15 黒の天地竜
轟音と共に大地がせり上がる。
カイ達が立っている真下から、モンスターはその巨体を現そうとしていた。
『オオオオオオッッ────!!』
耳が張り裂けそうな大音量の砲声と、裂けて割れる地面に立っていられなくなる。
衝撃に吹っ飛ばされたカイは、遠く離れた木陰に転がりながら出現したモンスターの体躯を目にした。
「あ、あれは……!?」
漆黒の鱗を纏い、背に一対の翼を持つ四足のドラゴン。
東洋の『カタナ』よりも鋭利な牙と爪を有する、自分達が相手するにはあまりに大きな姿。
口から火球を吹き出すその竜のことを、カイは知識として覚えていた。
「──『ニーズヘッグ』」
カイと同時にその名を呟いたのは、エルだった。
飛ばされた瞬間に防衛魔法を展開して土砂に生き埋めになることを防いでいた彼女は、瞳を苦々しげに歪める。
神ロキも、とんでもない奴を用意してくれたね……!
『アスガルド神話』では、最終戦争を生き残ったドラゴンとしてニーズヘッグが伝えられている。
エルの知る史実でもそれと違わず、その竜は神と悪魔の戦いの中でも最後まで命を保った。
《黄昏》の後、ニーズヘッグがどこで生き延びていたのかこれまで分かっていなかったが……まさか、ロキの手によってここで守られていたとは。
エルは軽く目を見張り、ふっと吐息を漏らす。
「おい、みんな、大丈夫か!? 無事なら返事をしてくれ!」
辺りに目を走らせ、カイは焦燥をなるべく抑えた声で叫んだ。
ニーズヘッグによって周囲の木々は根こそぎ駄目になっている。
土砂と瓦礫に隠れて皆の姿は見えなかったが、それぞれ別の位置から声がすぐに返ってきた。
だが声を返したのはトーヤ、エル、リオ、ユーミ、ミウの五人だけだ。シアンとジェードの返事がない。
「シアン、ジェード、どこに……つっ!?」
立ち上がりかけたところに黒竜の爪が振り下ろされ、カイは咄嗟に横手に転がり込んで回避した。
それから僅かの間も置かずに身体を跳ね起こし、腰の『神器』を抜き放つ。
崩されて不安定になった足場に直立し、彼は上空のニーズヘッグを睨み付けた。
「くそっ……なんて巨大な」
竜の爪が抉った場所には、人ひとりがまるごと入れそうな深い裂け目が出来ていた。
攻撃を食らえば即死。その爪の威力を間近で目にし、カイはそう思い知らされる。
こいつ、強い……!
《ヴァンヘイム高原》で戦ったガルーダやリザードマンの比ではない。カイがこれまで見たことのあるモンスターの中でも、ニーズヘッグは確実に最強級の怪物だ。
どうする? どうやって倒す?
ニーズヘッグは今、上空の高い所から地表を見渡している。おそらく、これから戦う相手の数と位置を確かめているのだろう。
竜が攻撃を止めている間に、考えるんだ。
「まず……奴から身を隠す。それから誰かと合流して……」
カイは土砂にまみれた倒木の上を走っていく。
足場も悪く、上から丸見えなこの場所からはなるべく離れた方がいい。戦うなら、樹木に身を隠しながらだ。
「──皆、ドラゴンから出来るだけ距離を取るんだ! この戦闘の指揮は俺が執る!」
「了解!」「あい分かった!」
足元の障害物を全速力で飛び越えつつ、カイは大音量の声を響かせる。
彼の指揮にいち早く答えたのはユーミとリオだった。聞こえた返事も近く、彼女らとはきっとすぐに合流できる。
トーヤ達にもカイの声は届いたはずなので、彼らも問題ないだろう。
ただ、気がかりなのはシアンとジェードだ。二人が土砂に生き埋めにされている可能性がある以上、彼らを早急に見つけなくてはならないのだが……。
『オオオオオッ!』
ニーズヘッグが吼える。
怒れる黒竜は翼を激しく羽ばたかせ、台風と見まがうほどの強風を巻き起こした。
密林の木々が風に掻き乱され、葉を残らず吹き飛ばされる。竜に近い位置の木の中には根こそぎ飛ばされているものさえあった。
「ぐっ……」
立っていることすら許さない暴風にカイは歯噛みする。
側にある樹の幹にしがみつき、彼は必死にその場に踏ん張った。
――これでは、シアン達を助けるどころではない……!
あの暴風を起こされては迂闊に近づくこともできない。
どうにかして奴の元にたどり着いたとしても、あの恐ろしい爪の攻撃を掻い潜った上で致命打を与えるのは、かなり厳しいだろう。
トーヤの『神化』でも突破は難しいかもしれない。でも、カイが『神化』を完成させ、二人の神の力とエルたち仲間の力が合わされば。
「倒せる可能性は、ゼロじゃない」
暴風が止んだ。
カイは手に神器・魔剣レーヴァテインの柄を強く握り締め、遥かな高みにいるドラゴンを見上げる。
トク、トクと脈動するように熱を伝えてくる道化神の剣。まるで生きているかの如きそれに応えようと、カイはありったけの闘志を奮い立たせた。
「ユーミ、リオ……! こっちに来れるか?」
「言われなくても来てるわよ。……あれに一人で突っ込むのは自殺行為、私達の連携が不可欠になる」
カイが付近にいる二人の名を呼ぶと、間髪入れずユーミが答える。
リオも彼女の腕に手を添えながら頷いて見せた。
「あの暴風を起こされては、こちらに打つ手はない。どうにかして竜の翼を封じ、奴を地面に引きずり下ろすのじゃ」
リオの風の付与魔法でもニーズヘッグの暴風に立ち向かえるだけの推進力は出せない。
カイ達が竜に打ち勝つには、竜が風を起こしていない間に弓矢や魔法などの飛び道具で翼を機能停止させるしかなさそうだった。
「よし……行くぞ」
ユーミ、リオの二人と視線を交わし、カイは神器を手に走り出した。
トーヤから教わった『神器』による魔法の使い方を頭の中で反復し、彼は魔剣にぐっと力を込める。
心臓の辺りから流れ出す、血液の脈動とは異なる力の流れ。それが『魔力』だ。
身体から生まれ出る魔力を制御して剣に力を送る。『魔剣』の名を冠する神器には、徐々に紅い炎が纏い始めていた。
『グルルッ……!』
今ニーズヘッグは一度地上に降りて、長く太い尾で辺りの樹木をなぎ倒している。
そこにいるであろうシアン達を強引に押し潰すつもりなのか、何度も何度も入念に尻尾を振り回していた。
「まずい、あれでは……」
カイの炎はドラゴンに近づいてからでないと使えない。
遠距離から撃てば命中率も下がるし、外した炎が木々に燃え移る事態は避けたいからだ。
まだドラゴンとの距離が大きく空いている彼は唇を強く噛んだ、その時。
「これ以上はやらせないわ! 【電磁網】!」
高らかに響く電磁魔法の呪文。それを唱えたミウはカイやユーミ達の左手から現れ、純白のマントを翻して加勢してきた。
彼女の十八番である雷属性の魔法、電磁の網がドラゴンの巨大な体躯に絡み付き動きを封じる。
翼で羽ばたけなくなったニーズヘッグは地面に落ちていき、強靭そうな四つ足で着地した。
そのまま、動かなくなる。
「カイ、私の風をやろう。効果は三分だ」
「ありがとう、助かる」
今回の戦闘の目的はカイの『神化』の完成だ。
そのため、いつもは先陣を切って敵に突撃していくリオも、最初から支援役に回ってくれている。
そのことに感謝しつつ、カイは『風』の加速で地に落ちた竜へと一気に距離を詰めていった。
──相変わらず馬鹿みたいな加速力だ。
暴れ馬のごとき勢いを出す身体を懸命に制御する。
常人よりは優れている自覚のある動体視力を活かし、狭い木々の隙間さえもカイは掠りもせずに駆け抜けていった。
『風』を誰よりも乗りこなしてきたリオでも、これには舌を巻かざるを得ない。
「神ロキよ──あなたの力、必ずものにしてやる」
風による加速と、高揚感。
心拍が上昇する。剣を持つ手に力が自然と込められる。
目標まであと五メートルもない。
刃を……炎を、奴に浴びせる!
「らああああああッッ!!」
剣を上段から振り抜く。魔法で動きが制限されている相手には、絶対にかわせない攻撃だ。
刃を振るうと同時に炎が激しく噴き上がる。
紅炎がニーズヘッグの黒い鎧に纏われた横っ腹に激突した。
やった、か……?
目を細め、小山ほどある竜の身体を見上げる。
深い緑の鋭い瞳と視線が合った。その目はカイの絶大な威力の技を受けてなお、笑っていて──。
「カイ、一旦退いて! 早く!!」
ミウの声にはっとしたカイは、右足で地面を蹴って大きく後退する。
その瞬間、ニーズヘッグは長い首を身体の側面に回し、牙で噛みつく攻撃を仕掛けていた。
風の逆噴射で制動をかけ、カイは十メートルほど離れた地点に足を止める。
そして魔剣レーヴァテインの炎をぶつけた辺りに目をやると、彼は思わず舌打ちしていた。
「無傷……!?」
* * *
全身を覆う最高の硬度を誇る鱗という名の、完璧な鎧。
その存在こそが、この竜が黄昏を生き抜けたことの第一の要因である。
少し離れた所──今彼女がいる場所から南に十数メートルほどの地点──でカイの攻撃を目にしていたエルは、改めて黒竜の恐ろしさを思い知らされた。
隣ではトーヤが戦慄の表情を浮かべている。
腕を抱えて固まっている彼の肩を軽く叩き、竜の注意がカイ達に向いている間にシアン達の救援を急いだ。
「私の探索魔法はどんなものでも必ず見つけられる。シアンとジェードは二人まとめて右手にある倒木の下だけど……ニーズヘッグに見つかれば即死の位置だな……」
「即死って……。この相手、前に戦った異端者のモンスターより強いんじゃないの? まさか、知性まで持っていたりしないよね?」
「馬鹿な人間よりは学習能力ありそうだけど……正直なところ、その辺までは分からない」
二人で声を潜めながら、シアン達が下敷きになっている樹木のもとへ歩み寄る。
カイ達にシアン達の救援へ向かっていると伝えたいところだが、声を上げる以外に伝達の手段がないため仕方なく諦めた。
それに、彼らがニーズヘッグの標的になっている今が最後のチャンスになることだって考えられるのだ。
シアン達が生きているのかすら怪しくなってきた今やらないと、『治癒の大魔法』をかけても回復しきれるか分からなくなる。
『ゴオオオッ!』
ニーズヘッグがカイ達の方に鎌首を巡らせて威嚇する。
倒木まであとちょっとという所で「ひっ」とトーヤが小さな悲鳴を上げた。
だいぶ強くなってきたとはいえ根っこは気弱な少年である彼の手を、エルは静かに引いて歩いていく。
「大丈夫、奴はまだ私達の方を見てないよ」
超常的な力を手にし、モンスターや悪魔相手にも怯む姿を見せなくなった彼のその反応を見て、ひそかに安堵する。
まだ人間らしい部分もあるな、と。
「私が浮遊魔法で倒木を持ち上げるから、トーヤくんは二人を助け出してくれ。そしたらさっさとここを離脱して、カイくん達との合流を図ろう」
トーヤが頷くのを確認して、エルは小声で呪文を唱え出した。
杖から紫紺の魔力光が迸り、重い倒木がふわりと浮き上がっていく。
倒木の前で待機するトーヤはすかさず、その下にいるシアンとジェードを抱き抱えた。
急いで撤退する。その間10秒もかかっていない。
幸いにも、ニーズヘッグがこちらに気づいた素振りはなかった。
「……エル」
「わかってる。絶対に二人は死なせない」
トーヤの腕の中で死んだように動かなくなっている二人を見て、エルは唇を引き結んだ。
血塗れの彼らの身体は半ば潰れ、見るのも辛い姿になってしまっていたが、目を逸らさずに治癒に移る。
「この場は僕が守るから……エルは魔法に集中して」
ニーズヘッグがまだ倒していない樹木の根元に二人を横たわらせ、エルはトーヤの言葉に頷くと《高位魔法》の詠唱を開始した。
千年もの長い時の中で蓄えた魔導の知識。その膨大な引き出しから一つの《究極》の魔法を引っ張り出す。
「【エデンの園より降りし《イヴ》の名のもとに告ぐ──】」
* * *
「あのドラゴン、動き出すわ!」
ミウの予測と違わず、ニーズヘッグは電磁網が弱まってきた時を待ってそれを食い破ってきた。
再び翼を大きく羽ばたかせ、竜は天空へと飛翔する。
それを見上げたカイは唇を噛むしかない。翼を持たない自分達には、あの竜のいる領域にまで攻撃を届けることが出来ないのだ。
『オオオオオオ──!』
耳をつんざく大音量の咆哮。それは翼を取り戻した竜の喜びの声にも聞こえた。
ニーズヘッグは先程よりも高度を上げ、ミウの電磁網に引っ掛からない位置に陣取っている。
あの位置に攻撃を当てるには……やはり魔法しかないか。
恐ろしく固いニーズヘッグの防御だが、ミウ姉さんの電磁網は効いていた。
炎や氷など直接の攻撃は通用しなくとも、麻痺などの状態異常を引き起こす魔法なら通用するかもしれない。
「どうするの、カイ? 魔法を使えない私は役に立たないかもしれないけど……サポートできることがあったら言ってちょうだい」
大剣を肩に担ぐユーミが言ってくる。
カイは自分より遥かに背の高い彼女に言葉を返そうとしたが――その時。
「奴が急降下してくるぞ! 狙いは――トーヤ達じゃ!」
リオの鋭い叫びがカイの視線をその場所に釘付けにした。
一本の樹木の下で、エルが獣人の二人に魔法をかけている。おそらく治癒魔法だろう。
そして魔法の詠唱のため無防備になってしまっているエルを守るように、トーヤが《魔剣グラム》を携えて立っていた。
彼は上空を仰ぎ、向かってくる巨大なドラゴンをまっすぐ見据えている。その立ち姿には一ミリのぶれもない。
「トーヤ……!」
カイは瞠目していた。
あれほど強大な相手を前にしても全く怯んでいるようなトーヤもそうだが、彼が一番驚いたのはエルの姿勢だった。
もうすぐそこにニーズヘッグが迫っているにも関わらず、彼女は魔法の詠唱を途切れさせることはない。
それどころか、敵の姿を一切確認しようともしない。目の前の瀕死の二人だけを見て、エルは治癒魔法の翡翠の光を迸らせながら玲瓏な《精霊の歌》を紡ぎ続ける。
エルはトーヤを心の底から信頼し、トーヤも同じくエルを信じている。
互いに深い信頼関係にあるからこそ、できることだった。
「来いッ……!」
トーヤの剣から紫紺の炎が立ち上った。眦を吊り上げ、体中から闘気をみなぎらせて。
その姿は、自分の背中で魔法を紡ぐエルを絶対に守る――そんな強い意志を感じさせた。
「【聖母の祝福を以て、汝の邪悪なる傷を癒せ】――【聖母の治癒魔法】」
「知恵と戦争の神よ、我が身に大いなる力を与えよ! 《神槍グングニル》!」
エルの呪文詠唱が終わるのと、トーヤが神化を完成させるのはほぼ同時だった。
翡翠の光が溢れシアン達の身体を包み込み、トーヤの得物は漆黒の炎を纏いながら槍へと変化する。
吠え声を轟かし口を開くニーズヘッグは、牙の覗くそこから巨大な火球を放出した。
「……」
それでもトーヤは動じない。
《神化オーディン》の長い白髪をなびかせ、彼は槍を持つ腕を後ろへ引き絞った。
そして、投擲する。
『オオオオオン!!』
砲声と共にニーズヘッグの火球は今にも爆発しそうなくらいに膨れ上がった。
《神槍グングニル》は風を切ってその核を貫通していく。
火球が破裂し、炎の雨が降り注いだ。
勢いを全く失わない──むしろ火球の魔力を吸収して力を増している──《神槍グングニル》は、そのままニーズヘッグの開いた大口に突き刺さる。
ドラゴンが、悲鳴を上げた。
「これが、《神化》……!」
カイはトーヤの超人的な力を目にし、感嘆の息をつく。
そして彼は自分に与えられた魔剣レーヴァテインを見、それからトーヤの小さくも大きな立ち姿を見つめた。
これが神化だと彼が伝えてくれた気がして、カイは気を一層引き締める。
「……俺も、負けてられないな」
待っていろ。すぐに追い付き、追い越してやる。
神化を完成させ、あのドラゴンに止めを刺すのは俺だ。
あの神ロキと一つになり、悪魔にもかなう絶対の力を手に入れる。
そのために──。
「ニーズヘッグ! お前は、俺が倒すッ!!」
赤の炎をなびかせる剣を携え、カイは地に落ちて行くドラゴンへと急迫した。




