26 世界蛇の毒牙
邪魔する者を排除しようと襲い来る触手の群れを巧みにかわし、切り刻む。
《雷剣カラドボルグ》をもってして大蛇に挑むミウ・ルノウェルスは、眦を吊り上げると怪物へ刃を一閃させた。
「はああああッ!!」
斬撃が咆哮と同時に放たれる。蛇の鱗の鎧と刃が激突し、甲高い金属音と無数の火花を上げた。
近づくことは出来る。しかし──。
「刃が通らない! 雷剣でも効果がないなんて……!」
ミウは歯軋りした。ヨルムンガンドの防御力、耐久性には眼を見張るものがある。
流石は伝説の怪物といったところね、と彼女は小さく呟きをこぼした。
何てものを呼び出してしまったのよ、と組織の《蛇》とやらを恨めしく思いながら。
「これがヒューゴ君の言っていた《魔獣》、組織の切り札……! なら、こいつを潰せば敵の戦力も大いに削がれるってことなんだろうけど……」
──《神器使い》ですらない自分に、この相手を倒すことが出来るのか。
例えオリビエやヒューゴの援護を受けられたとしても、戦力として見れば彼女は《神器使い》が持つ圧倒的な力には敵わない。
普通に考えれば無理、無茶、無謀な話だ。だが、それでもミウは戦うことを放棄しない。
そう彼女は決意していたのだ。過去、自分が逃げたことで救えなかった人がいた。その過ちを二度と犯さないために。
「あなたに負けるわけにはいかないの! 私はもう、大切な人を失いたくない……!」
『フシュルルルルルルッッ!!』
鎌首をもたげるヨルムンガンドを見上げ、ミウは叫んだ。
彼女の叫びに反応したのか、蛇も激しく舌を鳴らす。
触手が石の道路を突き破って撃ち出された。
「っ──速い!」
先程までとは一線を画した速度の射撃にミウは驚愕する。
天性の動体視力の良さでそれを何とか見切り、剣で打ち落とすも、彼女の表情から驚きの色はしばし残り続けた。
硬質化した槍のような触手。自在な動きを捨てた代わりに射出速度と破壊力を大きく高めた攻撃。
こんな技まで持っているなんて──。ミウは忌々しげに顔を歪めつつ、諦めずに怪物に立ち向かっていく。
『シャアアアアアアアアア!!』
静かに這い進んでいるだけだったヨルムンガンドは、最早そこにはいなかった。
ミウを完全に敵と認めた《世界蛇》は体の筋模様──魔力が流れる《竜脈》を脈打たせ、口を開けるとてらてらと涎に光る牙を剥き出しにする。
「本気を出したって訳ね……望むところよ」
それは一人の戦士としてのミウの本音だった。
自分がこれまで積み重ねてきた魔法や剣術がどこまで通用するか試したい。純粋なその思いが彼女にそう呟かせていた。
しかし一国の王女としては、王都の中で激しい戦闘は行いたくない。民を一人でも救う国造りをする──先王アーサー七世の思想は、その次の世代のミウやカイにしっかりと受け継がれていた。
「……大丈夫、みたいね」
先程まで逃げていた人々の姿も、ここまで蛇が迫ってきている今はとっくに見えなくなっていた。
──よかった、ちゃんと逃げられたみたい。
彼女を縛るものはこれでなくなった。戦いで街の建築物が破壊されることは必至だが、街の住民達が死ぬよりはましだ。
「私も本気で行くわよ、《蛇》さん! あなたを痺れさせる攻撃の数々、受け止めてみるがいいわ!」
魔剣に雷属性の魔力を纏わせながら、ミウは駆ける。
オリビエが設置した毒の罠を強化された跳躍力で飛び越え、彼女は蛇の眼前に躍り出た。
両者の目線は平行に重なり合う。緑色のほの暗い瞳がミウの碧眼と衝突し、戦意と戦意を交差させた。
「《雷光斬》!!」
青い光の筋を引きながら、流星のごとき斬撃が蛇へと肉薄する。
触手が来るより先に剣をぶつける──! ミウは空中で回転を加え、技に更なる威力と加速力を上乗せした。
『シャアアアッ!』
ミウの思惑通り、彼女の攻撃は蛇が触手を出す前に届く。
しかし技が当たる直前、蛇は大口を開けて体内の粘液を吐き出して迎撃してきた。
──こんなもの、関係ないッ!
粘液を顔面や体に浴びてもなお、ミウは動揺せず最後まで技を出しきった。
青き稲妻が蛇の開かれた顎の間を走り、固い鎧のない口内から赤い血液が飛散する。
着地したミウは透明の粘液と血で目も当てられないような姿となってしまったが、彼女自身はそれを意に介さずにいた。
「ミウ……!?」
……しかし。離れた家屋の上から戦況を見守っていたオリビエが、小さく彼女の名を呟く。
彼と共にいるヒューゴも瞠目し戦慄することしか出来ない。
「……ッ、なによ、これ……!?」
ミウは蛇の前で立ち尽くしていた。
戦意を失った訳ではない。身体が動かないのだ。
いや、正確には動かしづらい。剣を持つ腕が震え、ろくに手に力を込められない。
「──粘液、か……」
魔導士は蛇が吐き出したあの粘液の効果が出たのだろうと分析する。
恐らくその能力は《停滞》。相手の動く速度を大幅に下げさせるという効力に、彼は喉から嫌な呻き声を漏らしてしまった。
『シュルルルルル──……』
ミウを見下ろすヨルムンガンドは緑の《竜脈》を輝かせる。
──剣を振れ、ここで負けるわけにはいかない!
が、自分を叱咤するも剣を上げることは出来ず、腕をぷるぷると震わせることが精一杯だった。
──なんで、どうして、動かないの!?
このままじゃ、私は……!
淀んだ蛇の緑の眼がミウを正面から捉えている。その眼は彼女の内心の恐れを見透かしているようで、ミウが必死に足掻くことさえ許しはしなかった。眼光が彼女を射抜き、足をその場に縫い止めてしまう。
「────」
視界が黒くなる。耳に入る音が消え失せていく。
呼吸までもが苦しくなり、空気を求める魚のように口を開閉する。
闇の深淵に沈んでいく。
……まだ、終われない、のに……。
最後にミウはもがいた。手を伸ばし、遠い水面に辿り着こうと足掻いた。
とぐろを巻く蛇の緑を鮮明に思い浮かべ、戦いの舞台へ戻ろうとした。
──ここで私が勝たなければ、ヨルムンガンドを止めなければ、カイ達はどうなる。
彼らはただでさえ王宮兵士や組織の魔導士、悪魔の軍勢との戦いで身をすり減らしているのだ。余裕の戦いではないだろう。状況はギリギリのところにあるはずだ。そこに《蛇》という怪物が乱入してしまったら──。
足を蹴り動かし、水面をひたすらに目指す。
視界は暗黒のまま、だがそれでも上へ向かってミウは手を伸ばした。
──私はカイやトーヤ君、オリビエ達のように強くはないのかもしれない。でも、弱い人間にも弱いなりにやれることがきっとある。
抵抗せずに敗けを認めるなんて嫌だ。やれるだけやって、醜く抗って、勝負の結果を認めるのはそれからでいい。
「ヨルムンガンド! 私はまだ、負けてない!」
叫び、ミウは意識を現実に帰還させた。
立つことも難しいはずの体にむち打ち、剣を振り上げる。
眼前で見下ろしてくる大蛇を睨み、彼女は刃を繰り出し──。
*
緑の光線が王宮外周部から放射され、魔導士の一人を焼き殺した。
今さっきまで戦闘の相手だった男が地に墜ちていくのを目にしたヴァルグは、《怪物》がもう近くまで迫っていることを悟らざるをえなかった。
そしてそれは、オリビエ達が怪物の進撃を止められなかったことを意味している。
「くそッ──! もういい、どけッ!!」
ヴァルグは組織の魔導士と魔法による空中戦を演じていたが、彼はこの戦いの決着を後回しにすることを決めた。
迷いが全くなかった訳ではない。だが今も魔導士の一人が死んだように、あの怪物を放っておけばより多くの人が死ぬ。
ヴァルグはそれを理解していた。魔力を宿す二刀を振り、闇のオーラを相手にぶつけて突破する。
「《腐の嵐》!」
触れた相手の体を腐敗させる闇の呪文。これまで人間相手に行使したことはなかった魔法を彼は用い、敵をまとめて戦闘不能に陥れた。
地上に残したリリアンの姿を最後に見て、ヴァルグは城壁に降り立つ。
夜風が顔を撫でる壁の上で彼はその怪物と相対した。
「は、はっ……。こいつが、あのオリビエが止められなかった化け物ってことか……」
思わず空笑いする。そうせざるを得なかった。
怪物が全身から放つ緑の光──それを目に入れた途端、彼は自分の身体が奇妙な倦怠感に襲われるのを感じた。
「はははっ……なんて有り様だ。これぞまさに、《怠惰》──」
これまでどのモンスターと戦った時でも、こんな風に身体が動かなくなることはなかった。それなのに、この怪物は百戦錬磨の戦士であるヴァルグをその場に縫い付け、剣を向けることすらさせてくれない。
「情けねーな……もう少し、頑張れてもいいと思うんだが……」
後ろではカイ達が必死に戦っている。ここでこいつを通しては、その努力も無駄になる。
それ以上に──呪いが、怨念がヴァルグに死ぬことを許さない。ある男から奪ったこの剣に込められた魔法が、彼を血と怨恨の戦場から離しはしない。そのはずだった。
「──ヴァルグ」
堀を越える寸前まで蛇が進んでいる中、彼の隣で名を呼ぶ声がした。
視線を向けるとそこにいたのは、オリビエだった。
「オリビエ……」
「やられたよ。あの蛇、ヨルムンガンド──あいつの能力は《停滞》だ。あの光を見た相手の時間感覚を著しく遅らせる……私達が戦っていると思っていた奴の姿は、奴が数分前に動いていた残像だったんだ。そこから見るに、奴には先を見通す力もあるのかもしれない。──奴と距離が離れてようやく、私達は正常な時間感覚を取り戻せた訳だけど……」
魔導士の三角帽子を目深に被るオリビエは早口に状況を語った。
ヴァルグの肩に手を置く彼は、蛇への対抗策を教授する。
「たしか、君の魔法の一つに《暗闇魔法》というものがあったはずだね? それを奴に浴びせ、あの光を潰す」
「敵の周囲に黒霧を纏わせ、視界を奪う魔法……それなら、ついでに奴の動きも封じられるってことか。それさえ唱えれば、なんとかなるんだな……?」
オリビエが頷く。ヴァルグは剣を持つ手に力を込め、自身が習得している闇の呪文の一節を唱え始めた。
怪物が堀を越え、壁に到達する──その前に。
「《暗黒魔法》──」
普通にこの魔法を使うだけでは、強大すぎる蛇には完全に効きはしない。
通常の呪文に加えて、それに更なる力を付加する詠唱を重ねていく。
「《我は冥王の刻印の所有者、暗黒と赤き血の双剣を持つ者なり。死の使者よ──その背に刻まれし記憶を呼び覚まし、我が手にかの王の力を再来させよ》」
剣に黒い霧……いや、暗雲が渦を巻いて出現する。
放たれるそれはヨルムンガンドの全身に纏わり付き、蛇の姿を黒く覆い隠した。蛇の体から放たれていた緑光もこちらに届かなくなる。
自分の身から倦怠感が抜けていくのを感じるヴァルグは、隣に立つオリビエに礼を言った。
「ありがとな、奴の能力の対策を教えてくれて。これで俺達は奴と真っ向から対決出来るってわけだ」
「ああ。蛇は《先を見る力》も持っていると考えられるから、完全に動きを封じられたわけではないけどね。これでやっと対等に戦えるといったところだろう」
オリビエは杖を振り、《浮遊魔法》で宙に浮き上がる。
自分も同じ魔法を発動し、ヴァルグは一つ気になったことを訊ねた。
「あの蛇とやり合ってたのはお前だけじゃねーだろ? そいつらはどうした?」
「……ミウは蛇に果敢に立ち向かい、《雷剣》で善戦しているように見えた。しかし奴の粘液を浴びてしまい……今はろくに戦える状態にない。それでも戦いたがる彼女を、ヒューゴがなんとか抑えつけている状況だ。二人は私が城壁上まで移している」
城壁の最も蛇から離れた方角──北側に彼らを転送したとオリビエは補足した。
ヴァルグは神妙な面持ちで頷き、旧知の友である男を見やる。
「俺とお前、戦えるのは二人だけか。俺達なら蛇に全く敵わないなんてことはねーだろうが……俺の魔力は《組織》の野郎どもとの戦闘で減っている。残りの魔力も多くはねえ」
「その際は私が君の魔力を回復させよう。精霊の魔導士には勝てないが、私にも能率の良い治癒魔法がある」
──魔導士の存在意義は、魔法を持たない者達を導くことである。オリビエは過去にそう言った。
ヴァルグが二刀を帯び、闇の魔法を手にしても、オリビエが彼を導くのは変わらない。今も自分はこの魔導士に支えられ、道を示されているのだとヴァルグは実感していた。
「孤独でいた俺に最初に手を差し伸べてくれたのは、お前とレアだったな。それからリリアンと出会い、傭兵団を結成し、幾多の戦場を乗り越えてきたが……お前と知り合わなかったら、俺は今ごろこんな巨大な蛇と戦うこともなかったんだろうな」
「そうかもしれないね。私も君やリリアン達と出会って色々と変わった。とても感謝している。……レアも取り返してまた皆で笑い合いたい──それが私の一番の望みさ」
風に魔導士の髪がなびく。その横顔に微笑みを浮かべる彼は、青紫色の髪の剣士を見て「さて」と話を切り上げた。
「黒霧に戸惑っていたヨルムンガンドも、流石にもう順応してしまったらしい。堀を泳いで渡り……ここまで這い上がってくるつもりのようだ」
水に溶けずに纏わり続ける霧を体に付着させたまま、ヨルムンガンドは悠々と堀の中を進んできていた。
──行かせない!
ヴァルグの剣と、オリビエの杖が完全に同期した動きで閃く。
ここを進ませてはもう後がない。あるのは最悪の結末だけだ。
『シャアアアアアアアアッッ!!』
大蛇の叫声が響き渡る。
暗黒と純白のオーラがヨルムンガンドに激突し──牙を剥いた怪物との、これまでにない戦闘が幕を開けた。




