9 灯火
風も音もない灰色の森。
足音さえ立つ前にどこかへ吸い込まれるように消えていく中――ふと、僕は背筋に何かを感じた。
「……っ!?」
咄嗟に足を止め、隣のエルの手をぎゅっと握る。
首筋にちりつくこの感覚を僕は知っている。
向けられる視線、潜められた息、そして容赦のない殺気。
間違いない――狩人の眼だ。
「エル――走るよ!!」
「あ、ああ!」
そう告げるやいなや、僕は地面を蹴りつけた。
緊張に湿った手で離すまいとエルの手を掴み、接近してくる何者かから逃走する。
目線はひたすら前に。獣道を辿って、無我夢中で走る、走る、走る。
「はぁ、はぁッ……!」
足は絶対に止めない。背後から迫りくる気配と膨れ上がる殺意に脂汗を滲ませながら、僕は空いた右手で腰の【ジャックナイフ】を抜いた。
刃渡り30センチほどのこのナイフは、今はいない父さんから貰った大切な武器だ。
父さんが教えてくれたナイフ術――それは、この状況を切り抜けるためにある!
「っ、トーヤくん、もう追いつかれる!」
エルの緊迫した叫びに、呼吸が揺れるように乱れた。
森の狩人からいつまでも逃げていられないことくらい、分かってる。
この遁走は心の準備をするためのもの。そしてその準備は、もう出来た。
――父さん、見ていて。僕が、戦うところを!
乾いた地面を削りながら急停止。
それからエルの手を離しながら、右足を軸に反転する。
――来いッ!
ナイフを中段に構え、膝を軽く曲げる。
体に入れる力は最小限に、敵が来た刹那に一撃を浴びせられるよう、心だけを重く据えておく。
無音を切り裂いて表層に出てきたのは、獣の唸り声だ。
直後――。
『オオオオオオオオオンッ!』
割れ金のごとき咆哮と共に、視界の右から黒い体躯が飛び込んでくる。
僕の狩りで鍛えた動体視力はその正体を正確に捉えた。
犬……いや、狼だろうか。巨大なあぎとから覗く牙は唾液に光って鋭い。爪は長く、逆立った体毛はその凶暴さを誇示しているようだった。
そして僕ら獲物を狙って肉薄するのは――牙。
「――エル!!」
正直、怖い。
得体の知れない森、初めて見る怪物みたいにでかい獣、僕らを喰らおうという圧倒的な殺意。気を抜けば失禁してしまいそうだ。
でも、僕の後ろにはエルがいる。
僕と出会い、使命を――光を授けてくれた彼女がそこにいる。
だから、守る。彼女を失いたくない。何としてでも、守り抜くんだ!
「ああああああああッ!!」
ナイフを振るう一秒に、全霊を込めて吼えた。
構えの「静」から逆転する「動」。
黒犬は逞しい後ろ脚で跳躍して飛びかかり、僕の首筋を噛みちぎらんとする。
「トーヤくんっ!!」
エルの悲鳴が耳をつんざいた、その瞬間。
僕はナイフを斜め右へ斬り上げようとする手を、ぱっと開いた。
ひゅっ、と風を切って刃が閃き――滞空していた黒犬の無防備な腹に、突き刺さった。
「今だよ、エル!」
痛哭を上げる黒犬の攻撃を横っ飛びに躱し、地面に落下したそいつを睨み据えたまま僕は叫んだ。
「ああ! ――【雷魔法】!」
間髪入れず放たれた青白い稲光が黒犬を襲う。
彼女が握っていた杖代わりの枝先から迸った電流に撃たれ、悶えていた黒犬はびくんと一度大きく痙攣し、それきり動かなくなった。
「このモンスター、『ブラックドッグ』だね。野犬の比じゃないくらい凶暴で巨大な、獣型のモンスター……倒せたのは君のおかげだよ。ありがとう、トーヤくん」
「こちらこそだよ。エルの魔法、本当に凄かった! 一撃で怪物を仕留めてしまうなんて……」
エルは骸となった『ブラックドッグ』を見下ろして、額の汗を拭いながら言った。
安堵に顔を綻ばせる彼女に、僕も笑みを浮かべる。
初めてのモンスターとの戦いだったけど、敵の攻撃を受ける前に終わらせることが出来た。上々の滑り出しといえるだろう。
僕は屈んで怪物の腹からナイフを引き抜き、付着した血を拭き取ろうとした。と、そこであることに気付き、目を剥く。
「え、エル! この血、緑色だよっ!?」
「ああ……それがモンスターの特徴の一つでもあるんだ。斬ってみて緑の血が出たらモンスター、覚えておくといいよ」
その口ぶりからすると、エルはモンスターと戦い慣れているのだろう。淡々と言う彼女の教えをしっかりと胸に刻み込んだ僕は、血液を布で入念に拭き取るとナイフを鞘に収めた。
「はい、トーヤくん」
立ち上がった僕にエルは水筒を手渡してくれる。それをありがたく受け取って痛いくらいに渇いた喉を潤し、まっすぐ伸びる先の見えない獣道を見据えた。
後ろを振り返っても、入口なんて既に見えないところまで来てしまった。もう、後戻りはできない。
薄暗い森は僕らを閉じ込める檻だ。その檻の扉の鍵があるのは、進んだ先にある【神殿】のみ。
「進もう」
必要なのは、その一言だけだった。
頷き合う僕たちはまた一歩、前進していく。
……森の気配は、歩いていく内にいつの間にか変わっていた。
真っ直ぐだった道は曲がりくねり、灰色の木々は吹き付ける冷たい風にざわざわと揺れている。
奥へ行くにつれて鬱蒼と茂る枝葉は完全に日光を遮断していた。まるで、この森だけ真夜中になっているみたいだ。
真っ暗で道の先なんて見えやしない。エルの灯す光魔法があっても、だ。
「光魔法」
彼女が呪文を呟いて杖の光を更に強くするけど、それでも足元を照らすだけで精一杯のようだった。
「おかしい……最高出力なのに、これだけしか照らせないなんて……」
この時、初めてエルが不安の気持ちを僕の前であらわにした。
か細い声を漏らして俯く彼女の横顔は、とても小さなものに思えた。
彼女の方がずっと年上なはずなのに、その姿は幼い少女にしか見えなかった。
「エル……」
邂逅の時から常に元気だった彼女のそんな様子なんて、見たくなかった。でも、目を逸らしちゃいけない――そう思って彼女に声をかける。
と、立ち止まったその時だった。
「っ……!?」
風がびゅうっと、僕たちを叩きつけた。
体温を容赦なく奪い去るそれは、あまつさえ僕とエルを引き裂こうとしているかのようで。
僕は決して離れないように、彼女を力強く抱き寄せていた。右腕で包むように、エルと密着して歩く。
「マントを、用意しておくべきだったね」
エルは追い詰められた小動物のように身震いしていた。
血色の良かった頬は青白くなり、その表情に色はない。
もしかしたら、精霊は寒さに弱いのかもしれない。
と、そこで僕にも少し精霊の血が混じっていることを思い出した。
――僕も、エルと同じだ。
同じなら、二人合わされば強くなれるはず。
そう思い二人でくっついた。体を寄せ合い、寒さをしのぎながら先へ先へと懸命に進む。
もう、どれほど経ったのかも分からなくなってきた頃。
怪物はあれ以来、現れていない。真っ暗な道なき道を行く僕らを苛むのは、極北の風だ。
そんな中で僕は、幼い頃に『精霊樹の森』の奥へ妹と一緒に探検しに行き、迷子になってしまった時のことを思い起こしていた。
(お兄ちゃん、寒いよ……怖いよ……)
(だ、大丈夫さ! きっと、帰れる! 精霊たちが僕らに気づけば、助けてくれるよ!)
樹の根元に座り込んで動けなくなってしまった妹の手を握り、帰れる確証もないまま、ひたすらに励ましていた僕。
あの時と、同じだ。
いや……違う。あの時と違って、僕らに救済の手を差し伸べる存在はいない。他力本願なんて許されず、自分たちだけの力を試されている。
英雄になるのだという夢、そして悪魔を倒す使命のために……前へ、前へ。
でも、今の僕らは本当に前に進めているのだろうか。もう同じ道をずっと行き来している気さえしてくる。
「エル……僕達【神殿】に辿り着けるよね?」
僕は震える声で確かめるように訊いた。
「辿り着ける、はず……」
エルは消え入るような弱々しい声で答える。
そして、最後の力を振り絞ってこう口にした。
「寒い……寒いよぉ」
エルの様子は普通ではなかった。『ブラックドッグ』が現れたあとから、明らかにおかしい。
体に触れるエルの体温はかなり下がっている。僕は彼女を温めようと、彼女を両腕でぎゅっと抱きしめた。
今は、エルを生き延びさせることが先決だ。
しかし……なぜ、この森はエルにだけ強く牙を剥くんだ?
神様は……僕一人だけで【神殿】に辿り着け、そう言ってるのか?
導き手である精霊は散り、たった一人の人間だけが生き残る――それが運命だっていうのか?
そんなの、嫌だ。僕はエルと一緒に【神殿】に到達したい。二人で使命を果たしたい。彼女に、死んで欲しくない。
「神様……僕の願いは、そんなに叶えちゃいけないものなんですか。……大切な人と共に生きたい、そう願っているだけなのに」
神様がエルを許さないのならば、僕だって同じだ。
抗い抜くんだ。絶対に、エルは死なせない!
彼女がいる世界で【英雄】にならないと、何の意味もないんだ。
だって、僕は――エルのことを、この世界の誰よりも、好きになってしまったのだから。