28 破壊と再生
* * *
エルは、一度そこで言葉を止めた。 胸の前に手を当て、目を閉じて静かに呼吸する。
ユーミが彼女の顔を窺い、心配そうに声をかけた。
「どう、したの……? 大丈夫?」
「うん……少し、疲れただけ」
エルは表情を歪め、言う。
それを聞いてロキが溜め息を吐く気配がした。
『……私も、あの時の事はあまり思い出したくはないな……』
エルは黙り込んでいたが、沈黙は長くは続かなかった。
意を決したように彼女は瞼を開くと語りを再開させる。
「……世界は崩壊する。その瞬間を目にした私が、君に語ろう」
* * *
黒い太陽――悪魔の『心臓』周辺の悪魔を一掃し、本体にも風穴を開けるべくオーディンは『グングニル』を大きく突き出した。
紫紺の稲妻がほとばしり、広がったそれは一つの太い光の束となると、悪魔の『心臓』へ一直線に向かっていく。
「『心臓』の表面が光線に抉られる。耳をつんざく女の悲鳴が上がり、球体の中心にいるシルの姿が見え始めた」
『心臓』の魔力壁を神の漆黒の槍は破壊し、貫いた。
このまま行けば『心臓』を完全に消滅させられる。悪魔の生産を止められる。
その前に……エルは話しておきたかった。姉に、最後の説得を試みたかった。
「私はオーディン様に嘆願し、彼に守られながら『心臓』に近づいた。そして隣の『彼』と一緒に、シルに声をかけた。今更かもしれないけれど、またいつもの日常に戻ろうって。でも、もうシルの意識は消えて無くなってしまっていた。残されたのは恐ろしい悪魔の意思。私は、ただ絶望することしか出来なかった……」
体に力が入らず倒れそうになってしまったエルを、『彼』は胸に受け止めると囁いた。
「……彼女を、殺すしかない」
その囁きに、エルは涙を流すのみで首を動かすことも叶わなかった。
それを了承と取ったのか、オーディンは『グングニル』に最後の力を込めると言った。
「『君達はこの場を離れていなさい』、そのオーディンの言葉に私達は素直に従えなかった。私を残してシルが死ぬのは許せなかったし、それが無理でもせめて最後の時くらい側にいたかった。彼の制止も構わず、私達はその場に残ることを選択した」
断固として動こうとしないエル達を見てオーディンは諦めたのか、首を軽く横に振ると槍を構え直して表情を引き締めた。
「神オーディンの『神器』の技が放たれ、私達もそれに魔法の援護射撃を乗せる。炎、雷、氷……三種の魔法の光が絡み合い、数倍の威力に膨れ上がって『心臓』の中心部に直撃した」
轟く爆発音。閃光と爆風にエル達は目を細めつつも最期のシルの顔を見た。
シルは金色の長髪をなびかせながらどこか穏やかな笑みを浮かべていたがーーすぐに、エル達はその表情に違和感を抱いた。
これは、シルのする表情じゃない。シルの笑みはもっと明るく、あんなに静かな笑みをすることはなかった筈だ。
「気づいた時にはもう遅かった。シルは瞳に青い炎を宿らせながら笑い、激しい憎しみと怒りを帯びた声音でこう口にしたんだ」
『これで終わりだ、イヴ』
その言葉と共に、世界は白く染まった。
心臓は爆発し完全に消滅したが、その爆心地に天より一条の白い光が降り注ぐ。
それはこの争いに満ちた世界に罰を下す、裁きの光であった。
「『心臓』の爆発は、それの引き金でしかなかったんだ。オーディン様の防壁に抱かれる私は天空から出でるものを目にして、無言で目を見開いた。何も、言えなかった。だってそれは、実在するとも知れなかった『創造主』の御手だったのだから……」
悪魔の心臓など比べ物にならない程に巨大な白い太陽。
時空を歪めて出現したそれこそが、『創造主』。人類を、神を、世界を創り出した上位存在。
何条にも別れた無数の光が地上を撫で、次の瞬間――。
「世界は、崩壊を始めた。『創造主』は過ちを犯した神と人類の世界を一度壊し、創り直そうとしたんだ。身勝手に戦争を起こし、全てを燃やしてしまった私達が裁かれるのは当然だった。でも、争いに関わりのない人達まで共に天に還るなんて、私には納得できることではなかった……」
エルは叫んだ。殺すなら私達だけにして欲しい、罪のない者達の命だけは救ってやって欲しいと『創造主』に懇願した。
オーディンの防壁を無理矢理破り、両腕を大きく広げて抵抗の意思がないことを示す。そのまま宙に身を投げ出し、彼女は静かに目を閉じた。
遠くに、『彼』の声を思い出しながら。
「何か暖かい、大いなるものに抱かれる感覚。目を開けると、本来なら地に墜ちて死んでいるはずの私の体は『創造主』の光の腕に包まれていた。それは主の気まぐれだったのか、そうでないかは私には計り知れない。でも、確かに私は生きていた」
エルを抱いた『創造主』は、破壊の手をそこで止めていた。
彼女を地上に下ろし光の触手を一本引っ込めると、『創造主』は無言で世界を見渡す。
エルと『彼』、オーディン……遠くからそれを眺めていたロキ達も固唾を飲んで『主』を見守った。
それは、大罪の悪魔達でさえも同じだった。
人間、神、悪魔。この場にいる全ての者が呼吸を止めるなか――『創造主』は、一条の光を『悪魔の心臓』があった空の裂け目に差し込んだ。
『その時、その時空の狭間から雷光のようなものが見えた。次の瞬間、そこから十二の影が飛び出てくるのを見て私は目を疑ったね。何せ、千年前に魂を悪魔封印のために捧げた彼らが、再び【七つの大罪】に決着をつけるべく「呼び戻された」のだから……』
『主』は自らが世界を裁くことを止め、結末をそこに生きる者達に委ねることにしたようだった。
ゼウスをはじめとする十二柱の神々はそれぞれ【七つの大罪】の悪魔の元へと降り立ち、奴らと戦っていた神に加勢する。
その勢いは何よりも凄まじく、悪魔を圧倒する程の力で彼らに抗う隙も与えなかった。
「【オリュンポス】の神と【アスガルド】の神。二つの系譜の神々が結束し、悪魔を追い詰めていく……その光景は美しく、そして残酷なものに私は感じた。無情にも思える神の超越的な力が、悪魔の命を削り、悲鳴を上げさせる……」
「俺達にも、あの力があれば……シルさんを救うことも可能だったかもしれないのに。俺に、力があれば……」
『彼』は、エルの側に立つと拳を握り締めた。
歯を食い縛り、喉の奥から声を出す。エルは彼の言葉に、強く握られた拳を手で包むことで応えた。
「エル……?」
「ううん……君はそのままでいいよ。あんな力、本当は持たない方がいいと思うし……」
そう聞いて、彼は穏やかな笑みを浮かべる。
二人の視線の先では、悪魔と神の戦いがもう決着しようとしていた。
禍々しい翼が、水竜の尾が、鋭い悪意に満ちた爪と牙が。
神の力により、黒い光粒となって消滅していく。
地上に残っていた小悪魔達も『創造主』の光を受けると一掃された。
そして、荒野と化した世界に静寂が満ちていった。
「これで、終わったのか……」
古の森の上空から更地となった都市を見渡し、彼は呟いた。
「うん……終わった、んじゃないかな」
エルの口調は曖昧だったが、その声音からは安堵の感情が見え隠れしている。
起こったことは決して戻らないし、時間を遡ってやり直すことも出来ない。だから、彼女は後悔することを止めていた。
彼と共にいられる世界をなんとか守れたのだから、それで十分だ。
復興には時間もかかるだろうが、いつかは元の素晴らしい景色を眺められるようになる。それで、いいじゃないか。
エルは静かに目を閉じ……その目元から、一筋の涙を流した。
『その後、神々は破壊された世界を長い時間をかけながら、その力をもって修復した。多くの生命が失われ凄惨な光景が広がっていた世界も、十年が経つ頃には元の姿を取り戻しつつあった。そんな中、神々は寄り集まって自分達の今後の在り方を考えるようになっていった』
イヴが消息を絶った後、世界の王者として統率者の立場に立ったのはオーディンだった。
オーディンは復元されたイヴの王宮へ神々を召集すると、いつになく深刻な表情を作り言った。
『彼の言葉は、「私達はこの世にもう必要ない」というものだった。「いや、最初から存在しない方が良かったのかもしれない」と付け加えた彼は、私達にこう提案する』
この世界から身を引こう、と。
オーディンは神々にそう提唱した。
自分達がいなくとも、もう人間達はやっていける。争う事しか能のない私達などよりも、試行錯誤しながらでも進んでいける人間達にこの先の世界を託してはどうだろうか。
そう、彼は瞳に真剣そのものの光を宿して口にした。
『誰も異義を唱えるものはいなかった。意見を対立させ、争っては過去の繰り返しとなってしまう。神々は、総じて「王」の声に従ったのだった』
神達がこの世を離れる際、またしても悪魔が誕生してしまった時に備えて『神器』と呼ばれる力を世界に残した。
オーディンはエルが『彼』と呼んでいた青年に自らの神器を渡すと、彼に自分の王座を継いで欲しいと頼んだ。
彼はそれを引き受け、人類で初の『神器使い』の王として新世界の犂明期を築いていくこととなる。
「私は、悪魔を復活させた元凶である女の妹として、王となった彼の側にいることなど許されなかった。私も追放される側の者だ、神達と共にこの世界を永久に見守る立場に就くことを選んだ。そしてーーその時は、やって来た」
エルと神々は新たな王となった『彼』に見守られながら、神話で天界と言われる異世界へ転移した。
時間も空間も停滞した天界という名の「牢」に自ら移った彼らは、以後ずっと元の世界を見守り続けることとなる。
『千年の時が経ち、人間達の世界は平和なものになり神々も神話の中だけで生きる存在となっていった。まだまだ完全に平和とはいえないが、世界は前よりはましなものになったと思う。だが……今再び、大きな脅威がこの世界を襲っている』
嫌な後味を残して、ロキが語る神話物語は幕を閉じた。
沈黙するエル、口元に手を当てて考え込む素振りを見せるユーミ。
それぞれ思いを胸に秘めながら、姿の見えない神を見上げる。
「……神話のことはよく分かったわ。でも、新たな疑問も出てきた」
視線を横にずらしたユーミは、エルと目が合うと彼女に問いかける。
「【七つの大罪】の悪魔達は、神ゼウス達が消滅させたはずでしょ? なのにどうして今もそいつらが存在してるのよ」
「……それは、私にも分からないんだ」
苦渋に歪んだ顔になり、エルが答えた。
その答えにユーミは納得出来ないといった様子で宙を睨む。
『考えられるのは、最初の戦争の後に姿を消したリリスが暗躍していた可能性だけど……それも確かとは言えない。それ以外にも、あの時死んだはずのシルが生きていて、何度も転生を繰り返しているということ……その事についても不明点は多い』
最期に見た姉の表情を思い返し、エルは違和感を拭い去れなかった。
あの時の表情が別の何者かーーリリスのものだったとしても、あの爆発を受けて生きていることなど考えにくい。
誰か、何かの介入があってシルが生をもって活動しており、悪魔が再び『誕生』したと考えるべきだろうか。
「だとしたら、それは一体何なんだ……?」
「……? エル?」
発せられた呟きに、ユーミが怪訝そうな目を向けてくる。
答えの出なさそうな疑問にさっさと終止符を打ち、エルは苦笑を返した。彼女は冷たい石の床から立ち上がると、疲れきった声でロキに言う。
「ロキ、今すぐ私達を『神の間』に連れていって。カイくんはもうそこにいるんだろ?」
『ああ、そうするよ。カイ君だけじゃなくて、トーヤ君も他の皆もそっちに着いたようだし……早く今の話を皆に伝えて欲しいしね』
こちらも若干の疲労を感じさせる声音でロキが応じた。
狭い部屋の床一杯に紫紺の魔法陣が広がり、光を放ち出す。
「伝えなきゃ……真実の物語を」
「トーヤくん、皆……今行くからね」
ユーミとエルは顔を見合わせ、静かに頷く。
同時に二人の姿がこの部屋から消え、別の空間に転移していった。




