25 求めた力
「あなたに私は殺せない。そうでしょう? カイ」
冷たく迫る母親、モーガンにカイは何も言い返すことが出来なかった。
彼はただうつ向き、歯を食い縛る。その様子を見たモーガンは口元に小さく笑みを浮かべた。
「俺は……」
悪魔を、この手で討つ。
そう決めた筈だ。迷う理由なんて、あってはならないのに……。
「カイ、私達と一緒に来ない? 使命なんか放り出して、もっと楽な生き方をしましょうよ」
こちらを引き込んでくる姉のミウの声。
神が作り出した幻である彼女の顔は、黒いインクで塗りつぶされたように染まり、表情が分からない。
全て幻覚だ。それを知っているにも関わらず、カイには今目の前にいる二人を無視することが出来ない。
強烈な魔力。心ごと引き寄せてしまうほどの、恐ろしいまでの力。
視覚や聴覚、触覚までも操作してしまう『神殿』の絶対的な力に、この時のカイは戦慄を覚えていた。
「……い、嫌だ。俺は、悪魔などには屈しない!」
差し延べられた姉の手を払いのける。
眦を吊り上げ、悪魔に洗脳されてしまった彼女を強く睨み付けた。
「カイ……そんな目で私を睨むなんて、あなたも変わってしまったのね」
「俺は何も変わっていない。変わったのは、姉さんの方だ」
薄く涙の溜まった目を拭いながらミウが言う。
カイは感情を押し殺した口調で、そっけなく見えるように返した。
「あら、そうかしら?」
「そうだ。姉さんが……母さんが、変わってしまったから……」
カイの視線は姉から母へ移る。
怠惰の悪魔「ベルフェゴール」に取り憑かれてしまった母親。自分よりずっと背の低い彼女を見て、カイはどうしてこうなってしまったのか、と悔やむ気持ちを抑えられなかった。
思わず唇を噛み、それを母に見られぬよう顔を逸らす。
「どうして……」
始まりはいつだっただろうか。
何故、そうなってしまったのか。
分かっているのは、誰も気づかぬ間に母親の雰囲気が変わってしまっていたこと。それだけだ。
悪魔が母に憑いてから、王宮の様子も大きく変化していた。
かつての官僚は謎の失踪を遂げ、代わりに怪しげな魔導士集団が女王の周りに蔓延るようになった。
その集団が一体何なのかカイは長らくその正体を知らずにいたが、恐らくそいつらがリリスの言っていた「組織」なのだろう。
「母さん……母さんは、いつからあの魔導士達と関わっていたんだ……?」
モーガンが悪魔に憑かれた原因は、彼女と何らかの形で接触した「組織」だと見て間違いないだろう。
「さあ、いつだったかしらね……気がついたら、彼らは私の側にいた。それしか分からないわ」
「組織」が最初に現れた時のことを覚えている者は誰一人としていない。
唯一、悪魔の洗脳をどうしてか逃れられたカイが物心ついた時には既に奴らがいた。
現状で判明している事実は、悔しいことにこれしかない。
当人がこれでは、本当に真実を知る者は存在しないのかもしれなかった。
「そんな事を訊いて何になるのよ、カイ。今あなたがするべき事は私達と一緒に来ることでしょ」
光のない瞳で姉のミウがカイに繰り返し言ってくる。
「一緒に来ましょう」「さあ、カイ」「こっちに来るのよ、楽しく生きられるわよ」「カイ、カイ、カイ……」
脳内に流れ込んでくる音声。
冷たく甘い誘惑に、カイは歯がギリギリと音を立てる程に強く食い縛った。
『背負っているものを全て捨てて、楽になりなさい。もう苦労も何もしなくていい……全てを、私に委ねてしまえばいいの』
悪魔ベルフェゴールが囁く。
見えない鎖がカイの抵抗しようとする意識を縛り、逃さない。
意識だけではない。身体さえも硬直し、その場から離れることを許さなかった。
「私はこれまで数えきれないほどの人間達を洗脳してきた。でもただ一人、あなただけは洗脳することが出来なかった。あなたの魂がそれだけ強いのか、それとも何か特異な存在なのか……理由は未だ分からない」
悪魔は独白する。カイの左胸――心臓の辺りを見透し、彼女は笑みともつかない奇妙な表情を浮かべた。
「でもね、私はこの数年で力を増した。他の悪魔達だってそう。……カイ、あなたが常に私達に抗っていられるとは限らないのよ」
背筋が粟立ち、恐怖感に支配される。
悪魔の放つオーラに、圧倒されてしまう。
「お、俺は……お前達などには……」
「まだ口答えしようというの、カイ?」
発しようとした言葉は悪魔の鋭い刃物のような声に阻まれた。
その途端、突如周囲の風景が暗転する。その場所から「王の間」は姿を消し、残ったのは何もない暗黒の空間だった。
「……!?」
暗黒の空間に、カイとモーガン、ミウの三人きりで閉じ込められる。
自力での脱出は不可能だ。脳内に依然流れ続ける姉の声に何とか耐えながら、カイはそう判断した。
硬直した状態で立ち尽くすカイに、モーガンは穏やかな声音で語りかける。
「カイ、本当は苦しかったんでしょう? 悲しかったんでしょう? 母さんに全て話してごらんなさい……」
「……ッ」
慈愛に満ちた母の顔。
それが偽りのものだと分かっているのに、惹かれずにはいられない。
自分が心の奥底でずっと求め続けていたものが、そこにはあった。
「母さん……本物の……?」
違う、こいつは悪魔ベルフェゴールだ。
でも、確かに母さんの顔をしている……。
「……こっちにおいで、カイ」
胸が痛んだ。心の傷を、癒したかった。
「いいのか、母さん……?」
悪魔が笑う。近づいてはダメだ。
でも、意識では理解しているのに、逆らうことが出来ない――。
「いいのよ、こっちに来て。母さんはいつだって、あなたの味方だから」
足が独りでに動く。もう止められない。
「母さん――」
カイはモーガンの胸に、自らの頭を埋めた。
モーガンが彼の体を細い腕で強く抱き締めてくる。
そうだ、これが……。これが、母さんなのか……?
求めた温かさはそこには無かった。
全ては悪魔が生み出した、偽りの感情。
けれどその裏には、その奥底には確かに母の表情があって――。
「……違う」
「えッ?」
鮮血が飛び散った。
「なッ……!?」
赤い目を見開き、モーガンが水色の長髪を揺らして背から倒れていく。
カイの手に握られているのは、短剣だ。
その剣をもって、彼は母親の腹を突き刺したのだ。
「どうして、私の言うことが分からないのッ……!?」
モーガンは腹から血を流し、手足の先から灰と化していく。
彼女を見下ろすカイは瞳を苦しみに歪めると長剣を抜き、次には姉に斬りかかった。
「カイ! 止めて――」
剣を防ごうと胸の前に出された腕ごとカイは両断した。
激しく血を噴き上げながら、姉はその場に倒れ伏す。
母親と同じく姉も体の端から灰に姿を変えていき、やがて全身を消失させた。
「……ごめん」
一人残された暗黒の中、カイは呟いた。
* * *
カイは二振りの剣を提げたままその場に立ち尽くしていたが、突如暗黒の世界に光が差し込んできて目を細めた。
一筋の光はあっという間に広がり、この空間を真っ白く染めていく。
『やぁ、よくあの幻を振り切ることが出来たね、カイ君。素晴らしいよ』
ふと聞こえてくる中性的な声。カイは辺りを見回し、その声の主を探した。
だが、この空間には彼以外の誰もいない。となると、この声の正体は……。
「あなたが、神ロキ……?」
『ああ。私こそがこの「神殿」の主、ロキだ。ここでは君が幻相手にどう立ち向かうのか、試させてもらっていたんだが……一つ、訊いていいかな』
「構わないが、一体何を……?」
問うと、神ロキが小さく笑みを漏らす気配がした。
カイは少し緊張しつつ、神の言葉を待つ。
『……君がどうして母親の幻に打ち勝つことが出来たのか、気になってね。一度は母の胸に身を預けた君だが、何を思って彼女に剣を刺したのかな』
カイはうつ向き、自分が振るった剣の刃を見つめた。母と姉を斬った際に付着したはずの血の色は消え失せ、銀色の輝きを取り戻している。
剣を腹に受け、命を散らす間際の悪魔の表情を思い出しながら、カイは答えた。
「母さんに抱き締められた時……この人は、本物の母さんじゃないってはっきりした。後は、簡単だった。本物の母さんと姉さんを取り戻す……そのためには、ここで悪魔を倒さなくてはならない。そう思えば、あの幻など怖くはなかった」
『そうか……うむ』
カイが正直に思ったことを口にすると、ロキは小さく唸り声を上げる。
それから少しの間を置き、神は静かに言った。
『君は本当に家族を大切に思っているんだね……彼女達を何としてでも救い出す、その気持ちが伝わってきたよ。――そんな君が悪魔を倒す力を持てずに立ち往生しているなんてことは、私にはとても耐えられそうにない』
神ロキの言葉をカイはすぐには飲み込むことが出来なかった。
が、その台詞が意味する事に気づくと、彼は目を大きく見開いた。
「まさか、本当に……?」
『神が人間に嘘などついてどうするっていうんだい? 私が今言ったことは、全て本当の意志だよ』
ロキは笑いを消し、真剣な声音で答える。
カイの剣を持つ手が震えた。力を得られる喜びが胸の奥から沸き上がり、溢れ出してくる。
「やった……俺は、やったぞ!!」
目に雫を溜めながらカイは雄叫びを上げた。
と、一杯に溢れ出す感情を露にしている彼の足元に、紫紺の魔法陣が出現する。
『ここから「神の間」まで転送してあげよう。そこに【神器】がある』
カイの全身は足元から立ち上がる光に包まれた。
神ロキがそう言う間にも、彼の体はこことは別の空間へと転移していくのだった。




