スレイプニル!」
エルを黒馬の鞍に乗せ、続いて自分もそこに飛び乗る。
両脚で馬の腹を挟みながらトーヤは背の槍を抜き払い、エルが腰に手を回すのをしっかり確認した。
満月の下で力を増幅させた狼と正面から対峙して、そして──。
「はああああああッ!!」
『ウオオオオオンッ!!』
トーヤとエイン、二人が共に叫び、神速の一歩を踏み出した。
芝の地面に蹄と爪をめり込ませて凄烈な瞬発力を発揮する両者の初撃は、互いに交差するところから始まる。
高い金属音が打ち鳴らされ、槍の刃と鉄のごとき硬度を誇る前脚の爪がぶつかり合った。
「っ──!」
両腕で槍を持てなくなった分、トーヤの右腕にかかる負担は増している。元々受け止めて相殺するのも困難なフェンリルの爪と刃を衝突させた彼は、腕から肩へと伝わる衝撃の大きさに顔を歪めた。
「でも、まだまださ」
腕一つでも全然戦える、少年は自分にそう言い聞かせる。
彼は胸の内にわずかに残った不安を払拭するように、小さく頭を振った。
神化によって白く美しい長髪となったトーヤの後ろで、エルは彼の台詞に頷く。彼女は髪を風圧に煽られながらも右手で杖を抜き、少年の手助けとなる魔法を行使した。
「【雷精霊の付与魔法】」
神器グングニルと同属性の付与魔法。主に武器の耐久力と火力を底上げする効能のある魔法を得て、二撃目の攻撃は初撃よりもやや手応えを増したものになる。
三、四、五……連続した刃の衝突はわずか一秒の間に何度も続いた。
エルが目で追うことも殆どままならない速度の戦闘をトーヤとエインは繰り広げる。フェンリルとスレイプニル──どちらも《神速》の脚を誇る魔獣を駆り、二人の少年は自分の持てる力を惜しみ無くさらしていった。
「ぜああッ!!」
『オオオッ!』
今彼らを外野から誰かが見ていたとしたら、おそらく二つの黒っぽい影が風のように駆け巡っているだけに見えただろう。
ルノウェルス王宮の広々とした庭園の全体が《魔獣化》の怪物と《神化》した英雄にとっての戦場となっていた。
「《氷晶の花弁》!」
円形の城壁内での高速戦闘は加速を止めない。
エルが氷魔法をフェンリルの足元へ狙撃するも、怪物はそれをものともせず──脚の一部が凍ろうと構わず──スレイプニルを追ってきた。
さらにフェンリルは全身を赤く発熱させて氷を溶かしてしまう。炎熱の呼気を放ちながら猛追する怪物をちらりと見やるエルは、思わず冷や汗を流さずにはいられない。
「トーヤくん、これは不味いんじゃないかい? 私達、いつの間にかフェンリルに追われる形になってる。このままじゃあ……!」
「いや、これでいい──これなら必ず勝てる、だから僕に任せてくれ」
焦るエルとは対照的にトーヤは至って冷静であった。
長い時を生きたエルも知識と経験で少年を圧倒してはいるが、なにぶんトーヤの方が幾つもの「修羅場」をここ最近に渡って潜り抜けてきている。戦いのセンス、咄嗟の判断力ではトーヤが上だ。
ここは彼の言葉を信じよう──そう決めたエルは「わかったよ」とトーヤに答える。
美しい庭園の植木や小川をかわしながら、二人を乗せたスレイプニルは疾駆した。
『アアアアアアッッ!!』
大きく開かれたフェンリルの口から炎の連弾が射出される。
首を横に振りかぶって放たれたそれは、左右への回避を敵に許しはしない。
触れたもの全てを燃やしていく狼の炎に、トーヤは振り返らず──ただ一直線に走ることを選んだ。
「スレイプニルの脚は速いけど、彼自身に魔法や物理攻撃への耐性はない。彼を潰されては僕達は加速したフェンリルに追い付けなくなってしまう。エル──スレイプニルに一切の攻撃を当てさせないで」
「任せて、トーヤくん! ──《破邪の防壁》!」
闇を払う純白の防壁が後方、迫り来る炎の前に出現した。
やれる限り範囲を横に広げたエルの防壁は、狼の爆発的な魔力をもって爆散する。
──速度だけじゃなく、魔力も上がっているのか。
エルは彼女が作り出せる最高の防御を打ち砕かれ、唇を噛んだ。
今の攻撃は無数の球を打ち出す広範囲攻撃だ。もしあれが一つの巨大な火球となり、トーヤが駆るスレイプニルがそれを回避できなかったらどうなるか。そう考えてエルは戦慄する。
いくら自分に魔力があろうとも、トーヤのそれには限りがあるし、スレイプニルの持久力を過信しすぎてもいけない。
長期戦は出来ない、早く決着をつけなくてはならないのに──雷や水の魔法攻撃を打ち出しながら、魔導士の少女は心に確かな焦りを抱いていた。
「《炎魔法》! 《雷魔法》!」
精霊の加護により通常よりも遥かに威力を増した魔法。
しかしそれであっても、フェンリルに致命傷は与えられなかった。
狼の怪物は赤い眼を爛々と輝かせ、獲物を狩る獣の瞳でエル達を捉え続ける。何度攻撃を当てられても怯まず、恐れを忘れた獣は決して止まりはしない。
『ガアアアッ!!』
芝の地面を蹴り飛ばし、庭園の植木や彫像をなぎ倒しながらフェンリルはばく進した。
その通る道は破壊の炎によって燃え尽きていく。かつての栄華の名残を醸したルノウェルス王宮の庭園が、以前の形をみるみる内に消失させられてしまう。
「トーヤくん! フェンリルがもうすぐそこまで来てる、何か策はあるのかい!? 至近距離の爪と牙の攻撃を防ぐ自信、私にはない……!」
「防がなくていい! フェンリルの攻撃を防ぐのは、僕でも君でもない──」
トーヤが何を言っているのかエルは瞬時に理解できなかった。
音速を超えた極限の戦闘下にあって、彼女は自分達以外の世界が見えていなかったのだ。
そして、それはフェンリルも同じだった。勝利をひたすらに求めるエインの気質がそうさせた。彼にはトーヤとエルしか見えていない。障害物には目もくれず、身体に傷がつこうとなぎ倒して突き進んでいることが何よりの証左だ。
「跳べ! スレイプニル──!!」
少年の声が高く響き渡る。隻腕の《神器使い》に御される黒馬は主と共鳴するように嘶き、目の前にある大きな石像を踏み台に飛び上がった。
「──エル、しっかり掴まってて!」
「っ、トーヤくんッ……!」
乗り手のことを考慮していない荒々しい跳躍に、トーヤは背後の少女へ警告した。
エルは脚だけで馬を御す彼の力に驚愕しつつも頷き、トーヤの背中から絶対離れまいと強くしがみつく。
『ウオオオオオオッッ!!』
フェンリルはスレイプニルが空中に高々と躍り上がったのを見て、巨大な黒い炎を吐き出した。
ちらりと一瞬だけ後ろを見てトーヤは呟く──予想通り、と。
空中に跳躍した黒馬は敵にとって完全に的だ。地表とは異なり動きに制限があるここでは回避が難しくなる、フェンリルは確実にそう思うはず。
フェンリルの行動を読むことはトーヤにとって容易かった。ある意味では素直とも取れる敵の行動に、これまで様々な相手と剣を交えてきた少年は最適な答えを出すことが出来る。
「さぁ、来るんだ怪物ッ!」
猛るトーヤの笑みは怪物の目に強く焼き付いたことだろう。
スレイプニルを駆り、グングニルを振るいながら少年の眼はしっかりと周囲を見ていたのだと、その直後に狼は思い知った。
『シャアアアアアアアッッッ!!』
大蛇の咆哮が狼のいる大地を震撼させる。
その身体を赤々と燃やす《世界蛇》──ヨルムンガンドは鋭い毒牙の並ぶ口を開け、フェンリルの炎の対角線上からこちらも火炎を吹き出した。青い輝きを宿す灼熱が放たれる。
「っ──うおおおおッッ!!」
背後からは狼の、眼前からは大蛇の炎が迫っている。当たれば確実に全身が消し炭になる攻撃に挟まれている、そんな状況であった。
しかし、少年は逆境であればあるほど強くなる。どんなに辛い戦いであっても、どんなに困難な試練であっても彼は立ち上がり、強敵に挑んできた。
隻腕でありながら両の脚のみで馬を操り、空中で身体を一捻りさせることが出来たのは、そんな彼だからこそだった。
「っ、ぐううッ──!」
火炎がスレイプニルの横っ腹を掠めて過ぎ去っていく。
乱れた髪を焦がしながら、トーヤとエルは馬の身体から振り落とされないよう踏ん張った。
空中で体勢を立て直し、着地する間際に彼らは怪物の炎の激突を目にする。それは夜の闇に太陽のような光を降らせ、地獄の熱波で地面を一撫でした。
「《破邪の防壁》──!」
エルが咄嗟に純白の防壁を展開しなければ、トーヤ達はおそらく怪物の炎の余波に致命傷を負わされていただろう。
それだけフェンリルとヨルムンガンドの炎は強力だった。特に大蛇はリリスの《禁術》で真の力を解放していて、元々喰らえば一溜まりもなかった狼の攻撃により拍車をかける結果となってしまっている。
王宮は燃えていた。
ぶつかり、混じり合って一つの太陽のように膨れ上がった炎。それが破裂して降り注いだ炎が城壁や尖塔、豪奢な建物に引火して広がっていく。
「トーヤくん、君の狙いは何なんだい!? 私達二人であの怪物二匹を倒せるわけがない!」
「……落ち着いて聞いて、エル」
「っ、こんな状況で落ち着けるわけが──」
「いいから、聞いて。冷静さを失った方が戦いでは負ける」
半球型の防壁に守られながら、残されたわずかな時間でトーヤは策を説明する。
目から落ち着きの色をなくしたエルを宥めるように言い、彼は早口に語りだした。
「まず、あれを見て。フェンリルとヨルムンガンド……二匹とも、互いに睨み合っているでしょ」
トーヤが指差す先では、確かにフェンリルとヨルムンガンドの二匹は地表と上空で牙を剥き合っている。
そこから彼の思惑を察したエルは、信じられないとでも言うように首を横に振った。
「トーヤくん、君、ずいぶん面白くないこと考えるじゃないか」
「破滅的かもしれない、でもこれしかない。僕の魔力はもうあとわずかだ。君がいくら強い魔導士だとしても、あの二匹に一人では勝てない。……ここで勝てない戦いを挑むくらいなら、今は逃げて、最後の力を悪魔ベルフェゴールを倒すことに使うべきだ」
彼の瞳に宿る悔しさに、エルは咄嗟に返す言葉を思いつかなかった。
トーヤは何かを言い出そうと唇を震わせる彼女の体に片腕を回し、抱き締めた。
「エル、愛してる。僕、君と会えて本当に嬉しかった。ありがとう」
その台詞にエルは、胸の奥底から締め付けられるような痛みを感じた。
見張った両眼から涙が溢れだす。止めどなく流れるそれを拭うことも出来ず、エルはただ黙ってトーヤの抱擁に応えるのが精一杯だった。
少年は哀しげな笑みを浮かべ、少女を見つめる。
彼は大好きな彼女に顔を近づけ──そして、唇を重ね合わせた。
長い、長いキスだった。
この瞬間がずっと続いていればいい、二人は互いの体温を感じながらそう思った。
「────また、会おうね」
しかし、トーヤは。
ゆっくりと唇を離し、最後にそう囁いた。
──どういう、こと?
問いかけるエルにトーヤは何も答えない。彼はスレイプニルの背から降りると、《神器》の槍を地面に突き立てる。
その槍は黄金の輝きを放っていた。少年の闘志を体現するように屹立する《神槍グングニル》。エルはそれを目にして、こちらに背を向けるトーヤを引き留めようとした。
「待って……トーヤくん」
「……スレイプニル、行って」
トーヤの声はついに震えたものに変わった。
それでもエルの方を見ずに、彼は目の前で対峙している二匹の怪物を見据えている。
──いや、行かないで。私を置いて、行かないで……。
エルの叫びは叶わなかった。
主の命を忠実に果たすスレイプニルが、エルを乗せて駆け出していく。
槍を引き抜き、歩みだす少年の後ろ姿は遠くなる。いつの間にか解除されていた防壁の残滓の光粒は、少女の涙のように儚く消えた。




