11 ミノタウロス
頬をくすぐるチクチクとした感触に、僕は目を覚ました。
瞼を何度か瞬かせると、焦点の合わない視界は徐々に鮮明になっていく。
見えるのは、緑。……顔に触れているこれは、芝みたいだ。
「う……」
芝の地面に手をついて、上体を起こす。
あれだけ過酷な寒さと闇の中を歩いてきたというのに、不思議と身体に疲労感は残っていなかった。痛みに麻痺していた頭も何故だか冴え渡っている感じがする。
これはどういうわけなんだろう。もしや……死後の世界、だったりする?
「え、エルっ……エル!?」
そうだ。エルは、彼女は無事なのか。
ここがどこだか思考するのを止めて、僕は周囲を見回して緑髪の彼女の姿を探した。
狂ったように首を激しく回していると――見つけた。
僕から数メートルほど先のところに、うつ伏せで倒れている。僕はすぐさまエルのもとに駆け寄って、その身を揺り起こした。
「エルっ、エルっ……起きてよ、エル!」
呼びながら彼女の手首に指先を当てる。
脈はあった。――エルは、生きてる。
「……と……や、くん?」
「そ、そうだよ。僕はトーヤだ、君と一緒に【神殿】に挑戦したトーヤだよ。良かった、生きてて……」
徐に瞼が開けられ、穏やかな光を宿した緑玉の瞳が僕をまっすぐ見上げてきた。
何度も頷きかけてエルの身体をかき抱き、その細い身体をぎゅっと温める。
冷え切っていたはずの彼女だったけれど、やはり僕と同じように体温を取り戻していた。抱きしめたまま、その温度を黙って感じる。
良かった。本当に……本当に、生きてて良かった。
「……ねえ、エル。ここは、一体……?」
しばしくっついていた後、僕は辺りを見渡しながらエルに訊ねた。
周囲は白い霧に覆われていて、この場所の先に何があるのかさえ見通せない。見えるのは半径十メートルほど先まで敷かれた芝だけだ。
「オーディン様は迷宮――『古の森』の試練を乗り越えた果てに【神殿】に到達できるとおっしゃられていた。その言葉が確かなら、きっと、ここが……」
「【神殿】の、入口ってこと?」
言葉を継いだ僕にエルは首肯した。
それから立ち上がり、唐突に上の服を脱ぎ出す。服の裾が捲れ上がって抜けるように白い肌がちらりと見え、僕は思わず赤面した。
「ちょっ、エル!?」
「えっ、何トーヤくん。君に借りてた服、返そうと思っただけなんだけど」
「へっ? ……あ、そのっ、なんでもないです……」
一番上の一枚だけを脱いだ彼女は、その白い麻の七分丈シャツを僕へ放ってよこした。
顔がやたら熱いのをどうにか隠したくて、僕は俯いて前髪でカーテンを作った。
「ふ、ふふっ、あはっ……!」
「な、何がおかしいの」
「だって、こんな場所に来たっていうのに、そんな可愛い反応するなんておかしくって。何か、一気に緊張が解けた気がするよ」
声を上げて笑うエルにつられて、僕の口元もつい緩んだ。
恥ずかしい思いも当然あったけど、それ以上に何だかおかしくて仕方なかった。
彼女の体温と柔らかい匂いが残る服を頭から被り、性懲りもなくちょっと頬を紅潮させつつ、それを悟られないよう身体を翻す。
「ウブだねぇ」
「よ、余計なお世話だい」
ごほんと咳払いして心を落ち着け、僕はエルに向き直った。
その手を握ってまっすぐ見つめ、覚悟を改める。
「エル。行こう、【神殿】へ」
「ああ。この霧を抜ければ、目的地はすぐそこさ」
闇の森に続いて現れた、先の見えない道。
そこで生じる迷いや恐れを振り切れる人間をこそオーディン様は【神器】の主として選ぶのだろう。
目配せし合った僕らは共に一歩を踏み出し、その霧の中へと入り込んでいく。
途端に世界は真っ白く転じ、右も左も分からなくなるけど――不安なんてかなぐり捨てて、僕らはただ前へと進んだ。
数分にも数十分にも思える白い領域を歩いていった僕らは、やがて、その場所に辿り着いた。
カラスの羽音と鳴き声が耳朶を叩く。湿り気を孕んだ冷たい風が頬を撫でる。地面から立ち上ってくるのは、青々とした芝の匂いだ。
世界は色を取り戻していた。
僕らが見上げる先には、鬱蒼とした木々に囲まれる巨大な屋敷がそびえ立っている。
黒い柵のような門にエルが手を触れると、まるで挑戦者の意志を感じ取ったかのように独りでに扉は開いていく。
番のカラスが屋根の上からこちらを見下ろしてくる中、僕らは玄関口までの石敷の道を歩いていった。
広々とした芝生の庭には神や英雄、戦乙女を象ったオブジェが所々に置かれている。荘厳な雰囲気を醸すそこを見回しながら、僕らは鉄扉の玄関の前まで来た。
「――行くよ」
意志は一つ。他に言葉は要らなかった。
僕とエルは同時にその扉に手をかけ、押し開く。
*
瞬間。
視界は溢れんばかりの光輝に満たされ、僕らは思わず目を瞑った。
光の次に感じたのは、音。
ブオー、ブオーと唸る、野獣のような重低音だ。
「怪物……?」
だんだん目が慣れてくると、その場の様子がわかってきた。
白大理石で出来た館の大広間。天井にはシャンデリアがあり、それが狂った太陽のように広間中を燦々と照らしている。
そして大広間の中央に鎮座するのは、巨大な怪物。
「トーヤくん……!」
エルは杖がわりの木の枝を構え、待ち受ける神の尖兵を睨み据える。
僕は頷き、記憶の頁をぱらぱらと捲って鋭く言った。
「ああ、怪物だ――『ミノタウロス』だ!」
僕らを待ち受けていたのは、筋骨隆々な牛頭の巨人『ミノタウロス』。
この怪物は『神話』の英雄譚にも度々登場する、恐ろしい怪物だ。
『鳴き声一つで戦士は屈し、唯一立ち続けられた英雄のみが彼の怪物へ抗うことが出来た』
その伝承にあるように、かつて『ミノタウロス』を倒すことができたのは【神器】を持った英雄たちに限られたと言われている。こいつはそれ程の強さと屈強さを備えているのだ。
久々の獲物に歓喜するように、ミノタウロスは鼻息荒く。
石像のように膝立ちになっていた体勢から、勢いよく立ち上がった。
その血走った瞳と視線がぶつかる。肋骨を打つ心音がうるさい。
汗の滲む手で父さんから貰った【ジャックナイフ】を握り締め――僕は、歯を食いしばった。
こんな化物と戦うなんて、正直足が竦む。
でも、やらなきゃ。
僕は、英雄になると決めたんだから!
「――さあ、行くぞッ!」
構えるのはナイフと盾。
神話の英雄の装備とは到底比べ物にならないけれど、それでも僕は奮い立った。
気合を吐き出し、大理石の床を蹴飛ばす。
得物を中段に構え、真正面から勢いに任せての突撃を敢行した。
「うおおおおおおッ!!」
森の中で駆け回って狩りをしてきた経験は僕を強くしていた。
鍛えた俊足で動き出しの遅いミノタウロスへと即座に肉薄。
振り上げたナイフを、その筋肉の束のごとき腕へと斬りつける。
――だが、しかし。
ガッ! と嫌な手応えとともに刃先はミノタウロスの肌の上を滑っていた。
――刃が通らない!
瞠目する僕を、ミノタウロスは痛みに呻くことさえなく見下ろしてきている。
『ブオーッッ!!』
そして奴は棍棒のような腕を薙ぎ、刃を振り上げたままの体勢から戻ろうとしていた僕を弾き飛ばした。
「ぐあッ――!?」
「【防衛魔法】!」
身体をくの字に折られ、思いっきり吹き飛ばされる。
石の壁に背中から激突しそうになったその間際、エルは高らかと魔法名を叫んで緑色の光のベールでその衝撃を殺した。
受け止めてくれた彼女に礼を言い、すぐさま立ち上がる。ぶん殴られた腹は痛むけど、幸運にも肋骨は無事だった。
「あ、ありがとう」
「トーヤくん、これは君の試練だ。あれを討つのは君じゃなきゃいけない。私が出来るのはそのサポートだけだ」
地鳴りのような足音を響かせて接近してくるミノタウロスに視線を釘付けながら、エルは早口に告げた。
それは僕も重々承知だ。もとよりそのつもりで、僕はここに立っている。
「まっ、私も攻撃に参加させてもらうけどね。剣士の勝利への道を切り開くのが、私たち魔法使いの仕事さ! ――【炎魔法】!!」
エルが掲げた枝先には赤々と輝く火球が出現し、膨れ上がった魔力が焦熱を放った。
杖のひと振りで敵へと飛来する火炎。
直撃と同時にそれは炸裂し、怪物に初めての悲鳴を上げさせた。
『ヴオオオオッ!?』
刃は通らなくても、炎なら通る!
怪物といえどもやはり獣なんだ。火球を食らった時に覗かせたあの目は、確かに火を恐れる動物と同じだった!
『オオッ、オオオオッ!!』
肌を焦がす灼熱に怯んだのも束の間、ミノタウロスは頭を激しく振って吼え猛る。
苛立ちをあらわに足踏みする奴は殺意を滾らせた両眼でエルを睥睨し、その太い腕を乱暴に床へと叩きつけた。
「ぐっ……!」
たちまち起こった揺れに僕らはバランスを崩しかけ、倒れまいと懸命にその場で踏ん張る。
しかし、その隙を逃すほど怪物は甘くはなかった。
『ヴオオオオオッ!!』
急迫。
人間を凌駕する歩幅で距離を詰めてくるミノタウロスはまたしても鈍器に等しい腕を振り下ろし、標的を圧殺せんとする。
「エルッ――!!」
エルの身体へとタックルするように飛びつき、僕は彼女を掻き抱いて背中から床へ着地した。
すんでのところで腕のハンマーを避けた僕らは荒く息を吐き、すぐに体勢を立て直す。
あの腕の一撃をまともに食らってしまったら、その時点で僕らの挑戦は強制終了だ。あれを掻い潜って奴に致命打を与える――その過程での被弾は許されないと言っていい。
「確かあいつの急所は――」
「項、だったね」
神話の知識を引き出す僕にエルが口にしてくれる。
そう言う間にもミノタウロスは床を踏み鳴らし、再び僕らの体勢を崩さんとしてきた。よろめくエルの身体を抱き支え、僕は彼女の手を引いて後退する。
エルの魔法は確かに効く。だけど、僕が止めを刺さないとこの試練を合格したことにはならないのだ。
初撃の刃はあの肌に傷を付けることすら叶わなかった。もう一度突撃して試してみる? ……いや、それじゃ失敗した時の危険がでかすぎる。かといって、行動に出なきゃどうにもならないし――。
「……っ、どうすれば……!」
後退する僕らをミノタウロスは素直に追ってきている。あの腕の一撃が届く範囲から外れてさえいれば、命を奪われることはないはずだ。
だけど、それは単なる時間稼ぎにしかならない。
勝てる一手をどうにかして導き出さないと、【神器】を掴むことなんて――
「トーヤくん、私と君は二人で一つだ。それを忘れちゃいけないよ」
「エル……」
そうだ。僕の隣にはエルがいる。
自分の力だけで勝つことばかり考えて、それが見えてなかった。
これは僕の試練ではあるけど、僕だけの戦いじゃない。
「エル、魔法であいつの足止めを! あいつの動きを止めさえ出来れば……!」
「了解だよ!」
ブレーキをかけて僕は追ってくるミノタウロスへと踵を返した。
エルは不敵に笑い、杖を構えてさっそく魔法を行使してくれる。
「進ませないよ、【防衛魔法】ッ!」
彼我の間に出現するのは半透明な緑色の壁。
突如そびえ立った魔力の壁にミノタウロスは激突し、よろけて倒れそうになる。
が、流石は神の尖兵であるだけあって、その鍛え上げられた体幹をもって体勢を留めた。
けれど、出来た隙としては十分だ。
「もう一撃、【炎魔法】!!」
エルの杖先が向くのは床。
その火炎は今度は地を這い、怪物の足元を狙った。燃え移った赤い炎はミノタウロスの分厚い肌の表層を焼き、痛苦の鳴き声を上げさせる。
『ヴオオオオッ!?』
「まだまだっ、行くよッ!」
エルの魔法は止まらない。
自らは【防衛魔法】という盾で守りに徹しながら、放つ炎でミノタウロスの退路を断っている。
大理石が燃え上がらないぶん、都度魔法で炎を供給し続けなければならないが――僕が突撃する好機を生むまでは魔力も持つはずだ。
「頼むよ、エル……!」
ミノタウロスの意識は眼前のエルに集中しており、彼女のもとを離れて背後へ周り込んできた僕には向いていない。
その足が炎に屈し、膝を突いたタイミングなら、項に飛びついて斬りつけることも不可能ではないだろう。
時機を見誤るなよ――そんな彼女からの忠告を視線で感じながら、僕は深呼吸してその時を待つ。
『オオッ、ヴオオオッ……!?』
その時はほどなくしてやって来た。
度重なる火攻めにいよいよミノタウロスは膝を折り、火傷の痛みに耐えかねて悲鳴を上げる。
刹那、床を蹴り飛ばした僕は弓矢のごとく敵へと迫る。
目指すはあの項、ただ一点!
「うおあああああああああああッ!!」
裂帛の声を上げ、僕は【ジャックナイフ】を携えて跳躍した。
隙を晒したその急所へと、狙い違わず刃を振り下ろす。
怪物特有だという緑色の血液が飛散し、怪物の呻吟が迸った。
「取ったッ!」
『ヴヴヴヴヴヴッ……!!』
だが、その時。
僕の脳裏には一つの違和感が過ぎっていた。今の鳴き声は先程までと雰囲気が違う、と。
そしてその違和感には既視感もあった。僕はその声を知っている。
そう、これは――捕らえられる寸前まで追い詰められた獣の声だ。
最大限まで高まった嫌な予感を胸に飛び退き、怪物から距離を取らんとした瞬間。
ドスンドスンとこれまで以上に重く足踏みしたミノタウロスは、二本角を生やした頭を下げて前傾姿勢となり、そして――。
「っ――!?」
その姿が目の前から掻き消えたと思った刹那。
真紅に血走る瞳とその角が、僕の眼前まで肉薄せんとしていた。
――避けられない。