7 怠惰の悪魔
「さて、神殿攻略をするとなると……色々と準備が必要だな」
グラスに残ったワインをぐびっと飲み干したレアさんは、ふと天井の辺りを見た。
「そうですね。準備は入念にした方が絶対いいです」
神殿攻略を経験している僕は、まだそれが未体験のカイ王子へ向けて言う。
食糧や武具、ランプや毛布も必要になるだろう。二度に渡る僕達の神殿攻略はあまり長いものにはならなかったが、今回の『神殿ロキ』攻略がそうであるとは限らない。神殿内部での長期的滞在を考慮して、特に食糧などは充分すぎるくらい用意しておいた方がいい。
カイ王子はそれを理解してくれたようで、頷くと酒場のマスターであるロイさんに頼んだ。
「では……資材の調達はロイに任せよう。出来るな、ロイ?」
「任せておけ。この俺にかかれば、それくらい容易いことよ」
サングラスを光らせ、ロイさんは腕捲りをする。
筋骨隆々の彼はとても頼もしそうだ。……筋肉は資材集めには全く関係ないけど。
「ロイ、時間はどれくらい必要なんだい?」
柔らかい微笑みを浮かべるオリビエさんが訊いた。
ロイさんはスキンヘッドにした頭を擦りながら、少し考えて答える。
「そうだな……。闇のルートを利用すれば、一日で何とかなるかもしれん」
「そうか。善処してくれ」
短く言ったレアさんの声音からは、静かな興奮が伝わってくる。
アスガルドの女神官である彼女も、実際に神の領域に入ることを楽しみにしているようだった。
そこで何が起こるのか、全く予想のつかない神の遊戯。それに参加できることに、この人は大きな喜びを感じている。
それは僕も同じだ。恐らくエル達も、心のどこかにはそういった感情を持っていると思う。
「頑張りましょうね、トーヤ殿」
アリスが僕を見上げ、可愛らしい八重歯を見せて笑顔になった。
僕は彼女の頭を撫で、微笑を返す。
「うん。アリスも神殿攻略を経験してるんだ、先輩として王子様を支えてあげてね」
「はい!」
アリスは使命感に燃え、王子様の元に跪くとはっきりとした声で誓いを立てた。
「王子様、私もトーヤ殿達と共に、あなた様に精一杯の助力をすることを誓います。ですから、こんな私達をお側に置かれることをお許しください」
リオやユーミもアリスに続いて思いを口にする。
「私達も彼女と思いは同じ。この国を救うため、共に戦う覚悟は出来ております」
「あたし達の力があれば、神殿のモンスターなんて敵じゃない。だから王子様、安心して神殿攻略に挑んでください!」
カイ王子は、亜人だからといってアリス達の言葉を拒みはしなかった。
彼はむしろ彼女達を素直に受け入れ、その手を優しく包み込んだ。
「そう言ってもらえて、俺はとても嬉しく思っている。トーヤと共に、悪魔を倒すために力を尽くして欲しい」
彼に手を握られ、アリスは頬を仄かに赤くした。
それを見たジェードがすかさず毒を吐く。
「おい、エロビッチ」
「せめてエロ小人って言ってください! というか私、今そういうこと何も考えていませんから!?」
アリスは顔を真っ赤にして叫ぶ。
その様子を見てジェードは愉快そうに笑った。
「はははっ、冗談だ」
「冗談にも程がありますよ……」
げんなりとした表情を作るアリス。
エルは何だか残念そうな顔で、彼女を見やっている。
「アリスがカイ王子にそういう感情を抱いたのなら、私としてはライバルが減っていいかな~って思ったのに。くそっ、ただイケメンに見つめられて照れただけかよ……」
エ、エル……言葉が汚いよ。
僕に半眼で見られていることに気付いたエルは、口元に手を当てて咳払いした。
「ゴホン。し、失礼した……」
苦笑しながら僕達のやり取りを眺めていたオリビエさんは、一、二度手を叩いてそちらに注目するよう示した。
僕達は口を閉じ、美しい黒髪の魔導士に視線を集中させる。
「みんな、聞いておくれ。ロイが神殿攻略のための資材を調達している間、私が君達を引率してこの地下街を見て回ろうと思う。色々と見て欲しいものもあるし……君達に考えてもらいたいんだ」
彼が常に纏っている柔和な微笑みはもうそこにはなかった。
至って真剣そのものなオリビエさんの表情に、僕達はこれから見せられるものの重大さを感じ取って生唾を飲む。
「レアはどうする?」
オリビエさんはレアさんを一瞥し、問いかける。
レアさんは首を横に振って彼の誘いを断った。
「いや、私はいいよ。ここに来るまでに色々あってね、少々疲れている。子供達を連れて楽しんでおいで」
「……あれを楽しいと思えるなんて、レアも感性がねじ曲がっているね」
皮肉めいた笑みをオリビエさんが浮かべる。
彼は酒場の扉の前まで歩むと、扉を薄く開けて外を確認した。僅かの間外部を観察していた彼は、すぐに中へ顔を引っ込めると、僕達に手招きしてみせる。
「扉の近くまで密集しておくれ。隠蔽魔法を解いていられる時間は短い」
僕とエル達、そしてカイ王子も扉の側にいるオリビエさんに出来るだけ近寄った。
オリビエさんが片手に持つ短めの杖を手首で振るい、呪文を素早く呟く。
「さあ、急いで出るんだ」
全員、黙って外へ出る。僕達がみんな建物から出ると、オリビエさんはまた魔法をかけて酒場を無個性な灰色の民間へと変えた。
わざわざ大変だなぁ、と僕は労いの気持ちを込めてオリビエさんを見やる。オリビエさんはその視線に気づくと、やや疲労を感じさせる声音で言った。
「私達は王政府から『指名手配』されている身だからね。居所がバレたら不味いんだ」
指名手配……悪魔に憑かれた女王に逆らったからか。彼らにとっては、この街で味方は自分達だけ……。
「カイ、あれを使って」
「ああ、そうだったな……」
何だかすごく嫌そうな顔をして、カイ王子は上着を翻してその下に隠していた何かを取り出す。
「それは、何ですか?」
アリスが疑問の言葉を口にする。僕も首をかしげて、アリスと共にそれを見つめた。
それは、茶色の薄汚れた兜のようなものだった。以前に見たマーデル軍の兜のように派手な飾りが付いているという訳でもなく、特にこれといった特徴はなかった。
「見ていれば分かる」
カイ王子はアリスの問いにそう簡潔に答え、その兜を頭に被る。
すると驚くべきことに、兜を被った王子の姿が一瞬で別人へと変化した。僕達は目を見開き、絶句してしまう。
「この姿は、好きではない……」
悲しそうに溢す王子様だが、それには納得せざるを得なかった。
眉目秀麗だったカイ・ルノウェルスの面影は完全に消失しており、そこにはそばかすだらけの顔に低い鼻、厚ぼったい唇の、どう見ても美形とはかけ離れた顔面が存在していたのである。
大変貌を遂げていた王子様だが、こればかりは情けをかけられたのか青い海の色の瞳はそのままだった。
王子様に恨みがましい目で睨まれる魔導士は、途端に落ち込んだ様子になってしまった彼を必死に慰める。
「ごめんって、カイ! 君は王子様で顔が知れ渡っているから……どうしても別人に変装する必要があったんだよ。お願いだ、分かっておくれ」
「む……そこまで言うなら、受け入れはするが……。でも、うん……」
まだ未練がましそうなカイ王子だったが、何のために外に出たのかというと街を見て回るためである。ここでうだうだ文句を言っている時間はもったいない。
足取りが重いカイ王子に、エルがニコリとウィンクする。
「そうだ、王子様! 私の変身魔法なら美人の女の人に変身できますけど、どうですか?」
もしかして、それってイェテボリの時のカリスティアさん……?
また彼女の姿が見れるのか。王子様、ここは是非エルの提案を受け入れてください……!
「女か……。止めておこう。この魔具は、オリビエがわざわざ俺のために作ってくれたものだし……。彼のためにもちゃんと使う」
よく出来た王子様だなぁ……。
美人の女性見たさにあんなことを考えた自分が恥ずかしくなる。
僕が内心で羞恥に駆られていることは皆いざ知らず、さっさと前を向いて歩くオリビエさんの後に続く。
それまでの会話で少し和んだ雰囲気になっていた僕達だったが、オリビエさんの低い声に再び意識を切り替える。
「これから見せるものは……トーヤ君達には刺激が強すぎるかもしれない。だけど、悪魔の力がどこまで及んでいるか知っていた方がいいし、こんな現実もあるのだと理解することも大切だと思うから……。まあ、心の準備はしておいておくれよ」
見る前に心の準備が必要なもの……それは一体、何なのだろう。
僕は眉根を寄せ、オリビエさんが早足で向かう先の建物に目を凝らした。別に、これといって特徴のない民間に見えるけど……?
「本当はここだけじゃなくて、この街の至るところに『この場所』はあるんだけど……。今日はここと、あと数ヶ所を見ようと思う」
オリビエさんの言葉を聞いたエルは、腕で身を抱えて嫌そうな表情をした。
恐らく彼女はこれから見せられるものが何なのか、大体察してしまったのだろう。
この先に何が待つか予測出来なかった僕は、ただエルの二の腕に軽く触れていた。温かく柔らかい感触が伝わってくる。
「トーヤくん……君は」
エルは僕の名を呼び、続けて何か言おうとしたがオリビエさんに遮られた。
「じゃあ、開けるよ。全員が入りきるかは分からないから、まずは半分に分かれて来ておくれ」
オリビエさんが「ごめんください」と一言中へ声を掛けてから、ドアをノックした。
灰色にくすんだドアが押し開けられ、僕とエル、シアン、そして変装したカイ王子が入り口から中へと入っていく。
「う、うぇぇっ……」
建物に入ると、まず感じたのは「匂い」だった。かなり強いお酒の匂いが漂い、甘苦い味が鼻腔を満たす。
「うっ……こんなの耐えられるの、ユーミくらいだよ……」
エルはあまりのお酒臭さに、辟易した様子だ。
僕も同じ感想で、鼻に手を当てて玄関を通り過ぎ、オリビエさんに付いて奥の間へと歩を進める。
「ううっ……気持ち悪い……」
思わず口にする僕だったが、もっと大変なのがシアンだ。
獣人の彼女は人間の僕達よりも遥かに臭いに敏感で、今にも気絶しそうなくらい顔を真っ青にし、口と鼻を両手でしっかりガードしていた。
「シアン、辛かったら無理しなくても……」
僕がここを出るよう言葉と目で伝えると、シアンは激しく首を横に振った。
せっかくここまで来たのだから、出来れば見ておきたいということか。シアンの意思を汲み取った僕は、彼女に「分かった」とこくりと頷いて見せる。
意外と長い廊下を抜けると、広まった空間に出た。そこにはソファーや低めの小さなテーブルがあり、更に男性が三人いる。
その空間を目にした僕は、その時オリビエさんが言ったことを全て理解した。確かにこれは刺激が強すぎるし、見るには心の準備が必須だろう。
部屋に三人いる男性の内、一人はテーブルに突っ伏して酒瓶を片手に持っている。もう一人はソファーに仰向けに倒れ込んだ状態で、口からよだれを垂らし目は白目を向いていた。三人目は、ちょうど白い粉のようなものを吸っている最中であった。
オリビエさんは、たった今薬物を摂取した男が放った奇声に掻き消されぬよう声を張り上げる。
「オスロでは、こういったアルコール中毒者や薬物中毒者達が後を断たない。それこそ、不自然なくらいにね。増えすぎた中毒患者を地上だけでは支えられなくなった二年前、半ば廃墟と化していたこの地下街を利用して彼らは隔離されることとなったんだ」
人が薬の魔力に呑まれていく様を初めて目にした僕達。
その時耳を流れるオリビエさんの台詞は殆ど頭に入らず、愕然とこの光景を見ているだけだった。
「オイオイオイオイ……こいつらはだれなんだよぉ!? おい、お前! 答えやがれよぉ!?」
ソファーに倒れていた男が意識を取り戻したと思ったら、飛び起きて僕達を指差し叫ぶ。
甲高い叫び声と頭に血が上った恐ろしい形相に、僕は著しく恐怖を感じて後ろに飛びすさってしまった。
「おい、トーヤ……。この男が指差しているのは私らではないようじゃぞ」
飛び退いた僕を背後で支え、リオは困惑したような口調で口にする。
「えっ……?」
驚きながら男の人差し指の先に目を凝らしてみると、彼は確かに僕達ではなく何もない空中に指を指していた。
だったら……この人は、一体何を見て……?
「うああああああっっ!! く、来るな……よせ、止めてくれ……っ!」
頭を抱え、見えない何かを激しく恐れる。
彼は、本当に存在しない敵を恐れているのか。それが、薬による影響なのか……。
ただただ、僕にはそれが怖かった。
* * *
その後も、僕達はオリビエさんに連れられて薬物中毒者の隔離所をいくつか視察した。
全てを終えてあの酒場に戻って来た時には、シアン達は完全に憔悴しきった様子になってしまっていた。
カイ王子は終始黙りこくり、やりきれない怒りを今も瞳に抱いている。
彼は空のジョッキをテーブルに叩きつけ、唸るように声を絞り出した。
「許せない……。この国の民を惑わす奴らが、俺は憎い……」
ジョッキから手を離し、そのまま何かを握り潰すように強い力を込める。
「王子様……」
薬による快楽は、多分とても気持ち良いものなのだろう。
だが、それを得ようとした者には取り返しのつかない代償が待っている。
薬は使用者の心と体を蝕んでいくのだ。僕達は今日、それを見せられた。
そして、彼らをそこに陥れたのは――。
「怠惰の悪魔、ベルフェゴール……」
その名を掠れた声で呟いたのはエルだった。この場にいる皆の視線が彼女に集まる。
エルは両腕で身体を抱き、悪寒を堪えるように首を横に二、三度振った。
「不自然なくらいに増えているという薬物中毒者を薬に堕としているのは、きっとあいつだよ。あいつなら、それだけ大規模な『洗脳』だってすることが出来る」
洗脳、だって……!?
悪魔アスモデウスも洗脳まがいの「魅了」能力を持っていたけど、ベルフェゴールという悪魔はそれを大規模に行う事が出来るっていうのか。
倒すべき悪。だが、今の僕達にそいつを倒せる力があるのか。
その答えを知るには、実際に戦って確かめるしかない。
「今度の悪魔は強力な『洗脳』能力がある分、これまでの相手より手強いかもしれないね……」
それでも、戦う前から諦めることなんてしない。
壁は打ち壊し、越えるためにあるんだ。僕達が力を結集させれば、必ず……。
「街の人達がこれ以上薬に汚染される事を止めるためにも、絶対に悪魔を討たなければ……」
それが、神器使いの使命。エルが僕に託した使命だから。
「トーヤくん」
隣に座るエルが、僕の身を突然抱きしめる。
狼狽しながらも僕は彼女の背に右腕を強く回した。
僕の首もとに顔を埋め、彼女は囁く。
「大丈夫だよ、トーヤくん。私達はこれまでだって悪魔と戦い、その度勝利してきたじゃないか。今の君の神器二つに、カイ王子がこれから手に入れる神器を合わせれば神器は三つ。戦力では勝っている」
理屈では、そうだ。理屈では……。
でも今は、彼女のその言葉を信じて突き進むしか選択肢が残されていなかった。




