7 真紅のナイフ
漆黒の髪に蒼い目、人間の子供のような小柄な体躯。
凛々しさを感じさせる端整な顔は、アリスと瓜二つの美しさを持っている。
眼前に立つ『小人族』の少年を見て、彼女は震える声で彼に呼びかけた。
「兄上……? 兄上、でしょう?」
「…………」
少年は黙って答えない。
淀んだ蒼色の瞳をアリスに向ける彼は、一切の表情を見せなかった。
「兄上、どうして……?」
間違いなく、今目の前にいる少年はアリスの兄、ヒューゴだ。
人違いであるはずがない。生まれた時から兄とはずっと一緒で、互いに相手の事をこの世で一番よく知っている。
それなのに、アリスは分からなかった。
どうして彼が自分に攻撃したのか。彼がもしこの殺人事件の犯人だったとしたら、どうしてそんなことをしてしまったのか。
アリスには、咄嗟に理解することが出来なかった。
「……『黒苔の麻痺毒』ですね、兄上? 私達の里、『パルナ洞窟』で採取できるあれを使ったというわけですか……」
小人族は他の種族と比べればあまりに非力である。
そのため、単純な力ではない戦闘技術を彼らは磨いてきた。
毒や火薬、様々な罠……その内の一つでアリスも扱いに長けている『毒』が今、彼女自身の身体を犯している。
「……っ、くっ」
受けた攻撃は肩にかすったのみ。
だがそれだけの量でも、『黒苔の麻痺毒』はアリスの全身の動きを制限するだけの力を持っていた。
すぐに脚から感覚が失われ、立ち続けていることが困難になる。
──長く失踪していた兄上が、もし正気を失ってこんなことをしているのだとしたら。
アリスはがくりと地面に膝を付き、虚ろな目で兄を見上げた。
もしくは何者かに操られ、無理矢理こんなことをやらされているとしたら。
私が、兄上を助けないといけないのに……今の私には、何も出来ない。
『黒苔の麻痺毒』の力はこれまでの経験で身に染みて分かっている。
巨躯を誇るトナカイも、俊敏さでは他の追随を揺るなさい『凶狼』も、その毒を当てられてしまえばたちまち無力化する。
この毒が秘めているのは、それほどの力なのだ。
「…………」
過去の面影を失った暗い瞳で妹を見据えるヒューゴは、沈黙を貫いている。
周囲に他に人はいない。
明かりも乏しいこの場所なら、放っておけば誰にも見つけられないままアリスは死ぬだろう。
だが、硬直した瞳をまっすぐ向けてくる妹に、兄である彼はその場を動かずにいた。
「…………『ジャックナイフ』」
長い沈黙の後、ヒューゴの口からこぼれた呟き。
彼の持つ刃が赤々と炎を纏い、倒れ込んでいるアリスに照準される。
「や……止め、て……」
もう口を動かすことすら精一杯のアリスが、最後に声を発した。
だが彼女の言葉は兄には届かず、蒼い瞳を歪めるヒューゴはナイフを振る。
破壊の紅炎が撃ち出された。
「────────」
どうして、どうして、兄上。
目を覚まして──私の大好きな兄上は、そんな事をする人じゃない。
炎が眼前に迫る。
これまでアリスやトーヤを何度も救ってきた深紅のナイフ。
皮肉にも、それと全く同じ刃がアリスを殺めようとしていた。
「……死ね」
聞こえてくるのは兄とは似ても似つかぬ別人の声。
鋭利な刃物の如きその言葉が、放たれる烈火が、無力な一人の少女の命を絶とうと彼女の身体に突き刺さる。
そして、その瞬間。
「やらせないわ」
もう一人の少女がアリスの前に立ちはだかり、何かを持った右手を差し出して炎を阻んでいた。
肩まで伸びた金色の髪に、長身の後ろ姿。
純白のマントを翻し現れた彼女はヒューゴを見据え、鋭い声音で問いかける。
「この国に蔓延っている『組織』、あなたはその差し金ということで間違いないわね? 先刻、この地下街で殺人を犯したのもあなたでしょう」
「…………」
助かった、の……?
アリスは目の前にある少女のマントの裾を確認し、自分がまだ生きているということに気づいた。
『ジャックナイフ』の炎の斬撃により起こる風。
マントをはためかせる少女の手の中にある『宝玉』は、炎の攻撃を全て吸収して赤い光を帯びている。
「……貴様、何者だ?」
「それはこっちの台詞よ。……よくも、ここまでやってくれたわね」
ヒューゴの蒼い瞳が眇められ、少女は彼の問いをそのまま返した。
彼女はギリギリと歯を食い縛り、怒りを堪えるような素振りを見せている。
「あ、あなたは……?」
『組織』に強い怒りを抱く人物。
この人は、一体……?
アリスが声を絞り出すと、その少女は一瞬後ろを向いて頷いた。
「もう大丈夫。この敵は私が、倒すわ」
澄んだ海の色をした瞳。僅かに細められた眼は鋭く、強い輝きを有している。
その整った顔を見て、誰かに似ているなとアリスは感じたが……それが誰なのか、咄嗟に思い出すことが出来なかった。
刃が閃き、黒衣が大きく翻った。
アリスが視認するのも難しい速度でヒューゴは白衣の少女に突進する。
激しい風が巻き起こり、倒れているアリスの顔面を強く打った。
「──宝玉よ」
黒衣と白衣が衝突する寸前。
金色の髪の少女は澄んだ声音で高らかに呼び掛ける。
彼女の手にあるそれは紅の光を煌々と放ち、次には先程のヒューゴの攻撃と同じ烈火の矢を撃ち出した。
「──ッ!」
しかし、ヒューゴはいとも容易くそれを回避してしまう。
小柄な体からは予想も出来ない跳躍力で彼は真上に飛び上がり、少女の頭上を越えて地面に着地した。
あまりに超人的なその動きに少女は目を見張り、思わず感嘆の息を吐く。
「へえ、やるじゃない……。『組織』の奴らなんか大したことないと思ってたけど、どうやら多少は強い奴もいたみたいね」
だが、そんな力を見せつけられても彼女は一切焦りというものを見せなかった。
宝玉を腰の袋にしまうと、彼女はマントの下に装備していた武具を手に取る。
アリスが倒れている地点から更に遠くに跳んでいたヒューゴを見据え、短刀を片手に握った。
「……後悔するなら今のうちよ。今なら殺さずに捕まえるだけで済ませてあげる」
「…………」
金と銀の輝きがアリスの視界に映る。
風となって駆ける少女。
それと同時にヒューゴも加速し、彼女に再度の攻撃を仕掛ける。
「らああッ!」
少女の叫びと共に刃と刃がぶつかり、火花が散る。
衝撃に顔を歪める両者は交差し、足で地面を削りながら位置を入れ換えた。
一旦走る勢いを殺し、先とは逆の位置で相対した二人は睨み合う。
そして、また同じように剣戟を再開した。
「ちょっと手荒な真似をするけど、許してね」
走りながら少女は地面のアリスの首根っこを掴み、戦場と化したこの場から遠く離れた所に投げ飛ばした。
人家の屋根の上に背中を打ち付けた彼女は、痛みにうめくも視線は眼下の戦いに釘付けである。
繰り広げられる高速戦闘。
少女の短刀が閃いたと思えば、少年のナイフがそれを受け弾いた。
ヒューゴは本来不利となる小さな身体を最大限に活かし、少女の視界の下から銀刃を突き出していく。
「……ちょこまかと、面倒ね」
彼女の青い瞳が苦しさに歪む。
舌打ちする少女は、咄嗟に脚を横に振り抜いた。
長いリーチのそれをかわそうとヒューゴが跳び退く。
その隙を彼女は突いた。
「【雷魔法】!」
呪文を挟まない超短文詠唱。
威力では詠唱のある『高位魔法』に大きく劣るものの、瞬発力では何より優れている。
彼女は前に突き出した掌から青白い電流を走らせ、眼下の少年を狙った。
「────」
少女の狙い通り、電流は少年の胴体……左胸に直撃する。
いくら相手が強くても、生身の身体に雷魔法を受ければただでは済まない。
寸分違わず心臓を撃ち抜いた攻撃。
──勝った。
少女はそう確信した。
……が。
「──えっ?」
飛び上がった黒衣の少年が空中から放った、刺突の一撃。
少女が動揺する刹那、その刃は彼が彼女に向けられた攻撃と同じ点──心臓を狙って突き出される。
何故──魔法が、効かなかった……?
動揺を隠せない彼女は咄嗟に腕を前に出し、信じられない程の膂力で繰られるナイフを受けた。
「あ、ぐあッ!?」
刺された箇所から全身に伝播する痛みと熱。
そして、その熱は本物の『熱』へと変わった。
『ジャックナイフ』が炎を発し、肌が、肉が、骨が灼熱に焼かれる。
「あっ……ああッ!? グッ、あああッ!」
これまでに体感したことのない激痛が少女を襲った。
燃えて焼けただれる腕を前にして、咄嗟に呪文を唱えることも出来ない。
「…………」
少年がナイフを捻る。
小柄な身体に相反する怪力で彼は少女の肉と骨を絶ち、砕いた。
突き刺さった剣身を強引に引き抜き、少女にとどめを刺すべく次の攻撃に移る。
少女を殺そうという間際、無感情な声音で少年は呟きを落とした。
「……邪魔する奴は排除する。それが主の命だ」
身体を動かせず、傍観することしか出来ないアリスは声を出せずにいた。
もう唇を震わせることすら不可能となってしまった。
恐ろしい早さで全身に回っている麻痺毒は、アリスのあらゆる行動を封殺している。
視線の下に見える少女の絶対絶命の危機に、自分は何をすることも出来ない。
せめてこの身体を少しでも動かせれば、兄の注意をこちらに向けられるかもしれないのに……。
──ごめんなさい。
アリスは声にならない声を上げた。
今の彼女には、そう謝る以外に選択肢はなかった。
深紅に染まった刃が煌めく。
痛みを必死に堪えている少女の両足をヒューゴは無情にも斬り付け、再起不能まで彼女を追い詰めていた。
少女の身体に馬乗りになり、黒衣の少年はナイフを大上段に振りかぶった。
──止めて。止めて!!
その人を……何の罪もない彼女を、殺さないで。
アリスの叫びは届かない。
淀んだ蒼の瞳を鈍く光らせ、不気味な笑みを浮かべたヒューゴは、『ジャックナイフ』を静かに振り下ろした。
「────────!!」
その時。
振り下ろされたはずの少年の手からナイフが弾け飛んだ。
放たれたのは、一本の矢。
ヒューゴは自分から武器を奪った射手の存在に驚き、顔を上下左右に振って相手を探そうとする。
「誰だ!?」
その射手を見つけるのはアリスの方が早かった。
危機に駆けつけてきてくれた彼の姿を視界に収め、心中で安堵する。
彼女に絶対の安心感を抱かせる人物。彼女が心から信頼する兄に並ぶ『英雄』。
「誰だか知らないけど、これ以上は好き勝手やらせないよ」
弓に矢をつがえ、鋭い瞳で敵を射る黒髪の少年。
自分の対角線上にある人家の屋根に立ち、彼は静かな口調で告げた。
良かった──来てくれた。
トーヤ殿が、助けに来てくれた。
アリスの目に涙が浮かぶ。
黒衣の小人族を睨むトーヤは彼女の方に一度視線を向け、頷いてみせた。
「待ってて──今、助けるから」




