10 光の中へ
……寒い。
もう何度心の中でそう呟いただろうか。
エルの体に腕を回し、寄り添うようにして寒さをしのぎながら僕たちは『古の森』をあてもなく歩いていた。
迷宮のように出口の見えないこの森に入ってから、もう何時間経ったのかも分からなくなっている。
どれも一様に無機質な木々は、同じ道を繰り返し歩んでいる錯覚を僕らに抱かせた。
時間や方向の感覚がじわじわと麻痺していく中、悄然と俯くエルは謝罪してくる。
「トーヤくん、ごめんね……。私のせいで、トーヤくんもこんな目に……」
「エルのせいなんかじゃない。これは、僕たちに課せられた試練なんだ」
掠れた声で囁くエルに、僕は強い口調で言い切る。
たとえ彼女が精霊であるために神様が過酷な道を用意していたとしても、関係ない。
神話の英雄たちはいくつも壁を乗り越えて人々に讃えられた。彼らに憧憬するならば、今は避けては通れない局面なのだ。
「ん……?」
冷たく濡れた感触を頬に感じた。
木の葉の隙間から見上げた空は、信じられないことに雪まで降り出している。
こんなのおかしい。だって今は夏なんだよ? いくら北国だからって夏に雪が降るなんてありえないでしょ……。
「雪だよ、エル……」
いっそのこと泣いてしまいたいくらいだった。
きっとエルも同じ気持ちに違いないだろうな……と思いつつ、僕は必死に足を進めていく。
* * *
寒さに全ての感覚が麻痺し、もう何も考えられなくなった僕の耳に、ふと懐かしい女性の声が聞こえてきた。
『泣かないで、トーヤ!』
……母さん? どうしてこんなところにいるの? 会いたかったよ。
『あなたは私とお父さんの立派な息子よ。強い子よ。だから、涙なんて似合わないわ』
僕だって、泣きたくて泣いてるわけじゃない。でも、どうしたらいいのか分からないんだ。先も見えない雪の降る道をたった二人きりで歩いていくなんて……僕には、もう……。
『負けるな、トーヤ』
ついで聞こえてきたのは、少し嗄れた男の人の声。
父さんだ。
『思い出せ、お前の望みを。お前が望むものはこの先にあるはずだ』
僕の、望むもの。
僕がここにいる理由。
それは、エルの悲願だ。七つの大罪の悪魔を討つために、彼らに対抗しうる力【神器】を得る。
そして同時に、僕の願いでもある。
何度も何度も読み返した英雄譚。そこに記された格好いい英雄の姿に、僕は憧れた。
僕には力がなかったから。弱くていじめられてばっかりで、今までずっと下ばかり向いて生きてきた。
でも。
そんな僕だって、何かを成せるんだって証明したい。マティアスに啖呵を切って森を飛び出してきたんだ。
今更――逃げ帰るなんて、できない。
僕らは止まらず進み続かなくてはならない。
止まったら、そこで終わりだ。そんなの嫌だ。
僕は、エルと一緒にこの闇を越える。そして、その先にある光を掴む!
『心を示せ。心を燃やせ。お前の戦いを見せてみるんだ、トーヤ!』
父さんの声が背中を押してくれる。
もう僕の前にはいない、大切な人の声。それは極寒の下で聞いた単なる幻聴なのかもしれない。けれど、そんなこと僕にはどうでもよかった。
自分の胸の中には、まだ意志の炎が宿っている。
それだけでいい。
『あなたなら辿り着けるわ。だから行くのよ、トーヤ』
『そうだよ。お兄ちゃんなら大丈夫。私知ってるもん』
母さん――そして、妹のルリア。
僕はエルの震える身体を両腕で抱きしめながら、顔を上げた。
闇の中にルリアたちの顔は見えない。掴もうと手を伸ばしても、そこにあの温かい手はない。
『お兄ちゃんは私が人狼に襲われた時も、その弓矢で助けてくれた。お兄ちゃんは人を守れる、強い人なんだよ。だから――』
人を、守る。
僕が、エルを守る。
「ありがとう、母さん。父さん。ルリア」
たとえ皆が僕と一緒に行けなくても。
その思いは、記憶はずっとこの胸の中に生きているから。
だから――行こう。
止まらずにどこまでも行こう。
「エル、頑張ろう。僕が君を、目指すべき場所につれていく。だから――信じて」
僕は服を脱いで肌着一枚になり、それをエルに着せた。
そんなのその場しのぎにしかならないかもしれないけど、ないよりはマシだろう。
たちまち冷気が剥き出しの腕を刺し、血管を凍らせようとしてくる。顎が壊れたようにガチガチと鳴っても、僕は地面を踏みしめて一歩、進んだ。
「行くよっ……僕は、負けない……!」
誓いの言葉を叫び、前だけ向いて歩き続ける。
凍てつく魔の手は僕の脚に絡みつき、引っ張って奈落へと落とそうとしてくる。
視界が霞む。背中が重い。息を吸うたびに肺が激しく痛む。
「止まらない……僕は、何としてでも、エルと、僕自身の……」
苦しい。苦しい。苦しい。でも、そんなの足を止める理由になんかなりはしない。
「トー、ヤ……くん」
エルが僕の名を呼んだ。意識朦朧なはずの彼女は、無意識の世界でも僕を求めてくれたのだ。
その声に、不思議と力が湧いた。
もう身体に動く余力なんて残っていないはずなのに、僕は一歩、また一歩と進んでいく。
ほどなくして――目の前には、ぽっかりと開いた光の穴。
それは望みの最中で見た幻覚か。それとも神が与えた一つの救いか。
どちらでもいい。何であれ、そこに答えはある。
手を伸ばし、その白く優しい熱を感じる。その温度を感じ、僕はここが果てだと直感的に確信した。
穴へと飛び込むことに迷いはなかった。
二人倒れ込むようにその光へと呑まれていき――ぐいと身体を引っ張られる感覚と、奇妙な浮遊感を味わう。