君だけを
君だけを
第1章 みんなに
「で、これからどうする?」
「どうしようか・・飲み? カラオケ?」
「そうだな・・。」
「僕は帰るよ。」
僕は小町純。
一応大学3年生。
将来は・・・まだ未定。
就活はやってない。
公務員試験を受ける。
安定志向、そして転勤であちこちへ行くのも性分ではない。
今日は履修している講義の一つが休講になって、
その後には何も予定がなかったので、
それで仲間と余った時間をどうしようかということになった。
「僕、帰るね。」
「ああ・・お疲れ。」
僕が決まって、まっすぐ寄り道などをしないで帰ることに対しては、
今はみんな了解済だけど、当初は色々と言われた。
簡単に言えば、付き合いが悪いということだが、
それ以前に変わった人、つまり変人の烙印を押された。
今は親友と呼べる剛毅や、よくノートを拝借する望にしても、
最初は熱心に誘い、じきに怒りだし、そして諦めから無視という流れに
移行していった。
それがそうでなくなったのは、
僕がそそくさ帰る理由が彼らの知るところになったから。
最初は彼らもバイトに熱心なやつというくらいにしか思っていなかったのが、
いつ、いかなる時も僕が彼らの誘いを断り、そしてまっすぐ帰ることに、
僕が彼らを拒絶していると勘違いし、そして次に僕を変人扱いし、
そして放置したというところになって、実はそれにはこういう理由があったということを
彼らが知るところとなったからである。
今では普通に見送ってくれる。
寧ろ笑顔で送りだしてくれる。
僕が向かう先はいつも決まっていた。
今日も、昨日も、そして明日も、僕はそこへ導かれる。
導かれる・・そう言うと、これは自主性がないような感じもするが、
そうではなく、これは俺の意思でもある。
意思でもあって、そして約束でもある。
約束は両者の合意だから・・・
話が脱線するのが僕の悪い癖。
僕が向かう先は、君のところ。
もう付き合いは長い。
長いというのは時間の問題もあるし、またその道のりの問題でもある。
山の頂きから眺めた曲がりくねった道筋は、
それだけで膨大な「量」を想起させるが、
なんかそういうものが僕たちの付き合いには感じられた。
山の頂から見た俺たちの付き合い。
それってどんなふうに見えるんだろう。
僕も見てみたい気がする。
でも、もう一度振りだしから始めてみる?と聞かれたら。
うーん。
それにはどう答えよう。
どう答えるべきか。
みんなならどう答える?
確かにこれは俺の問題だし、
みんなにどう思われるかで答えを考えてはいけないことなのは確か。
でも、そうだなあ。
ちょっとみんなにも聞いてみたい気がしてる。
もし、みんながこんな経験をしたら、みんなはどう思い、そしてどう感じるかを。
それはみんなそれぞれの思いがあっていいと思う。
でも僕が聞きたいのは、そういうことではなくて、
もう一度初めから繰り返すことになったらしたい?したくない?ということ。
これからみんなに話を聞いてもらって、それで最後にその問いに答えて欲しい。
第2章 君だけ
「ピアノ弾かれるんですね。」
隣に座った子がいきなり話しかけて来た。
「なんで?」
「ばぁか・・お前うるさいんだよ。」
その子の隣に座ってる男子学生がその意味を教えてくれた。
「あ・・ごめん。」
癖で、というか、講義に集中してくると、左手の指が勝手に机の上で、
カタカタと素早く動き回る。
それがまるでピアノを弾いているように見えるので、
僕はいつしかピアノを弾けるということになっている。
だからって何も特別なことじゃないし、せいぜい学園祭でバンドをやろうという話が
出た時にキーボードやってとお願いされるくらいのことである。
そういう経験はまだないが。
隣の女の子は別で、その隣の男子学生がなんかひっかかって、
「でもピアノじゃなくて、ギターなんだ。」と言った。
え?という顔になって、そして笑顔になった。
この子かわいいと思った途端、また僕の指が動いた。
「うるさいなあ。」
また隣のあいつ。あいつはこの教室に入って来た時に手を鳴らしたやつだった。
ああいうのには関わらない方がいい。
三度会ったら、運命の人だと思え・・なんて何かの本で読んだけど、
同じ学校の学生なら、そんな三度の出逢いなんてもう無数にある。
その時会った子だって、既にこの講義で何度か見てるし、
学食や生協の雑誌コーナーでも、一、二、三・・・
とにかく三度は確実に超えている。
でも、その子にはいつもあの気に入らないあいつが傍にいた。
いつもその子の傍にいるから気に入らないのか、
それとも気に入らないやつがたまたまその子の傍にいるのか、
まあどっちにしても、僕が彼女の傍に歩み寄れる余地はなかった。
チャンスが訪れなければ、自分で作れ。
そんなことも何かの本で読んだ気もしたけど、
そんなことを言われても、無理やりそんなチャンスを作ったところで、
結果がうまく行ったためしはない。
僕は平凡な学生らしく、平平凡凡な学生生活をそのまま進めるだけの存在だった。
それが或る日、
何の話か学生課から呼び出しを受けた。
この時期に単位や出席日数がどうだということはあり得ないけど、
でも、よくわからない呼び出しにかなり焦ってはいた。
試験だってこれからだし、
講義には一応出てる・・はずだし。
あんまり行きたくない場所として、
学生課
学部事務室
教授研究室
歯科診療室
そうそう僕の学校には学内に歯医者があって、
そこで治療する学生を見たことがある。
なんで学校の中に歯医者がと思ったけど、
やっぱりあれば便利なのかなとも思ったけど、
あの音が嫌で、学校の中にあろうが僕はやっぱり行きたいとは思わなかった。
ある時、その歯医者に通ってるっていうやつに、
「お前よく学校の歯医者に行けるなあ。」って言ったら、
それは歯医者によく行けるっていう意味か、それとも特に学校の中にある歯医者を選んだことが奇異だということかと聞かれたが、どちらでもないと言うと、
じゃあどういうことなのかと聞いて来たので、
「あの音が嫌なんだよね。」と答えた。
やつが、「うんうん。それはよくわかる。」と言うので、
「最近は治療中にクラシックなんかを聴かせる気取った歯医者がいるけど、
まったくおかしい話で、あの歯を削る際の金属音に合うのは、ヘヴィメタじゃないか。」
と言うと、呆れて笑っていた。
でも、クラシックにあの摩擦音は完全にミストーンだと思う。
あの音が調和する音楽はヘヴィーメタルしかあり得ないと思う。
もし、ヘヴィメタの音楽を流す歯医者があれば、僕は迷わずそこに通うんだけど
なあと真面目にそう思う。
話が脱線した。
学生課に行くと、そこにあの子がいた。
これが偶然の出逢い?ということなのかと思ったが、
彼女がこちらを一瞥し、軽く会釈をしたのを見て、
これは偶然ではないと悟った。
その証拠にいつものあいつがいない。
あいつがいないということは、彼女が仕組んでこの顔合わせになったに違いないと思った。
学生課の先生というか、職員が話しかけて来た。
「小町君。君、ギター弾けるんだって。」
誰からそんなことを聞いたんだ。
「この豊田さんから聞いたんだけど。」
え・・
「今度、うちの学校に交換留学生の提携をしているフランスのコンセルヴァトワールから、
バロックの音楽交流会と題して、何人かの学生が演奏をしに来るのは知ってるね?」
まったくの初耳・・
「そこで、うちの学生の中からチェンバロ奏者に選ばれたのが、
この豊田さん。」
彼女が・・・
「彼女は実に優秀な学生で・・。」
彼女がもういいですよとその職員を制して、そして代わって言葉を続けた。
「私、チェンバロとギターの協奏曲を演奏しようと思ってます。」
ああ、そうなんですか。
「そこで、小町君がギターをやってるって知って。」
はあ?・・
「え・・。」
おいおい・・
「うん。それでその詳しい話をということで、今日ここに来てもらったんだけどね。」
気を失いかけた。
「でも、僕そんなとっても。」
「遠慮なさらなくてもいいんですよ。」
これは何かの夢か。
いったい何が起こっているんだ。
どうしてフランスからのお客様とやり合う演奏会に
僕が出演しなくてはならないんだ。
と言うか、そんなのに俺が出ていいのか?
思いっきり恥さらしじゃないか。
それは、僕だけでなく、彼女も、学校も恥をかくことになるんだぞ。
「小町君の実績は提出資料がないのでわからないけど、この豊田さんの推薦なら、
間違いないということで、是非お願いしたいのだけど。」
「え・・無理ですよ。」
「何か御都合でも?」
「いやそういうわけでは・・。」
ギターなんて、それはまったく弾けないわけではないけど、
そんな人様に聴かせるレベル以前のもので、ましてや学校の名誉がかかるような、
そんな演奏会でなんてとっても無理。
「お忙しいのはわかります。夏休みとか、ヨーロッパとかに
プチ留学とかされるのかもしれませんが、是非お願いします。」
それは君のことだろう。
学生課の職員ももしこれに参加してくれれば、こういういいことがあるとか、ありそうとか、
考えてもいいとか、学長がどうだとか・・
でもそれは雑音でしかなかった。
僕の頭では、そのコンサートまでは、ずっと彼女と
思いっきり近い距離でいられる・・そのことと、
ギターを僕がそんな大舞台で演奏するということが天秤にかかっていた。
僕の名誉はどうでもいい。
学校の名誉も、それもどっちでもいいかもしれない。
でも彼女の名誉は守りたかった。
彼女の名誉と彼女と過ごす時間が、いままさに天秤の上にかけられていた。
恥をかくのは僕であって、彼女ではない。
そう思ったら、僕は彼女に「一緒にがんばりましょう。」と言っていた。
そして学生課の職員にも「是非やらせてください。」と答えていた。
それから秋のそのコンサートまで僕は彼女の隣の特別席のプラチナチケットを、
こうして手にいれることが出来たのです。
それから学食の隣にあるカフェへ彼女に連れられて行くと、
演奏する課題曲について話をされ、バッハのなんとかという曲を、
チェンバロとギターのデュエット用に、彼女の先生がアレンジしてくれたものを
弾くということになった。
バッハくらい知ってたけど、その後に出ていた作曲家はまるで聞いたことがなかった。
あんまり一所懸命に彼女が話すものだから、俺がうんうんとしっかりと目を見て、
真剣にうなづいていると、さすが小町さんですね、バルトークがやっぱり新古典主義と
とらえているのですね・・と話が勝手に進んでいた。
僕はどうしても聞いてみたいことがあった。
それは、どうして僕を選んだのかということだった。
僕はピアニストとしては有名だったかもしれないが、
ギタリストという話はまるで聞いたことのない噂だった。
「小町さん、だってあの時、ギターをやってらっしゃるって。」
おいおい、あの時かよ。
「私ね。これでも同年代はおろか、けっこう世代の上の方でも、
私以上の方はいらっしゃらないという、身に余る評価をされているの。
だから、私に楽器が弾けますなんて、そんな勇気のあることをおっしゃる方が
いなかったの。あ・・ごめんなさい。小町さんが、ずうずうしいとかそういうことではなくて、
私実力があるならそれはちゃんと評価されるべきものだと思うタイプで、
だから嬉しかったの。堂々としかも、素直にああ言ってくれて。」
おいおいおい・・めちゃめちゃ勘違いしてるよ。
「なので、小町さんの実力はわかったの。そして、小町さんとなら
絶対上手く出来ると思ったの。だから私も決心したのよ。
そういう意味でお礼を言いたかったの。
一緒に演奏してくれるって言ってくれて、ありがとう。」
彼女の眼には涙が潤んでいた。
もうやめられないと思った。
「うん。僕で良ければ。」
これからどうなっちゃうんだろうと思った。
でも僕はやらなければならない。
僕はこの時、君だけのためにやることを決心した。
第3章 私だけ
私は和菓子屋さんでアルバイトをしている。
駅ビルにあるちょっと有名なお店で、そこで私は販売をしている。
和菓子というと、どちらかというと、お年寄りに人気がある商品だけど、
それが或る日から、あの男の子が毎日のようにそのお店に通ってくるようになった。
彼は、いつも小分けにされて、袋詰めになった何か一品だけを買って、
それでさっとその場を立ち去ってしまった。
私とは商品とお金のやりとりの時だけ目が合うくらいで、
特に声を掛けるでもないし、ましてやそれ以上のことがあるわけでもなかった。
でも、彼は毎日来た。
毎日通っていたのかはわからなかったけど、私がバイトで入っていた時には、
必ず彼が買いに訪れた。
彼のことはそのバイト先でも話題にはならなかったし、
私も彼のことを敢えて話題にすることもなかったので、
彼が毎日そのお店に何故来るんだろうということは、誰とも話をしたことはなかった。
私は、彼が私に会いに来るのではないかと思った。
それは直感というか、なんというか、
でも彼と目が合った時に、何か私の心に広がるものを感じたのは、
私に運命という言葉を思い出させた。
彼は計量してビニール袋に詰められた「かりんとう」をよく買っていった。
一袋三百円。
消費税込。
私が計りの上で、ビニール袋の中にかりんとうを詰めながら、
レジに来るお客さんを見ていると、彼はすかさず既に封のされたそれをひとつつかんで、
そして私の元へそれを突き出してくる。
私は接客中だから、笑顔で応対しても、彼は表情を変えずに、
「これください。」と一言つぶやくだけ。
私はけっこう笑顔に自信があるんだけど、
それでも彼には通じず、彼の仏頂面とは言えないまでも、
決して愛きょうのない表情は変わらなかった。
私に会いに来てくれているのなら、もっとにこっとしてくれてもいいじゃない。
そう思っても、私がそれを手提げのビニール袋に入れて、
レジを打ち、お金を受け取って、レシートを渡し、時にはお釣りも手渡して、
そしてありがとうございますといいながらそのかりんとうを渡すだけで、
毎日の彼との日課が終わってしまった。
彼の後ろ姿はすぐに消えた。
その姿が消えると私の仕事がやっと始まる感じがする。
朝、そのお店に行くと、彼がいつ来るのだろうと、
それまではなんかあまり仕事に身が入らない感じがする。
でも、彼が来るのは一瞬で、
彼が行ってしまうと、また明日の仕事のことを思いながら、
でも一方で、残りの今日の時間は普通に接客が出来る気分になった。
勿論、最初からそんな思いではなかったのだけど、
彼が初めてお店に来て、
その次の日も来た時に、なんか覚えがあるかもって思って、
そしてその次の時は、あ、この人前も来たなって思って、
そして、それから、もしかしたらこの人よく来るのかなって思って、
それから、この人は毎日来ているんだって思って、
それはやがて、毎日この人が来るのは何故なんだろうって思ったら、
彼が来るのを待つようになっていた。
かりんとうばかりこんなに毎日買う人もいないだろうと思うと、
もしかしたら私に会いに来るのではないのだろうかと思うまでに、
そんなには時間がかからなかった。
それは、どうしてかって言えば、
勘・・
直感
なんか、そんなインスピレーションが閃いて、
それからは毎日来る彼を観察し出した。
私のことを見ているのかしらって。
でも、彼はさっと、かりんとうをつかむと、
それを私のところに持って来るだけだった。
私の勘がはずれたのかもしれないと思ったこともあったけど、
それでも毎日こうして来ることは事実だったし、
それ以上に、私が彼のことに興味をたくさん感じていることに気がついた。
彼の服装はいつもラフな感じだった。
雰囲気は大学生。
じゃあ私と同じねと思っていると、どこの大学かがちょっと気になった。
或る日、彼がギターケースを提げているのを見かけた。
ギターを弾くんだと当然思った。
でもどこで弾くのかしら。
駅前でギターをかき鳴らしながら道行く人に聴かせる歌を歌っているのかな。
そう思いながら、私はいつものように、かりんとうを渡した。
毎日毎日かりんとうを食べながら、彼はギターを抱えて歌を歌ってる。
そんなイメージが突然頭に浮かんだら、いきなり吹き出してしまった。
でも、その時は彼は既に私に背を向けて、ずっと向こうを歩いていた。
私に会いに来るのは何故?
私はいつかその思いで一杯になっていた。
そして彼が来る度に、その問いかけをしたくてしかたがなくなっていた。
でも、私は聞けない。
もし聞いたら、その魔法は解けてしまいそう。
彼は二度とそこへはやって来なくなってしまいそう。
和菓子のお店は他にもある。
かりんとうなら、コンビニでも売ってる。
なのに、かりんとうを買いに毎日、私のいるお店に来てくれるのは、
やっぱり私に、私だけに会いに来てくれるからなのではないでしょうか。
そう思ってはいけないのでしょうか。
そう思ってるのは私だけ?
そんな或る日、
彼はいきなり来なくなった。
最初は今日はどうしたのかしらと思った。
次の日は、風邪?と思った。
そして旅行?
それから、たまには別のお店に行ってみようかとちょっと浮気をしてる?
でもすぐ戻ってくる・・とか思ったりもした。
でも、彼はそれからずっと姿を見せなかった。
ちょっとした留学でもしてるかな。
まさか、引越し?
でも、仮にそんなに長く来れないなら、
きっとその前に私に何か言ってくれるはずなのでは?と、そんなことを思った。
何も知らせてくれなくて、
それでいきなり消えてしまうなんて、
それじゃあ今迄の何カ月って、いったいなんだったの?
そう思うと言葉もなかった。
第4章 君だけに
豊田さんとの練習は、まずは彼女の家でということになった。
彼女の家に行くことで既にドキドキだったのだけど、
それが彼女の両親の希望と言うことを聞いて、ますます緊張してしまった。
きっと自分の素晴らしい娘がどんな素晴らしい男と演奏会で共演するのだろうと、
きっと楽しみに僕を招いたことなのだろうと思ったのだが、
僕はそんな素晴らしい男じゃないし、そういう期待をされると
かなりプレッシャーを感じてしまう。
或いは、どうせろくでもない男が自分の素晴らしい娘にとりついて、
素晴らしい演奏会に付け込んで言い寄ったのではないかと、
それを心配して、それを見極めてやろうと呼んだのかもしれない。
いずれにしろ、俺には不利。
逃げ出したい気分満点。
でも、これは僕だけの問題ではなくて、
学校の問題でもあることなので、そういう意味では建前が立つし、
僕自身も逃げることはできないことだと諦めて、彼女の家に向かった。
その日はとても冷え込んだ。
梅雨ということで、雨も激しく振ったせいもあるけど、
例年になく気温が低下して、まるで夏も秋も飛び越えて、
一気に冬が来てしまった錯覚に陥った。
彼女の家は高級住宅街の一角にあって、
青銅製の門から、玄関まで少し距離がある、いわゆるお屋敷だった。
門のところで、監視カメラに写されながら、
僕は手に息を吹きかけながらドアフォンを押した。
こんなに手がかじかんでいたら、弾けないギターが更に弾けなくなる。
少しして中から応答があり、大きな門が自動的に開いた。
僕は中に進むと、庭の風景などには目もくれずに玄関まで走った。
玄関にたどり着くと、そこには豊田さんが立っていた。
「こんな雨の日にごめんなさい。」
「いえ、別に構いませんよ。」
「楽器が濡れてしまうわ。」
「寒いですね。」
中に入って、渡されたタオルで服やギターケースについた滴を拭き落とし、
それから応接間に案内されるとそこには豊田さんの両親がいた。
いきなりのご対面に僕があわてていると、わざわざお越しいただいて
申し訳なかった。この雨でたいへんだったでしょうと言われた。
雨は傘をささなければならないのでおっくうですが、
それより寧ろ、今日の寒さの方が参ってしまいますと答えた。
「それで、小町さん・・門のところで何かされていたようだが・・。」
「え?」
「いや、たいしたことではないのだが、何かお困りのことでもあったのかなと。」
「はい。」
「先ほど、門のところで、何かご自分の手を見ていなかったかなと。」
ああ・・門のところで、寒くて・・。
「はい。手がかじかんで、寒くて、それで息を吹きかけていました。」
「外は冷えるかね。」
「はい。」
こういうお宅の人は、寒い、冷える・・そういう経験がないのだろうか。
確かにこんなに大きな家なのに、この部屋だって天井がとても高く、
冷暖房だってなかなか行き届かないのではないかと思われるのに、
それなのに、一向に寒さなんかを感じることはなかった。
手が冷えて、かじかんでは、ギターが弾けなくなる。
そのことだけが気がかりだった。
お手伝いさんが、コーヒーを運んで来た。
「コーヒーでいいかな。聞かなくて悪かったけど、とにかく体を温めるものをと思って。」
「はい。コーヒーは好きです。」
「それは良かった。まさかアルコールというわけにはいかないしね。」
僕は笑ってみせた。
コーヒーカップを手に持つと、いきなりコーヒーの良い香りと、
そしてそこから立ち登る湯気に僕は一瞬幸せな感じを持った。
でも、それは束の間で、
良いカップはみんな薄手に出来ているのだろうか。
カップの持ち手が異常な熱さを放っていた。
カップを持ちあげた手前、ここで口をつけないのは格好が悪い。
そう思って、僕はコーヒーに息を吹きかけて、必死に冷まそうとした。
「あ・・小町さん、コーヒーが冷えていましたか?申し訳ない。」
「え・・いえ。」
「どうされましたか?」
どうされたかって、この様子を見れば熱いから冷ましてるってわかると思うんだけど。
「いえ、コーヒーが熱かったので。」
でも彼女のお父さんは不審な表情をしている。
「さっき門では、手が冷えたので、息を吹きかけていなかったかね?」
「はい。」
「それで、今度はコーヒーが冷えてたので息を吹きかけたのではないのかね?」
「いえ、コーヒーが熱かったものですから。」
「ほう・・そうなんだ。そういう変わった習慣もあるのですね。」
お金持ちはわからないと思った。
でも俺もお金持ちからしたら、わけがわからない存在なんだろうということなのだろうか。
そこへ豊田さんがお菓子を持って入って来た。
「なんか楽しそうな会話が聞こえましたが。」
全然楽しくないんだけど。
「なんか小町さんに申し訳ないことをしてしまってね。
こんな寒い日にお招きしてたところに加えて、冷えたコーヒーまで
お出ししてしまって。」
「え・・そうなんですか?」
「いえ・・そんなことは決して・・・。」
「そうやって気を遣ってもらうと却って申し訳ない。」
なんか喜劇の登場人物になった気がした。
「小町さん、コーヒーが冷えてしまったのなら、取り替えて来ますが。」
「いえ、大丈夫です。」
結局、コーヒーが冷えたことになってしまった。
「かりんとう用意しましたの。どうかしら?」
「かりんとうか。」
「お好きですか?」
「はい。」
「それは良かった。」
かりんとう・・
好きというわけではなかった。
でも、かりんとうには思い出があった。
「かりんとうに、思い出があるんです。」
「へえ・・どんな?」
お父さんがかりんとうを珍しそうにながめながらそう言った。
「是非聞かせて下さい。」
豊田さんが俺の正面に静かに座った。
「聞きたいですか?」
「是非。」
ギターの腕前を聴かせるよりはと思い、
僕はその話をすることにした。
それは豊田さんにだけ語る内容だった。
ついでにご両親もいらしたけど、
豊田さん、君だけにきかせる話だった。
第5章 私だけに
かりんとうに意味があったのか、
かりんとうを買うことに意味があったのか・・それはわかりません。
でも、かりんとうが二人の共通のキーワードであることには間違いないようです。
それはスワンとオデットとの「カトレア」のような意味ほどではなくとも、
二人には共通のイメージが想起される重要なものだと思っていました。
だから、彼がそのことを忘れようと、
そもそも覚えていないということがあったとして、
かりんとうのキーワードはそれらの障害を乗り越えて、
再び私たちをあの時に邂逅させるのです。
彼の目は、そのことを察したかのように、
そうでなくても、それは一種の条件反射のように、私だけに向けて、
そのことを話すように作動しはじめたのです。
「去年の今頃でした。よくかりんとうを食べてました。」
「かりんとうが好きだったのですか?」
「そうですね。好きだと言えばそうなのかなあ。」
「まさか毎日食べていたとか。」
「ええ・・そうですね。毎日だったかもしれませんね。」
「そんなにこれが好きなのかね。」
遠くで声がした。
「実は、毎日お店で買って、それである場所で食べてたんです。」
「美味しいお店があるんですか?」
「美味しいですよ。でもそのお店が便利な場所にもあったんです。」
「便利な場所?」
「はい。ある場所に行くのに。」
「ある場所?」
「そこで、隠れて食べてたんです。」
「え・・かりんとうを禁止されてたとか?」
「ははは・・そういうことですね。」
かりんとうがそんなに好きだったのかしら。
それとも・・・。
「それってそんなにかりんとうが好きだったということなのかしら?」
「ですね。好きでした。」
「そうなんですか。」
「はい。」
そこで沈黙が流れた。
黙ってはいたが、思考が止まっていたわけではなかった。
ここでどこまで話したらいいかを考えていた。
冷えたコーヒーを口にすると、彼は先を続けた。
「ある人が、そのかりんとうが好きだったのです。」
「ある人って、小町さんではなくて?」
「はい。僕ではありません。」
「・・。」
「僕の母です。」
「お母様?」
ここまで来たらもう話すべきではないかという思いの方が強くなってきた。
「母がかりんとうが大好きで、それで毎日買って行ったんです。」
「お母様のために、毎日かりんとうを?」
「はい。」
「よっぽど、お好きなのですね?」
「え?」
「かりんとうが。」
「あ・・そうですね。」
「そして、お母様も。」
「あ・・ですね。」
単なるマザコンの話に聞こえてしまう。
確かにマザコンなのかもしれないけど・・・。
「母の入院していた病室に持って行ってました。」
「お母様がご病気?」
「ええ。それで病院ではかりんとうは出ないし、売店にも売ってなかったので、
買って来てと言われて。それで毎日買って行ってました。」
私はその時思考が停止した。
それは何かわからなかったパズルがやっと解けたという思いと同じような感じだった。
でも、そのパズルがどういう意味があるのか、それはわからないままだった。
このパズルって何か意味があるのかしら。
その問いには答えられないままでいた。
「3か月くらいお見舞いがてらにかりんとうを持って行きました。」
「そうだったんですか。」
「はい。そのことをちょっと思い出しました。」
「今は?」
「あ。もう病院へは行ってません。」
「それじゃあ、かりんとうも。」
「はい。もう買う必要もないので。」
彼が毎日毎日かりんとうを買って行く理由をいま知りました。
そういうことだったのかとその話を聞いて納得しました。
そして突然お店に来なくなった理由も知ったのです。
「退院されて、それでもう宜しいのですか?」
「退院はしましたが・・。」
「・・・。」
「亡くなりました。病院で。」
「あ・・・。」
「それはたいへんだったでしょう。」
遠くで声が聞こえた・・ような気がした。
「今年一周忌でした。」
「そうですか。」
「あ・・こんな話をするつもりじゃなかったのですが。すみません。」
「いえ、こちらこそ悲しいことを思い出させてしまって。」
彼女のお母さんがそう言ってくれた。
第6章 君だけには
母の死は予期されていたことだった。
でも、そう宣告されていても、ある時急に快方に向かったようになって、
それから希望を少し持ち始めていた矢先の急な出来ごとだった。
母の好物が何だったのか俺は知らなかった。
逆に嫌いな食べ物も知らなかった。
なので、お見舞いに初めて行った時に、何を買って行こうか迷った。
病院に近い駅ビルの地下の食品売り場、本当に迷った。
生ものはまずいだろうとか、匂いのきついものは迷惑だとか、
色々悩んでいる時に、向こうの和菓子屋で、かりんとうは如何ですかという声が
聞こえて来た。
母がかりんとうを食べていたことは記憶していた。
それでそこにあったビニール袋に詰めてあったものを一つ取って、
それでそれを持って行った。
母は喜んだ。
かりんとうにではなかったのかもしれない。
でもお土産ありがとう、これ美味しいねという母の言葉が嬉しくて、
それで次の日もかりんとうを買って行った。
そうは言っても、母は食欲はほとんどなかった。
なかったからこそ、そういうものなら食べるのかなと敢えて買って行ったということでも
あった。
母は一、二個つまむと、それでもうお腹がいっぱいだと言って、後は俺に託した。
僕はいつも帰るタイミングを考えていた。
面会の時間もあったけど、いつ、「帰るよ」という切り出し方をすれば
いいのか、それでいつも考えていた。
それで、それをかりんとうを全て食べ終わったらと決めた。
母が残したかりんとうを、俺が全て食べ終わった時が、
僕の帰る時とそう決めていた。
それはやがて母の察するところになった。
かりんとうが残りひとつになると、それを僕がいつ口に運ぶかを
それを母はいつも見守っていた。
母の様態が悪くなった時に、
僕は大事な留学の試験を控えていた。
その試験が大事だと言うことは母は勿論のこと、家族もみんな知っていた。
そして母が亡くなったあの日、
その試験を俺が受ける日だった。
僕が最早動かなくなった母の寝ているベッドにしっかりと張り付いていると、
父から試験を受けるようにうながされ、それがお母さんの希望でないかと諭されると、
僕は試験会場にそのまま走り込んだ。
そして何をどう演奏したのかまったく記憶になかった状態で、
僕はその試験にパスした。
けれど、留学はしなかった。
母の四十九日、納骨、一周忌・・は勿論だったが、
母の死を家族でとむらいたかった。
父を支えたかった。
そしてこんな状態で音楽など出来るわけがないと思った。
僕はフランス留学をふいにして、そしてそれ以降ギターに触ることも無く、
そして今は普通の学生として、あの大学で普通に過ごしていた。
それが、あの豊田さんとの出逢い。
出逢いというか、彼女のご指名。
どうやら彼女もそれなりの実績がある学生らしいし。
でもどうして彼女が俺を見つけたのだろうか。
どうして僕が彼女のパートナーに選ばれたのだろうか。
もしかしたら彼女だけには何か感じるものがあったのだろうか。
君だけにはそれを知るすべがあったのだろうか。
第7章 私だけには
音楽は心で奏でるもの。
その心が淀んでしまったら、その音楽はもう輝くことはない。
同じAの音でも、それが同じ440Hzの音でも、
それぞれの人によってその響きが違うように、
私にはその人の心によって輝きが違う音の粒の違いを感じられる。
それはその人が歌う前から、楽器を弾く前から何故か知ることが出来た。
私が彼がギターケースを持っていることを認めたあの日、
彼を音楽家として知ったあの時に彼の心の輝きを知ったのは衝撃だった。
こんな美しい音を奏でる人がいるんだと思った。
そして私のチェンバロにこれほど調和する人が本当にいたんだと改めて先生を尊敬した。
彼を学生課に呼んだ日、
今もそうだけど、彼は何故僕が選ばれたのだろうとびっくりしている。
それは私だけにはわかることで、今彼に説明したところで、
それは理解してもらえないと思う。
私のチェンバロの師であるユゲット先生は、きっとあなたと連理の枝のような
関係の、もうこの人しかいないというような完璧な調和をもたらす演奏者が
きっと現れるとおっしゃっていた。
あなたの奏でる音はあまりに独創的で、無垢で、純粋で、自由で・・。
でもそれは、あなたは独奏を目指すべきだということではなくて、
寧ろ協奏曲を目指すべきだと言われた。
あなたの完全な純粋さは独奏ではつぶれてしまうと。
でも問題は、あなたを引き立たせる演奏者はたくさんいるけど、
あなたと調和する演奏者はいないことと言われた。
私が協奏曲こそ私の目指す音楽だと決めたその日、
同時に私は音楽そのものの断念を勧められた気もした。
でもユゲット先生は、それでもあなたと完全無欠な調和をもたらすそういう演奏者が
必ずこの世界のどこかに存在していて、そしてあなたの前に現れるとおっしゃった。
その時は私は気安めだと思った。
どうすることもできなくて、八方塞がりな私に、せめてかすかな希望だけでも
残しておこうとした先生の、それは師弟愛から来る優しさだと思った。
それが彼をあの日認めた日に、私はそれが単なる気安めではなくて、
偉大な師の、自信に満ち溢れた予言だったのだと確信した。
今回の演奏会での楽曲は。バッハのチェンバロ協奏曲の第五番を選んだ。
彼には、弦楽で演奏されている部分を私の知人がアレンジして、それを弾いてもらう。
まだ第一稿のアレンジが出来あがっていないけど、とても楽しみにしている。
第8章 私だけには
「お母様亡くなられたのですね。」
「はい。」
小町さんのお母様が亡くなられていたことには、たいへん驚きました。
そして毎日お見舞いに通っていたことも知りませんでした。
ですから、彼が突然お店に来なくなったことの理由をつかめないままでいました。
そもそも彼がお店に来ていた理由も勘違いしていました。
それを女性目当てに来ていたなんて、もう恥ずかしくて顔から火が出そうでした。
「ちょっとこの部屋は暑いかな。沙織。」
「はい。お父様。」
春から夏に変わる時期で、いくら今日が寒かったからとはいえ、
暖房を入れるのは少し行き過ぎでした。
「暖房消しましょうか。」
そう小町さんが言ってくれたものの、エアコンのリモコンが見つかりませんでした。
「演奏会頑張りましょうね。」
「ええ。」
今日の招待は尽きるところ、これが言いたかったというところでしょうか。
雨の中、わざわざギターをお持ち頂いても、手がかじかんでしまっては、
何か一曲お願いしますというのも酷な話です。
それで私が代わりに何かをお聴かせしましょうかということになって、
それでは小町さんにリクエストをとなったのです。
私が音楽で生きて行こうと、真剣に思っていた時期には、このような場面が
数多くありました。
そしてその時に、これも相性というのかしら、私はそういうことはあまり気に掛けない
方でしたが、それでもこういうことには意外に神経質になって、
その方の選ぶ曲によって、その方との未来を決めてしまうことをしていました。
でも私はそのたびに失望をしたのです。
確かにショパンやベートーベンは素晴らしいと思います。
私も彼らが作曲した曲を弾くのがとても好きでした。
でも、私らしいかどうかは別です。
私が奏でる音から、私らしさや私の至福の情感を体感したいと言う意味での
リクエストならそのお二人を選ぶべきではないと思います。
ですから、いま小町さんがどのような曲を選ぶかが、実は私が
今日彼をうちにお招きした最大の目的でもあったのです。
それを知ってか、両親が一番緊張しているように感じられました。
相性が合わない・・私がそう宣告してしまった方は、
金輪際私がご一緒することがなかったことを知っているからです。
でも、今回は学校サイドから申し出のあったイベントです。
そういうわけにもいかないでしょう。
そうするとこれからどんな展開になるのか、私自身もわからないことですし、
その余波を受ける両親にしても、他人事ではなかったのです。
「ショパンのバラードの一番。」
「え?」
ショパン?
「ショパンですか?」
「ショパンのバラードの一番なら僕も弾けるのでご一緒したいなと思ったのですが。」
「え・・。」
「そうですね。あなたには、パガニーニの主題による狂詩曲をお願いします。」
「え・・。」
「ラフマニノフですが。」
その時母が一瞬飛びあがったのが横目で私にも見えた。
父はうなづきながら、にやにやしてる。
私は一も二もなく、その指定された曲を弾き始めた。
第9章 君だけは
面会の時間ぎりぎりになって、いつも父が母の病室に駆けつけて来る。
病室が父との待ち合わせ場所になっていた。
父は二言三言、母に何かを告げると、それから僕と一緒に母の
病室を後にする。
「お前、いつもお土産買って行くんだって。」
「聞いたの?」
「ああ。しかも、かりんとうらしいな。」
「そうだよ。」
父が笑ってる。
「母さんが好きだって言うからだよ。」
「うんうん。わかってる。」
父が笑ってる。
「ほんとなんだから。」
自分ながら言い訳がましいと思った。
「それじゃ、その美味しいかりんとうを食べてみようかな。」
「父さんもかい?」
「ああ。で、どこで買ってるんだい?」
「すぐそこの駅ビルの地下なんだけど・・・。」
「じゃあ行ってみようよ。」
「うん。でもこの時間だと閉まっちゃってるよ。」
「なんだそうか、残念だな。」
「今度買って帰るよ。」
「ははは。そうか。」
父とその和菓子屋さんのある地下街を抜ける時には、
もうそのお店が閉まっていた。
するとお店の脇のドアから女性が何人か出て来て、
どうやら今従業員の人が帰るとこらしかった。
あ・・あれ、お店の人・・と言いそうになって、それが無意味なことだと思って、
父には何も言わなかった。
僕には今迄ちゃんと付き合ったという女性がいなかった。
女の子に興味がなかったということではなくて、
そういうチャンスに恵まれなかったということだろうと思う。
でも今思うと、それもちょっと違っていて、
なんか直感が働くような衝撃的な出逢いがなかったからだというのが、
本当の理由のような気がする。
でも、そうは言っても、気になる女性がまったくいなかったわけではない。
その中の一人が、いま目の前を歩いているその人だった。
彼女はあの和菓子屋さんで販売員をしている。
いつも笑顔が素敵で、初めてこのお店でかりんとうを買った時に、
彼女が接客をしてくれたのだが、僕はその時に彼女の笑顔を
まぶしく感じていた。
そして毎日そのお店でかりんとうを買う目的も、
彼女が理由のひとつになっていたことは自分でも自覚をしていた。
彼女が右のレジに立てば、右のショーケースに並んだお菓子を選ぶ振りをする。
彼女が左のレジに立てば、左のショーケースを覗きこむ。
でも結局いつものかりんとうをつかんで、彼女の前に突き出していた。
それだから、母が亡くなって、彼女とも会うことがなくなると思った時、
その寂しさは倍増した。
ある時。
母の四十九日が終わった後、父が病室で仲の良かった方に挨拶がしたいということを言いだして、それで僕と連れだって久しぶりにあの店の前を通ったことがあった。
でもその店にはもう彼女はいなかった。
今日はお休みなのだろうか。
それとも辞めてしまったのだろうか。
「確かこのお店でかりんとうを買ってたんだよな。」
「うん。」
「買って行こうか?」
「いいよ。」
「どうして?」
「なんかそういう気分じゃないし。」
結局その日は彼女とは会うことが出来ずに、そうして今に至っている。
もしもう一度彼女が僕に会ったら、彼女は僕のことを覚えていてくれるだろうか。
第10章 私に
「私にそんな話をするなんて珍しいね。」
「そう?」
「うん。」
「でも、それだけなの。そういう人がいるって話。」
「そういう人がいるっていう話も聞いたことなかったし。」
「そう?」
「そうだよ。」
久しぶりにあおいと会った。
ずっと忙しくしてて、こうやってゆっくり話すのはいつ以来だろう。
女の子は会えば男の子のこと、そして食べ物のこと、
それからファッションのこと。
でもあおいとはそんな話をしたことはなくて、
今日初めて男の子との話をした。
「それで、私に何をして欲しいの?」
「そんなこと言ってないよ。」
「そう? なんかして欲しいっていう話しっぷりだったよ。」
「ええ!」
どうやらあおいはその子のことが気になってるということらしいのだけど、
私だって、そういうことに経験が多いということではなかった。
今日は雨が降ってる。
雨の日は私は外出はしない。
それは服や靴が濡れるからではない。
せっかくセットした髪が湿気でだめになってしまうからでもない。
雨の日は部屋でショパンの雨だれのプレリュードを静かに聴いているのが好き。
そしてカーテンの閉まった窓から、外を行く人を見てるのが良かった。
でも、どうしてだろう。
みんなこんな雨の日なのに出掛けなくてはいけなくて、たいへん。
なのに私は、暖かい部屋でこうしてくつろいでいられる。
そういう思いがして、そうすることがなんか落ち着いたのかしら。
傘
みんなきれいな傘を差して歩いている。
私も小学校に上がるとき、初めて傘を買ってもらった。
それは黄色い傘だった。
うれしくて、部屋の中で傘をひろげて、差して、そしてクルクルと回っていた。
早く雨が降らないかと楽しみにしていた。
雨が好きだったのかもしれない。
それとも傘が好きだったのかも。
ある日、
私は友達に誘われて、雨の日に傘も差さずに外出したことがあった。
出がけはたいした降りではなかったのだけど、
家に戻ったときは土砂降りだった。
勿論傘を持って行かなかった。
そして玄関に入った途端、そこに立っていた母に頬を叩かれた。
そのことを父に話したのはずっと後のことだったけど、
その時、父が私に話してくれたことは忘れてしまった。
どうして父に話したのだろう。
そしてどうして父が言ったことを忘れたのだろう。
今日のあおいとのおしゃべりは最初青山のレストランでランチという約束だったけど、
この雨なので、わざわざうちまで来てくれた。
「沙織雨嫌いだものね。」
私に雨が似合わないとみんな思ってるけど、
私の答えはそこにはない。
第11章 君に
母がいないという話から、さぞかし家事に関して俺が不自由ではないかということになった。
そしてその家事のほとんどを父がしているという話をしたら、豊田さんをはじめ、豊田さんのご両親も飛び上がってびっくりして、せめて練習の時はうちで夕飯を食べて行ってくださいということになってしまった。
僕の夕飯が豊田さんの家でまかなっても、結局父は自分の分は作らなければならないのだから、遠慮しますと言うと、だったらお父様の分はお持ち帰れるものを用意するので、心配しないで下さいと言われた。
そこまでしてもらうわけにはいかないなあと困っていると、
別に気にすることでもないのだから、そのようになさいなとお母様に言われた。
もし一週間に一度程度のものであれば、すみません、お言葉に甘えてみたいな感じで済ませていたのだろうと思うけど、一週間に三度となると、さすがに気が引けた。
でもご両親が何も気にすることはないと強く言ってくれたので、
さすがの僕も折れてしまった。
一週間に三度の豊田さんの家での練習。
自宅に練習スタジオまであって、そこで僕らはずっと練習をしていた。
一週間に三度の練習というと、それ以外の日もやっぱり二人で一緒にいることが多くなった。
二人のことは学校の公認の関係だったので特に茶化す人はいなかったが、
中には冗談をいう者もいたり、更には面白く思っていない人物もいたようだ。
それは例の僕の指癖がうるさいと指摘したやつ。
彼女とはどういう関係なんだろうと思っていたが、
なんでも彼女が師事していたピアノの先生に同じく指導をしてもらっている人で、
彼女との共演を強く望んでいたらしく、今回のこのコンサートにも強くアピールしていたらしいが、彼女は相手にはピアノではなくギターを選んだということで、彼の出番はなくなった。
それでも何故僕なのかとしつこく聞いてきたようだが、
僕に直接火の粉が飛ぶことも無く、それはそれで一応おさまってはいたようだ。
「彼、なんていうの?」
「前島くんのこと?」
「ああ・・前島っていうのか・・。」
「うん。」
今日は学生課のあの職員に呼ばれて、練習の進み具合を説明することになった。
二人で学生課に向かうと、そこにその前島が僕らを待っていた。
どういうことなのだろうと思っていると、どうやら彼は先生の後ろ盾を得て、
このコンサートに前座ということで割り込んで来たらしかった。
ピアノ独奏ということなので、君たちとは関係ないので気にしないでくれということだったが、
同じコンサートに出演するのだから、まったく気にしないというわけにもいかないだろうというのが、僕の内心の気持ちだった。
彼が今頃になってどうしてこんな割り込み方をしたのか、僕はどうしても気になった。
そのことを豊田さんに言っても、彼女は「彼はああいう人だから。」の一言。
僕が君に言ってもらいたかったのは、そういうことじゃないのになあ。
第12章 私たちだけ
当日のコンサートは、豊田さんと僕のデュエットに加えて、前島の独奏がある。
よくよく考えてみると、そもそも俺たちだけの演奏会に、無理に前島が食い込んで来たにもかかわらず、独奏とはおかしくないか。
目立つのは独奏。
一人で演奏するから。
豊田さんはいいものの、僕は彼女の添えものだし・・・
いや、彼女の添え物だってかまわないのだが、それは僕たちだけが演奏をする場合であって、
これに前島が独奏で加わってくるとなると話が違って来る。
どうしてこうなってしまったのだろう・・。
僕たちだけのコンサートだったら良かったのに。
それから少しして、学校サイドから、
僕たちのユニットに前島も含めた楽曲を何か実現できないかという打診があった。
僕は断固拒否をした。
それは感情的な理由もあるが・・・。
感情的な理由・・それは勿論、前島と会った時のやつの態度。
音楽は心で奏でるもの・・であれば、やつとは一緒に音楽はできない。
それと、いま豊田さんと懸命に練習をしている楽曲。
バッハのチェンバロ協奏曲第五番。
これが意外に順調に進んでいて、今更これ以上楽曲を増やして、失敗する種を
持ちたくなかった。
前島の楽曲も気にならないわけではなかった。
ヤツの独奏でヤツが目立つのもあんまりいい気分ではなかったが、
それよりも、やっぱり音楽家としての僕の血がそうさせるのか、
ヤツの実力を知りたくないわけではなかった。
まあ、あり得ない話だが、実はヤツもなかなかのプレイヤーではないか
という思いがあって、
今回添え物で参加した俺としては、そんなところでヤツに差をつけられたくなかった。
ヤツの楽曲は、ラフマニノフだった。
これって、豊田さんの曲だよ。
そもそも彼女はラフマニノフのあの曲を選ぼうとしていたものを、
僕を巻き込みたくて・・・。
巻きこむというのもおかしな話だが、
とにかく、「パガニーニの主題による狂詩曲」を弾こうとしていたところ、
僕を強力に学校にアピールしてくれて、バッハの協奏曲に変更した。
それなのに、なんでヤツが彼女のあの曲を横取りしてしまうんだ。
しかもあの曲は俺にとっても大事な曲。
こうなったら、ヤツはヤツ、僕たちは僕たち・・そういう割り切り方をしようと決めた。
雑念は出来る限りシャットアウトして、僕たちの楽曲が在る程度形になったところで、
本番が行われる学校のコンサートホールで練習をすることになった。
当日はただ演奏をするだけではなくて、ショーアップする様々な企画が盛り込まれている。
会場にも様々な装備がほどこされるらしいが、そういうものも含めて、
演奏がどういう形で行われるのか、またどう演奏できるのか、そういう青写真作りの
リハーサルみたいなものをこれからしばらく行うことになった。
それには当然、前島も来ていた。
聴きたくないような、聴きたいような・・とにかく僕たちも前島の前で演奏し、
ヤツも俺たちの前で演奏をすることになった。
「豊田さん、お久しぶりです。」
なんかしらじらしい挨拶。
「すみません。あなたの曲をなんか、とってしまうような形になってしまって。」
「いいえ。前島さんならきっと素晴らしい演奏をされると思いますし。」
「ありがとうございます。」
なんか今日はやけに神妙だな。
豊田さんが軽く会釈をして行こうとすると、
「そちらの小町君・・どうですか?」とヤツが続けた。
「どうですかって?」
「いや、がんばってますか?」
頑張るってどういうことだろう・・。
「ああ、順調ですよ。」
豊田さんが答える前に俺が口を開いていた。
「そうですか。それなら結構。」
なんか感じが悪い。
でも、同じ企画のしかも同じ側の人間ではあるけど、
まあヤツとは一緒に演奏をするわけではないので、
関係ないというつもりで、僕はさらりとかわした。
「では、お手並み拝見といきましょう。」
そうヤツは言って、ステージのピアノに向かった。
僕たちの演奏はほぼ完璧だった。
それに比べて、前島の演奏は何も来るものがなかった。
でもそれは豊田さんのあの演奏を聴いてしまったからだと思った。
あの時の彼女の演奏を超えるものは、僕には今後あり得ないと思っている。
そうであれば、前島が無難にこなしただの演奏では、あくびをこらえるのに
たいへんだったことは言うに及ばない。
ところが、事態が変わった。
それは前島の提案が端緒になった。
それは豊田さんと僕の演奏が相性が悪く、折角の両者のいいところを、
お互いが消し合っているということだった。
それで、独奏を僕に、そして豊田さんの共演者に自分をして欲しいというものだった。
え・・・。
と言うか、ないない、それはないよと断った。
そんなこと彼女に聞くまでもないことだと僕は声を大にして断った。
前島は楽曲はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を提案して来た。
席をはずしていた彼女がその場に呼ばれて、
そしてその話を聞くと、大きく動揺しているのがわかった。
まさか、チーム解散なんてないよなあ。
急に不安になった。
第13章 僕だけ
僕はチームからはずされた。
はずれたという表現は正しくはない。
豊田さんとのチームは解散になり、僕はひとりになった。
独奏をお願いしたいとのこと。
ギター一本で?
ギター一本なんて無理・・・
それならせめてバンドでやらしてよ。
豊田さんは前島と組んであの曲を、念願のあのラフマニノフを演奏する。
どういうこと?
それだったら、最初からやつと組めば良かったじゃん。
なんで僕なんか巻きこんだの?
巻きこんでおいて、それでほうりだして・・
そして、独奏をだなんて・・
それって僕にコンサートを辞めろって言うに等しいんだけど。
こんな仕打ちはないと思った。
僕は急に寒い冬の外にほうり出された気がした。
宛てなくひとり彷徨うことになろうとはまったく思いもしなかったのに。
どうして俺だけなんだ。
どうしてこうなるんだ。
そう思っても、前島は別として、豊田さんを恨むわけにもいかなかった。
第14章 あおいに
あおいと約束を交わしました。
約束と言っても、そんなおおげさなものではなく・・、
約束がおおげさなものとは言わないけど、これは私の深読み、思いすごしかもしれまれませんが、とにかく私はあおいにそうしてあげたかったというのが正直なところです。
何か人と話していて、それがその時はこうなのかしらって思ったり、あるいは、特別な思いなどないようなことが、それからしばらく経って、ああ、あの時のあの人の言ったことは、こういうことだったのねっていうことってあると思います。
あおいと私の会話はそのようなことがたくさんありました。
就寝前の湯船の中で、それからお布団の中で、
いきなり、あおいが言ったことが頭の中に蘇って、あ!それ!って
そのまま動けなくなったり、寝ていたのがいきなり起きてしまったり、
そういうことがしばしばありました。
あおいは、私のいとこでした。
齢も同じで、昔からよく一緒にいました。
住んでるところも、学校も違ったので、大きくなってからは別々の時が多くなったけど、
それでも何かという時には、私はあおいに、あおいは私にかならず相談なり、連絡をしていました。
私があおいからよくお店に来る彼の事を聞いたのも、
ちょっと話したいことがあるという連絡を受けて、それで・・ということでした。
あおいは人当たりも良く、明朗で素敵な子だったけど、
誰かを好きになったという話は聞いたことがなく、
ちょっと気になる人の話・・というだけで、私はこれは大事件だと胸を躍らせたのでした。
あおいとはいつものように青山のあのレストランでランチをしながらという約束でした。
前の晩は、いったいどんな人の話なんだろうと関係ない私がドキドキしてしまって、
それでずっと眠れなくなってしまいました。
私の恋愛は・・あおいよりは経験があるけど、それほど多くもなく、
またそれほど深くとりつかれたこともありませんでした。
だからと言って慣れっこということもなかったし、
あおいの前振りだけ聞いて、こんなにワクワクしてしまったのは、
きっとあおいの話し方が上手かったのもあるし、またあおい自身がそれだけその人に
何かを感じてたということなのかもしれませんでした。
朝目が覚めると、雨が降ってた。
私は雨の日は家にいる!と決めていた。
そこで急きょ、あおいに連絡をして、あおいにうちに来てもらった。
あおいがうちに来るのは久しぶりだったけど、
幼い頃は毎日のように、まるで仲の良い姉妹のようにして遊んだ家なので、
別に何の違和感もなかった。
懐かしさも相まって、あおいからその人の事を色々と聞くことが出来た。
「電話ではすっごくうれしそうだったけど、どういうことなの?」
「沙織、聞いてくれる? もう話したくて話したくて。」
「はいはい。今日はわざわざ来てくれたことだし、十二分にお伺いします。」
私たちはいつも笑っていた。
あおいはいつも私に笑顔を連れて来てくれた。
「えっと、じゃあまず出逢いから聞いちゃおうかなぁ。」
「そう来ると思った。」
「でしょ?」
「ええと・・まず・・そうそう、私のバイト先、知ってるでしょ?」
「うん。あの和菓子屋さんでしょ。」
「そうそう。」
「いつもお年寄りしか来ないとかなんとか言ってた・・。」
「えーそんなこと言ってないよう。」
「そう?」
「うん。だって、彼はそのお客さんだもの。」
「ええ、そうなの?」
「うん。」
「うんって・・どうやって知り合ったの?」
「だから、お客さんなの。」
「うーん・・じゃあ店頭でナンパされたの?」
「違うよ。」
「じゃあ、なに?」
「聞きたい?」
「もったいぶらずに。」
「うん。・・・その、私がね、バイトしてる、あの和菓子屋さん。」
「うん。」
「そこに或る日から男の子がよく来るようになったの。」
「へぇ。」
「和菓子に若者の男の子が、しかもほとんど毎日来るっていうのもなんかおかしいでしょ?」
「うん。」
「それでバイトのお友達ともなんだろうってちょっと話題になったの。」
「へえ。」
「話題になったって言っても、私がなんだろうねって言ったくらいで、
別にどうでもいいって感じだったんだけど。」
「あおいらしい。」
「うん。でもね、接客していたのが、私だけだったから、他の人は特に関心がわかなかったのかもしれない。」
「あおいだけが接客?」
「うん。そうみたい。私がいつもそうなってた。」
「じゃあ彼、あおいに関心があったんじゃないの?」
「そうみたい。」
「そうみたいって・・どうしてわかったの?」
「だって、いま付き合ってるんだもの。」
「ええ! つきあってるの?」
「うん。」
「じゃあ・・ナンパされて?」
「違うよ。」
「うーん・・じゃあ先話して。」
「うん。」
あおいとはいつもこんな感じ。
こんな風にして段々ものごとの核心に向かって行くのが常だった。
「彼、いつもお店に来て、私を選んで・・・そうじゃなかったのかもしれないけど、
商品を買って行ってくれて・・でもそれだけだったの。」
「うんうん。」
「彼、面白いの。」
「面白いって?」
「うん。買う商品が、かりんとうなの。いつも。」
「かりんとう?」
「うん。かりんとう。」
「へえ。かりんとうなんだ。」
「それで、私は私に会いに来るのかなあって思ったんだけど、でもそうじゃないかもしれないし。」
「うんうん。わかる。」
「その頃、沙織に電話したことあったじゃない。」
「うん。なんか話したそうだったけど、あの時にはそこまでは話してくれなかったよね。」
「うん。だって、なんかどうとも言えなかったし。」
「でも・・それがどうして、いまつきあってるの?」
「うん。それがね。話が逆行するようだけど、彼が突然お店に来なくなったの。」
「え?振られたの?」
「違うの・・付き合う前に、まだそんな話もしなかった頃に、毎日のように来てくれた彼が、
或る日を境に急に来なくなったの。」
「何か理由があったの?」
「病気とか、旅行とか・・なんだろうって思ってたんだけど、それを知る術もないでしょ?」
「うん。」
「それがね。急展開。」
「え。どうしたの?」
「それが、銀座のフルーツパーラー・・。」
「うん。よく行ったよね。」
「あそこのB1で彼に会ったの。」
「ええ!そうなの!偶然?」
「うん。偶然。だって、本日のスィーツってあるでしょ?」
「うん。ワンドリンク付きの?」
「うん。あれを注文して、来たかなって思ったら、隣の人のところに持っていっちゃうから、
それ、私のですって言いそうになったら、そこに男の人が座っていて、
しかも男の人がひとりで来てるんだって思ったら、それが彼だったの。」
「偶然だね!」
「うん。しかも彼も同じもの頼んでたの。」
「そうなんだ。」
「それで彼と目が合って、あれ・・なんか知ってるぞって、お互いがそんな感じになって、
もしかしたら和菓子屋さんでバイトしてる人ですかって聞かれたから、私もあの人だって思って、いつもかりんとうを買って行かれた方ですかって聞いたの。」
「なんだ、それって運命じゃん。」
「でしょー。」
「それで付き合ったの?」
「その時はちょっとお話をして。どうして最近お店にはいらっしゃらないんですかとか。」
「聞いてみたの?」
「うん。」
「あおいに関心がなくなったからですって言われなかった?」
「えーそれって怖い。」
「いま気づいたの?」
「うん。」
「ははは。」
「でもね。そうしたら、ちょっと事情があってって。だからそれ以上は聞かなかったよ。」
「うん。」
「それから、彼は用があるからって、それでおしまい。」
「おしまいって、それじゃあ付き合ってないじゃん。」
「あ・・そうだね。」
「え?つきあってないの?」
「えっと、その時携帯のメアドを交換したの。」
「うんうん。それならわかるよ。」
「それからちょっと銀座を散策してたら、早速彼からメールが来たの。
それが始まりかなあ。」
「そっか。ごちそうさま。」
「えー。これからがメインディッシュなんだよ。」
「もうお腹がいっぱいだよう。」
「もう、沙織ったら。」
私としてはあおいがいい人と出逢って、そして楽しく幸せにいてくれれば、
それでいいと思った。
勿論あおいがどんな人と付き合ってて、どんな付き合い方をしているかも気にならないではなかったけど、そういう野次馬みたいなことは、私の性分ではなかった。
あおい・・
私のいとこだけど、昔から仲が良くて、私の大切な人だった。
第15章 彼に
あおいが事故に遭った。
それはいきなりの連絡だった。
あおいのお母さんから、私の母に連絡が入り、そして私の携帯にそれがリレーされた。
見たくなかったメールだった。
私が大事なレッスン中だということもあって、電話ではなくメールで送られて来た。
メールを開けた途端、私は思考が止まった。
もしその後もレッスンがあったとしたら、とても弾けるような状態ではなかったと思う。
思考が止まると感情もなくなるのか。
それとも思考が止まったのではなく、感情が停止したのか。
音楽は心で奏でるもの。
だとしたら、感情が停止しなければ、弾くことができたはず。
それとも思考も頭ではなく、心でするものなのか。
このことについては、もう思い出すだけでも耐えられないので、
簡単に述べると、飲酒運転の車が、歩道に突っ込んで来て、たまたまそこを歩いていた
おあいがはねられたということだったらしい。
らしいと言っても推測ではなく、そうだった。
目撃者もいたし、実際その運転手は大量のお酒を飲んでいたことがわかった。
そしてあおいの人生はそこで終わっていた。
あおいのご両親は勿論だろうけど、私の悲しみも尋常ではなかった。
私の両親も悲しみに打ちひしがれていたが、私は自暴自棄に近いような、
もっと言えば錯乱状態であったと当時のことを母が言っているくらい、どうしようもないくらいボロボロだった。
加害者の裁判が・・という話はしたくない。
それもどうでもいい話で、何がどうころんでも、あおいは戻っては来ない。
そう思うと、あおいがいなくなった時点でこの世が終わった気持ちになった。
この世が終わったということは、私の人生も必然的に終わったということだった。
話が前後するけど、あおいのお葬式の日、
私はふと、あおいが話していた「彼」・・が、
いったいどの人なんだろうと思った。
気になったら気になったでじっとしていられない性分なので、
私は大丈夫かと心配されながら、受付のお手伝いをした。
そして訪れた弔問客からこの人では?と思うと、記帳された住所と名前のところにチェックをつけた。
なんでそんなことをしたのだろう。
あおいの彼を知りたかったのだろうか。
その時は理由がはっきりしなかったけど、何か見えない力に私は突き動かされているような
そんな感じがしていた。
私が気になって後からチェックをした人は、結局どなたも「彼」ではありませんでした。
すると彼は、あおいのお通夜にも告別式にも来ていないということになります。
それは少しおかしな話だと思って、あおいの仏前に手を合わせに行った時に、
なんとなくそういう話をした時にも、ご両親はそのなんとなくという私の話ぶりからは、
何も感じ取るものがなかったようで、あおいの交際というところまでは話が行きつきませんでした。
あおいは彼との交際を両親には話していなかったようです。
話をするまでの仲ではなかったとしても、以前私に話してくれたような想いがあるのなら、
それは自然に外ににじみ出て、特にお母様にはきっと気取られてしまったのではなかったのかなと思ったのですが、そのようなことはなかったようです。
またお通夜の席で、あおいの学校のお友達を呼び止めては、彼の話を切り出したりしたのですが、そういう話は聞いたことがなかったという残念な返事しか聞けず、
結局この話はこれで打ち切らざるを得なくなりました。
まさか、あおいの嘘?
そんな彼なんて本当はいなくて、私をだますとかそういうことではなくって、
なんか妄想ごっこみたいな軽い気持ちで・・その場が楽しい雰囲気になればいいみたいな、
そんなことだったのかしらと、そう思うようになりました。
それから少しして、私の父が会社指定の病院に泊まり込みの人間ドックに入るというので、
着替えとかを持って、病院に付き添った時に、そういえば、あおいがバイトをしていた
和菓子屋さんってここだったよねという話になって、私は何気なく
かりんとうをつかんでそれを買ってしまっていたのです。
店員さんのネームプレートを見ると、「店長」と肩書きがあったので、
思い切って、あおいのことを話してみると、その店長さんが目に涙を浮かべて、
あおいの話をしてくれました。
店長さんもお通夜には来てくれていて、その時の私を覚えていてくれたようでした。
そして帰り際に、
「そういえば、そうやって彼女に会いに彼氏が毎日かりんとうを買って行ったんですよ。
なんかそれも思い出しちゃって。」と私に語ったのです。
嘘じゃなかったんだ・・・。
あおいの話は嘘じゃなかったんだ。
かりんとうを買って行った頃はまだ彼氏じゃなかったんだと思うけど、
買いに来ていたのは確かなんだ。
そう思ったら、もう私は止まらなかった。
「その彼ってどこの人だかおわかりになりませんか?」
でも、店長さんは首を横に振っていた。
それはもっともなことだし。
だって、あおいの話だとかりんとうを買いに来てた頃は彼氏じゃなかったのだし、
その後つきあったとしても、そのことを店長に話したりするようなタイプでもない。
だとすると・・・あおいがみんなにあの人が毎日私に会いにかりんとうを買いに来てるという話をした時に、店長は彼氏という枠でひとくくりにしてしまったんだろうと思われた。
いずれにしろ、これでそういう男の人がいたことは事実だということがわかって良かった。
でも、そうなると、どうして、あおいのお葬式に来てくれなかったんだろう。
家まで押し掛けて仏前にお線香をというようなことならまだしも、
ご近所の方や、学校の遊び友達まで来てくれるお通夜に、
彼氏が来ないということはちょっと薄情ではないのかと思ってしまう。
それとも何か理由があるのだろうか。
あるとしたらそれを知りたい。
「そう言えば・・その男の子、病院にお見舞いに来てるとか言ってたような。」
「え?」
「そうそう。たまたま、あおいちゃんがお昼休みでいない時に来てね、
あおいちゃんを呼びましょうかって聞いたら、いいえいいんですって。
照れてました。だからあおいちゃんのこと好きなんだなって。」
そんなことがあったんだ。でもさすが店長さん、見抜いてる。
「ついでに毎日どんな御用で来てるんですかって聞いたの。」
わーさすが店長さん。
「そうしたらそこの病院にお見舞いなんですって。まさか、あおいちゃんに会いに来るとも言えないでしょうけど、でもそのお見舞いっていうのも嘘ではなかったみたいですね。」
病院と言えば私の父がこれから人間ドックに入ろうとしているところくらいしか
この辺りにはないらしい。
私は貴重な情報を得ることが出来た。
父の入院はそっちのけで、私は彼の探索に走った。
プライベートなことだから難しいかもしれないと思ったのだが、
毎日お見舞いに来ている年頃の男の子。
絶対見ている人がいるし、絶対につきとめてやると決心をしていた。
それでも父の担当の看護師さんに挨拶をして、
ついでに一日の入院だけだけど、ナースステーションに
お土産を持って行った。
かりんとう・・といいうことも考えたけど、それではちょっとなあということもあって、
シュークリームを多めに買って行った。
最初は遠慮をしていたが、日持ちしないからどうぞと強く勧めると、
それでは頂きますと受け取ってくれた。
ナースステーションで私くらいの年齢の看護師さんが目に止まったので、
早速例の彼の話を振ってみた。
「そう言えば、このお菓子を買った店員さんに聞いたのですが。」
シュークリームを和菓子屋で買ったのかい?
「毎日、かりんとうを買って行く、私くらいの年齢の男の子が、
ここのお見舞いに来ていたという話を聞いたのですが。」
すると少し離れたところにいた、もう一人の看護師さんが、
ああ、それってあの子だよね・・お母さんのお見舞いで毎日来ていて、
本当にお母さん思いでいい子だったよね・・という話を始めた。
なんて今日はラッキーなんでしょう。私は天に感謝をした。
「その方って・・。」
「小町君ね・・・いまどうしてるかな。」
そこまでいい終わるとその看護師さんはさっと外へ出てしまった。
そこで近くの看護師さんにもう少し詳しい話を聞こうとすると、
そういうプライベートなことは答えられないとかわされてしまった。
ここではこれ以上情報を集めるのは難しいかもしれない。
病室へ行くと、個室を頼んだつもりが、何人かの相部屋だった。
父は嫌がったが、たった一日なので、たまには変わった体験をするのも
面白いのではという私の意見にしぶしぶ従った。
父と折角買ったかりんとうをポリポリ食べていると、
その様子をじっと見ているご老人がいたので、
その世代の方にはかりんとうがいいのだろうかと思って、
ひとついかがですかと勧めると、私は入れ歯で固いものがだめなのでと
言われた。
それでもまだその方がこちらを見ているので、
そのポリポリいう音がうるさいので、
両手で口を押さえながら食べていると、
「あなたたちを見ていると、前にここに入院をしていた小町さんを思い出してしまって。」
としゃべりだした。
小町さん!
この苗字は、もう彼しかいない。
仮に佐藤さんや鈴木さんならわからないかもしれないけど、
小町なんていう苗字はそうはいるものではない。
そのご老人が、小町という苗字を言うと、周りの人たちもそう言えばお母さん孝行の、
いい息子さんだったなあとか、そう言えばお父さんも面会時間終了近くになって来てたなあとか、話が色々と出て来た。
入院している人はそういうことをよく見ているんだなあと感心した。
その中で、
「そう言えば、この前一時帰宅した時に、近所の役所の出張所で、
旦那さんを見かけたよ。あの小町さんの。」と言うおじいちゃんがいた。
「え?どこの出張所ですか?」
「石川町だよ。駅前からバスが出てるだろ?」
私はこの近くの者ではないので、よくわからないと答えると、そのおじいちゃんが
詳しくその場所を教えてくれた。
私は明日早速その出張所に行くことを決めていた。
第16章 彼
出張所に行くと、ネームプレートから彼のお父さんはすぐにわかった。
でもどうやって切り出そう・・少し考えて、その出張所の中の公衆電話から、
その出張所に電話をすることにした。
「もしもし、すみません、小町さんをお願いします。私は・・・豊田と言います。」
少しして、「はい、小町ですが。」という男の声が受話器から聞こえて来た。
17時半になると、約束通り、小町さんがそこへやって来た。
土地勘がないので、そのカフェは小町さんが指定してくれたものだった。
「豊田さんですか?」
「はい。」
「小町です。」
私はかりんとうの話から、病院で奥さまにお世話になった話につなげて、
そして是非お礼をしたかったという嘘をついた。
小町さんはそうとは知らずにこうして会ってくれた。
申し訳ないと思いながらも、私はあおいのことで一杯だった。
小町さんの奥さんのことは知らない。
ただ入院をしていたことは知っていた。
そしてそこに彼がお見舞いに来ていた事も知っていたので、
話をうまく誘導して、彼のことに結び付けた。
「そう言えば、私くらいの息子さんがよくお見舞いに来てましたね。」
「ああ。純ですね。息子です。」
「純さんですか。」
「ええ。大学生です。たぶん、豊田さんと年齢は変わらないと思いますが。」
「私は大学一年ですから、どうでしょう?」
「あ・・じゃあ同じですね。」
彼のことをもっと知らなくては・・。
「じゃあ純さんはお母様が亡くなられて、とても悲しんだのではないですか?」
「ええ・・それはとても。」
あおいのことはどうなの・・。
「純さん、いまは・・?」
「え?純ですか・・はい・・。」
なんかはっきりしない返事だけど、あんまり彼のことを聞くのも変に思われてしまうし、
奥さんの話に戻さないといけない。
「奥様の一周忌とかは・・。」
「はい。ちょうど今月やります。」
え・・もしかしてチャンス。
「あ・・それ、もしかして私も出席させて頂くことは出来ませんか?」
「あ・・そうですか。親戚とご近所のごく親しかった人だけと思っていたのですが・・。」
「お願いします。」
「・・わかりました。病院で親しかった豊田さんも出席してくれれば、女房も喜ぶでしょうから。」
「ありがとうございます!」
気がまたひとつ重くなった。
でも、その一周忌には、彼も必ず出席する。
そうしたら、チャンスを伺って、彼にあおいのことを話すことができるはず。
彼の本心を知ることが出来る。
母親の死を悲しんで、恋人の死を悲しまない人なんているのかしら。
私は小町さんに一周忌の場所と時間を聞いて、その日はそれで失礼した。
一周忌は今度の日曜日だった。
場所はうちから電車で30分くらいの都内のお寺だった。
また眠れない日が続くのかしら・・・。
第17章 あおいと彼
一周忌の法事は、北区にあるお寺で行われた。
出席者は故人のご家族、そして故人のご兄弟でも近くにお住まいの方々、
そしてご近所で故人と特に親しかった方々、そして私だった。
故人、つまりお母様のご兄弟が息子さんを伴って来ていて、それが彼と
区別がつかず、未だ彼の特定が出来なかった。
お寺の控室では特に紹介し合うこともなく、私が誰だと言うこともなかったので、
その煩わしさはなかったのですが、同時に彼が誰だかもわからなかった。
そしていよいよ法事の時刻になり、お寺の本堂に案内されると、
お父様の隣に座るのが息子さん、つまり彼であるのだから、
私はドキドキしながら、皆さんの後について行きました。
そしてその瞬間、
お父様がまず一番前に座られて・・
故人に近い順に順々にその席が埋まって行きました。
でも、お父様の隣は、恐らくお母様のお兄さま・・
彼の姿がない。
え・・どうして?
結局若い男性も全て着席し、私だけが棒立ちの状態になった。
あわてて一番末席に座ると、ひとり茫然としていた。
彼がいない?
でも、どうして?
ご自分のお母さまの一周忌なのに・・・。
なぜ?
法事が終わると、お父様が私のところに来て、お礼の挨拶をされました。
私は彼のことを聞いて良いのか迷いました。
来られないのには、それ相応の理由があると思ったからです。
そしてそれは聞いてはいけないことかもしれない。
でも、あおいのことを考えると、やっぱり聞かないわけにはいかない。
私が思い切って彼のことを切り出そうとした時に、
お父様が親戚の方に呼ばれて、そして私に軽く会釈をすると、
その場を立ち去ってしまった。
機会を逸した。
私はその場を離れざるを得なかった。
帰り際、その法事に出席していた方と一緒になった。
私が軽く会釈をすると、その方も会釈をされて、
「純君のお友達かしら?」と話しかけて来た。
純・・小町純・・
それは彼の名前・・。
私はその方に彼のことを聞くことにした。
「はい。」
「ああ・・やっぱり。」
「今日、純さん・・純君の姿が見えなかったようですが・・。」
「あ・・そうね。」
「どうかされたのですか?」
「お父様の話だと、留学をされてるとか。」
「留学ですか?」
「ええ・・なんでもフランスに音楽の留学をと言ってましたよ。」
「そうですか・・。」
でも、それでもご自分のお母さまの一周忌の法事に出席しないのは納得できなかった。
私の調査はまだ終わらなかった。
第18章 彼と音楽
その方のお話だと、彼はギターを幼少から習っていて、
高校在学中も長期のお休みには、フランスに短期の留学をしていたらしい。
そして高校を卒業すると、フランスのコンセルヴァトワールを受験し、
みごとに合格して、いまはフランスへ留学しているということでした。
そういう話を聞くと確かにそういうことなのかもしれないと思う。
彼はお母様を亡くして、それから少ししてフランスへ留学した。
そして今もフランスにいる。
あおいとは、お母様を亡くしてから留学するまでの間付き合っていて、
そしてあおいのことはフランスにいたので知らないでいるということなのだろうか。
でも、今日の法事にしても、あおいのお通夜にしても、
日本に戻って来て出席しても全然おかしくない理由だと思う。
なのに、彼は姿を見せず、沈黙したまま。
こんなことってあるのかしら。
時々、本当はあおいと彼は付き合ってはいなかったのではないかと思うことがある。
あおいの妄想・・とまではいかなくても、なんか夢物語を勝手に作ってしまって、
彼とこうなったらいいなあという希望を私に語ってしまって、
それを私が信じてしまったっていうことかもしれないって。
あおいは日記とかつける人ではなかったし、
彼と一緒に撮った写メやプリクラも見つからなかった。
そうなると私は、ただあおいの言葉だけを信じて、これから先に進まなくてはならなかった。
でも彼は留学中。
まさか留学先まで行けっていうの?
私は八方塞がりだった。
けれど・・やがてそれを打開する事件が起こった。
事件?・・・
私にとっては事件と言っていいくらいの事が起こったのです。
それは音楽論の時間だった。
私は前島さんに誘われて、この授業を取ることになった。
音楽論を講義されるのは、芸大からフランスのコンセルヴァトワールに留学されて、
クラシック関係のテレビ番組によくご出演されているうちの大学の有名教授の一人である別宮先生。
先生とは日頃のレッスンでもご指導頂いてる関係でもあったので、
こうして前島さんと一緒に履修をすることにした。
勿論前島さんも先生の優秀な生徒です。
先生の講義は時間中に音楽を聴かせてくれて、その感想をその時間中にレポートとして出すというものでした。また期末の試験もレポートを提出するというスタイルだったので、学生には人気があったのですが・・・つまり試験がないということですが・・めったにA評価をもらえずに、最後は学生が泣かされるというパターンになっていました。
先輩からそういう科目だから、挑戦するのなら止めはしないけど、良い評価を狙っているのならやめたほうがいいと事前にアドバイスをされていました。
それでも前島さんと私がこの科目を履修したのは、先生とのお付き合いということもありましたが、やっぱり音楽をずっとやって来て、腕試しという思いがあったのだと思います。
先生は今年の履修者の実力を知ろうとなさったのか、
今年は期末ではなくて、最初の講義で次の講義の時に提出ということで、800字以内にまとめて提出するという課題を出されました。
最初の講義で出された理由は、これでもともと安易に考えていた学生をふるいにかけるということだったのだと思います。
案の定、次の講義で学生の数が五分の一になりました。
それでもそれなりの人数の学生がレポートを提出したのには少し驚きました。
やっぱりテレビの力はすごいということでしょうか。
そして三回目の講義。
この時は音楽鑑賞という普段の講義とは違って、前回提出したレポートの返却と、
そして優秀なレポートを書いた学生の紹介でした。
優秀な学生・・。
しかも音楽に関して、先生が優秀だと認める学生の発表・・・。
これには私も関心を抱かないわけにはいかないし、
そして胸がドキドキしている私の心境は、それが私だと発表されると思っているからでした。
「今回は珍しく優秀なレポートがあった。」
私は意識が薄らいで来た。
「三人が優秀だった。今から名前を言います。
この学校に来て今迄七年間講義をしているが、これほどよく書けたレポートはなかった。
もうこれだけでAをあげてもいいくらいでした。」
私は先生に拝むような心境になっていた。
「前島智くん、豊田沙織さん、それと・・・小町純くん。」
え・・・。
「特に小町くんのものはすばらしく、ここで全文を紹介したいくらいだった。
後で私の研究室に来てくれ。じっくり話をしたい。」
え・・こまち・・・じゅん?
え・・
ええと、小町くん。どこにいるかな?」
「はい。」
小町純という人が手をあげた。
先生が近付いて握手をした後にレポートを返した。
続いて私の名前が呼ばれて、先生が来てレポートを返されて・・そして前島さんが・・。
小町純・・
同姓同名。
私は彼の横顔にひかれて、しばらく視線をはずせなかった。
後で、私も先生の研究室に行こう。
そう決めていた。
第19章 彼と彼
先生の研究室は2号館の7階にある。
そこの710号室・・・。
私は彼の後をつける形でその研究室へ向かいました。
彼がその部屋の中に入った後、私は二、三度深呼吸をして、そしてそのドアを叩いたのです。
「どうぞ。」
先生の声と同時に私は中に入って行きました。
先生の研究室は中央にソファが四つ、ガラスのテーブルを囲む形で置かれていて、
奥に机が窓を背にして、座った先生がこちらを向く形で配置してありました。
先生と彼はそのソファに向かい合って座っていました。
先生は私を見ると、ああ君かという顔をして、彼の隣に座るように目配せをしました。
私は彼の隣に座りました。
「こちらは、小町純くん。それでこちらは豊田沙織さんだ。」
私たちは軽く会釈をしました。
「ええと。初対面だったかな。」
「はい。」
彼はうなずいただけでした。
彼が、あおいの彼氏だったのでしょうか。
「小町さんて、何か楽器を弾かれるのですか?」
先生が笑っている。
私は先生を一瞬見ると、続けて彼を見ました。
「ギターを弾きます。」
彼が言い終わるか終らないうちに、先生が横やりを入れて来ました。
「彼の弾くギターはすこぶるいい。とにかくいいんだよ。」
私がほほ笑んで彼の方を向きなおすと、彼は特に表情を変えずに、
正面を向いたままでした。
あれ・・彼って・・結構クール?
先生が言葉を続けます。
「それでこの豊田さんはピアノで人を幸せに出来る人だ。」
「先生!」
私は顔が赤くなっているのを感じました。
でも、それでも彼は表情を変えることはありませんでした。
彼はクールというよりも、何事にも動じない・・・心を動かさない人?
それから先生が主導でレポートの話に始まり、その他音楽に関することが色々と話題に
のぼりましたが、私は彼の正体が気になって、どれも耳には入りませんでした。
あなたは、あおいの彼氏だったの?
これが聞きたかったのです。
先生の研究室では彼は終始表情を変えずにほとんど無言でいました。
もしかしたら、私のことをわかってる?
あおいの友達だっていうことを知ってる?
「小町さんて、留学されていたんですか?フランスに。」
彼はまたも無表情のままでした。
「豊田さん・・どうしてそれを?」
「いえ、ちょっと小耳にはさんだものですから。」
「そうか。」
「私もフランス留学に興味があるので、是非小町さんから色々と教えて頂きたいと思いまして。」
私は彼に向かってしゃべっていました。
すると、彼は、表情を変えずにゆっくりとしゃべりだしたのです。
「ごめん。留学してた時のことは覚えていないんだ。」
え?・・どういうこと?
先生はひと呼吸おいて、これは内緒だから、これは豊田さんだから話すことだからと
前置きをしてそのことについて語り出したのです。
彼は高校を卒業した後、フランス留学が決まっていたにもかかわらず、
それを自分の意思でとりやめにしたということ。
そしてその後、この大学を受験してこの学校に入学したということ。
ところが、一年生の途中で、いきなり留学したいとお父様から先生に相談してきて、
先生のコネでフランスのある音楽学校に留学したとのこと。
そして、或る日、いきなり日本に帰国して来て、またこの大学に復学したとのこと。
最初の留学のとりやめ、そして急に留学をしたいと言い出したこと、更に急に留学をやめて帰国したこと、それらは彼の口から理由を聞くことが出来ずにいること。
いずれも彼は「忘れた。覚えていない。」という解答しかしないということでした。
それが本当に覚えていないのかは先生にはわからないということでしたが、
今もこうやってこんな話をしても、表情ひとつ変えずにいられるのは、
やはり記憶にないということが本当だという証拠ではないかと思っているということでした。
彼は、記憶喪失?
第20章 彼の喪失
学校の屋上から、彼が身を投げた。
それを知ったのは、私が美術史の講義を受けていた時でした。
美術史は彼も履修していた科目です。
今日は彼の姿を見なかったので、どうしたのだろうと思っていたのですが、
外の方が何か騒がしい様子だったので、教室のみんなもチラチラと外を
気にしてると、突然学生の一人が教室に飛び込んで来て、
「誰か飛び降りた!」と叫んだのでした。
教室にいたみんなが外へ飛び出すと、
二号館の校舎に沿った通路に、一人の男性が横たわっていました。
頭の辺りからは一面に赤いものが広がっていました。
誰も近づく人がいないことからも、既に絶命しているのは明らかでした。
周りでは「誰?誰?」という声が盛んにしましたが、
それを確かめようとする学生はいませんでした。
やがて救急車が来て、その人を運び出す時に、それが小町純さんであることがわかったのです。
私は言葉も出ませんでした。
自殺?
どうして?
それから教室へ戻っても、とっても講義などしていられる状態ではなかった。
その時教授がみんなに向かって何かを話していました。
「誰か、彼が飛び降りるところを見かけた者はいないかね。」
飛び降りたということは、やっぱり自殺?
私は思わず先生のところに駆け寄りました。
「先生、やっぱり自殺だったのですか?」
「やっぱりって、君は何かを目撃したのかね?」
「いえ、そういうわけではないのですが。」
「どうやら・・警察の話ぶりだと、自殺ではないようなんだよ。」
え?
「誰かに彼が突き落とされるのを目撃した学生がいるんだよ。」
第22章 自責
彼がそんなに追い詰められていたなんて・・。
それは私にとって、とてもショックなことでした。
だって、それって、私が追い詰めたことではないかと思われたからです。
彼が本当に記憶を失っていたかもわからなかったし、
もし失っていなかったとしたら、それはそういう振りをしている何らかの理由があったわけですし、そうであれば、彼の死は私が追い詰めてしまったのではないか・・と思うのが、
なんか筋が通るからです。
「沙織さん・・。」
「前島君。」
「聞いたかい?」
「うん。」
「やっぱり真実を知ることは彼を追い詰めることになってしまったのだろうか。」
「そうね。私たちの責任ね。」
時期は、彼のお母様と、そしてそれからしばらくして、あおいの三回忌が来る頃であった。
第23章 あおいと僕
彼女はあおいといった。
そのあおいと僕はメアドを交換することが出来た。
母が亡くなったのは高校三年生の時、
それから僕はずっと自分のことは不幸だと思っていた。
留学は行けなかったし、それによって僕の音楽への道は断たれたし、
仏壇と常に向かった父との二人暮らしも、やっぱり悲しかった。
でも、それが偶然の再会によって、僕はあの子と急接近をしてしまった。
そして彼女との出逢いが、いままで何事にもやる気を無くしていた自分に、
明日への活力を復活させてくれたが更に幸福感を煽った。
僕の母の死という辛い出来ごとも、あおいとの日々が、あおいの存在が、
僕に再生のエネルギーをくれた。
一度は断念した音楽への道も、来年には再チャレンジしようという、
そういう意志力が再び湧き上がった。
その日、いつものように、僕は原宿の竹下通りに近い改札口であおいを待っていた。
今日はあおいの誕生日、ここから少し歩いた所に美味しいイタリアンのお店がある。
方向的には代々木に戻る感じで、横断歩道を渡って竹下通りに入るのではなくて、
横断歩道を右に見ながら線路沿いに歩いて行く。
「ここって特別なホームなんでしょ?」
「そうだね。皇室が来た時にこのホームを使うらしいよ。」
「そうなんだ。」
その特別なホームを左手に見ながら、横断歩道を渡って、少し行ったところに
今日の目的のお店があった。
その横断歩道・・
その横断歩道を渡る時に、正面から車がこちらに向かって来た。
あれ?僕たち青信号で渡ってるよね。
でも車が前から来てる。
車も青信号なんだ。
でも横断歩道で俺たちが渡ってるから、止まるよね。
あれ・・止まりそうもない。
え・・。
この思考が一瞬でなされた。
そして、構わず突っ込んで来る車を避けるために、僕はあおいの肩をこちらへ引き寄せた。
一瞬にして真横にいたあおいの姿が消えた。
第24章 第一の喪失
僕の記憶はそのあおいという女性の事故から失われたらしい。
それは父から聞いた。
父の記憶が消えていないのが不思議だったけれど、
どうやら辛い、思い出したくない記憶は自分が消してしまうらしかった。
どうやら俺にとって、その事故が、その人は事故で亡くなったらしいのだが、
その記憶が辛いものらしかった。
僕は高校三年生の時に母を亡くして、そして音楽でフランスに留学することをやめて、
そして今の大学に入学した。
はっきり覚えていないのだが、そういうことらしかった。
その部分はまったく記憶が失われていたわけではなかったのだが、
そういうことだと改めて父に聞いた。
そして、どうやってその場に居合わせたのかわからないけど、
その人の事故の現場に俺がいた。
どういう関係かと聞かれても、僕はわからなかった。
その人の家族もやがてやって来たが、僕にはそうだと言われただけで、
その人の家族もわからなかった。
事故の証言をと言われたが、それも記憶になかった。
やがて時間が流れて警察の捜査もあきらめムードになってしまって、
それから僕はその人の家族や警察から解放された。
僕の記憶もその死亡事故を目撃したからだということで、
特にその人が自分とどうだということではなくて、それで失われたものだと診断された。
やがて事故の目撃という衝撃が薄れていけば、記憶は戻ると言われた。
きっと母の死という辛いことが僕の心を飽和状態にしていて、
そしてその悲惨な事故の目撃という衝撃がその一線を超える出来ごとになってしまったのだろうと、そういうことだった。
僕は少し学校を休むことにした。
敢えて休学届はしなかったが、留学をするという名目で学校には行かず、
田舎の伯母の家にやっかいになっていた。
母の一周忌
僕はそれには出席しなかった。
息子が母親の法事に出ないなんてあり得ないと言われたけど、
未だ記憶が戻らない僕から、母の死に起因しているという医者からのアドバイスで
父が法事への欠席を提案した。
僕も自宅で毎日母にお線香をあげていたし、
留学をしているという建前でもあったので、
また人前に出ることがあまり楽しくなかったので、それでそれに従うことにした。
法事には僕を知っているという女の子が出席を父にお願いして来たという話を聞いた。
その話を聞いて、俺はますますそれに出るのが嫌になった。
人に会いたくもなかったし、また学校の知り合いだったら、留学先から帰って来たのかとか、
いらぬことをあれこれ聞かれそうで、そう考えると絶対行きたくなくなった。
やがて学年末になり、試験には出席することにした。
学校に行くよりも家にいた方が勉強がはかどるというのも変な話だけど、
却って雑音に悩まされることもなく、勉学に集中できたのは確かである。
そしてこの期間は学問だけではなく、楽器にも集中できた。
本当にフランス留学をしていたみたいに楽器の腕もあがったように思えた。
こうした成果が自分をプラス思考にしたのか、
四月からは学校に行きたくてたまらなくなっていた。
そうして僕は二年次の科目を普通に履修することにしたのだった。
勿論その中に音楽論の科目はばっちり入れることにした。
僕の新しいスタートになるからだと自分で自分に期待をした。
第25章 第二の喪失
音楽論であの別宮先生に研究室に呼ばれて
君のレポートはたいへん素晴らしかったと、とても誉められた!
久しくこんなうれしいことはなかった。
ますます僕はこの講義が楽しくなったし、そして音楽に対しても再び燃える情熱を感じることが出来始めていた。
また、その研究室で、豊田沙織という女の子に会った。
彼女もレポートで誉められた人の一人で、彼女も教授の研究室にやって来た。
彼女から色々な質問をされた。
立て続けだった。
僕も最初は当惑したけど、留学の話は忘れたで押し通した。
それでも彼女と話をしていると、何故か心が安らぐものを感じられた。
それは、いつかどこかで触れたような、なにか懐かしさと、
そして一種の恋しさに似ていた。
これって、デジャヴ?とも思ったけど、俺にはそういう女性との経験はないし、
まさか母のそれとも違うだろうしと思って、
これは純粋に好感なんだろうと確信した。
研究室に呼ばれた日、
僕はとても気分が高揚していて、また久しぶりに自分が誇らしげでもあった。
そこでこの素敵な日が本物かどうかを賭けをしてみたくなった。
「豊田さん、帰りにちょっとカフェでも寄って行きませんか?」
研究室を出る時に俺はそう彼女に言っていた。
「ええ。実は私もそうお誘いしようと思っていたんです。」
彼女の返事に、俺のこの幸運は本物だと認めた。
通学の過程で大学の近くに素敵なカフェがあることは知っていた。
でも男一人ではとても入れそうもないくらい華やかなお店で、
しかもこんなカフェに連れて来る女性はそれ相応の女性でないと、とても似合わないと
そう思い込んでいた僕は、そのことを告げて彼女をそのお店に誘った。
彼女はにこっと笑うと、じゃあ私はラッキーねと、返事をした。
いままでちょっとよそよそしい話し方だったのが、
いまのやりとりで一気に仲良くなれたのかと俺はまた機嫌を良くした。
カフェでの話は更に盛り上がった。
音楽の話で終始すると思いきや、高校時代からの僕の話から、彼女の話、
留学の話・・
留学の話は痛い話だったけど、彼女はいなかったし、彼女がいるかどうかを探ったのかもしれないし、とにかく俺に関することに興味があるということは、僕に関心があるということだし、
もしかしたら彼女と付き合うなんていうことになるかもしれないとほのかな期待を持ち始めた。
「豊田さんって彼氏いるの?」
「え・・どうして?」
「だって、俺にも聞いたし。」
「そうね。私も言わないと、アンフェアよね。」
「うんうん。」
「でも、もしいたらどうする?」
「え・・いるの?」
「奪ってくれる?」
「え・・。」
「冗談!・・びっくりした?」
「あ・・ははは。」
「いないよ。」
「あ・・そうなんだ。」
「びっくりした?」
「う・・うん。。」
「どうして?」
「だって、豊田さんみたいに可愛い人がいないなんて。」
「ありがとう。」
「ほら!素直だし。」
「え?」
僕はこんな会話から、ますますこれは行けそうだと判断した。
行けるよね。
大丈夫だよね。
行っちゃっていいよね。
行かないとまずいよね。
そしてとうとう・・その日の僕はどうかしていたのだろうか・・
言ってしまった。
「今度の日曜日、映画どう?」
僕は彼女にどんな返事を期待していたのだろうか。
「はい。」
「え・・いいの?」
「うん。」
こんなに話がとんとん拍子に進むなんて。
今日の僕はどうかしてるけど、今日の運勢もどうかしてると思った。
次の日曜日・・・
実はその前日の土曜日、
僕は彼女に合う服を買いに行った。
先日、カフェで俺たち二人が窓ガラスに映るのを見た時に、
どうも服装が合わないのが気になった。
どう見ても彼女はお金持ちのお嬢さんだった。
それはいくらなんでも俺にはわかる。
なので、今日はちょっと奮発して、見られるような服を買った。
そして目的はもう一つ。
明日行く映画館とその周辺の町並みのリサーチ。
きっと彼女はああいうところには行き慣れているだろうから、
あまりに僕が疎いところを見せてしまうと、きっと呆れると思う。
だからそうならないように、さもいつも来てるように振る舞えるように、
当日立ち寄る店をリサーチしておこうと思った。
そして日曜日、
昨日も来たんだけど、それを隠して、でもいつも来てる感じで、僕は彼女をエスコートした。
映画はこれ観たいという彼女の意向であっさり決まったのだけど、
ディナーは昨日のリサーチでも決めかねていた。
リサーチの段階でもこんなに高いんだというお店ばかり目に入り、
安い手軽なお店には高校生が集まっていて、彼女と楽しいひと時を過ごすには、
ふさわしくない感じがした。
僕がいくつかの候補をあげて、その中で彼女に決めてもらおうかと思ったのだけど、
僕が色々と悩んだのがまったく無意味なように、
意外に彼女からこの店っていう提案があった。
なんでもお父さんの関係のお店で・・・
彼女のお父さんは飲食業をやっているのだろうか・・・
そう聞くとそうではなく、どうやら顔が利くということらしかったのだが、
今日は私がごちそうしますということで、そのお店に連れて行かれた。
お店の前に来ると、入口からして高そうなお店で、
今迄にこんなお店に入ったことも、前を通ったこともないような、
そんな特別な雰囲気をかもしだしていた。
入り口を入ると、早速奥に案内されて、
個室のような部屋に入り、後は一品一品料理が出て来る度に、
この料理はこうでみたいな説明をされて、その都度新鮮な驚きをして、
そしてあっという間にデザートまで行きついてしまったという時間を過ごした。
彼女と二人だけで、しかも個室で。
それだけでもドキドキものなのに、こんな素敵な・・しかも高級な料理を
ごちそうされるなんて、一体僕の幸運はいつまで続くのかと正直怖くなった。
個室で食事ということで、僕はこの後はカラオケに行きたいと思っていた。
音楽家はカラオケを妙に毛嫌いする人もいるが、僕は却って自分が関わらないジャンルの
音楽に触れられるカラオケに愛着を感じていた。
それでもっと彼女と仲良くなりたいという思いから、カラオケに誘おうと昨日からも
予定にはしていた。
お店を出ると、辺りは暗くなっていた。
最初のデートであまり遅くなるとご両親にも心配をかけるし、
またいきなり親しくなろうとするのも却って逆効果かなと、カラオケを提案することを
躊躇していると、そこにいきなり後ろから声をかけられた。
「豊田さんじゃない?」
振りかえると・・・なんか見覚えのあるやつ。
「あ・・。」
確か彼もレポートで教授からほめられた一人だった。
「あ・・前島君。」
「あ・・デートの邪魔をしちゃったかな。」
なんかわざとらしい感じ。
「そんなことないけど、前島君はどうしてここへ?」
「うん。ちょっとコンサートがあって。」
「前島君の?」
「ううん。知り合いの。」
「そうなんだ。」
おいおい、本当に邪魔しないでくれよ。
「この後はどうしようか?」
こんな時にそんなことを振って来るなんて。
まさか、カラオケなんて言えないでしょ。
「せっかくだから前島君とちょっとカフェにでも寄らない?」
え・・三人で?
「いいよ。豊田さん。お邪魔でしょ?」
「え・・ちょっとそのコンサートの話聞きたいし。」
え・・いまってデート中だよね?
「ね。小町君・・ちょっとだけ。」
そう言われて、ノーとも言えない。
「じゃあ、どっか入ろうか。」
「悪いね。小町君。」
ほんと邪魔。
僕は仕方なく、目に付いたカフェに二人を誘導した。
近くのカフェに三人で入ると、
早速豊田さんが、前島という彼にコンサートの話を始めた。
どうして今じゃなければいけないんだろう?
後日学校ででもいいと思うのに。
「それで、そのコンサートってどんな感じだったの?」
「知人がね。劇団やってて、その劇団が自作のオペラを上演してるんだよ。」
「そうなんだ。どんなオペラ。」
「うん。男が女を捨てる話。」
え・・
「オペラにありがちじゃない?」
え・・そうなんだ。
「それで?」
「うん。男が女を捨てた後に女が事故で死んじゃうんだよね。」
「どうして?」
「車にひかれて。」
オペラって現代劇なの?
「車の事故か。」
「それで男はその場に居合わせたらしいんだけど、怖くて逃げちゃうの。」
「なんかひどい話ね。」
「でも二人は恋人同士だったんでしょ?」
「女はそう思っていたらしいんだけど。」
「男は?」
「よくわからないんだよね。」
「そうなんだ。」
「うん。」
「じゃあ、二人の出逢いって?」
「男が女のケーキ屋にケーキを買いに行くの。」
「それが出逢い?」
「うん。」
「変わってるね。」
「うん。でも理由があって。」
「どんな理由?」
「ケーキはその男の母親のお見舞いのお土産だったんだよ。」
「へえ・偉いね。お見舞いだなんて。」
「うん。」
「なのに彼女の事故の現場から逃げたんだ。」
「うん。」
なんか頭が痛くなって来た。
ちょっと、豊田さん・・。
なんかやばい・・・。
「それって、ケーキじゃなくて。」
「じゃなくて?」
「かりんとうでしょ。」
かりんとう?
その時何かが倒れる音がした。
そして視界が九十度横になった。
それから豊田さんの声がした。
豊田さんの声ではなくて、誰か女の人の声だった。
その女性の声は懐かしいものだった。
豊田さん・・・だれ・・。
懐かしい声がやがて薄れて行った。
そして僕はまた一人狭い空間に閉じ込められていった。
第26章 沙織と前島
「あと少しであおいのことを聞き出せたのに。」
「それは、沙織さん違うんじゃない?」
「私が彼の記憶をまた閉ざしてしまったということ?」
「うん。」
「・・・。」
沙織は同じく別宮先生に師事していた前島と付き合っていた。
付き合っているというと、いつも一緒にいて、よくデートをしてと、
そんな感じに思われるかもしれないが、
彼らは音楽を通じてのみ、付き合っていた。
それは、音楽家としての良きパートナーであり、また理解者でもあった。
或る日、いつものように二人が連弾を始めた時だった。
最初の一小節を弾いたところで、前島がその手を止めた。
「え?」
「・・・。」
「どうしたの?前島君。」
「・・・どうしたのはこっちのセリフだよ。」
「・・うん。」
「何かあったのなら話してよ。」
「うん。」
「それがあからさまに音に出てしまっているよ。」
沙織のいとこのあおいのことは勿論前島も知っていた。
何度か会って話をしたこともあった。
しかし、その彼氏の存在については、この時が初耳だった。
音楽への影響も考慮して、前島が沙織のこの計画に加担したのも、
当然の成り行きだと思われた。
しかし、今回のこの作戦は失敗した。
純が再び自分の閉ざされた部屋に逃避してしまったことで、
あおいとの関係を聞きだすことが出来なくなってしまった。
そこで二人は更に次の手を考えることにしたのである。
前回の計画は失敗はしたが、
純のプロファイルはいくらか知ることが出来たのは収穫だった。
そこで今度はその線から攻めていくことにした。
それから綿密な計画を立ててひたすら純が再び学校に出て来ることを待った。
一か月、二か月・・
結局次の学年になってやっと彼を教室で発見した時には、
二人は思わず手を叩いてしまった。
沙織は純の隣に座り、前島は沙織の隣に座った。
「ピアノ弾かれるんですね。」
沙織が純に話しかけた。
再び計画が実行された。
第28章 純と沙織
人は一瞬で恋に落ちることがある。
そこに理由はいらない。
昔、天使が盲目で描かれていたように、誰と誰が恋に落ちるかはわからない。
そしてその愛の種子が長い月日をかけて、まるでからし種のように、
やがて大きな存在となって胸を打ち破ってしまうものもあれば、
その人を一瞬見ただけで、自分の全てを持って行かれてしまうような恋もある。
純は沙織に恋をした。
それが沙織の作為であろうと、つまり心が伴っていなくても、
それが恋の様相を呈していれば、その型にばっちりはまってしまうものが恋なのである。
更に、あおいのことをまったく失念した純にとっては、
これは初めての恋だった。
偽りのない本物の恋心だった。
沙織は、あおいの真実を知りたかった。
それは何に例えられようか。
よくある女の子同士の、擬似的な恋愛感情に似たものだったのかもしれない。
あおいが、別の男と付き合っていた。
この事実が沙織を驚かせたのは確かであった。
しかし、それは嫉妬とか裏切りとかそういう類のものではなかった。
実際に、沙織も前島とつきあっていた。
つまり、男女の愛とは別の女の子同士のそれに似た結びつきがあった。
それが、あおいの真実を探求させた。
そしてつきとめた相手が純であった。
でも、純にはあおいとの思い出は記憶されていなかった。
沙織とあおいとの擬似的な恋愛感情は、
それが純とあおいとの関係が真実だったのか、
そしてあおいは幸福だったのかという探求に転化した。
その情熱は恋愛と似ていた。
その情熱をもって沙織は純に交際をほのめかした。
その倒錯した恋愛感情は、そのまま純に受け入れられた。
こうして一方通行の、正確に言えば双方が立体交差をした形の恋愛感情が
交わったのである。
沙織はあおいと純との思い出が垣間見える度に、
例えばあおいから聞いてた二人で行った映画館に自分たちも訪れることで、
その気持ちを高揚させていた。
一方、純は二人で映画を観に行って、そこで高揚した沙織を見て、
恋愛感情を高揚させていた。
この二人の感情の乖離は、決して二人を引き離すことはなかった。
寧ろ次第に高まって行く気持ちに、二人はもっともっと高揚感を求めたのである。
第30章 純とあおい
その時、自分がどこに向かって歩いているのかわからなかった。
昨日ベッドにもぐりこんで・・そして・・。
気がつくと自分はここにいた。
ここがどこか一瞬わからなかったけど、
それがすぐにあの場所であることがわかった。
そう、ここはおあいに初めて遭った場所。
あの和菓子屋へ至る道である。
あ、またあおいに会える。
そう思った途端に胸の中心から熱いものが込み上げて来た。
「あおい、びっくりするかなあ。いきなり来ちゃって。」
そして、一歩、歩みを進めた途端、その思いは粉砕された。
あおい・・死んじゃったんじゃないか。
僕は呆然と立ち竦んだ。
え・・あおいが死んだ?
いつ?
記憶が散乱した。
お通夜いつだっけ?
お墓はどこ?
最後にいつ会った?
動悸がして、息切れがして、立っていられなくなった。
その場に腰を下ろすと、しばらく記憶を整理し始めた。
勝手に涙が出て来た。
頭の中に蘇るのは、あおいとの日々の出来事だけだった。
母が亡くなって、その落ち込んだ僕を支えてくれたのは、あおいだった。
あおいがいて、その時の自分がいた。
あおいの笑顔が自分の全てだった。
「純、最近明るくなったな。」
「そう?」
「ほらほら、もう笑ってるだろ。」
「そうかな。」
「そうだとも、以前ならそんなこと言ったら自殺しそうなくらい暗かっただろ。」
そうやって父が僕をからかってた。
でもそんな僕を見て、父も母の死を段々乗り越えて行ったように見えた。
全てがあおいのおかげだった。
「ゆうべ、玄関の外でずっと立ってたろう。」
「え?」
「えじゃないよ。誰だよ。」
父さんがにやついて話している。と言うことはあおいを見られたっていうことだ。
「今度は上がってもらえよ。」
「ああ・・。」
「・・・なんかいい感じの子だったなあ。
「え・・ああ・・そうなんだよ。きっと父さんも気に入るよ。」
父さんと僕の会話は、いつもあおいのことを話していたような気がする。
「純ってかりんとう好きだよね。」
「う・うん。」
「私、かりんとうって好きじゃなかったんだ。」
「え・・和菓子屋でバイトしてて?」
「和菓子屋でバイトしてても、好きじゃない和菓子もあるよ。」
「そうなんだ。」
「でもね。」
「でも?」
「今はすっごく好き。」
「どうして?」
「だって、純とのキューピットでしょ?」
「ああ・・。」
「でも食べれない。見てるだけ。」
「やっぱりダメなんじゃん。」
「うん。でも好きなの。食べたらなんか純との関係が壊れちゃいそうで、
だからずっと飾ってるの。それを見てるのが好きなの。かりんとうを見てると、純があのお店に
これを買いに来てくれた時のことを思い出すの。そうすると、またあのお店に行って働く元気が出るの。」
初めてあおいがうちに来た日。
それは、父さんが是非夕食に招待しなさいということから始まった。
もし、僕があおいの立場だったら、いきなりは緊張するとか、
最初は軽く外の喫茶店で会うとか、そんなシチュエーションを希望したと思う。
けれどあおいは、何一つ嫌な、また不安な顔をせず、僕の家に来た。
僕が出迎えると、あおいは花束を抱えて玄関に立っていた。
男が薔薇の花束を抱えて彼女のマンションにというのは格好いいけど、
女が男にっていうのは、ちょっと意外な感じだった。
リビングで今か今かと待っていた父がドアフォンの音を聞くなり、
やっとテーブルについた。
あおいを父さんのところに連れて行き、父さんに会わせると、
あおいはその花束を父さんに渡した。
一瞬あっけにとられた僕。
「ありがとう。」
おいおい、父さんもなんかずれてるよ。
「私がやります。」
ところがそう言って、リビングにあった母の写真の横の花瓶にその花を挿し、
中の水を確認してそれを流しに持って行くと、そこに蛇口から水を注ぐと、
再びそれを元の場所に戻した。
僕は前にリビングに母の写真があって、母の好きだった花を
その写真の横の花瓶に挿しているということを、あおいに話したことを思い出した。
「今日は本当にお邪魔してしまって。」
「いいんですよ。こちらから誘ってことですから。」
「でも、是非お母様の写真を拝見したくて、それでお言葉に甘えて来ちゃいました。」
途中まではしっかりした挨拶が出来るのに、最後の詰めがいつも甘い。
でもそれが彼女の魅力だし、いつも本音で物を言ってるというという証でもある。
「あおいさんは・・あ、よく純があおいさんと名前で言うから、おあいさんが癖になってしまって・・。」
「あおいで結構です。」
「あおいさんは、妻の入院していた病院の傍の和菓子屋さんで働いているんですか?」
「はい。いつも純君にはかりんとうを買って頂いてました。」
「ああ。あのかりんとうか。」
無口な父が今夜はやけに饒舌だ。
「はい。お母様がお好きだったとか。」
「うん。そうだね。あ、私も好きだよ。」
「お父様も?」
「うん。かりんとうは美味しいからね。」
「え、父さん好きだったの?」
「ああ、いつも食べ損ねてたがね。」
「それ、初耳だなあ。」
僕も笑顔になっていた。横にあおいがいると僕はいつも笑顔になれる。
そのあおいも笑顔になってる。
そして父も笑顔になってる。
母が亡くなって以来、この家でこんなに笑顔があふれたのは今日が初めて。
「実はね。かりんとうが好きなのは、母さんじゃなくて、父さんだったんだよ。」
「え・・。」
「実は、まだ二人がつきあってる時、デートの散策コースがあってね。」
「それってどちらですか?」
「うん。湯島天満宮のあたりなんだど、不忍池とか、よく母さんと散策をしたんだよ。」
「それって初耳。」
「その途中にやっぱり和菓子屋さんがあってね。そこでよく父さんがかりんとうを買っていたんだ。」
「へえ。」
「散歩をしながら、よく食べてた。それを母さんが覚えていたんだよ。」
「そうなんだ。」
「父さんが病院に純と落ち合って帰ってたげど、その時に母さんが父さんに食べて
もらおうと思って、買って来てもらってたんだよ。」
「なんだ。そうだったのか。僕知らないから、残しちゃいけないと思って、
いつも全部無理して食べてたよ。」
「ははは。聞いたよ、母さんから。」
もう母の死を乗り越えられたと思った。
父もそして俺も・・・・・。
こうやってあおいがいてくれれば、全てが上手く行く、そう思った。
第31章 あおいの喪失
つながれた手が離れた。
それは寧ろ自然だった。
強引に引き離されたのではなく、二人の手は何の感触もなく離れた。
僕の左に並んでいたあおい、そのあおいが僕の歩みに遅れた。
事態はそんな感じだった。
その後、車が道路を大きくずれて隣家の塀にぶつかった。
車が塀にぶつかって止まった。
中から男が出て来た。
それは前島だった。
自分の後方を振り返ると、そこにあおいが横たわっていた。
続いて運転席側から女がよろよろとこちらに歩いて来ていた。
それは沙織だった。
僕は彼らの顔を見て、彼らの方に歩きだし、
その瞬間、きびすを返して、あおいの方に走った。
あおい無造作にそこに置かれていた。
何者かに運ばれて、そこに放りだされたように、ただそこにあった。
彼らが少し離れてそこに立ち止まった。
その気配を感じた。
しばらくして、近くの民家の人がパラパラと表に出て来た。
「救急車呼びました!」
どこかで声がした。
あおいがボロ雑巾に見えた自分が怖ろしかった。
あおいを愛した自分と、ゴミに思った自分が共存していた。
それはどちらも正直な自分だった。
けれど、どちらも他方を排斥しようと必死だった。
そして、どちらかが勝ち残るというよりも、
その二つで一つの自分が乖離することで、自分の人格にひびの入る音が聞こえた。
二つで一つ。いや、もともとそれは自分の中で一緒のものだったのかもしれない。
表と裏。
そのようなものとして、僕はあおいをそう見ていたのかもしれない。
そう思った時に自分で自分を否定したくなった。
自己否定は自分が自分であることをやめさせることに邁進した。
それは単純に自分の記憶を消すことだった。
救急車のサイレンの音が聞こえ始めた時に、
同時にその音が遠くに遠ざかって行く感じがした。
あおいを愛していた僕が、同時にあおいと自分を失った。
第32章 復活
「前島くん。」
「遂に記憶が戻ったんだね。その目を見ればわかるよ。」
「そうか、じゃあ話が早いな。」
「屋上に行かないか。」
「ああ。」
小町は記憶が戻ってから、あおいとの日々の記憶に埋没していた。
そしてそれがあおいの死で終焉すると、次にあおいを死に至らしめた二人のことが頭の中に
どんどん膨れ上がった。
そしていま大学で前島の姿を見つけて、そしてあおいの死の責任を追及しようとしたのである。
「運転してたのは、俺さ。だから沙織には関係はない。」
「見たよ。運転席から降りて来るのを。」
「・・・。」
屋上へのドアは鍵が掛けられていた。
前島がバッグからキーケースを取り出し、その中の一つを使うと、
そのドアは簡単に開いた。
「用意周到だな。」
屋上は見晴らしが良かった。遥か遠くの山々まで見渡せる。
天気が良い時には富士山まで見えると誰かが言っていた。
「それでどこまで記憶が戻ったんだい?」
「全部だよ。」
「そうか、全部か・・。」
「ああ。」
「でも、あおいがはねられて・・その後のことは俺の知らないこともある。」
「それを聞かせおろと?」
「ああ。」
前島が何か言いたそうだったが、それを呑み込むと、転落防止の金網を背にして、
ゆっくりと語りだした。
「あの日、オーデションの結果が発表された日だった。
もうずっと前から目標にしていた沙織のフランス行きを掛けた大事なオーデションだった。
沙織はそのために昼夜を問わず練習をしていてね。でもだめだった。
他のやつに持って行かれたんだ。
それで機嫌が悪くてね。俺とは高校一年生からつきあっていたんだけど、
俺との付き合いもそのオーデションのために完全に犠牲にしていた。
音楽にプラスになるのも恋愛だけど、マイナスになるのも恋愛だろ?」
爽やかな風が一瞬頬をなでた。
「まだ十八のガキだったから、車の中でどうでもいいことで喧嘩になっちゃってさ。
・・・・俺の携帯が鳴ったんだよ。そうしたら沙織が女から掛って来たとかなんとか始まっちゃって。俺からほっぽらかしにされた間、他の女の子とデートをしているのを黙認してたからね。それで携帯を貸せって、運転中にね。」
「それでなのか。」
「それだけじゃないよ。」
「え?」
「沙織が前方に人がって叫んだんだよ。」
「僕たちか?」
「ああ・・でも、その時ブレーキなり、ハンドルを回せば、
君たちを・・・いや、あおいさんをはねることはなかった。」
「じゃあどうして?」
「小町君・・君だよ。」
「え?」
「君を見て、沙織は固まってしまった。」
「僕を?」
「ああ、君だよ。正確には、君とあおいさんだけどね。」
「どういうことだよ。」
「そのオーデションでフランス行きになったのは君だよ。」
「あ・・。」
「あんなに努力してもだめだった賞を、女と遊んでいる君が簡単に奪ったんだよ。」
「簡単じゃないさ。」
「沙織は全てを禁じてそれに掛けていたんだ。」
「・・・。」
「固まった沙織はそのままブレーキもかけられず、ハンドルも切れず、
そのまま君たちに突っ込んで行ったよ。」
「・・・。」
「不可抗力だよ。それに避けるって言ったって、免許も取り立てだったしね。そんなテクニックもないし。」
「そうか。そういうことだったのか。」
「でもびっくりした。はねた女性の顔を見ると、あおいさんだった。」
「・・・。」
「彼女はパニックになってた。小町君、君もだよ。何を語りかけても返事は勿論のこと、
こちらを見ることもなかった。」
「・・・。」
「俺だよ。沙織の手を引いて逃げようって。だから俺が悪い。俺の責任だ。」
「そっか。」
「それ以来、彼女はギターは弾かない。もう一生弾かないだろうなあ。」
「彼女は・・沙織さんはこのことをどう思ってるんだ?」
「沙織?・・自分の一番の親友を自分が轢き殺してしまったんだよ。」
「よく耐えられるな。」
「耐えてなんかいないよ。沙織はそのことで記憶が欠落している。」
「え?」
「小町君ほどではなかったけど、記憶が消えてるんだよ。」
「え・・。」
「あおいさんをはねたのは、どっかの酔っ払いだと信じてる。
つまり全てを知ってたのは俺だけということかな。」
「今も?」
「今もさ。」
「そっか。」
「だから、彼女は自首はしない。俺が責任を取る。」
「しかし、君は何も罪を犯してないじゃないか。」
「じゃあ小町君、君が罪を被るかい?」
そこで前島は来た道を戻って下の階へと降りて行った。
犯人は沙織ということはわかっていた。
でも今の話を聞いて、僕には彼女を警察に突きだせるのだろうか。
第33章 もうひとつの復活
記憶を消失させる鍵はひとつの場合もあれば、
いくつかの原因が重なって形成していることもある。
私の記憶は先生はオーデションに落選したこととおっしゃっていた。
他人が聞けば、たったそれだけのこと?って言うかもしれないけど、
わたしにとっては当時はそれに、人生の全てを賭けていた。
それがだめだった。
それは計り知れない犠牲の上に成り立った努力が無意味になったのだから、
とてつもない失望だった。
まだ高校生だったということもあるかもしれない。
今ならあそこまでボロボロになることはなかったかもしれない。
ある時、テレビで有名な音楽家が一日八時間練習をしていると言っていたのを視て、
わたしは一日十時間練習をした。
それを前島君も一生懸命励ましてくれた。
それがある時、無名の新人が一日十六時間練習をしているというドキュメンタリーを視て、
わたしは十七時間を練習に費やした。
もう身も心もボロボロになった。
最初は応援してくれた前島君も私を避けるようになった。
それでもわたしはこのオーデションにさえ通ればと思って耐えた。
やがて彼が別の女の子と親しくデートをしているところを見かけるようになった。
それでもわたしはこのオーデションにさえ受かればまた元の二人に戻れると思った。
わたしが家で神経質になってると、それが元で両親も喧嘩をするようになった。
あそこまでしなければいけないのか。あそこまでする意味はなんだとか。。
そして、それは才能がないからだとなって、才能がないのはお前が才能がないから、
あんな娘が生まれたんだと言い争うことに発展した。
練習中も眠気でよく音を外した。先生にはそれが練習不足だと叱責された。
君は自分に才能があることで馬鹿にして練習をしていないと言われた。
違うんです。私には才能なんてないんです。
ちょっとお金持ちの家に生まれて、なにか習い事をさせられて、
ピアノではどこぞの家と同じだからとそれに加えてギターも習わされて、
それでも一生懸命に練習しても、練習すればするほど、
わたしはわたしの周りの人間をみんな不幸にして行った。
そしてわたし自身も不幸にした。
そして結果、小町君のような才能がある人にはどう努力しても叶わないということを
知らされました。
小町君と会って、私は音楽に対する姿勢や人を好きになることを初めて学んだように感じたのです。
小町君とは偶然、とある練習スタジオで一緒になりました。
わたしは家でも先生のところでも練習にならなくなり、ひとりで最後の仕上げをしたかったので、個人練習ということで初めてレンタルのスタジオにひとりで入ったのです。
そこの待合室に小町君がいました。
同じようにギターを抱えていたので、ギターをやってるんだとはわかりましたが、
その時はそれだけでした。
わたしは二時間の練習を終えて自分の部屋を出ようとした時に、
隣の部屋で弾いている小町君の姿がちらっと見えたのです。
その時の彼の表情・・・。
言葉では言い表わせませんでした。
わたしはハッと息をのんで、その場にたちすくんでしまいました。
ギターの音こそ聴こえませんでしたが、ギターを優雅に弾く姿が、
まるで聴こえない音をわたしの心に直接浴びせるようなイメージを植え付けました。
そしてその音はこの世では聴くことの出来ない、いわば神が奏でる音のように思えたのです。
わたしは意識がなく、その部屋の扉を開けていました。
その瞬間、わたしは天国の宴の中にいたのです。
わたしはそれからそのスタジオで彼と二人で練習をすることになりました。
オーデションは目の前でしたが、焦ることなく、心の平静を保ちながら、更に言えば音に祝福されながら練習に励むことが出来たのです。
そして、彼が、私と同じフランス行きをかけたオーデションを受けると
聞いた時も、特にびっくりはしませんでした。
そして優勝者も当然彼に間違いないと確信していたのです。
わたしはその次の年に優勝して、彼をフランスに追いかければいいと思っていたからです。
ですから、本当に彼との練習の日々は充実していました。
わたしのあの時間がずっと永遠に続けばいいと本当にそう思っていました。
オーデションではわたしはベストで弾けました。
小町君も手を叩いて賞賛してくれました。
わたしもとっても満足しました。
私がこんなに弾けるなんてと私自身びっくりしたほどでした。
これなら来年は絶対わたしが優勝できると確信もしました。
そして小町君の演奏。
もう言葉では言い尽くせません。
わたしは神の演奏に思えました。
彼は別格というよりも、彼の前にも彼は存在せず、彼の後にも彼は存在しないという、
まさに「彼」という存在がそこにあるのでした。
もう結果を待たずして彼の優勝はわかっていました。
わたしも感動すると同時に彼のことをとても喜びました。
今日は前祝いねと彼を両親と良く行ったレストランに誘いました。
確かに前島君のことを忘れていたわけではなかったけれど、
もうわたしには小町君しか見えなかったのです。
わたしはそこで、生まれて初めて男の人に告白をしたのです。
わたしは小町君を慕っていると。
これからもずっと一緒にいたいと。
あなたがフランスに留学するのなら、わたしもフランスに行って、
傍で練習をしたいと。
最初は笑っていた小町君が、次第に苦笑に変わり、
そしてそのうちに困ったという表情になりました。
だめ?
どうして?
彼はそれには答えてくれなかったのです。
わたしは彼がわたしを拒絶する理由を知りたくなったのです。
そしてその日は突然訪れました。
それは、久しぶりに彼の姿を見た、オーデション結果の発表の日でした。
彼がある女の子と、とても楽しげに歩いているのを見かけたのです。
わたしは状況からいっても、二人を避けることは出来なかったかもしれなかった。
でも、避ける気はありませんでした。
憎かったのは小町君ではありません。
その隣に当然というような雰囲気で寄り添っていたその女です。
わたしの運転する車はみごとに彼女をはねました。
わたしは結果を確認するように車から降りてその女の顔を見たのです。
でも、それは、わたしの一番大切な友達のあおいでした。
第34章 最後の復活
前島が立ち去って俺も戻ろうかと思った時に、
そこに沙織が現れた。
「戻ったのね。お帰り。」
「前島君に聞いたの?」
「ううん。なんとなくわかった。」
「そっか。」
僕は何故か微笑んでいた。
それは何かを懐かしむような感覚があった。
沙織が俺の周りをゆっくり周っている。
「完全に戻ったの?」
「うん。完全に。」
「そうかなあ。」
「え?」
「じゃあ、あのことも思い出した?」
「あのこと?」
「そう。あのこと。」
僕はそれが何のことかわからなかった。
沙織がいい加減なことを言って、僕をからかってるのかと思った。
「小町君、一度戻ったじゃない。その時のこと。」
「え?」
「やっぱりあのことは忘れちゃってるんだ。永久に。」
僕にはそのことは思い出せなかった。
これって沙織のはったりじゃないのか?
「じゃあ教えてあげるね。話を聞いて思い出せるかもね。」
「記憶って、いきなりなくなったり、いきなり戻ったりするのね。
なんかいい加減というか、勝ってというか・・。
でもそれって本当はちゃんとした理由があるんでしょ?
そんなのはどうでもいいことかもしれないけど。」
「うん。」
「小町君が戻ったのは、あおいが亡くなって・・・。
ごめん・・。わたしが殺したのよね。
あおいのお葬式があって・・。
それからどれくらい経ってからだったかなあ。
わたし、小町君に手紙を書いたの。
あなたに会って、色々と話をしたかったんだけど、
どうやっても会うことが出来なかったから、
お父さんに手紙を渡して、あなたに渡して欲しいって言って。」
「え・・沙織、記憶が戻ったの?」
「そうよ。だからここに来たのよ。」
沙織の記憶が戻っていた・・。
「あ、ごめん、手紙がどうしたって?」
「うん。手紙をあなたに書いたの。そうしたらしばらくして、あなたがわたしに会いに来たの。」
「僕が沙織に会いに?」
「ええ。あなたは隠れ家から出て来たの。わたしに会いに。」
「記憶は?」
「ばっちり戻ってたよ。」
「そうなんだ。」
「その時のこと・・。覚えてないのね。」
沙織が僕の傍を離れて、転落防止の金網から外を見始めた。
「そっか。忘れちゃったんだ。」
「・・・。」
「ちょっと言い辛いなあ。」
「無理して言わなくても・・。」
「ううん。はっきり言わなくていけないことだから。」
「うん。」
「わたしは手紙にこう書いたの。あおいを失ってどんなに悲しかったか。
そしてあなたをどれだけ愛していたかを。」
「・・。」
「詳しくは言えない。今だって思い出すと顔が熱くなるもの。」
「うん。」
「そしてあなたがわたしに会いに来て、その返事をくれたの。」
その日・・・、いきなり小町は沙織の前に姿を現した。
記憶障害も次第に良くなってきた頃でもあった。
それに沙織からの手紙が何かしら影響を及ぼしたのかもしれなかった。
「沙織、はっきり言うけど、僕には君を愛することはできない。」
「あおいはもういないのに?」
「もういないからこそだよ。」
「だって、あなたはあおいがいたからわたしとのことも精算したのでしょう?」
「精算だなんて。」
「だって、ふたりで練習していた頃のことを思い出して。」
「あれは単純にオーディションの練習でのことじゃない?」
「建前はそうでも、中身はそうじゃなかったよ。」
小町は言葉に詰まった。確かに沙織の言うことが正しかったかもしれないと、
そう思ったからである。
だから逃げた。自分にはあおいがいて、そのあおいを愛している。
だから沙織を愛することは出来ない。沙織を悲しませることは出来ない。
そして何よりあおいを悲しませることは絶対に出来ない。
そう思った。
だから沙織の前から去った。
「もうあおいはいないの・・。わたしが言える立場じゃないのはわかってる。
わかってるけど、どうしても伝えたかったの。」
「僕に沙織を愛せと言うの?僕が愛した人を殺した人を愛せと。」
「・・・。」
無理よね・・。
沙織の心の声が小町には聞こえた。
そもそも沙織は自分のその思いを小町にどうして欲しかったのであろうか。
それを小町は考えた。
そして小町はそれに気がついた。
それは、ただ使えたかっただけだと。
沙織が親友のあおいを自らの運転ではねて、そして死に至らしめたことも、
相当な心の負担になっていることは想像するまでもない。
そしてオーディションに落ちたこと。
前島君との関係がぎくしゃくしたこと。
そして親友の恋人であった僕を愛したこと。
それらがひとつに絡み合い、そしてその渦が加速して彼女の心を凄まじい勢いで、
かく乱していたことだろうと推測した。
その中で彼女が俺に手紙を書いたのは、それは述懐ということもあったろうが、
謝罪を伴って、合わせて俺に伝えたかったことは復縁・・
これも復縁とは言えるのかどうか微妙なところではあるけど、
結局は、そういうことではないだろうかと、そう思った。
では何故?
「わたしがどうして手紙なんか書いたかわからないんでしょう?」
「え?」
「わからないって、顔に書いてある。」
「い・・いや。」
「わたし、小町君のこと、ずっと見てるんだよ。あ・・今は見てたかな。
だから、小町君の表情とか全部わかるよ。」
「そっか・・。確かにどうしてかなって?」
「わたしがあなたのことを好きですってそう告白するため?」
「・・。」
「それもあったよ。」
「うん。」
「そして、あおいのことを謝りたかった。・・・あおいは、わたしの大事な親友でもあったけど、あなたにとってかけがえのない恋人だったんだもの。だから心から謝罪をしたかった。」
「うん。」
「うんって、許してくれるの?」
「え・・。」
「それから、わたし自首しようと思ってるの。」
「え・・ああ・・。」
「だから、わたし、小町君にお別れを言いたかったの。」
「・・・。」
「せめて一目会って、さよならって言いたかったの。」
「うん。」
「だから、今日は大満足。とても嬉しい。」
小町には沙織の目的がやっとわかった。
やっと彼女の心が理解出来て、それで安心した。
「自首するんだ。ついていかなくていいのかい?」
「無理しなくていいよ。それに迷惑もかけたくないし、そんなとこあなたと行きたくはない。」
小町は、その優しさから、沙織が憐れに思えて来た。
だから、自分がどうしても、もしかしたら沙織を好きだとしても、どうしても、沙織を
愛せないという理由を創作してしまった。
「聖書で僕の好きな言葉に、「あなたは、はじめの愛から離れた。」っていうのがある。」
「え?」
「はじめの愛・・それは、僕にとってはあおいへの、そしてあおいからの愛なんだよ。」
「うん。」
「それに・・。」
「それに?」
「あおいと僕とは、あおいの死をもって、その恋愛は成就したってことなんだ。」
「成就?」
「うん。よく死別、離別って言うけど、死別したら次の伴侶を持ってはいけない。」
「え?」
「井原西鶴だよ。西鶴の「諸国ばなし」。そこに、不義とは死に別れた後に、後夫を求めること
とあるだろ?」
「え・・。」
「つまり現世でのおれの恋愛は終わったんだよ。」
小町は、せめて自分が沙織を求めないのは、不可抗力である世のならわしだということを
伝えたかった。
それが沙織に伝わったかどうかはわからなかったが。
「ありがとう。小町君。」
沙織は自首を考えてはいなかった。
それを小町に悟られたと思った。
そう、沙織は自殺を考えていた。
沙織が自らの手であおいを自分から遠ざけてしまい、
そしていま小町からも拒絶されたのでは、沙織の自殺の大義名分を確立してしまうと、
そう小町が感づいたと思ったのである。
つまり、小町の読みも、沙織の読みも、二人ともはずれていたのである。
だから、沙織は小町の優しさに感謝した。
でもその優しさが余計沙織を苦しめた。
「もう行くね。」
「うん。」
何の解決の手ごたえもなかったが、小町にはそれしか言うことが出来なかった。
ただ小町はこのまま沙織が自首をしてくれれば、それで全てが解決するように思った。
沙織がそのまま下の階段に降りて行こうとしたので、小町もあわててその後を追った。
本当に自首するのかも気になったが、それよりも、もしかしたらこのままどこかへ
消えてしまうのではないかと思った。
すると急に沙織が小町の方に振り返り、そのまま飛びこむ格好で抱きついて来た。
そして、二人の体はひとつになり、そのまま転落防止の金網の方へと突き進んで行った。
それは衝動的だった、
でもその衝動は、沙織が最後に小町に抱きしめてもらいたかったのか、
それとも自分を単に受け止めて欲しかったのか、
それとも一緒に死んで欲しかったのかはわからなかった。
いずれにしろ、沙織は、転落防止の金網が頑強に出来ていて、
激しくそれに打ち付けられるだけだと思ったのかもしれなかった。
でも、それは意外にもろかった。
屋上へのドアの施錠がそれを補っていたのかもしれなかったが、
その金網はもろくも二人の体を支え切れなかった。
この展開に一番驚いたのは実は沙織だった。
沙織はいきなり抱きつかれて、驚いて小町に突き離された勢いで、屋上に残ることが出来た。
落ちたのは小町だった。小町だけだった。
落ちて行く小町と沙織はそこで最後の視線を交わした。
これは沙織の本意だったのか?
沙織は小町と一緒に死のうと思ったのだろうか?
だとすれば、一人残ってしまったことはどれほど沙織を苦しめることになったのだろうか。
しかも彼女は愛する人を二人も自らの手で殺してしまった。
そしてこれからはその十字架を背負って生きていかなければいけない。
自首をするのだろうか?
自首が出来るのだろうか?
それとも再び自殺を試みるのだろうか?
いや、果たしてさきほどの行為が自殺だったのだろうか?
あれが、自殺だったとしても、今度はひとりで死ぬことなどできるのだろうか?
けれど、今の彼女にはその心配はいらなかった。
彼女の足は自然に美術史の講義のある教室へと向かっていた。
そしてその教室へ入る頃には先ほどの時間が一切彼女の記憶から消し去られていたのである。
第36章 終
僕は音楽こそ夢が破れたけど、今は愛するあおいと一緒の日々に、
人生で最高の時を過ごしている。
講義が終わって、彼女のバイト先の和菓子屋さんへ一路向かうのは、
一時も彼女と離れていたくないからである。
それを仲間は何も言わず見送ってくれる。
仲間への挨拶も適当に、僕はそれから和菓子屋へ全速力で向かう。
和菓子屋の前に着くと、上がった呼吸を整えて、そして最高の笑顔であおいの前に
現れるんだ。
「よ!あおい。」
「純。」
「もう上がるんだよね。一緒に帰ろう。父さんも待ってるし。」
「うん。いま着替えて来るね。」
でも不思議なことに、
僕の意識はいつもみんなに別れをつげるところから始まる。
これは夢?
不思議な事に、この日常はいつも同じパターンで流れる。
そして必ずそこから始まる。
でも、あおいに会えるからいい。
あおいと会えるところでいつも終わるからこれでいいんだ。