24 怪物
オリビエは無数の氷柱を《蛇》の進路に立ち上げたが、そんなものであの怪物を阻めるとは毛頭思っていなかった。
蠕動する蛇を空中から観察しながら、彼はこの場所でこの相手との戦いをどう組み立てるか思考する。
「ここは市街地だ。魔法でドンパチやりたいところだが生憎それは出来ない。住民達は異変に気づいただろうが、すぐに全員が避難できるとは考えられないし……くそっ、やりづらいな」
蛇──ヨルムンガンドの進む先は、今も戦闘が続く王宮だ。
奴がそこに到達すればどうなるか……最悪の結末を想像してしまい、オリビエは非常に後悔した。
それと同時に、絶対に奴を止めねばならないと決意を固める。
彼にも守りたい人がいる。長い付き合いの盟友達、手塩にかけて育ててきた一人の王子、そしてこの戦いの中で出会った勇気ある少年達。
彼に関わり、共に戦い抜いてきた人達の顔を一人ひとり思い浮かべ、オリビエは蛇に急迫した。
「行かせはしない! どこまで縛れるかは分からないけど、やってやる──《凍結の靄》!」
杖を蛇に向け、白い靄を放出する。
黒き大蛇の歩みは靄が纏わりついたことで遅れを見せたが、それでも完全に止められてはいなかった。
『シュルルルルルル……!』
蛇が喉を震わせる。背筋をぞっと粟立たせるような、不気味な声が夜の街に響き渡った。
*
「今の声……オリビエが見たものは、そいつか……!」
魔導士によって王宮の塔内部に転送されたヒューゴは、街全域に届いた蛇の声を聞いてそう気づいた。
《蛇》──それは組織の生み出した大きな脅威である。ヒューゴはそのことを理解していたが、今は妹達への心配が勝った。彼は自分が転移した塔の一階から螺旋階段を見上げ、倒れ込んでいるカイとその周りにいるトーヤ達を見つける。
「みんな、何があったんだ!? 怪我をしたのはカイ王子だけか……?」
駆け寄ったヒューゴが訊ねると、トーヤが顔を上げて緊迫した口調で説明する。
早口で語られた状況の経緯に、小人族の少年は顔を歪めた。
「今は、エルがカイに治癒魔法を施しています。治療が終わり次第、上階へ向かうつもりですけど……あの、外で何が起こってるんですか」
「どうやら、組織が怪物を呼び出して来たみたいだ。オリビエがそいつと今、戦ってる。王宮の戦闘も未だ継続しているよ」
「そう、ですか……」
エルが王子に翠の光を浴びせて治癒を行うのを見守りながら、トーヤは苦々しい表情になった。
組織の差し向けた怪物……それがあの『ニーズヘッグ』級の脅威だったとしたら。もしくはそれ以上の力を持っていたとしたら。
最悪の可能性を見透かせる少年は口元を引き結び、腰に差した剣の柄をぐっと掴んだ。
「兄上……組織の《蛇》とやらが生み出した怪物というのが、今この街に現れているのですね……?」
妹が口にした《蛇》の名にヒューゴは静かに頷いた。
不安げに側に寄ってくるアリスを抱き締め、兄である彼は耳元で囁く。
「でも大丈夫だ。あのオリビエならきっと《蛇》にも負けない。それに……俺だって何もせずに突っ立ってるようなことはしないぜ」
「……では」
「俺は《蛇》を食い止める。奴と決着をつけるんだ」
ヒューゴの言葉に、アリスは彼の背中を強く抱き締めることで応えた。
妹から体を離すヒューゴはトーヤらに向き直り、告げる。
「トーヤ君、みんな……これからもアリスをよろしく頼む。この戦いが終わって、俺がまだ生きてたら、俺も君達と仲良くさせてもらいたいな」
「ヒューゴさん……」
そんなこと言わないで、とトーヤは言おうとしたが、その台詞は口から出ることはなかった。
これは彼の覚悟なのだ。戦いに身を擲つ彼の決意を、思いを揺らがせるような言葉はかけられない。
代わりにトーヤは短く言った。
「勝利を、願ってます。──ご武運を」
ヒューゴは頷き、次にエルを見た。
彼女はカイの治癒を終え、続けて別の魔法を詠唱し始める。
ヒューゴの足下に魔法陣を出し、エルはこれから怪物に立ち向かう少年の背中を押す。
「転送魔法陣、用意しました。これでここから出られます」
「ありがとう。──君達も、勝ってこの国を救ってくれ。俺もみんなを守れるよう努力するから」
足を陣に踏み入れ、彼はトーヤ達の顔を一人ひとり見つめた。
──こんな俺でも受け入れてくれて、嬉しかった。ヒューゴは内心でそう呟き、頬を微かに緩める。
「ヒューゴ……俺達は必ず悪魔を倒す。それまで、怪物を何とか止めていてくれ。悪魔も怪物も、どちらも俺達なら下すことができる」
「カイ王子……わかりました。俺とオリビエ、その他の戦える者達で怪物は食い止めます。だから王子達は安心して悪魔に臨んでください」
「ああ。……俺は、本当にいい仲間を持った」
傷を完治させたカイはヒューゴの肩に手を置き、笑いかけた。
エルに目で合図を送った小さな少年は、表情を引き締めると背から弓を抜く。
転送されてすぐに戦える体勢になった彼を認め、エルは杖を掲げて魔法陣の光柱を立ち上げた。
「──転移、スオロ王宮外周」
エルが転送先を告げ、ヒューゴは一瞬の浮遊感を覚えた後──目を開くと、そこには怪物がいた。
*
「おいおい、何だか不味いことになってきちゃいねーか……?」
そう呟きをこぼすのは、一人屍の山に立つヴァルグだった。
超人的な戦闘能力を部下共々遺憾なく発揮し、戦況を圧倒的有利に運んでいた彼は、怪物の声を耳にして一抹の不安を胸に抱く。
──オリビエはここにはいない、あいつが戦ってくれるといいが……。
自分も腐れ縁の魔導士のもとへ飛んでいきたい思いをこらえつつ、黒い剣士は新手の気配を察知して顔を振り仰いだ。
革命の戦士となった民衆のうち、この混沌とした戦闘の中でも生き残った者の何人かは同じく気づいたようだった。
「おい、あれを見ろ! 黒いローブの奴が、浮いてる……!」
闇よりも濃い黒衣を纏った魔導士の集団──《組織》の者達だ。
敵兵がほぼ倒れ、まだ動ける少数が剣劇を続けている戦場を俯瞰する男達は眼下の光景に嘆息する。
「所詮は王宮兵士、あの《影の傭兵団》に敵う事はなかったということか」
「ふん、奴らは元々当てにしていなかった。厄介な傭兵ども──特に、団長の鬼蛇人の男とアマゾネスの女──を潰せるのは我々だけよ」
「慢心はいかん。あの狡猾な男はそこに付け入ってくるぞ。儂らの魔導の力で決して抜かりなく、彼奴らを根絶やしにするのじゃ」
ヴァルグは、敵の装身具──腕輪や首輪、杖──から異様な極彩色の光が微かに漏れ出ていることに気がついた。
それが魔法の予兆であることを即座に理解した彼は、鋭い声で警告を飛ばす。
「でかいのが来るぞ! 伏せろッ!」
直後、彼の言葉に違わず膨大な魔力を有した攻撃が大地を震撼させた。衝撃と爆風が巻き起こる。
巨大なエネルギー弾が三発、ヴァルグ達の立つ地面へ無造作に落とされたのだ。
ヴァルグが警鐘を鳴らしたことで全滅は免れたものの、その攻撃で傷を負った者は決して少なくない。
「……リリアン、生きてるか!」
「団、長……っ」
男達を尚も警戒しつつ、ヴァルグは素早く副官を呼ぶ。
震える声で応えるリリアンは主のもとに駆け寄るも、その体は今の魔法攻撃の衝撃を受けてボロボロになっていた。
鎧を纏わず、動きの軽さに重きを置いた彼女はヴァルグ達より大きなダメージを負っている。彼女の状態を見て唇を噛むヴァルグは、眦を吊り上げて上空の三人の敵を睨んだ。
「ちッ、俺を怒らせたらどうなるか……思い知らせてやる」
「ふん、飛ぶことも出来ない雑魚が強がりおって。お前達の剣は我々のもとまでは届かない。残念だが、こちらの一方的な殺戮をお前達は止めることなど不可能なのだよ」
魔導士の一人、三人の中で一番体格のいい男が哄笑する。
その台詞に不快感を露にするヴァルグは無言で剣を天へ向け、満月を背後にする敵をまっすぐ見据えた。
「はっ、何をするつもりだ? 剣を振り回すことしか能のないお前に何が出来る?」
──調子に乗りやがって、そういう奴が一番むかつくんだよ。
剣士は口には出さずに心中で吐き捨てる。生者死者問わず兵士達の倒れる戦場を見渡した後、彼は隣のリリアンに目線を送った。
長年行動を共にしてきたアマゾネスの女傑は微笑む。彼を信頼し、戦闘の行方を託す──彼女の目はそう語っていた。
「団長、あと、は……」
胸の中に倒れ込んだリリアンを片腕で抱き止め、彼女の言葉を、意志を継ぐ。
次の攻撃のために魔力を溜めている魔導士達から意識は逸らさずに、彼は近くの枯れた噴水の陰にリリアンをもたれさせた。
最後に愛した彼女の顔を見つめ、《異能》を解放させる覚悟を決めたヴァルグは二刀を抜く。
庭園の真ん中、隠れる場所もない広い空間に身を晒した黒衣の剣士は、小さく呟いた。
「この剣が葬った数多の魂……その遺された力、使わせてもらう」
魔剣ティルフィング──それが彼の持つ剣の片割れの名だ。
もう片方のダーインスレイブと合わせて妖刀と呼ばれる二刀は、倒した相手の魔力を己のものにする能力を持っている。
「俺が剣を振り回すことしかできない雑魚だって? よーく目を凝らして確かめてから言いな」
魔導士達はその時確かに震えた。
その男が放つ魔力の奔流、迸る力の渦に彼らは戦慄した。
返す言葉もない彼らを睨み付け、ヴァルグは《呪文》を詠唱する。二刀を持つ彼の身体は発動した《浮遊魔法》により浮き上がり、敵と全く同じ土俵に立った。
「さあ、戦いを始めるぞ」
*
「行こう。一刻も早く戦いを終わらせ、この国を救わなくちゃ」
傷の完治したカイを見て、僕は言った。
今こうしている間にも外では激しい戦闘が行われている。僕達がここで止まっていられる時間などない。
エルの優れた魔法の技術のおかげで、カイの回復は敵の新手が来る前に済んでいた。が、もたもたしていると敵もまたやって来るだろう。なるべく早く、女王のもとに辿り着かなければ。
「すまないな、俺が油断したばっかりに……。次は失敗しない」
「謝らないで。敗北しない人間なんていない。それに、僕達はまだ負けた訳じゃないんだ。悪魔を討つ──その意志が燃え尽きていないうちは、僕達は負けてない」
自責するカイの肩を軽く叩き、向けられた瞳と目を合わせる。
一瞬揺れた瞳孔がすぐに定まり、真っ直ぐ見返してきた。それを見て彼の炎がまだ燃えていることを確認し、僕は皆に声をかける。
「どんな敵が相手でも僕達の心は折れない。僕達は、共に苦しい戦いを乗り越えてきた同志だ。共に助け合い、支えることが出来る」
「トーヤ殿のおっしゃる通りです。これまで私達は様々な強敵と戦い、その度に勝利してきた。今回だってそれは違わないはずです」
僕は仲間達を鼓舞したが、そんなことをせずとも彼女らの戦意は十分みなぎっていた。
頷いて笑む《亜人族》の彼女らに頼もしいものを感じながら、皆を先導して先へ駆け出す。
僕の後ろにカイ、それからリオとジェード、ユーミらが続いて、殿はエルが務めた。
あまりに長く険しい道のりの螺旋階段を上っていく。
「……トーヤ、カイ。敵が現れても神器はまだ使うなよ。その力は悪魔と戦うまで温存……それまでは俺達が守るから」
「前哨戦は私達に任せてください! これでも私、強くなったんですから」
階段を駆け上がりながらシアンとジェードの獣人コンビが言ってくる。
二人の言葉から僅かに間を置いて耳に《声》が流れてきて、僕は背後の彼らへ首を縦に振って見せた。
「精霊達がざわめいてる。──来るよ」
「……了解」
短い返事を聞き届け、神器《テュールの剣》を腰から抜き放つ。
敵は黄金の刃を閃かせた僕の前に現れ、立ち塞がってきた。
目の前に突如として出現した鎧の兵士を睨む。十字に切れ込みが入った面頬の奥の瞳が僕の視線を受け止め、異質さを感じさせる無機質な目で見返してくる。
こちらの進路を邪魔する形で盾と槍を構える五人の兵士。僕達が彼らと正面から対立している中、そのさらに頭上から一人の少年が声を投じてきた。
「……始めまして、トーヤ君」
それは美しく澄んだ、しかしどこか無機質な声音だった。
顔を振り仰いで声の主の姿を視界に収める。白い髪に赤い瞳、小柄な体躯、そして触角のように二本に束ねられた特徴的な前髪。
この少年を僕は知っている。エイン・リューズ──僕と神殿ロキで戦った、悪魔ベルゼブブの《悪器》使いだ。
知っている、僕は彼を知っているはずなのに……今の彼から感じる違和感、「始めまして」という台詞の意味は何だろう?
「……エイン」
僕は彼の名を呟きながらその立ち姿を観察した。
以前は着けていなかった赤い宝石が嵌められた首輪、体にぴったりと纏っている奇妙な素材の黒い服。防具らしきものは肩や胸、膝に取り付けられたプレートのみで、他には何も身を守るものがない。
とにかく奇妙だった。僕が以前会ったエインとは別物のような、そんな錯覚を覚えてしまうくらいには。
「君と戦うのは二回目だね、エイン。今度こそ決着を──」
「お喋りはいいよ。オレは君を潰すよう主に命じられている。君には早急に死んでもらわなければならない」
赤い目が獣の輝きを宿す。血走り燃えたぎる瞳から放たれる視線の威圧感に、僕達は戦慄せざるを得なかった。
隣でカイが息を飲む。シアンは肩を震わせ、ジェードが獣の尻尾を不安げに揺らす。
何だ、この感じは……? 何かがおかしい。何かが起こる──?
「勘が鋭いね、トーヤ君。オレの力、見せてやるよ──」
僕の直感は外れてはいなかった。エインの首輪の宝玉が禍々しい暗黒の瘴気を放出し始め、彼の体に纏っていく。
──させない! 僕は剣を薙いで眼前に鎮座する鎧の盾兵を突破しようとするも、敵の防御はあまりに固く、魔力を付与した斬撃でも一撃では効かなかった。
二撃目を繰り出している間にもエインの《魔獣化》は進んでいき、白髪の少年は凶暴な狼のごとき姿へと変貌した。
「ッ……!? これが、兄上の言っていた……!?」
アリスの驚倒の声を耳に挟みながら、僕は目をエインの姿に釘付けにしていた。
白い毛はそのままに髪が鬣のように後ろまで伸び、頭には鋭角的な三角耳が生える。瞳孔は獣のそれと同様に細められ、口には牙、指先には尖った爪。
狼の獣人が怪物化した《人狼》と酷似した外見となったエインは、盾兵の一人から手渡された槍をこちらへ向け、琥珀色へと変化した無感情な瞳で見下ろしてきた。
僕もカイもエルも言葉を発せずにいる中、人狼と化したエインは小さく呟きを落とす。
「《狼》から継承したこの力、《フェンリル》。こいつでお前を喰い殺し、オレの強さをあの方に証明する」
目の前からエインが消える。
直後、背後から強烈な殺気──肉薄。




