エピローグ 満月のオルゴール
『それじゃあ、お別れだね』
深い感慨を抱きながらカイの手の「魔剣レーヴァテイン」を見つめている僕達に、神ロキが言った。
これまでとは幾分か暖かな口調の彼に、エルが天を仰いで返す。
「ああ。早く戻って、やらなきゃいけないことがあるからね」
『そうかい。君とまたしばらく話せなくなるのは寂しいが、行っておいで。……世界を、危機から救うために』
「そうだね。それに、決着をつけないと」
一人小さく頷いてエルは視線を僕に向けてきた。
僕は彼女に向き合い、微笑みかける。
「シルさんと……話して、考えないとね。大丈夫、僕も一緒にいるから」
「…………トーヤくん」
エルの細い手を自分の手で包み、握った。
彼女は握られた手に視線を落とした後、僕の瞳を見ると薄く涙を浮かべる。
その涙の意味する所はわからなかったけど、僕は黙って彼女を抱き締めてあげた。
エルの温もりが服越しの肌を通して伝わってくる。
「あらあら、これじゃあたし達が割って入る余裕もないわね」
茶化すようにユーミが呟いた。
こういう時に面白がりそうな神ロキは口を閉ざし、僕達を見て多少思うところがありそうだった。
が、それが何か考える間もなくロキはユーミに注意する。
『二人の様子を鑑賞するのもいいけど、忘れてないよね? さっき長々と語った神話のこと』
「忘れてないわよ。ここを出たら時間を見つけて話すわ」
腕を組むユーミがぼんやりと僕とエルを眺めつつ言う。
彼女は何かを諦めたような瞳を逸らし、溜め息を漏らした。
「どうしたのだ? ユーミ」
「ううん、なんでもないわ」
心配するリオにユーミは笑顔を浮かべる。
だが、その笑顔は作り物のように見えて、リオから心配の表情を拭い去ることは出来なかった。
『あ、カイ君。最後に一言言わせて欲しい』
「何だ? 神ロキ」
神器レーヴァテインを腰の鞘に収め、カイは訊ねた。
一呼吸置いてロキは話し始める。
『……君はこの先、色々辛いことや悲しいことに向き合うことになるだろう。でもね、カイ君……そういう時に前を向いて生きよう、とか考えなくてもいいんだよ。後ろを振り返ってもいい、怒ったり泣いたりしてもいい。足掻いて、足掻いて、真実の答えを掴み取る。それが出来れば、人間生きていけるよ。私が言いたいのはこれだけさ』
ロキの言葉を聞いて、カイは微笑した。
そして素っ気ない声でロキを毒付いてみせる。
「一言とか言って、随分と長く話したな。そのお喋りも少しは減らしたらどうだ」
『むっ……そんなこと言うなら「神器」取り上げるよ』
「あ、それは止めて……」
『嘘だよ、本気にするな』
一頻りケラケラと笑ってから、ロキはこの部屋の中央に円形の魔法陣を出現させた。
転送魔法陣。この上に乗ればロキが僕達を神殿の外へ送り返してくれる。
「じゃあみんな、帰ろうか」
オリビエさんが白く光る円を指さして儚げに笑った。
レアさんに裏切られた衝撃がまだ抜けきっていないのか、彼はあまり顔色が良くなかった。
だが、瞳にはカイが神器を得られたことに対する喜びの感情が強く表れている。
喜怒哀楽、様々な思いを抱いたこの『神殿攻略』も本当にここで終わりを迎える。
ロキの魔法陣に足を踏み入れながら、僕はこの戦いで起こったことを心の中で振り返った。
『全員乗ったかな? では、行くよーー』
視界が一切の汚れのない白に染まり、周囲の音も聞こえなくなる。
全身の感覚が消え、意識が途切れていく。
光の潮流に身を任せながら、僕達は『神殿』から現実へと帰還していった。
* * *
同じ頃。
ルノウェルス王国首都・スオロの王宮の舞台の上で、三つの影が対峙していた。
初夏にも関わらず冷たい風が吹く満月の夜。三人のうち一人は微笑み、一人は強ばった表情を浮かべ、また一人は目を細めて神妙な顔を作っている。
しばらく沈黙を保っていた三人の中で最初に動いたのは、黒いフードを上げて素顔を露にしている金髪の女だった。
「久しぶりに会ったのだし、まずは挨拶といきましょうか? ね、リリス」
「……何が目的かな、シル。ここで私に会っても何も出ないと思うがな」
「ふふっ、相変わらずね」
舞台の柵に背をもたれかけさせるリリスに、赤猫を伴うシルは歩み寄っていく。
リリスの首に巻き付いた青い蛇がシャーッ、と舌を鳴らして威嚇するが彼女はそれをいさめた。
「リリム、止めろ。こいつは敵じゃない」
「そう思ってもらえていたなんて、光栄だわ。……エイン、あなたもこっちに来なさい」
微笑むシルは少し離れた所で待機するエインに手招きする。
先程トーヤと激戦を繰り広げた後とあって、エインの顔色には疲れがはっきりと表れていたが、彼は特に不平も吐かずにシルに従った。
シルの隣に立ち、リリスの長身をぐっと見上げる。
「リリス、紹介するわね。この子はエイン。私の可愛い息子であり、悪魔ベルゼブブの『悪器』使い」
シルが少年を軽く紹介すると、リリスは彼の姿をしばし眺めた。
彼女は口元に手を当てて何やら考え込んでいるようだったが、やがて手を離すと笑みを浮かべる。
「……お前の趣味がありありと出ているな」
「そうかしら? 髪の色とか結構違うと思うんだけれど……」
「あの、何のことでしょうか……?」
ニヤニヤと笑うリリスと首を小さくかしげるシル。
二人の間で視線を行ったり来たりさせているエインは、つい訊ねた。
「いえ、何でもないのよ。……ところでリリス、本題に入らせてもらってもいいかしら?」
エインに向けて首を横に振ると、シルはリリスの目を鋭く見据えて切り出した。
リリスは肩をすくめると、言う。
「……構わん、始めてくれ」
強い夜風がシルとリリスの長髪を揺らし、乱した。
乱れた髪が絡み合うほどリリスに近づいたシルは、低いが強い口調で告げる。
「……私が言いたいことは二つ。まず、あなたの組織の一部を私が借りる許可を頂きたいということ。それと、今後あの少年……トーヤに余計な手を出さないで欲しいということよ」
シルの「言いたいこと」を聞いたリリスは、組んだ腕を解かずに彼女を睨んだ。
そして少々の怒りを孕んだ声音で唸るように言う。
「私が不在の間、ずっとお前が勝手に組織を操ってきたのだろう? もとより許可を取るつもりなどないのかと思っていたが」
「それは、しょうがなかったのよ。組織の長たるあなたがいなかったのだもの、他の誰に許可を求めろっていうのよ。だから今こうして許可を取ろうとしてるんじゃない」
シルはそう弁明するが、リリスの睨みは変わらず実行され続けていた。
恐ろしい【悪魔の母】の怒りを直視してしまったエインはシルの影で縮こまる。
「ちょっと、エインが怯えてるじゃない。……で、どうなの? 組織、借り受けてもいいわよね?」
リリスはエインの様子を見て、過剰に恐ろしくなっているらしい自らの表情を無理やり笑顔に変えた。
だが硬質な光を宿す目はそのままで、シルの瞳から離そうとしない。
「まず理由を聞きたいな。それ次第では考えてやってもいい」
「そうね……全ては、『特異点』を試すためよ。彼の力をどこまで伸ばせるか、それを試すために組織の力を使いたいの」
そう語ったシルの口調は確固としていて、揺るぎないものだった。
女神官レアとしてリリスもトーヤの戦いぶりを短い間だったが近くで見てきたので、彼が驚異的な成長速度を持っていることは知っている。
僅か一年にも満たない期間で『神化』を完成させ、戦闘で使いこなすことが出来る才覚。
それだけの要素が揃っていれば誰だって彼に魅力を感じる。
だがリリスは、彼のその魅力こそ自分にとって最も大きな障害になることを身をもって知っていた。
「……私としては、彼がこれ以上強くなっては困るのだがな。シル、お前はあの少年に一体何を望んでいるんだ?」
リリスに問われ、シルは彼女から視線を外した。
口元の微笑を収め、顔を上げて銀の満月を眺める。
「……私は、賭けたのよ。彼がこの世界をより良いものに導く存在であるかにね。その賭けが外れたら、また昔のように暴れさせてもらいましょうか」
「世界を、より良いものに……トーヤがそれを成せる器だとでもいうのか? いくらあの子でもそれは厳しいと思うが。現にあの時だって、『特異点』は無意味に散ってしまった」
リリスも目を天上の月へ向けた。
遠い昔の出来事を追想しながら、彼女は続ける。
「それに、私がトーヤにそれを成し遂げさせるのを許さないよ。どういう因果か知らないが、【七つの大罪】は再び誕生したのだ。彼らを使えば、今度こそ私の願いは達成される」
リリスの願い、『悲願』。
それはかつて自分を裏切った男への報復であり、男が作り出した世界への復讐であった。
神を殺し、世界を元の正常なものに戻す。破壊と殺戮の力は存在せず、戦いのない平和な世界を取り戻すのだ。
そのためには悪魔を使い、『神器』もその元である『神』も滅ぼさねばならない。
「いずれ、私はトーヤも殺す。だからシル、お前には組織の人員を貸すことも出来ないし、トーヤに手を出すなというのも守れそうにないな」
「……そう」
耳を澄まさないと聞こえないほど小さな声で、シルは呟いた。
金色の絹のような髪を翻し、彼女はリリスに背を向ける。
「なら、いいわ。私は私でやるから……ところで、最後に一つ訊ねていい?」
「……」
無言になるリリスのその態度を肯定と取り、シルは静かに口を開いていく。
「あなたが復活した時、側に誰かいなかった? あなたを甦らせた存在が誰なのか、何なのか……分かればいいのだけれど」
「質問していいなどとは言っていない。……だがその口ぶりからすると、お前も自分の場合のことは分かっていないようだな」
お前も、というリリスの言葉にシルは露骨に落胆のため息を吐いてみせた。
シルが死の縁から密かに生きて戻っていたのも、イヴに殺されて命を落としたリリスが今になって甦ったのも、そして【七つの大罪】の悪魔が再び誕生したのも……全て、同じ何者かの手によるものなのではないか。
『創造主』が破壊の因子となるシルやリリス、悪魔らを復活させる筈がない。別の何者かの意思が何らかの方法をとって、シル達を現世に呼び戻したのだと彼女は考えていた。
「もう、あなたと話すこともないわね。……エイン、行きましょう」
「はい、母さん」
シルは腰から長杖を抜いて振り、舞台の床に円形の魔法陣を描き出した。 そこにエインともども立ち、最後にリリスを一瞥する。
「……じゃあ」
「そうだシル、聞いたぞ。お前、『シバの女王』とか名乗って国を治めていたんだって? 確か、八百年ほど前に」
「……どうでもいいことを。あれは私の気まぐれよ」
「それを聞いて、私も国主というものになってみたいなんて思ってしまったよ。かつての夫アダム、そしてその妻イヴのように……」
別れる直前に二人はもう一度視線を交錯させた。
氷のように冷たい瞳と炎のごとく燃える瞳がぶつかり、互いの思いを探り合う。
軽く言葉を交わした次の瞬間には、この舞台から人の気配は完全に消えていた。
* * *
広々とした暗黒の空間に、一つの『果実』が実をならしている。
果実は巨大だった。小柄な人ひとりすっぽり入ってしまうほどに。
穏やかに揺れる果実の中、ふかふかの果肉に包まれる少女はふと目を開く。
「……助けて、誰か……」
少女の口から微かに漏れる声。
それは部屋に流れるオルゴールの音色に掻き消され、誰にも届くことはない。
「助けて……このままでは……」
動きたくても身体は動かせない。
それでも、少女は懸命にそこにいる「誰か」の手を取るように、腕を伸ばそうとした。
だが、悪夢が彼女を縛って動きを止めてしまう。
『何も考えなくていい。お前はここでただ、眠っているだけでいいの』
いつからか聞こえるようになった恐ろしい声は、少女の意思と感情さえも奪おうとしてくる。
……もう、長くない。
少女は自分があとどれだけの時間、悪夢に抗っていられるかを悟っていた。
あと、数日もすれば終わる。この意志も、魂も、悪夢に呑まれて消え失せる。
今こうして少女が流す涙は、その感情の残滓のようなものだった。
最後の力を振り絞り、少女は声にならない叫びを上げる。
「カイ……お願い、助けーー」
少女の声はそこで途切れた。
部屋には、変わることなく旋律を刻み続けるオルゴールの音だけが響き渡っていた。




