6 血と骨肉と刃
背から激しく血を流し、倒れている人の死体。
例の酒場の隣にある人家の玄関でそれを目にしたアリスは、ぞっと肌が粟立つのを抑えられなかった。
「な、なんですか、これは……?」
これまでの戦いの中で人やモンスターの血は何度も見てきた。
だが、こうも凄惨な光景は目にしたことがなかった。
衝撃に打ちのめされ、立ち尽くすアリスの耳からは周囲の音が遠ざかっていく。
と、その時。
何者かがアリスの肩を掴み、後ろへ強く引いた。
驚き、振り返ると、そこに立っているのはオリビエである。
「アリス、そこを退いていなさい」
黒い瞳を歪ませ、魔導士の青年は静かにそう告げる。
アリスは彼の言うことに何も言わず従うしかなかった。
「この男が殺されたことについて、何か事情を知っている者はいるかい? 見たところ、ただの刃で殺された訳じゃなさそうだけれど」
至って冷静な口調でオリビエは周囲の見物人たちに訊ねる。
訊いてすぐには声は上がらなかったが、ややあって、一人の男がこう証言した。
「……実は、この前も同じような手口で死んだ奴がいたんだよ」
男は恐る恐る、といった声音で語り始める。
それにはオリビエもアリスも目を見開き、彼の言葉を一字一句漏らすまいと耳をよく傾けた。
「あんたも知ってると思うが、この地下街はおかしな奴らが多いだろ。だから、死傷事件なんて割りとしょっちゅう起こってる訳だ。前に同じ死に方をした奴を見たときは、変な死に方してるな、くらいにしか思ってなかったんだが……」
「ふむ、そうか……」
この地下街には、スオロで生み出された薬物中毒者や酒に溺れた者達などが多く「隔離」されている。
二年前に現れた『怠惰の悪魔』の影響もかなり受けているだろう彼らは、これまでも度々物騒な事件を起こしてきた。
オリビエなど『怠惰』に犯されていない一部の者達は、こうした事件にはもう慣れっこになっていたのだが……今目の前で起こってしまった殺人事件は、これまでのものとは別物のような気がしてならない。
「私達の気づいていなかった所で、どうやら随分と大変なことになっていたらしいな……。アリス、すまないがこの事をヴァルグ達に伝えてきてもらえないかい? 傭兵団も決戦の時までは暇なはずだ、都市の脅威を排除するため協力してもらう」
「……わ、わかりました!」
予期せぬ脅威が自分達の前に現れたことを察し、アリスは頷いて駆け戻っていく。
彼女が走っていくのを確認し、オリビエは死体の元にしゃがみ込んでそれをよく観察した。
ーーやはり、魔法による殺害か。
よほど強い魔力を込めたのか、この周囲の精霊達がざわめきを残している。
死体に大きく開いた穴の縁が焼け焦げているのを見るに、刃で突き刺したと同時に炎魔法も加えたというところだろうか。
「……精製金属の刃に、炎魔法を纏わせたのか? もしくは、炎属性の『魔具』……『魔剣』によるものか」
高位の魔導士であるオリビエは死体の痕跡からそこまで導き出し、そして首をかしげた。
奇妙だ、と呟く彼に先ほど語ってくれた男が訊いてくる。
「どうしたんだ、兄ちゃん? それだけすごい推理を見せたが、何か腑に落ちないことでもあったか」
「うん。……君達に訊ねるけど、この中に炎魔法を使える者、炎の魔剣を持っている者はどのくらいいる?」
訊かれたことに対し、逆に質問で返すオリビエは笑みすら見せなかった。
鋭く目を自分達に向ける青年に、地下街の住民達は誰も言葉を発しはしない。
「……そうだよね。魔法や魔剣を使える者なんて、そこらでばったり会えるようなものじゃない。私が知っている人間の『魔法使い』なんて10人にも満たないよ」
魔法とは、本来エルフなど特定の魔法種族にしか行使できないものだ。
オリビエやエル、トーヤなど人間が魔法を発現させる例はごく希少である。
この街で人間以外の種族と出くわしたことのないオリビエからしてみれば、魔法や魔剣を扱える人間を捜せば事件は解決するのだが、そうなると自分が一番の容疑者として挙がりかねない。
なのでそういった事は胸に留めるにおいておき、彼は顎に手を当てて住民達を再度見渡した。
「何か心当たりのある者、何か思い出した者は、早急に私か後から来る黒衣の剣士に伝えてくれ。私は、もう少し現場を調べてみることにする」
神妙な顔で周囲の住民達は頷く。
ここから散らばっていく者、まだ辺りの様子を見ている者など様々だったが、オリビエはそんな彼らに目もくれず死体に顔を近づけてよく観察した。
魔法使いは普通の人間より体内の魔力量が多いため、常時うっすらとだが魔力を発散している。
それは魔力の溜め込みすぎによる暴発を防ぐための本能なのだが、住民達にはそれが見られなかった。
仮に魔力が発散されないように自力で抑え込んでいたとしても、溜め込み続ければ暴発するし、それを回避しようと魔法を使えばオリビエの張る『包囲網』に引っ掛かる。
「犯人はいずれ分かるだろう。だが、厄介なのは『魔剣』を扱う『非魔導士』が犯人だった場合だな……」
死体の傷からは未だ膨大な魔力が立ち上っている。
死んでからそう時間は経っていない。
スオロ地下街のこの辺りまで来れば道も入り組んだものになっているから、どれだけ急いでも地上の街を抜け出ることは不可能だ。
ならば内からオリビエや住民達が、外からヴァルグや傭兵団が抑え込めばもしかしたら犯人を捕らえられるかもしれない。
そんな事を考えながら、オリビエは死体の顔とにらめっこしていた。
死体の顔面に張り付く表情。それは、『恐怖』ただ一つを表したものである。
「…………」
この街で、悪魔とは別の何かが動き出している。
それが『神器使い』達が街へ帰還したからなのかどうかは分からない。
だがこの時、それが何なのかをオリビエは予感していた。
自分達を妨害する「影」の存在。
……シルやリリスの刺客が、すぐ側まで迫ってきている。
* * *
アリスは走っていた。
来た道を駆け戻り、昼間にも関わらず夜のような地下街への出口を目指す。
先程見た凄惨な光景に吐き気を催しそうになりながらも、彼女は一刻も早く地上のヴァルグらにこの事を伝えるべく、一心不乱に両手を振った。
「はあっ、はあっ……!」
呼吸が苦しくなり、喘ぎ声が漏れ出る中、彼女の視界に地上への階段が見えてくる。
穴の上まで掛けられた梯子だ。
近づいてくるそれに手を伸ばし、登り上がろうとする。
……が。
彼女を阻む「影」は、突然にして現れ出た。
「……っ!?」
眼前に躍り出るのは黒衣の外套。
その裾の下から閃くナイフがアリスの左肩をかすめる。
間一髪、身を翻すことで首が飛ぶことは防いだものの、服が破れ露になった肩から血が流れ出た。
鋭い痛みと熱がアリスを襲う。
「ぐっ……あ、あなたは……!?」
肩を押さえ、アリスはうめく。
彼女の前に立つ相手は、人間の子供ほどに小柄だった。
その体格から自分と同じ種族の者、『小人族』が相手だと即座に気づく。
「……あなたが、あの男を殺した犯人ですね……? 同胞とはいえ、そんな事をするなんて許せません……!」
かすっただけと思っていたが、ナイフには毒が塗られていたらしい。
傷口から痺れていく感覚。
アリスは荒く息を吐きながら、フードの奥の相手の瞳を見据えた。
「私は、レータサンドの族長の娘……アリス・ソーリ。もし、あなたが私の名を知る同胞だとしたら……今すぐ、そのナイフを収めなさい」
「…………」
黒い外套の小人族は、ただ無言でアリスを見ていた。
全く正体の分からない相手を睨みながら、アリスは歯を食い縛って毒に耐える。
だが、それも時間の問題かと思われた。
「アリス、アリス・ソーリ……?」
目深に被ったフードの下から、掠れた少年のような声が漏れた。
どこか聞き覚えのある――いや、忘れるはずがないその声に、アリスは目を張り裂けんばかりに見開く。
「まさか、そんなことが……!?」
驚倒するアリスが彼に向けて指を差す中。
少年は、静かにフードを脱ぎ去った。




