19 【強欲】と蛇
「強欲の悪魔マモンが、この街にいる……!? 本当なのか、姉さん!?」
カイは驚愕の色を顔に浮かべる。
彼の叫びを受けたミウは沈鬱そうな表情を浮かべた後、静かに頷いた。
「……ええ。お父さんから《呪い》を継いだ私には分かるわ。この街から感じる邪気……悪魔ベルフェゴールのものとは別種の、黒いオーラが」
そう口にしながら、ミウはカイに背を向けて隘路を先へ進んでいく。
「…………」
しばし立ち尽くして唇を噛んでいたカイは、離れ行く姉を掠れた声で呼び止めた。
「姉さん……待ってくれよ」
「……カイ?」
白いマントが翻り、ブーツの底が土の地面にじゃりっと音を立てさせる。
自分を見つめる実姉にカイは早い足取りで歩み寄り、彼女に正面から向き合うと声を震わせた。
「王家の《魔法》を用いて【強欲】の悪魔を倒す、姉さんのその考えはわかったよ。でも……、その魔法は姉さんの命を代償にするものなんだろ? 俺は姉さんが死ぬなんて嫌だ。何か他に、方法はないのかよ……?」
姉の肩を両手で掴み、顔を最大限近づけて問う。
肩に食い込む弟の指の力に、本当にこの子は私のことを──とミウは胸中で呟いた。
カイと瞳を交錯させ、ただ微笑んだ彼女は短く言う。
「心配しないで。呪いは最後の手段よ」
掴んでくる腕を手で静かに離させ、ミウはそこで語調を明るく一転させた。
「あなたほどじゃないけど、私だって強いのよ? 一対一の戦いなら互角に渡り合える自信はあるわ。……さ、そろそろ時間だから行きましょ」
「……っ、ああ。行くか」
目的の場所は《地下街》の中央広場。
あえて大通りを使わずに路地裏を選んだカイ達は、目的地のある北東の方角へと急いでいく。
戦いの前の最後の準備だ。
自分の思いが民衆に伝わるかはわからない。
だが、王族としてそうするのは大事な使命だ。目を背けて逃げることは許されない。
「大丈夫、大丈夫だ」
認められない不安は確かにある。
が、カイはそれを胸の奥に押しやり、強く足を踏みしめて顔を上げた。
耳に《声》が届いてきたのは、彼らが目的地に着く直前のことであった。
* * *
「オリビエさんの《言霊》……この街の人達に届くといいけど……」
スオロ市街全域、そして地下街一帯に響き渡る呼び掛けの声を耳にしながら、僕は祈るように呟いていた。
オリビエさんがカイ達に託した仕事──それは民衆の前で悪魔討伐の誓いを立て、王座を正しき者の手に戻すための《革命》の鬨の声を上げること。
彼らの声を聞きに来る人達の数は少ないかもしれない。【怠惰】に侵されてしまった者による暴動だって起こるかもしれない。
でも、カイ達は本気だ。
本気で民達に声をぶつけ、理解を得るため最善を尽くすつもりなんだ。
そんな彼らに僕達が出来ること、それはただ祈ることだ。
「カイ……君ならきっとやれる」
僕は確信を込めて呟く。
次いでそれまでいた席から立ち上がり、離れた場所に座る小人族の少女──アリスの元へと移動した。
「……アリス」
「トーヤ殿……」
微笑を浮かべ、僕はお兄さんのもとに寄り添っているアリスに声をかける。
見上げてくる彼女は椅子に詰めて座り、「どうぞ」と僕に居場所を作ってくれた。
ありがたく隣に座らせてもらい、彼女の温もりをすぐそばで感じる。
「……最初に出会った時、君は『消息を絶った兄を捜して欲しい』と僕達に頼み込んでいた。大切な家族のために君は命を賭して《神殿》に挑み、完全攻略を果たした後もお兄さんを捜すことを決して諦めなかった。――そんな君が、ようやくお兄さんに再開できたんだ。僕は心から祝福するよ」
「トーヤ殿……《組織》に操られていた兄を解放してくれたのは、ほかでもないあなたです。トーヤ殿が兄と戦い、倒してくれなかったら、兄はまだ私から離れた場所にいたでしょう。……いいえ、私達は《組織》の思惑通りに殺されていたかもしれなかった……」
僕と見つめ合うアリスは声を震わせて言い、言葉を一度切った。
お兄さんの──ヒューゴさんの穏やかな寝顔を一瞥すると、続ける。
「兄を救っていただいて、本当に感謝しております。……また一つ、あなたに恩が出来てしまいましたね」
「恩、か……いや、僕は大したことはやってないよ。困っている人がいれば助ける。それが、僕が父さんから教わった生き方だからね」
剣術の基本を叩き込まれた幼い特訓の日々。
その短い時間の中で僕は家族から大切なことをたくさん教えてもらった。
父さんが伝えてくれた大切なこととは、剣の握り方や戦術の知識などではない。型通りの戦い方ではなく、相手と対話する──向き合うことに重きを置いていたのだとはっきり覚えている。
「いい、お父上だったのですね。トーヤ殿のお父上ですから、さぞかし良い方だったのでしょう?」
「うん。とても博識で、強い魔導士だったんだ。今も僕の一番目指してる憧れだよ」
僕の肩に体を寄せ、アリスは微笑みながら訊ねてきた。
その問いに大きく頷き、熱のこもった語気で僕は答える。
「……あ」
その時、視界の端で目を覚ます少年の姿に気づいた。
小さく声を漏らした僕から僅かに遅れて、アリスも傍らの兄を見つめる。
「あ、兄上……」
目に涙を溜め、彼女は兄の耳元で囁いた。
ぼんやりと瞼を上げ、口を微かに開けているヒューゴさんは、アリスに気付くと顔に薄い笑みを浮かばせる。
「……アリス」
澄んだ蒼い目を細めて彼は妹の名を呟いた。
その瞳はもう、血にたぎる赤色には染まっていない。彼はもう、《蛇》の洗脳から解放されたのだ。
ソファー席に横たわるヒューゴさんが手を伸ばし、アリスがそれを取る。
妹に助けられて上体を起こした彼は辺りを見回して──この酒場にいる人の多さに驚いた表情を見せてから、まず始めに僕に声をかけてきた。
「……君が俺をあの男から救ってくれたんだね……? 戦いの記憶はうっすらとだけど、残ってるんだ」
あどけない少年の笑顔に、理知的な眼差し。
小人族の若き戦士にして次期首長の彼は、僕に頭をぺこりと下げて礼を言った。
「助けてくれてありがとう。もうアリスに聞いてるかもしれないけど、俺はヒューゴっていうんだ。あの、よければ君の名を教えて貰えないかな?」
「僕はトーヤです。……ヒューゴさん。目覚めたばかりで悪いんですが、どうか《組織》について覚えていることを教えて貰えないでしょうか? これから、僕達は奴らと戦わなくてはならないんです」
名乗り、そして頼み込む。
洗脳されていたとはいえ、組織の中に長く属していた彼だ。僕達の知らない組織の情報を少しでも記憶しているかもしれない。
いきなり訊ねられてもヒューゴさんは特に驚くこともなく、僕に手を差しだしつつ頷いた。
「組織が掲げる理念……それから《蛇》が持つ力については話せるよ。トーヤくん、君は──いや君達は、本気なんだね。本気で組織と戦おうとしている。なら俺は、できる限り協力することで助けられた礼をしたい」
「ありがとうございます! では、早速ですが……」
ヒューゴさんと向かい合う形になるように座り直す。
僕の両隣にはエルとオリビエさんが着き、ヒューゴさんにはアリスが付き添った。
この酒場には僕達や傭兵団の面々、総勢20名以上が待機している。大人数で囲んでいることでヒューゴさんも多少は警戒心を持って話に臨んだはずだ。
自分達の名や肩書きを明かすことで彼に少しでも安心して貰おうと、皆は簡単な自己紹介を済ませる。
「じゃあ挨拶も終わったし、始めようか? どんな些細なことでも構わない、出来るだけ多くの情報を私達は知りたいんだ」
卓の上で指を組み合わせながら、オリビエさんが静かな声音で促す。
ヒューゴさんはアリスを一瞥し、僅かの間を置いてから語り出した。
「《組織》の根本的な考え……それは強烈な悪魔信仰だと俺は思う。この地方に住む多くの人が《神》を信じるように、奴らは悪魔を心の拠り所としているんだ。洗脳されていた間のことははっきりと覚えている訳じゃないけど、常に頭の中には《悪魔の王》の姿があった。これだけは確実に言える」
《悪魔の王》──元組織のルプスさんも言っていた言葉だ。
組織の構成員、もしくは信者はこれを信奉して行動しているとなると、結構厄介そうだな……。
「そっか……そうなると、ルプスさんのように組織の正規構成員たちを改心させることは無理そうだね。宗教はその人の思いの根底に根付くものだから……戦ったら捕縛するか、殺すかしかない……」
「トーヤくんも、やっぱり人殺しは嫌かい?」
エルに問われ、僕は顔を俯けた。
組織を倒さないと、いずれ奴らよりもっと多くの人が傷ついてしまう。そのことは分かっている。
でも、進んで人を殺すなんてことはしたくない。
「こんなことを言うのはあれなんだけど、僕は《組織》の人達も強い信念を持って生きているんだと思うんだ。理解は出来ないけど、彼らにも彼らなりの正義がある。《神器》の力で一方的に殺してしまうのは違う……ような感じがするんだ」
僕の歯切れの悪い言い方に、オリビエさんが横から瞳を覗き込んでくる。
「……それじゃあ、君は《組織》に対してどうしたい?」
「僕は……、本当は《組織》の人達とも分かり合いたい。シルさんやエインが完全な悪人だとは、僕にはどうしても思えなかったんだ。組織を率いる彼女に働きかければ、もしかしたら何とかなるかも……」
途端、その場は沈黙に包まれた。
シアン達が絶句し、ヒューゴさんやアリスは表情を歪ませる。エルはシルさんの名を聞いて、僕の横で身を微かに捩った。
だが、その沈黙は長くは続かなかった。
オリビエさんは短くため息を吐くと、苦笑しながら口を開く。
「君は、本当に甘いな……。私も過去にシルと相対したことはあるが、彼女は目的の遂行のためなら手段を選ばない女だ。たとえ君が懇願しても、その野望を潰えさせるようなことがあるかどうか……。それに、そんなことをしてみれば君だってあの《魔女》に消されるかもしれないよ?」
シルさんの青い瞳、その奥に宿る光を思い起こした。
冷たい氷のような眼差し。その身から放たれる、相対する者をすくませる圧倒的な威圧感。
僕などが戦って敵う相手ではない。初めて出会った《神殿ロキ》で、僕はそう直感していた。
「そう、かもしれません。でも、そんなのやってみないと」
「……確かに、《神化》したトーヤくんなら互角以上に戦える可能性はなくはない。君と戦闘を交えて、俺は操られながらも空恐ろしい感じを受けたことを覚えている」
この場で唯一《神化》した僕と戦ったヒューゴさんがそう口にする。
直接《神化オーディン》の力を体感したのはヒューゴさんだけ。そのためオリビエさんも流石に正面から反論することはしなかった。
その代わりに彼は諌めるような瞳で僕を横目で見つつ、小人族の戦士に質問を投げかける。
「組織にいるという《蛇》なる人物について……この人物については、私達は殆ど情報が得られていない。エル君の話によるとおそらく【洗脳魔法】の使い手だろうということだが――それは間違いないね?」
「ああ。俺を半年に渡って洗脳していたのはあの男、《蛇》だ。奴は俺が神殿に向かった時、『暗黒洞窟』の中で待ち伏せていた。漆黒の闇を突如満たした、あの赤い光……あれが、洗脳の光だった。俺は奴の意思に抗うことも出来ず、そのまま奴の操り人形になってしまったんだ」
こくりとヒューゴさんは首肯した。
【洗脳魔法】。その名の響きに肌に寒気が走るのを禁じ得なかった。
奇しくも、これから戦おうという《悪魔ベルフェゴール》の能力と同じ。《悪魔アスモデウス》の魅了の力もこれに分類され、あの悪魔と因縁を持つ僕にとって決して好きにはなれない魔法である。
エルも曇った表情になりながら自らの見解を発言した。
「……私から意見させてもらうと、《蛇》の洗脳魔法は《悪魔ベルフェゴール》のものとは大きく性質の異なるものだと思えるんだ。ベルフェゴールの洗脳は広範囲に及んで多くの人を一種の催眠状態に陥れる。対する《蛇》の魔法は狭い範囲だが対象の内部に深く干渉できる。トーヤくんには分かると思うけど、《蛇》の洗脳はアスモデウスのものと似たようなものだ」
あの時受けた【色欲】の魅了の力を、僕はまざまざと思い出した。
思考の全てを相手に委ね、楽になってしまいたいと願わせる魔力。考えることを放棄させ、他人の意思で生きる人形に成り下がらせる。
心の弱い人間、生きる希望を失った人間はそれに抗えない。
「《蛇》の洗脳がアスモデウスのそれと同種のものなら、打ち勝つ方法はあるよ。強い意思の力で、「楽になりたい」という誘惑を打ち破るんだ。それ以外には……ねえ、エル」
腕組みして考え込んでいるエルに、僕は訊ねた。
「【洗脳魔法】って、確か《悪魔の魔法》の一つだったよね? それって、魔法耐性のある防具で防げたりしないかな? ヒューゴさんが纏っていたローブ、あれは魔法を一切通しはしなかった」
「生半可な防御力では防げない、としか言えないかな。実際にその魔法が発動される場面を見ないことには、なんとも……」
魔法の知識には誰よりも精通するエルでも、《悪魔の魔法》と言われる禁忌の魔術には言葉を濁らせてしまう。
ヒューゴさんはそんな彼女の様子を見て、腕で体を抱えながら低い声音で言った。
「……俺は、当初は《蛇》の意思に支配されるだけの傀儡だった。だけど俺の中に残っていた意志が一度、奴の魔法を打ち破りかけたんだ。すぐに気づかれて、そこからの記憶は殆ど《蛇》のものになってしまって……でも、その時に見たものがある」
ヒューゴさんが語った光景に、僕達は言葉を失うしかなかった。
洗脳と憑依の狭間に彼が目にしてしまった《悪魔の実験》。
人間が手を出してはならない領域──神にのみ許される禁術に足を踏み入れた男に、僕達はただ、戦慄するしかなかった。




