31 だから僕らは戦う
「なあ、エル……俺達って、一体何のために戦っているんだろうな」
かつての世界で、エルの親友であった黒髪の少年はそう言った。
太陽がゆっくりと水平線へと沈んでいく黄昏時。オレンジに染まる少年の横顔を見つめるエルは、彼の言葉にこう返答する。
「あの女……リリスがしようとしている《戦争》を止める。君が初めて私と出会った頃、そう言っていたよね」
「ああ。でも、俺達にそれが出来るのか、時おり不安になるんだ。たった二人の力で何になるのか……もしかしたら何も出来ないんじゃないかって、考えてしまう……」
深い黒の瞳はじっと、夕陽を見つめて離さない。
海辺の公園のベンチに腰掛けるエルは、隣に座る少年の右手に手を触れた。
そうして、温かく包み込む。強ばっていた彼の手から徐々に力が抜けていくのがわかった。
「私達が戦う敵はものすごく強大な敵かもしれない。けれど、それがなんだって言うんだい? 私達は強くなった。二人の力を合わせれば、きっと終わらせられる」
「……そうか。そうだよな。……うん、俺達なら出来る。きっとそうだ」
少年はエルに頷いてみせ、にこっと笑った。
エルが何より愛した笑顔だ。彼の笑みに目を細める少女は、その自分より大きな手を軽く握りながら口を開く。
「私、思うんだ。私達がここまで来れたのも、たぶん私達だから可能だったことなんだって……私と君、どちらか片方でも欠けたら駄目だったことなんじゃないかって、そう思う」
「いきなり変なこと言うなぁ」
「へ、変なことじゃないよ! 大真面目に言ってるの」
「……だから、今さらそんなこと言うのが変なんだって」
やや目を逸らしつつ頬を淡く染める彼の台詞に、エルまでもが赤面した。
ちょっとの沈黙をおいて言葉を再開した彼女は、夜が近づいてきている空を見上げて囁く。
「生まれ変わっても、きっと君に会えるよね。その時もまた、私は君を支えるからね……」
*
「……エ、エル……っ」
耳元でトーヤの声がして魔導士の少女・エルは覚醒した。
ゆっくりと瞼を開く。ついさっきまで自分が回想していた海辺の公園の光景はどこにもなく、そこは真っ暗な空間であった。
何が起こっているのか瞬時に理解できず、彼女は困惑してしまう。
「と、トーヤくん……? ここは……?」
「エル、思い出して。僕達は何と戦っていた?」
エルは少年の胸の中で鈍っていた頭を必死に動かし始めた。
そして気づく。自分を抱いているトーヤの腕が一本だけであるということや、それが何によってもたらされた悲劇なのかも。
「────っ! トーヤくん、まさかここは……!?」
「……フェンリルの腹の中」
大変苦々しい声音でトーヤが答える。
一瞬途切れかけた記憶も、もう全てが繋がった。エルは負傷の身のトーヤを守りながらフェンリルと戦い、その結果《防衛魔法》ごと呑み込まれたのだ。
自分達の命がまだあるということは《防衛魔法》は未だ継続中であるということか──エルはその事実に安堵すると同時に、背筋の芯から寒気が這い上がってくるのを抑えられなかった。
「トーヤくん、この状況を打開するのに、どんな手段を使えばいい……? 怪物の胃袋から脱出する方法なんて、あるのかい……?」
エルの知るかつての世界での《フェンリル》は今よりも更に巨大で凶悪で、暴れれば都市どころか小国なら一日で滅ぼせるほどの怪物であった。
過去と現在を混濁させてしまっている彼女は、恐ろしい怪物の腹の中から抜け出すことを半ば諦めながらトーヤに訊ねる。
このままでは怪物の胃液に防壁が消化され、彼女達もそれと共に溶かされてしまうだろう。
──そんなことは嫌だ、まだ生きていたい。エルの中でそんな叫びが上がる。
それに知ってか知らずか、トーヤは彼女の身体を右腕で強く抱き締め、告げた。
「僕が《グングニル》でフェンリルの腹を破って、ここから出る。……大丈夫だよ。君が一緒にいてくれる限り、僕は絶対に負けるつもりなんてない。さあ、掴まって」
「トーヤくん……ありがとう。私、忘れてたよ。二人で力を合わせれば勝てない敵はない。昔、私が言ったことなのに」
「…………行こう」
エルはトーヤの胴に腕を回し、がしっとしがみつく。
彼女がしっかりと掴まったことを確かめ、少年は槍を持つ右手に力を込めた。
真っ暗な上に視線を向け、神から授かった呪文の詠唱を開始する。
「【戦神の魔炎】」
《神槍グングニル》の黒い穂先に紫紺の炎が宿った。
トーヤの身体は既にぼろぼろで、残る魔力も少ない。だが少年はその力を燃やし尽くすことを恐れてはいなかった。
「たまに、夢に見るんだ。緑色の髪をした女の子と僕に良く似た黒髪の男の子が出てくる、そんな夢……。どこか違う場所──別世界みたいな場所で、二人は笑っているんだ。二人寄り添って、水平線に沈んでく夕陽を眺めてる……」
《神化》の鎧越しに確かに伝わるエルの温もりに、トーヤはこんな場面でありながらたまらなく愛しさを感じてしまう。
怪物を倒し、悪魔を滅ぼす。自分に与えられた使命は最初から決まっていた運命だと、彼はいつからか漠然と理解していた。
そのことに理不尽、不満の感情を抱いてはいない。自分は前世から魔導士の少女と共にいて、そのことが何にも代えられない幸せであるから──。
「僕は永遠に、君を守る! それが僕の、存在証明だ!」
少年の槍が閃き、紫紺の花弁が咲き乱れた。
瞬間、解除される《防衛魔法》。自分達を守る壁から解き放たれたトーヤは、円弧を描くように槍を振り抜く。
柔らかい内臓、強靭な筋肉、厚い毛皮──それらを切り裂いて鮮血を撒き散らし、少年は怪物の体内から姿を現した。
『ヴヴヴァァァァッ!!?』
身体を引き裂かれる痛みにフェンリルは叫ぶ。
トーヤが左腕を噛み千切られた時よりも、おそらく更に激しい痛みだろう。
「……っ、はぁっ、はぁっ……」
トーヤは全身を真っ赤に染めつつ着地し、無惨な様相を見せている狼を見つめた。
肩で息をする彼は怪物の断末魔の声を聞く。それが怪物のものから人間の少年の声になるのは、そう長い時間はかからなかった。
「あああっ! うッ、ああッ……あああああッ!!」
怪物の身体が死ぬ度に、それを操って戦う者──エインにも相応の痛みが襲い来る。何度も《蘇り》、何度も《死んで》白髪の少年は苦しみ続ける。
トーヤはエインの瞳を見て愕然とした。言葉が出なかった。彼は死の苦しみを味わいながらも、瞳に燃やす炎を決して絶やしてはいなかったのだ。
──どうして、彼はそこまで出来るんだ。
トーヤやエルとの戦いの中で、エインはその速度で確かに二人を圧倒してきた。しかし、逆に言えば彼にあるのはそれだけなのだ。魔力ではエルが、単純な力ではトーヤの《神化》が優っている。
攻撃を食らえば致命傷を追ってしまう。それが分かっていたから、フェンリルは回避を多く織り混ぜた戦闘スタイルをとってきたのだ。
耐久力は高くない。それはすなわち早く死にやすいということでもある。何度も死に、何度でも蘇る──そんな戦い方しか彼は選ぶことが出来ない。
「はぁ、はぁ──喰われても蘇るか、トーヤ……! だが、オレだって、それは同じだ……!」
眦を力強く吊り上げ、エインは片頬に笑みを浮かべた。
彼は決して自分が敗れる未来を想像していない。そうでなくては、こんな表情出来やしない。
トーヤの腕に抱かれながら、エルは少年の強い意思──勝利への渇望──を称えるように言う。
「君はすごいね、エインくん。その戦う意志は、同じ戦士として敬うべきものだと思う」
彼女はトーヤから離れ、一歩前に踏み出した。怪物の肉塊の中から出てくるエインの、真正面に立つ。
「君は強い。それは認めるよ。……でもね、エインくん。私には分からないんだ。君が何のために戦っているのか……君の本当の意思はどこにあるのかが」
白髪の少年は、エルが何を言っているのか怪訝に思ったのか瞬きする。
血の色をした両眼で少女を睨み、彼はやや間を置いてから口を開いた。
「オレはただ勝利を求めている。戦う理由はそれで十分だ。トーヤを潰し、アイツを超えて、オレは完璧になれる。誰よりも強く、誰にでも讃えられる戦士にオレはなるんだ」
ぐっと左手を握り締め、そして開く。
青い炎を宿した手を胸に近づけて、エインは言葉を続けた。
「戦いこそ生きる意味──さあ、お前達。これからオレの覇道の礎となれ」
エインの左手から全身へ青い炎が広がり、纏わり付く。
少年から怪物へ再びの変化が始まった。トーヤとエルはそれぞれの得物を構え、エインの身体が完全に狼になるのを待つ。
好敵手との戦いで、相手が変化している最中に襲うことは彼らも望んでいなかった。
「トーヤくん、腕、大丈夫かい? 痛くはない……?」
「エルの魔法のおかげかな、痛みはもう引いてる。やっぱり君はすごい魔導士だよ」
「君も、偉大な《神器使い》、最高の英雄さ。──私が魔法で君を最大限サポートする。《神器》の力でフェンリルの核、心臓部のエインくんを殺す……その役割、君に任せよう」
「了解。任されたからには何がなんでもやり遂げる。僕には片手しかなくなっちゃったけど、《神化》の筋力ならこの槍も扱いきれるよ」
互いに目を合わせてトーヤとエルは言葉を交わす。
少年は誰よりも信頼する少女の顔を、少女は出会った頃から少し背が伸びた少年を見て微笑んだ。
二人で協力して強大な敵を討つ──それを成した結果に何があるのか確かめたい。そして、この戦いを終えてまた皆で笑い合う日常へ戻りたい。二人が思うことは同じだった。
『ヴアアアアアアアアアアアアッッッ!!』
フェンリルの咆哮が満月の夜に高く打ち上がる。
月光を受けて黒銀の毛並みを輝かせる狼は、これまでとは異なり炎の鬣を波打たせて二人を見据えてきた。
牙と爪の先からも赤い炎がちらつく、フェンリルの最終形態。獄炎の中から蘇った怪物は、トーヤ達がこれまで見てきたどんなモンスターよりも鋭い殺意を発散している。
『ウオオオオオオオオオオオ────!』
月へ向かって衝動的な吠え声が迸る。全身からごく微少な銀の光の粒を放散しているフェンリルと対峙するトーヤは、指を唇に当てると『指笛』を吹き鳴らした。
細く高い音が狼の遠吠えの裏で長く尾を引いて流れる。
少年が呼んだある黒馬は、その音を決して聞き逃さなかった。




