12 真紅のナイフ
――終わった。
ここで死ぬんだって、一瞬で悟った。
父さんの背中、母さんの穏やかな微笑み、ルリアのお転婆な笑い声、そしてエルのエメラルドの瞳が脳裏に過ぎって消えていった。
僕は英雄にはなれなかったんだ。過ちを犯した僕には、その資格なんて……。
諦めてぎゅっと目を瞑った直後、身体を衝撃が襲った。
ドンッ! と突き飛ばしてくるその痛みには不思議と覚えがあって――想像していたよりずっと、痛くなかった。
「ぐっ、あっ!?」
肩から背中にかけて床に打ち付けられる。
上手く受身を取れずに濁った呼気が口から漏れ出た。
心臓は狂おしいほどにバクバクと鳴り響いている。……僕の心臓は、鳴っている。
そして、直後。
先ほどの衝撃とは比べ物にならない雷鳴のごとき轟音ががなり立て、屋敷の床が跳ね上がるほどの揺れが僕らを突き上げた。
「っ、な、何っ――!?」
どうやら僕は確かに生きているらしい。
そうでないと、この心音や揺れの感覚に説明がつかない。
命を、拾った。絶体絶命のカウンター攻撃を食らおうとしていたはずなのに、助けられた。
エルが魔法で守ってくれた?
いや、違う気がする。さっきの【防衛魔法】の時に感じた熱みたいなもの――たぶん魔力ってやつだろう――は、なかった。
感じるのは、匂い。嗅ぎ覚えのある、僕の知っている誰かの、少しお高くとまった香水の――。
「だ、誰、が……」
掠れた声で呟いて、床に倒れていた僕は身体をわななかせながら上体を起こした。
そこで視界に映ったのは、一人の男の背中だった。
「命拾いしたなァ、トーヤ?」
大剣を肩に担ぎ軽めの防具を身に纏った、ひょろりと背の高い金髪の少年。
マティアスだった。
僕やルリアを見下し、今まで何度もいじめてきた僕にとっての恐怖の象徴。
これまで僕に散々傷を負わせてきた彼が、よりにもよって僕を助けた? そんな馬鹿げた話が、本当にあるのだろうか?
信じられずに絶句するしかない僕へちらりと流し目を送り、マティアスは言ってきた。
「夢でも幻でもないぜ? ……ま、説明は後だ。今はあのデカブツをやる」
マティアスの視線の先、僕から見て遠い背後の壁にミノタウロスは頭から突っ込んでいた。
壁に頭部をめり込ませている怪物は、僕らがこうしているうちにもそこから抜け出して身体を翻す。
ろくに話す猶予さえくれないってことか。
僕は胸中で舌打ちしつつ、顔も合わせたくなかった彼を横目で見る。
「……僕があいつの項を狙う」
「じゃ、俺は足の一本でもぶった斬ってやるよ」
作戦会議なんていらない。交わす言葉は意志の主張だけ。
「あの獲物は僕のものだ」と、はっきりと宣言する。
しかしマティアスは反論しなかった。ここに来た以上彼も【神器】狙いだと思っていたけど、どういうわけなんだ……?
『ヴオオオオオオオオッ!!』
理性など欠片もない号砲が打ち上がる。
中断していた戦いの火蓋が、再び切って落とされた。
「――行くぜッ!!」
ミノタウロスが走り出す。マティアスも地を蹴る。
同時に飛び出した両者。僅かに遅れて僕も動き出し、ナイフを構えて敵の背後へ回ろうとした。
「二人共、私の魔法を!」
エルの言葉が背後から僕らを追いかける。
直後、僕は全身がほのかに熱くなるのを感じた。身体に残っていた痛みがすっと消え、視界が鮮明さを増していく。頭が澄み切ったように冴え渡り、心臓の高ぶりがナイフを握る手に力を込めさせた。
「【付与魔法】!!」
魔法使いだった母さんが話してくれたのを思い出す。【付与魔法】は魔法使いとそうでない人とが支え合うための魔法なのだと。人の肉体を強化し、魔力を漲らせ、勇猛なる戦士へと昇華させてくれる技だということを。
「ありがとう、エル!」
「助かるぜ嬢ちゃん!」
マティアスの大剣がミノタウロスの角と激突する。
火花を散らす彼らはまさしく互角だった。エルの魔法による強化を得て常人を超える筋力を手にしたマティアスは、ミノタウロスの突進をその剣の側面で受け止めてみせたのだ。
『ヴオオオオオオッ!?』
怪物にとってもそれは未知の出来事だったのだろう。
ミノタウロスは動揺したかのような叫びを漏らし、頭をぶんぶんと激しく振った。
「おっと!」
マティアスはそれに付き合わず、剣を手放して離脱してのけた。
戦いの中で武器を手元から失わせる真似など正気の沙汰じゃない。それは自らの致命的な隙を晒す行為にほかならない。
僕が時を止める中、しかしマティアスは不敵に笑っていた。
自分を押しとどめていた圧力が急になくなり、勢いあまってバランスを崩して前のめりになる怪物を見て。
「こーいうの振り回してこそ、一流の戦士ってもんだろ!?」
怪物の間合いすれすれの所に落ちた剣。
マティアスは無謀にもそこに滑り込んで、その柄を左手一つで拾い上げる。
彼は流れるような動作ですかさず刃を構え、立ち上がると同時に振り向きざまの薙ぎを敵の脚へと叩き込んだ。
『ヴゥウウウッ!?』
前傾姿勢となった上に左足の脹脛を思い切り斬られたとなれば、さしものミノタウロスとてまともに体勢を立て直せはしない。
恐れを捨てたようなマティアスの立ち回りが、僕が攻める最大の好機を切り開いてくれた。
エルの魔法、マティアスの無茶――それを無駄にしないためにも、今こそ!
「うあああああああああああッ!!」
痛苦に悶えるミノタウロスへと走り寄る。
のたうつ巨躯の上に飛び乗り、僕はその項へと躍り上がった。
『ヴオオッ、ヴオオッ、ヴオオオオオッ!!』
脹脛の筋肉を絶たれようが立ち上がり、吼えるミノタウロス。
項へと腕を回してそこに引っ付いた僕を叩き潰さんとする怪物に対し、動いたのはエルだった。
「邪魔はさせないよ! 【雷魔法】!!」
青白い閃光が迸り、雷の一撃が敵の右腕をびくんと痙攣させた。
立て続けに左腕も同じ魔法を食らい、奴の両腕は痺れて動かなくなる。
「へへっ、初歩的な魔法だけど最大出力ならこうさ! 凄いだろ!」
――ありがとう。
得意げに胸を張るエルに僕は内心で最大級の感謝を捧げ、僕は腕を封じられてもなお身体を揺らして暴れるミノタウロスから振り落とされまいと必死にしがみついた。
「落とされんなよトーヤ! もう一発ぶちかます!」
マティアスの次なる一撃が残った敵の右足を叩き折った。
バキッ!! という硬いものが破砕される不快音が鳴り、怪物の身体がどすんと床に沈み込む。
ナイフを掲げ、そこに突き刺さんと振り下ろし――そして。
「……えっ?」
岩を切りつけたかのようなその感触に、僕は間の抜けた声をこぼした。
効いてない。エルの炎もマティアスの大剣も通ったのに、僕のナイフだけがその硬質な肌に負けている。
何でだよっ……父さんから受け継いだこの武器じゃ、英雄になる資格なんてないっていうのかよ。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。せっかく二人から貰った最大のチャンスを、僕はものに出来ないのか。
『ヴヴオオオッ!!』
悶え、忌々しげに頭を振るうミノタウロス。
項に付着した害虫の僕を排除しようと、牛頭人体の怪物は背中から床に倒れて圧殺せんとしてくる。
が、それを止めたのはエルだった。彼女が杖先から放った金色の光の糸――それが怪物の首に巻きついて、引っ張り起こしている。
――結局、僕は彼女におんぶにだっこなんだ。
そんな劣等感に苛まれた。どれだけ意地を張っても、強気なことを言っても、所詮僕は弱い男だ。いじめに屈し、妹を守れもしなかった愚か者なんだ。
左腕でミノタウロスの短い鬣に掴まり、右手でナイフを固く握り締める僕はただ俯くしかなかった。
「トーヤ……?」
「トーヤくん……!」
マティアスの苦渋に歪んだ声がする。真っ直ぐ僕を見つめて名前を呼んでくるエルの声がする。
項垂れて硬直する僕へ、エルは――ここまで一緒に来てくれた彼女は、声を震わせて訴えてきた。
「トーヤくん、諦めちゃダメだ! 君はここで【神器】を手にして、ここにいるマティアスくんを見返してやるんだろう!? 憧憬に、なるんだろう!?」
ぐさり、と言葉が胸に刺さった。
純然たる僕の初志。『古の森』を抜けるために燃やしてきた、意志の炎。
エルの叫びが僕の魂に薪をくべ、その炎を再燃させる。
「武器は使い手の意志に応えてくれる! だから、心を――もう一度、奮い立たせて!」
心を燃やせ。
止まらずに進みゆくために。
「――そう、だよね」
僕は瞳を閉じ、この武器とそれを授けてくれた父さんへ願い、祈った。
僕はここで夢を叶えたいんだ。ここしか、ないんだ。だから――どうか、僕に力をください。
その時、父さんのかつての言葉が脳裏に蘇った。
『トーヤ、お前の名前は鬼蛇国の字では「灯夜」と書くんだ。夜を灯す炎のように、輝ける人になってほしいという願いがこもっている』
母さんの生まれ故郷である極東の鬼蛇国の文字にはそれぞれ固有の意味があり、名づけの際にもそれに則って字を決めるという。
炎のように。光のように。
「応えてよ、【ジャックナイフ】ッ!」
思いを乗せて呼び掛ける。
すると、刃は僕の意思に呼応するかのように熱を帯び始めた。同時に、その刃は緋色の光芒を纏って輝きを放ちだす。
「父さんと母さんの思いも背負って――ここで、お前を討つ!!」
魔力の炎を燃やす刃を逆手に持ち、僕はそれを思いっきりミノタウロスの項に振り下ろした。
「はああああああああああああッッ!!」
紅蓮の華が、咲き誇る。
舞い散る火花と緑色の血液を浴びながら、僕はその皮下、脊髄に達するまで深々と刃を突き込んだ。
『ヴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ――――!!!』
肉を焼き焦がす音が怪物の断末魔の咆哮に上書きされる。
急所を燃やし断たれたミノタウロスはどさりと床に倒れ伏し、その命を散らしていった。
絶命した怪物の肉体の上に立つ僕は、ナイフを引き抜いてそこから降りる。
「やったね、トーヤく――」
駆け寄ってくるエルを手振りで制する僕がまず行ったのは、その遺骸の前で手を合わせることだった。
たとえ危険なモンスターといえども、命であることに変わりはない。それを僕のエゴで葬ってしまったのだから、合掌くらいはしなければならないと思った。生まれ変わったら幸せに生きられますように、と。
「あいつ、何やってんだ?」
「極東の宗教観ってやつさ。彼らの中には、輪廻の概念が当たり前にあるんだよ」
「……よく分かんねえ。死んだら最後の審判を待つもんだろ」
「価値観は人それぞれってことさ」
会話するエルとマティアスに振り返って、僕は二人に笑いかけた。
二人がいなければ僕はきっと、ミノタウロスに止めを刺すところまで持っていけなかっただろう。間一髪のところに飛び込んで救ってくれたマティアス、魔法でのサポートと最後の言葉で鼓舞してくれたエルがいたからこその勝利だ。
「ありがとう、二人とも」
僕のお礼にマティアスは目を逸らし、エルははにかむ。
と、そこで緊張の糸が切れた僕はぷつりとその意識を途切れさせ、しばしの眠りの時を過ごすことになるのだった。




