太陽 1
オレンジ色の斜陽が優しく差し込んでくる夕暮れ時。
よく手入れされた芝の中庭、中央の噴水を眺められる木陰のベンチで、アリスは息を吐いていた。
「はぁ……。思ったより、大分きつい仕事でした……」
小人族である彼女は地面に付かない足をぶらぶらさせながら、予想以上に多忙だった仕事の内容を思い返す。
掃除に洗濯、調理に庭仕事……ダメだ、考えただけで頭が痛くなりそうだ。
アリスは仕事をする能力はあるが、そこまで仕事人間という訳でもない。あまりに忙しい仕事の数々に、やる気満々で挑んだ初日の彼女はもうどこにもいなくなっていた。
「トーヤ殿と一緒にいられる、はずだったのに……」
アリスはがくりと首を折って項垂れる。頭の後ろでくくった長髪も垂れ下がり、彼女の顔にかかった。
ここリューズ邸にアリスが初めて足を踏み入れたのが、つい三日前。
マーデルでの事件を無事に解決し、ようやく彼女も思い人と同じ仕事場に勤められることになったのだ。
……が、いざ仕事を始めるといつでも彼と一緒になれる訳ではなかったし、むしろ殆どの時間は別の場所での作業となってしまっていた。
調子に乗って幻想を見すぎたな、とアリスは自分を戒める。
「もう……私の馬鹿っ……!」
アリスは膝を両手でパンと叩き、頭を振った。
と、そこにゆっくりと足音が近づいてきて、少年が声をかけてくる。
「どうしたの、アリス?」
「……はっ! ト、トーヤ殿!?」
アリスが顔を上げると、そこに立っていたのはトーヤだった。
彼は若干茶色味がかった黒髪を掻きながら苦笑を浮かべる。
「アリス、顔に泥が付いてるよ」
「……へっ?」
全く予期していなかった台詞に、アリスはポカンと口を開けてトーヤの顔を見た。
トーヤはポケットから白いハンカチを取り出すと、アリスの頬に手を伸ばして付着した泥を拭き取る。
「よし、取れた」
アリスの前にしゃがみ込み、彼は彼女の頬を撫でて笑った。
まっすぐ瞳を見つめられアリスは数瞬遅れて羞恥を感じ、思わず目を逸らす。自分の顔が熱を帯びていくのが見なくても明らかだった。
「す、すみません。先程まで庭仕事をしていたもので……」
「そうだったのか……。あれは大変だよね、何しろ庭が広すぎるし」
ほんのりと顔を上気させているトーヤは、アリスの隣に腰を下ろした。
ハンカチで首筋の汗を拭い、彼も仕事で疲れているのか溜め息を吐く。
彼が使ったハンカチがついさっき自分の頬を拭かれた時に使われたものだということに気づいたアリスは、慌てて言った。
「と、トーヤ殿、そのハンカチ……汚いですよ! 私のこれを使ってください!」
「いや、いいよ。汚したら悪いし……臭いとか、気になるでしょ?」
トーヤが微笑んで遠慮の言葉を口にした。
本当に申し訳なさそうに断る彼だったが、もっと申し訳なく思っているのがアリスである。
彼女はトーヤに自分の花柄のハンカチを押し付け、彼と目を合わせて強い語気で言う。
「いいえ、これを使ってくださいトーヤ殿。やはり綺麗なものを使った方が、衛生上も良いでしょうし!」
それらしい理屈に納得したのか、トーヤは頷いてアリスのハンカチを受け取った。
更にアリスは汗を拭う彼に、腰に携えていた水筒を外して渡す。
「たくさん汗をかいているようですし、どうぞ私の分の水を飲んでください」
「え、いいの!? ありがとう、ちょうど喉渇いてたとこだったんだ」
真冬でも動くとすぐ暑くなるよね……などと言いながら、トーヤはアリスの水筒の中身を一口で飲み干してしまった。
空になったそれを軽く放って返し、彼は目を細めてアリスを見る。
「ふふ……何だか、世話焼きの妹が戻ってきたみたいだな……」
トーヤのそのどこか遠い目は、『神殿テュール』から帰還した夜に見せたものと同じだった。
アリスは腕で体を抱き、視線を膝の先へ向ける。
「…………」
トーヤは妹を亡くし、アリスは兄と生き別れになってしまっている。あの夜の後から、互いに失った穴を埋めるように二人は寄り添い、手を繋いできた。
それでも……アリスは、その関係性に違和感を抱いていた。
こんな関係ではなく、私は……。
だがそれを上手く言葉に表すことが何故か出来ず、アリスは喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。
「……アリス?」
「いえ、何でもありません」
はっきりとした口調でアリスは言い、無理に作った笑みを見せた。トーヤはその笑みが作られたものであることには気づかず、奇妙そうに彼女の顔を見つめている。
――私をあなたのお嫁さんにしてもらえませんか
マーデルへ向かったあの船の上ではこんなに大胆な発言をしてのけたのに、今二人きりでいる時に何で言えないの……!
アリスは彼に表情を悟られぬよう顔をうつ向かせた。その様子にトーヤは首を傾げる。
「本当にどうしたの、アリス? 何か変だよ」
「そ、そういえば! トーヤ殿はもう仕事はよろしいのですか!? サボっていては後でモアさんに厳しい仕置きを食らってしまうのでは……?」
顔を下に向けたまま、叫ぶようにして訊ねた。
トーヤはアリスの問いに穏やかな声で答える。
「あぁ、それなら大丈夫だよ。この後はルーカスさんと剣の訓練をする予定だから」
「そういえば、あの人に剣術に教わっていると話していましたね。……忘れていました」
アリスは音も立てずに立ち上がり、トーヤの前に来て彼に笑いかけた。
「確か、もうそろそろ時間でしたよね? 私もその訓練の様子、見ていてもよろしいでしょうか」
トーヤが行っている剣の訓練には以前から純粋に興味があった。
彼も、彼に剣を教えているというルーカスも、アリスが見た限りではかなりの実力者である。
『神器使い』と『魔剣使い』。この二人の剣の訓練は、恐らくアリスに想像のつかないほど高次のものなのであろう。
その高度な訓練を一度目にしてみたい。アリスの専門は弓矢だが、兄が剣を何度も振っている隣に自分もいたのだ。剣について何も知らない訳ではない。
「うん、構わないよ。ただし、近づきすぎると危ないからそこのベンチに座って見ているんだ」
トーヤはすっくと立つと、背中の剣を軽く鞘から抜き、また音を立てて戻した。金属質な小気味良い音が響く。
彼はアリスの肩に手を置き、軽く押してベンチに座るよう促す。
「……ルーカスさん。遅かったですね」
トーヤが振り返ると、噴水の前に寄りかかる体勢でルーカスがそこにいた。
アリスは驚いた。ルーカスがいつ現れていたのか、その気配に全く気づけなかったからだ。
「遅れてすまんな、トーヤくん。おや、アリスちゃんもいるのか。……二人で何を話していたんだ?」
赤い瞳を細め、ニヤニヤと笑って言うルーカス。
トーヤとアリスは二人で顔を見合わせ、揃ってブンブンと首を振った。
「べ、別に何も話してませんよ」
「そ、そうです! 私達、特に何かしていた訳じゃないですから」
「ふうん……。ま、いいか。剣の準備は出来ているかな、トーヤくん」
細身の刀身が特徴的な東洋の『カタナ』を腰から抜いたルーカスは、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。
その笑顔にうっかり頬を染めそうになったアリスは、ベンチに慌てて体を預け、二人を見守る態勢に入った。
トーヤも背から長剣『グラム』を抜き取るとそれを下段に構える。
「いつでも、始めていいですよ。僕の準備は出来ていますから」
トーヤがきりっと柳眉を吊り上げ、ルーカスを鋭く睨んだ。
白髪赤目の魔族の青年は、挑戦的なトーヤの視線を面白そうに微笑して受け止める。
「では、いかせてもらおうか」
そう呟いた、その瞬間。
いや、その動きは刹那と表した方が正しいだろう。
アリスの目にも留まらぬ速さでルーカスがトーヤに迫っていく。
そして、魔力を帯びた剣が放つ閃光と甲高い金属音。
「はああッッ!!」
気合いを込めてトーヤが叫ぶ。
彼の剣とルーカスの刀の刃が交差し、ギリギリと凌ぎを削っていた。
「完璧に防いでいるな……。あれほどの速度で切りかかった俺を止めるとは、なかなかやるじゃないか」
神器は魔剣の勢いをどんどん殺し、その力を弱めていってしまう。
ルーカスの魔剣『紫電』はその名から分かる通り雷属性。同じ属性を有する神器『グラム』は、その魔力を殆ど吸収することが出来るのだ。
「『魔剣』相手なら、君はもう負けんな……。さあ、次は普通の剣でやろうじゃないか」
異次元の動きをする彼らを端から眺めていたアリスの心臓の高鳴りは、ルーカスの寒い一言で一気に萎んでいった。
それはトーヤも同じだったようで、彼の剣からも魔力の光が徐々に失われていく。
当のルーカスは特に気にする様子もなく、普段と変わらないにっこり笑顔でトーヤに予備の剣を渡した――かなり強い精神力だな、とアリスはこの時内心で感心していたのだが、それは誰にも言えない秘密である――。
「は、はい。ではやりましょう」
トーヤはグラムと大して長さの変わらない剣を持ち、それを軽く振った。充分満足のいく剣だったのか彼は目を細める。
「あっ、鞘はどうする? 付けてやった方がいいか?」
「いえ、そのままの刃で構いませんよ」
ニコリと笑い、余裕の態度のトーヤ。
相手は彼よりもずっと剣の経験があり、実力でも一切劣ることのないルーカスなのに、どうしてこんなに余裕になれるのか。アリスはハラハラした思いで自分が恋慕する少年を見守る。
「トーヤ殿、無理はしなくて良いのですよ……?」
彼の身を案じて言うと、トーヤはアリスを振り返ると親指を上に立てて応じた。
大丈夫だ、と仕草で伝える彼だったが、それでもアリスは心配の気持ちを拭い去れない。
「本当にいけるのか、トーヤくん? 前に一度鞘なしでやって以来、君は安全のためだと言って鞘を必ず付けるようにしてたじゃないか」
「平気ですって! 僕、神殿攻略とかつい先日の事件で強くなりましたから。もうあなたの剣にやられることはありませんよ」
トーヤの剣の腕を疑う訳ではないが、アリスはどうして彼がこれほどまで強気なのか気になった。
腕を組み、うーむと唸る。それを考えている間に、トーヤはルーカスにもう斬りかかり始めていた。




