21 悪魔の母
吹き付ける風の音だけが、そこに立つ女の耳朶を打っていた。
締め倒した少年の身から体を離し、立ち上がる。
目にかかった透き通る水色の髪を掻き上げ、女――アスガルド神官のレアは、カイを見下ろした。
「……おいで、リリム」
彼女は青白い顔の少年を長く見ることはなく、すぐに別の一点に視線を移す。
そこには、大きな岩の陰から這い出てくる小さな蛇がいた。
蛇はするすると素早く動くと、レアの脚を伝って腕まで到達する。
「窮屈だったろう……でも、もう我慢する必要はない。さあ、お飲み」
レアの腕に細長い体を巻き付けた茶色の小さな蛇は、彼女の白い肌に牙を突き立てた。
レアは血を吸われる痛みに少し顔をしかめながらも、どこかすっきりしたような表情であった。
「良かったな、リリム。また、お前の元気な姿が見られた」
シュー、シュー、と舌を鳴らす蛇は、主の血を体内に入れたことで本来の姿を取り戻していた。
鮮やかな青色の胴体は光沢を持ち、長さもこれまでの三倍以上まで変化している。
自分の腕から首にかけて大蛇を巻かせるレアはリリムと呼んだそれを撫で、満足げに笑った。
「私はお前の体がなければ、魂をこの世に保つことすら出来ないからな……。いつも、感謝してるよ」
自らの依り代としている大蛇を慈しむように呟くと、地に倒れた少年から背を向ける。
レアは口元を歪め、腰から杖を抜いた。
転移魔法でさっさと脱出するのもいいが、さて、どうするか……。
「カイを死んだことにして私だけトーヤを見に行くのもいいけど……レアの意識が消えてしまっては、勘の鋭い者に気づかれてしまうかもしれないな」
と、そこまで口走った時、不意に首の後ろに視線を感じた。
慌てて振り返ると、そこにいたのは――。
「レア、さっき呟いてたこと……どういう意味?」
オリビエだった。
彼は瞳を虚ろに見開き、レアとその足元に倒れ伏すカイを目にしていた。その瞳は衝撃と動揺に揺れている。
「オリビエ……」
無意識に、眼前の魔導士の名を女は声に出していた。
レアの記憶にある少年の面影と一致する彼を、彼女の首に巻き付く大蛇が忌々しげに睨む。
「あ、あれは……君の気のせいなんじゃないか?」
青鱗の蛇の眼光がより強まると、彼女は首を小さく捩るようにして言った。
はぁ……この女、レアはどうやらよっぽどオリビエという男に惹かれているらしい。奴を見た途端、私の意識から一瞬脱しかけるというのだから相当だ。
「戯言を言うな。現にカイは君のすぐそばで倒れてるじゃないか。状況だけを見れば君が手をかけた以外に考えられない」
聞く者に焦燥感すら感じさせる早口で、オリビエは問い詰めてくる。
彼がそうせざるを得なかったのも、その言葉をゆっくり噛み締めて言うのがあまりに苦しいことだったからだ。
幼い頃からずっと気にかけて世話してきた王子は彼の前で倒れ、信じていた女には裏切られた。
今のオリビエには、これまで自分が積み上げてきたものが一気に崩れ落ちる錯覚が脳裏に浮かんでいることだろう。
「……彼を今殺した訳じゃない、少し意識を失わせただけだよ。私が直接手を下さずとも、大型級モンスターに食いちぎられるか動くことも出来ずに凍死するか、どちらかだ」
その光景を想像しただけでぞくぞくする。
彼女は微笑み、首元の蛇の頭を舌で舐めた。
すると彼女の瞳が、流れる美しい髪が、そして舌までもが仄かな青色の燐光を帯び出す。
「……っ」
魔力の光を全身に溢れさせる女にオリビエは言葉を失った。
怒りより先に出てくる感情は、胸の底からせりあがってくるような恐怖感。
腕で身を抱える彼は女を直視することすら出来ない。
「どうした、オリビエ。もしかして、もう私の正体に気づいてしまったのかな?」
燃え上がる炎のような、もしくは絶対零度の氷のような。
尋常ではない威圧感。嗤う女の纏うそれに、オリビエは抗うことも出来ずに圧倒されていた。
「……いや、まだよく分からない。君の正体とやらも、君が何故カイに手をかけたのかも……」
恐怖、困惑、狼狽、憤激。魔導士は瞳の奥で目まぐるしく表情を変化させる。
蛇の光沢のある胴を愛でながら女がオリビエの様子を眺めていると、そこにもう一人の声が加わってきた。
「カイ……! これは、どういう……!?」
まだ幼さの残る少年の声――トーヤだ。トーヤが、ここに来た。彼女は細めた目を彼の方へ向けて口元を緩める。
トーヤは気を失っているカイの元に駆け寄り、その血の色が失われた顔を覗き込んだ。
「カイ、カイ! 起きて、目を覚まして!」
震える声で叫び、カイの冷え始めてしまっている頬を叩く。
必死に戦友の王子を蘇生させようとする少年の姿に、女はしばし見入っていた。
「美しい友情だね。あんな別れ方をしたのに、彼が危機にあれば駆けつける。素敵じゃないか」
「オリビエさんの追尾魔法……その魔法が教えてくれたんだ。カイが危機に瀕しているって……。でも、来てみたらこんなことになっていたなんて……」
トーヤは項垂れ、言葉を続ける。
「一体、何が彼をこんな状態まで……」
……? 女は首を小さくかしげた。
トーヤは、カイの事だけを気にしているあまりに気づけていないのか。
この状況に。私が、カイに手をかけたという事実に。
「レアさん……?」
この時、彼はここに来て初めて女を見た。
女神官レアの身体に纏う青の光、それと同色の大蛇。
そこから、彼は今自分達がこれまでにない異常な状況に陥っている事を知ってしまう。
そして理解する。
女から放たれる強すぎるオーラ。目を合わせる事など不可能、あまりに圧倒的なその立ち姿。
彼女がカイを倒した張本人であるという現実を、悟ってしまう。
「まさか、あなたが……!?」
トーヤの大きな黒い瞳が揺れる。
その揺れはレアとの付き合いが短い分、オリビエの時よりは落ち着いていたが、やはり激しく動揺していることには変わりなかった。
「……ッ!」
動揺の感情が怒りへと変化するのは早かった。
立ちすくむオリビエを他所に、トーヤは立ち上がると女を睨む。
神器の加護もあってか、女の恐怖すら覚えさせる威圧感を跳ね退けた。
「レアさん……! どうして、あなたがこんな事を……!?」
「それはな……私にとって、カイが目的を達するのに不必要な存在だったからだ。いらない物は処分する、ごく当たり前の事だろう?」
感情の欠片もない女の言葉にトーヤは絶句した。
それでも女から目を離さず、少しの間を置いたあと少年は訊ねてくる。
「そんな事が、どうして出来た……? いくら邪魔だからって、カイにこんな酷い仕打ちを……!」
それじゃあ、僕を虐めたマティアスと何も変わらないじゃないか。
少年は言葉に出すことはなかったが、胸の中でそう叫ぶ。
訊きたい事は幾つもあった。だが、まずこの答えを聞かなければならないと彼は感じていた。
真っ直ぐ見つめてくるトーヤに視線で返し、女は腹の奥底から沸き上がってくる笑いの衝動を必死に堪える。
「何故出来たかって? そこを聞いてくるとは、ある意味想定外だったな。私はてっきり、何故私にとってカイが不必要な存在なのか、それを訊ねてくるものだと思っていた」
「それも訊きたいけど、さっきの質問が先だよ。……答えてください、レアさん」
刃の切っ先のように鋭い声音。
カイにはない、彼だけの『攻撃性』。静かに、しかし激しく、その眼は女を射抜いてきた。
……そう、私はこの眼が好きなんだ。
野獣のような獰猛性を孕みながらも、冷たい理性を貫いて迫ってくるその眼が。
「ふふ、ふふははっ……! そりゃあ決まっているだろう? 『面白い』からさ。これから私は、私のやりたいようにやる。もう誰にも縛られることはない」
『レア』の仮面を被る必要はない。
『レア』の意識と共にある必要も、もうない。
悲願を果たすために。そのために、私は力を取り戻したのだ。
「……そう、私は『女神官のレア』ではない。――私の真の名は『リリス』。かつての世界で神を産み、【悪魔の母】と呼ばれた女だ」
瞠目していたトーヤが身体を硬直させ、腕を抱えて視線を下に向けていたオリビエは顔を上げた。
二人の瞳には驚愕の色が張り付いている。
自らの真実の名を明かしたその瞬間、『リリス』はこれまでにないほどの快感を味わった。
「『リリス』、だって……!?」
「……おや」
足音と、少女の驚倒する声。
千年前にも聞いた事のあるその声に、ようやく本来の自分を取り戻せたリリスは笑顔を浮かべる。
「久しぶりだな……エル。私の事を覚えていてくれたか」
「……あんな事を体験しておいて、忘れる方が無理な話だよ」
眉間に深く溝を刻み、エルが言った。
シアン達も遅れて追い付いて、状況を飲み込もうと辺りに頻りに目を走らせていた。
「『悪魔ベルフェゴール』をルノウェルスの女王に憑けたのも、君の仕業なのかい?」
複雑に表情を歪めるエルは訊いた。
リリスは瞑目し、静かに答える。
「いや……それは私の忠実なる信徒がやってくれたようだ。悪魔の復活を願う『組織』の者達がね」
「組織……!?」
トーヤは戦慄する。過去に自分と父の元に現れたあの魔導士や、神殿テュールで戦った少年魔導士たち。
目的もよく分からず不気味だとは思っていたが……まさか、本当に悪魔の力を復活させるために行動していたというのか……!?
そんな事をしたら、また過去の神話の繰り返しじゃないか……。
「じゃあレアさんにとっては、悪魔の力を復活させるのにカイが邪魔だったということ……?」
「ああ。彼の潜在的な才能は案外侮れない。危険の芽は早いうちに摘んでおこうと思ってね」
リリスは細い腕に太い蛇を沿わせながら言う。
舌をちらつかせるその蛇に生理的な嫌悪を感じるトーヤは、深い皺を眉に作った。
歯を食い縛り、女に対する怒りの感情を言葉にして吐き出していく。
「もし、あなたが本当に悪魔が支配する世界を望むのなら……僕は、それを全力で阻止する。そんな世界、この世界の誰も望んじゃいない!」
そもそも、【大罪の悪魔】復活時にエルや神様が危惧した事はこの事だろう。
全盛期の力を取り戻した悪魔達が、再び世界を蹂躙するのを防ぐ。そのために『神器』があり、エルはトーヤを『神殿』へ導いたのだ。
「……そうか。君ならそう言うと思ったよ」
嗤う女にトーヤは『神器』グラムの切っ先を向けた。
青い魔力の炎と、剣の紫紺の炎が衝突する。
「…………」
空気を痺れさせるような沈黙。二人が放つあまりに強すぎるオーラに周囲の者達は何も動けず、何も口にすることが出来ない。
永遠にも感じられる長い相対のあと、最初に開口したのはリリスであった。
「阻止したいというなら、やってみせろ。私を阻むだけの力があるのなら、その力を見せてみろ。力もない弱い奴が出来もしない目標を口にする、私はそれが一番嫌いなんだ」
突きつけられる言葉。
トーヤは、牙を剥いたリリスから射るように放たれるそれを受け止めた。
彼の声と共に、神器の炎と雷が激しさを増し立ち上る。
「僕は、僕の正義を最後まで貫きたい。悪魔を倒し、あの男を倒し、そしてあなたを倒す。この世界で悲しむ人を僕はこれ以上増やしたくないんだ。そのためには、僕はこの世の誰よりも強くなる。どんな障壁もどんな強敵でも打ち破れるだけの力を、僕は必ず身に付ける! だからリリス、今はまだ――僕を、見ていろ」
今の自分はまだ、全ての敵には勝てない。力不足だ。
トーヤはそれを知っていた。知っているから、彼はそう叫ぶことが出来た。
リリスは笑う。その笑みが意味するものは、彼女以外に知り得る者はいなかった。
「……リリス、待て!」
青い炎と氷の風がリリスの姿を覆い隠す。
トーヤが叫んだがもう遅く、彼女は空色の長髪を翻し、姿を消した。




