28 勝利への渇望
ヴァニタスと名乗った灰髪のエルフの美女の言葉に、カイは驚愕を隠しきれなかった。
右半身が黒、左半身は白──肌と衣装の色を《魔獣化》で変化させた彼女の表情はただ冷たい。しかし、カイの驚く反応を見て、その瞳は微かに楽しむような色合いを覗かせている。
「私が何故あなたに戦いを挑むのか、わかっているでしょう? 断るなんてさせない。ここを通りたいのなら、私を倒してみることね」
ヴァニタスは黒い魔力を宿した長杖をカイへ向け、言い放った。
その言葉にカイも武器を構えて彼女を見据える。
──どんな敵が相手でも、勝つ!
彼のその気迫を受け、相対するヴァニタスは艶かしく舌舐めずりした。
エルやリオ、ユーミ達が息を呑んで見守る中、二人は視線を交錯させ──。
「行くぞ」
カイの呟きが落ちると同時、彼と彼女は動き出した。
ロキの紅蓮の炎が舞い、ヘルの暗黒のオーラが渦を巻く。
神化 VS 神化の戦いは剣と杖が交差することから始まった。
*
「オオオオオンッッ!!」
狼の砲声が轟きわたったと思った瞬間にはもう、全身を突き飛ばす衝撃が僕を襲っていた。
槍による防御も無視した《砲撃》がフェンリルの口から放たれ、壁に叩きつけられる。
「ぐっ、あ……っ……!」
互角に戦えるものだと、そう思い込んでいた。
いくら人間が《魔獣化》したとはいえ、たかがモンスターだと軽く見ていた。モンスターに負けるわけがないと、これまで怪物を何度も屠ってきた僕は傲慢になっていたのだ。
「くそっ……なんて、強い……」
目の前の怪物が絶望的なまでに巨大に見える。
いや、実際巨大なのだ。スオロ地下街で戦った凶狼も大きかったが、このフェンリルはそれの三倍以上もある。
小柄な僕が戦うにはあまりに大きすぎる相手だ。
「どういうことだ……あいつの加速は、まだ止まらないのか──」
さっきまで、フェンリルと僕はほぼ互角の戦いを繰り広げていた。
迫る大爪を《神槍グングニル》で弾き返し、槍を回転させて攻撃に転換する。時に魔法を織り混ぜながら、塔の内部という限られた空間の中で僕はフェンリルと渡り合っていたはずだった。
なのに、時間が経てば経つほどあいつの動きは鈍るどころか加速していった。
《神化》を越えた《魔獣化》の加速──僕の速さをとうとう超したフェンリルは、今や僕を取るに足らない相手だと見下している。
「グルルルル……」
喉を低く鳴らし、威圧的な眼で追い詰めてくる。
殺戮を願う獣の眼だ。元の人間の面影はすでにない。
少年の勝利への執念が怪物へと形を変え、僕を喰らおうと牙を剥いていた。
「ウオオオオオオッ!!」
目の前には赤い絨毯を猛進するフェンリルがいる。
部屋の端と端に位置する彼我の距離はおよそ30メートルだ。この距離から突進されては、普通に考えて防御は不可能に限りなく近い。
ここまで生きていられたのは奇跡だ。今度こそ、食い殺される。
──嫌だ、死にたくない。
僕の心が訴える。思いに反して身体はすくんで動かない。
全てが凍りつく。時間が止まる。こんな時になって僕は過去の戦いの風景を思い出していた。
あの時のミノタウロスと同じだ。
《神殿》オーディンで最初に戦った牛頭人体のモンスター。
あいつに僕とエルは攻撃を完全に防がれ、即死級の突撃を受けた。
あの時の絶望感、恐怖感と今の状況は全く同じなんだ。
あの時は、助っ人に救われたんだっけ……。
今回も誰かが助けてくれるのだろうか。こんな状況、誰かの助けがなくては切り抜けられるとは思えない。
僕では、あいつの速さに追い付けない……。
『戦え、トーヤ! ぼさっとすんな、戦わなきゃ死ぬぞ!』
どうして、君が……?
『ここで終わっていいのかよ、トーヤ! お前は何のために生きてる!? あの子に……エルに、託された使命があるんだろ。それを放り出して、こんなところで死ぬなんて俺が許さねえ!!』
──七つの大罪の悪魔を討伐しなくてはならないんだ。
僕が冒険の始まりにエルに言われたことだ。
そして、その悪魔はまだ七人とも存命している。僕の使命はまだ何も果たせていない。
『それに……お前には今、仲間がいるんだろ。大切な仲間のために戦ってるんだろ。お前が生きることで、笑顔になれる人がいるんだろ。なら、お前は立ち上がるべきなんだ』
そうだ。大切な人のために戦う。皆で笑ってまた過ごせるように、僕は勝って戻るんだ。
『──行け、トーヤ!!』
……まさかまた、君に救われるなんてね。驚いたよ、けど──。
「ありがとう、マティアス。僕はやってやる」
槍を支えになんとか立ち上がったその時には、すでにフェンリルの鋭い牙の並んだ大口が眼前にあった。
だけど僕は怯まない。自分から勝負を捨てるようなことは、もうしない。
「うおおおおおおおおおおッッ!!」
精一杯の大声で吠える。弱い自分を奮い立たせるため、勝利を掴み取るための咆哮。
そしてこれは、今から起こることへの恐れを吹き飛ばすための叫びでもある。
この距離からのフェンリルの突進を避ける術はない。
出来るのは──。
「ぐあッ────!?」
がぶり、と。僕は身体を右横にずらし、全身を丸呑みされることを回避しながらも左腕をフェンリルに食わせた。
さらに嫌なことに腕から頭へ激痛が走る間もなく、フェンリルの突進によって塔の壁が破壊され、僕達は高層の塔から空中に飛び出してしまう。
「ああああああああああああッッ!?」
肉が断たれ、骨が砕かれる。フェンリルの牙は《神化オーディン》の黒き鎧さえ貫通して僕の腕を破壊した。
鮮血が飛び散っている。あまりの痛みに僕は発狂寸前の叫び声を上げたが、それでも右手の《神槍グングニル》は決して離さなかった。
「フェンリル……ッ。お前は、ここで、死ぬッ……!」
右腕に全身の魔力を送り込む。黒き槍の先端に集められた炎は紫紺の輝きを放って燃え上がった。
顔を歪める僕は歯を食い縛って痛みを堪え、神槍をフェンリルの首へ撃ち込んだ。
『グルルルアアアッッ!?』
フェンリルが喚く。槍の貫通、そして燃え盛る炎によって並々ならぬ痛みを味わっている怪物は身体を激しく悶えさせた。
空中でめちゃくちゃに揺られ、顎に食らいつかれたままの腕が今にも千切れそうになる。
「燃えて、しまえっ……!!」
魔力を、魔力を、持てる全ての魔力をここに注ぎ込むんだ。
この腕ごとフェンリルを焼き尽くして、僕は勝利を手にする!
「っ──あああッ!?」
燃やせ、燃やせ!
怪物を排除し、悪魔のもとへ進むカイをサポートする。彼やエルの使命のために、どんな犠牲を払ってでも──。
「ふんっ──らあああッ!!」
僕は狼の首に突き刺さった槍を思いっきり引き抜いた。怪物特有の緑色の血液が飛散する。
返り血を体の正面に浴びる僕は、そこで地上へ目を向けた。着地まであとわずか──このままでは、落下の衝撃で命を落としかねない。
『アアアアアアアアアッッ!?』
これまで叫喚しながらも獲物である僕を手放さなかったフェンリルだが、流石にもう限界のようだった。
怪物が顎を大きく開いて吠えたそのタイミングで、僕は瞬時に動き出す。
「ふッ……!」
僕は片手に持った《神槍グングニル》を投擲した。だがしたのは投げる動作だけで、柄は手で掴んだままである。
《神器・神槍グングニル》の特性──投擲したら目標に必ず命中する能力を利用して、空中に体を投げ出された僕は槍ごとフェンリルの背中へ飛んでいった。
『ガアアアアアアアッッッ!!?』
神器の炎が燃える狼の背中へ着地した、その直後。
巨狼が地面にぶつかる重く鈍い音が響き、何十秒にも感じられた空中での一瞬が終わった。
*
「氷結魔法!」
「防げ、レーヴァテイン!」
ヘルの《悪器使い》の女、ヴァニタス・メメント=モリの魔法の猛攻をカイは《魔力吸収》能力を持つ魔剣レーヴァテインで無効化していた。
塔中央の螺旋階段を駆け上がるのが最上階の女王の居室に向かう最短ルートである。他の道もないことはないのだが遠回りにまってしまうため、何としてでもここを通りたいカイだったが……ヴァニタスの魔法の連撃にほとんど前進できずにいた。
「花よ、咲け──」
ヴァニタスが杖を振る度にカイの足元には氷の荊が生み出されていく。階段の一面を瞬く間に覆うそれは、白い蔦をまるで本物の植物のように伸ばしてカイの足や手に絡み付こうとしてくるのだ。
剣で斬っても斬ってもまた生えてくるそれに顔をしかめながら、カイはヴァニタスに声を投げ掛ける。
「メメント=モリ……確か、南方の小国にそんな名があったな。数年前に滅びたと聞いたが、まさかお前は……!?」
「そうよ。私はメメント=モリ家の末裔。だけど、戦いの中ではそんな事情は関係ないわ!」
ヴァニタスが語気を強めると、それに呼応するように氷の荊が剣の形へ変化して床から突き上がってきた。
カイは高速の刺突攻撃をかわしきれず、神器で受け止める。しかし、その隙を利用して彼の背後から荊の枝が伸びて迫った。
「──させない! 《魔女の雷撃》!」
隙を作ってしまった自分の不覚を恥じるカイの耳に魔導士の少女の詠唱が届く。
彼女の雷魔法は荊の魔の手を撃ち落とし、カイをすんでのところで救った。
──一人では捌ききれなくとも、仲間の力を借りればいける! ヴァニタスの操る荊の魔手たちに苦戦を強いられていたが、ここで希望が見えてくる。
「ちっ、邪魔するんじゃないわよ! 邪魔者は氷像にしてくれるわ!」
しかしその希望も一瞬のものとなってしまう。
ヴァニタスの手となって蠢く氷の荊たちは、今度はエル達を標的にした。
戦いに水を差すことを許しはしない──ヴァニタスのそんな意思を反映して荊はしっかりと足止めの役割を果たす。切ろうが焼こうが次々と出てくる荊の蔦に、エル達はそれを捌くだけで精一杯となってしまっていた。
「くそっ……エル!」
「すまない、カイくん! 私も初めて見る魔法なんだ……!」
剣で荊を苅り進みながら、カイは背後のエルへ声を飛ばす。
彼女の切羽詰まった声音が彼の緊迫感を助長する中、ヴァニタスはせせら笑った。
「随分と手間取っているじゃない、あなたのお友達? まぁ、私には都合のいいことだけれど」
赤い舌が唇をちらりと舐めた。嬉々とした表情でカイへ《悪器》である長杖を振り抜き、氷魔法を撃ち出していく。
「ちっ──!」
カイは素早く横に跳んで《ヘル》の氷の光線を回避した。
階段の手すりに躍り上がった彼は、《神化・ロキ》の紫紺のローブをなびかせながら駆け出す。
非常に狭い足場を何てことないような顔で走るカイ。そんな彼にヴァニタスは目を剥いてしまう。
彼女が驚倒している間にも、氷の荊が広がっていない手すり上を移動してカイはヴァニタスとの距離を確実に詰めていた。
「いいぞ、カイ!」
ジェードとユーミの声援がカイを後押しする。
彼女らの声に感謝しつつ、カイは《神化》による加速を活かして一瞬にしてヴァニタスの前まで到達した。
「不毛な時間稼ぎは終わりだ、メメント=モリ」
炎の色の瞳が鋭く、亡国の姫を射抜いた。
ヴァニタスは冷笑を強ばらせながら、しかしその言葉に吐き捨てるように応える。
「不毛で結構。私の役割は貴方をここで出来るだけ長く足止めすることなのですからね。知っていて? 今の貴方、孤立無援なのよ」
足止めさえ出来ればそのうち敵には援軍が来る。
そう告げられたカイは、若干眉間に皺を寄せた。
彼の目は敵の表情をよく観察している。今のヴァニタスの顔からは余裕があまり感じられない──援軍が来るのというのは出任せなのではないか、そう彼には思えたのだ。
「こうしている時間も無駄だ。……斬る」
炎熱の魔剣を横薙ぎする。
──剣の腕では魔導士のヴァニタスには負けはしない。剣劇に持ち込めばこちらが圧倒的に有利!
だがヴァニタスは、驚異的な対応速度で杖を自身とカイの剣の間に差し込み、攻撃をすんでのところで防いでみせた。
「驚いたかしら? 私、剣も使えるのよ」
黒い片頬を笑みの形に歪め、ヘルの悪器使いは言った。
直後、彼女の杖に氷の結晶が花開き、纏わり付きながらその形を変化させていく。
武器を剣の形状へ変えたヴァニタスは、女のそれとは思えないほどの力でカイの刃を押し返した。
「っ、強者──」
「やっと分かった? メメント=モリの剣術、その身に刻み込んで逝きなさい!」
レイピアと見紛うような細い刀身は黒く、白い薄氷を表面に纏わせている。
高速の突き攻撃を主体として、蛇のように掴み所のない斬撃を合間に交えた剣術。
階段という不安定な足場にありながら華麗な剣舞を披露するヴァニタスに、カイは防戦を強いられてしまう。
「速い……ッ」
「私は元々剣士だった。魔法よりこちらの方が得意なのよ。あなたもそうみたいだけど……残念ね」
冷笑がこぼれた。カイの瞳が凍りつく中、ヴァニタスの腕に白光が宿り──視認することも出来ない速度の一撃が放たれる。
「なっ……!?」
それは二人のうち、どちらの声だっただろうか。
それすら咄嗟に判断できないヴァニタスは、自分の剣が空を切ったことに激しく狼狽する。
──き、消えた……!?
必殺の一撃であるはずだった。《神化・ロキ》のローブの下にある鎧、それのわずかな隙間を貫いて殺せたはずだった。
なのに、突然カイの姿が自分の目の前から消滅した。
ヴァニタスは震える右腕を左手で抑えながら、首をめちゃくちゃに振ってカイに叫んだ。
「貴方……何のまやかしを使ったの!? 高尚な剣の戦いで搦め手だなんて……!」
「陽炎だ。ロキの魔法は、何も攻撃魔法だけではない」
「はっ……?」
剣が手の中から弾き落とされる。直後、カイの声が背後から聞こえ、ヴァニタスは振り向いた。
「……剣の戦いにおいて、攻撃に使える手段は何も剣だけではない。お前が負けたのは、それを考えていなかったからだ」
カイの思いは既にこの戦いにはなく、階上の母親へと向けられている。ヴァニタスの問いに素っ気なく答える彼は、神化を発動したまま剣を下ろした。
武器を失った亡国の王女は驚愕を顔に浮かべる。
「何よ……私を、殺さないの?」
「……その時間も惜しい」
カイは階段を上がりながら剣を軽く振り、切っ先から炎を射出して、転がっていた《ヘルの剣》をヴァニタスから遠く離れた氷の荊の中に飛ばした。
発動者が《神化》の力を失ってもなお残る氷の荊を見、ヴァニタスが唇を噛む。
「お前はそれがなければ魔法が使えないはずだ。今のお前には俺を止められない」
力なく階段に座り込むヴァニタスにカイは静かに言った。
事実を告げられ、すぐに言葉が出てこないヴァニタスだったが、拳をぐっと握ると俯けた顔を上げて訊ねる。
「ねえ、聞かせて……。貴方、どうして私の攻撃を避けられたの? 姿を消したのは私を動揺させるためで、本当は簡単にかわせたってことなの……?」
「…………エル!」
しかしカイはヴァニタスの問いには答えなかった。
彼に呼ばれた緑髪の魔導士は、魔力を杖先から剣のように伸ばして荊を壊しながらやって来る。
彼女の後に続き、シアンらもカイの元に来てヴァニタスを包囲した。
「その女を捕らえておけ。俺は先へ進む」
「分かった。……カイくん」
カイはエルに指示を出す。ここから二階上に進めばもう、『女王の間』だ。
否応なしに緊張感が高まるなか、エルの行動は迅速だった。彼女は植物の蔓を無数に標的に絡め、動きを封じる《捕縛の土魔法》を用いてヴァニタスを拘束する。
「悪魔との戦い……それが本当に大事なものだってことはわかってる。でも……私はトーヤくんが心配なんだ。さっき、何かが破壊される音と獣の咆哮、それに彼の叫び声が聞こえたんだ。だから、すまない。私をトーヤくんのところへ行かせておくれ!」
最後に語気を強め、エルは声を震わせて嘆願した。
トーヤとフェンリルの戦闘音は、激しい戦闘の中にいたカイにも聞こえていた。エルのトーヤに対する想いの強さを知っている彼は魔導士の小さな肩に手を置き、言う。
「あいつに……トーヤに、力を貸してやれ。今のあいつにとって、それが一番嬉しいことだと思う」
「ありがとう、カイくん。……皆は、カイくんを最後までサポートしてあげておくれ。勝利を願ってる」
エルは皆の顔を一人ひとり見て、後を託した。
シアン、ジェード、ユーミ、リオ、アリスの五人、そしてカイは彼女の言葉に深くうなずく。
「トーヤのこと、頼みます」
「フェンリルなんかに負けないでよね! あたし達も頑張るからさ」
「さあ、早く行ってやるのじゃ。もたもたしている時間はないぞ」
彼女らに背中を押され、エルはトーヤが先ほどまで戦っていた塔の一室へ駆け戻っていく。
カイはその背中を見届けながら、自分がこれから悪魔ベルフェゴールと向き合うのだと──母親と数年ぶりに対峙するのだと、ごくりと唾を呑んだ。
螺旋階段を一歩一歩進みながら、カイはこれまでの自分の道程を回顧する。
──オリビエの手引きで王宮を脱し、都市外で知識と力をつけた。
王都へ戻り、トーヤ達と出会って《神殿ロキ》を攻略した。同じ場所で黒竜と戦い、神化も習得した。
そしてようやく、この時がやって来たのだ。
「悪魔ベルフェゴール……お前はこの俺が、討つ」
口に出して呟き、視線はただ上だけに向ける。
この先で待つ女王、《悪魔》をこれからカイは殺すのだ。余計な雑念はいらない。もしかしたら感情すらいらないかもしれない。
何かを考えたら、決めたはずの覚悟が揺らいでしまう気がした。それは声にせずに彼は静かに剣を握りしめる。
「──やはり、小娘には荷が重すぎたようだ。《ヘル》の真の力を、こいつは何も活かせていない」
と、そこで。
頭上から男性の声が響き渡り、次いでカイの前に白い人影が降り立ってきた。
白衣を纏った一風変わった容貌の男性だ。
色素が抜け落ちた髪の毛は長く、蛇のように首に巻き付いた髪型をしている。瞳は赤く、無機質な視線をそこから投げ掛けてきていた。
彼の相貌は美形といえるほど整っていたが、どんなに美しくても怪物じみた雰囲気は隠すことは出来ないでいる。
──最後の刺客……!
カイは剣を抜き放ち、即座に臨戦体勢に入った。
敵側も武器を構える──そう思ったカイだったが、男は剣も杖も取り出さずに口だけを開く。
「始めまして、カイ君。私が《蛇》だ」
その短い名乗りを聞いて、カイの首筋にじわりと嫌な汗が流れた。
ヒューゴの話に出た《魔獣化》技術の開発者であり、組織の科学者である男。トーヤと戦っているフェンリル、先ほどまでカイが交戦していたヘルの力を復活させたのも、この男である。
「お前が、《蛇》……」
「蛇というのはただのコードネームだがね。カイ君、残念ながら君はまだ先へ進めない。私は神器や神化のエネルギーにも興味があってね……《ヘル》の第二形態と戦うことでその力を見せてもらいたい」
やや早口な口調で蛇は言った。
彼はパチンと指を鳴らし、階段の下で倒れているヴァニタスを呼ぶ。
「ヴァニタス! 誰がこんなところで倒れていていいと言った? 立ち上がれ」
蛇の眼が赤い輝きを発した。それに応じるように、エルの捕縛魔法をかけられていたヴァニタスは顔を上げる。
――その時、カイは自分の心臓がドクン、と跳ね上がるのを感じた。言葉にできない恐怖感、本当に原初的で純粋な恐怖。
剣を持つ手が震えないよう必死にこらえつつ、《蛇》を、ヴァニタスを見る。小さく口を開いた亡国の王女の表情は虚ろで、その目はどこか別の場所へ向けられているように思えた。
「ア……アアっ……」
少女の喉から獣のそれに似た呻きが漏れ出す。
小刻みに体を震わせるヴァニタスの様子に危機感を覚えたユーミが駆け寄るも、しかし一歩間に合わなかった。
硝子が割れるような音が高く響き、少女を縛っていた鎖が引きちぎられる。
黒い影が立ち上り、限りなく増幅させられた「悪意」が瘴気となって放出された。白と黒、二色を内包した《ヘル》の神化が、更なる力――《蛇》の手によって昇華する。
『アアアアアアアアアアアアアアアアッッ――――!!』
美しくも哀しげなその叫びは、もはや少女のものではなくなっていた。
白黒の長髪とドレス姿はそのままに、巨大化した女の姿。螺旋階段の上段を突き破ってカイ達を見下ろす彼女の体高は5メートルは下らないだろう。胸元から覗く豊満な乳房、血色の唇を舐めとる舌は艶かしく、この世のものとは思えないほど美しかった。
ヴァニタスの面影を保ちつつ、あらゆる感情を排除した表情はカイ達にこれまで以上の恐怖を植え付ける。
「かかってこい、カイ・ルノウェルス。冥界の女王の審判を受け、その上でまだ生き残っていられるか……どうなるか、楽しみだ」
《蛇》は知りたかった。
自分が手がけた「作品」、それがどこまで通用するのか試したかった。
彼の一番の行動原理はそれであり、そのためには《神器使い》を利用することさえ辞さない。
「俺は誰が相手だろうと、負けるわけにはいかない。勝って必ず、女王の元へたどり着いてみせる」
口元に笑みを滲ませる《蛇》に対し、カイは強い信念をもって立ち向かう。
降ってきた瓦礫を踏み、彼は立ちはだかる《ヘル》を見上げた。




