08 第二章 瑠璃が知らない物語
【玖郎】
「――っ。ちょっと、玖ろっ、じゃなかった、小泉! その顔どうしたの!?」
その声は、ほとんど悲鳴だった。
クラス委員の霧島朝美が、僕の顔を見ると同時に上げた声だ。
ふむ。
僕の顔に何かついているのか――などと言うのは、あまりにも白々しいか。
今日は、飯尾山ハイキングコースで行われた〈試練〉――あの『最悪の状況』を切り抜けた、その翌日なのだ。
つまり、瑠璃の怒りに任せた平手打ちをされた、その翌朝だということだ。
そして、僕の左頬は――鏡を見た自分自身が声を上げそうになるほどに――青く腫れ上がってしまっているのだ。
僕の顔を見た母さんは、一瞬呆気に取られた後、大笑いしながら湿布を貼ってくれた。
朝の通学路で合流し、僕の顔を見た瑠璃は、言葉を失った後に大粒の涙をぽろぽろこぼしながら、それでも謝りませんっ、と言っていた。
つまり。
そんな状態の僕の顔を見て、委員長が悲鳴のような大声を出して驚いたとしても、無理はないと言えた。
正直に言えば、今でもじんじんと痛む程なのだ。
それはともかく。
さて、どう言い繕ったものか。
ご近所のあらゆる噂話に精通し、近頃はその鋭い思考に磨きがかかっている委員長を相手に、〈試練〉や魔法の存在などを隠しながら説明するとなると――。
「大丈夫なの!? どこかにぶつけたの!?」
駆け寄ってきて、こちらを痛ましげに心配してくれる委員長の表情は真剣そのものだ。
ふむ。
これは、適当な言葉で誤魔化したくないと感じさせる反応だな。
本気で僕のことを心配してくれているのが、その表情と声色から伝わってくる。素直に嬉しいし、正直に言えば照れ臭い。
「いや、これは――」
「私がやったの。私が、力一杯叩いちゃったから」
僕が言葉を選んでいたわずかな時間に、瑠璃がそう言葉を発していた。
それは、真実をそのまま告げるものだった。
「瑠璃が――?」
委員長はそう呟きながら、詰め寄っていた僕からゆっくりと一歩離れた。
委員長は、僕と瑠璃を一度ずつ見てから、言った。
「まさか小泉、瑠璃に変なことしようとしたんじゃないでしょうね?」
変なこと、か。
確かに。
目の前に現れた殺し屋を、瑠璃の魔法を利用して、殺してしまおうとしたのだ。
それは、間違いなく、十分すぎる程に変なことだろう。
「その通りだ」
「――玖郎くんはちょっと黙ってて下さい」
なぜか瑠璃に口を塞がれてしまった。
それ、少し痛いんだが。
「玖郎くんがしようとしたことは、絶対に許せないことだったけど――朝美ちゃんが、心配してるようなことじゃないよ」
瑠璃は、そう言った。
「……ふうん。説明してもらえる?」
納得いかないことを表情に出しながら、委員長は腕組みしてそう言った。
「ごめん。それは、できないの」
瑠璃の応えは、またしても真正直なものだった。
その言葉で委員長が引き下がるとは、とても思えないが――。
「……。そっか。うん、わかった」
そう言って、委員長は自分の席に着いてしまった。
その言葉とは裏腹に、委員長が一つも得心などしていないことは明らかだ。
しかし、タイミング悪く、担任の金谷薫子先生が、教室に入ってきて始業を告げた。
どうも、このやりとりでは終わりそうにない予感がする。
そして。
数時間後。
その日の全ての授業が終わり、帰宅時間が告げられるとほぼ同時に――。
「瑠璃。ちょっと良い?」
普段から数段低い声で、霧島朝美は瑠璃に声をかけた。
やはり、か。
「……何?」
返事をする瑠璃の声にも、静かな警戒がにじんだ。
無理もない。
委員長の様子は、見るからに何らかの決意を秘めた――言うなれば、戦闘体勢だったのだ。
「この後、少し話がしたいの。小泉抜きで。女同士の、大事な話」
瑠璃が、僕に視線を向けた。どうすべきか判断に迷っているという、気弱そうな視線だ。
親友である委員長の反応に、瑠璃も戸惑っているということだ。
「小泉。悪いんだけど、今日は一人で帰って。瑠璃と、図書室裏のベンチで、大事な話をしたいんだ」
瑠璃の反応を見て、委員長が僕へと言葉を投げ掛けた。
それに対する、僕の応えは――。
――僕の思考が、委員長の意図を展開する。複数の可能性に枝葉をつけて、それを根にしてさらに無数の未来を予想する。それぞれに対して、瑠璃に発生するメリットとデメリット、委員長の意思と気持ち、僕自身が果たすべき役割を演算する。複数の評価軸に全事象を散布させた超次元空間で最適にすべき評価式は――。
いや。
やめよう。
僕は、一瞬で音も光も置き去りにするような自分自身の思考を強制的に遮断した。
思考も、想定も、確かに一定の価値はある。
だが、この場合。
僕が返すべき答えは、もっとシンプルなもので十分だ。
「瑠璃はどうしたい?」
僕のその言葉に。
瑠璃は、一つ頷いて見せた。
「今日は別行動にしましょう。大丈夫です。明日の朝、いつも通りに会いましょう」
その言葉を聞いて。
「分かった。また明日」
僕は、了解の意を伝えて、瑠璃と委員長を残して教室を後にした。
おそらく。
瑠璃がこれから直面する困難は――。
加速した思考の慣性が、今後の展開に思いを馳せようとする。それを、僕は再度、意思の力で踏みとどめる。
瑠璃が大丈夫だと言ったのだ。
ここは、彼女に任せる。
そして、僕は――。
ああ、そうだな。
「……よし、今日にしよう」
誰ともなくそう呟いた。
いつかやるべきと思い付いていて――あの『最悪の状況』を回避するための思考に優先順位を奪われたまま、後回しにしていたことがある。
それに、今日決着をつけよう。
僕は、家路を急いだ。
帰宅すると、母さんはリビングでいつものようにパソコンに向かっていた。
いつもより一台多い三台のディスプレイが、二台のパソコンと一台のサーバマシンの処理内容を文字列にして、高速に流している。その脇では、さらに二台のノートパソコンが起動されていた。
同心円上に配置された三台のキーボードの上を母さんの指が間断なく走り回っている。
珍しいな、今日の仕事は本気モードか。
こう言う時は、僕が帰宅しようが話し掛けようが無反応だということが経験的に分かっている。
僕は極力音を立てないように、洗面所で手洗いとうがいを済ませると、リビングのテーブルで明日提出の宿題に手をつけ始めた。
「――はぁ。ダメか」
やがて、母さんがため息とともにそう呟いたのは、僕の宿題が完了したのとほぼ同時だった。
僕にとって、その内容はなかなかに衝撃的だった。この世界全部を一人で敵に回せるような『悪い魔女』――最凶のハッカーである小泉琴子が、ダメだなどと。
「……一体何と戦ってるんだよ?」
その声に、ようやく僕の存在に気づいたと言うような反応で、母さんは平和そうに僕に微笑んだ。
「あ、玖郎おかえり。んー、ちょっと待ってて。今、お茶を入れるわ」
ふむ。
コーヒーではなく、お茶を淹れると言うことは、今日の仕事は終わりか。
「今日は瑠璃ちゃんと一緒じゃないのね。頬は痛くないの?」
母さんは、僕の正面の椅子に掛けながらそう言った。僕と自分の前に、湯気を立てた紅茶が置かれた。
「まだ少しだけ痛むけど、大分引いてきている。瑠璃と別行動なのは――別にケンカをしているからではなくて、たまたまだ」
「ふふふっ。分かってるわよ」
む。笑われてしまった。
確かに、余計なことを言ってしまったか。
「さて。『何と戦ってるんだ』だっけ? さっきの質問」
「ん? 珍しいな。答えてくれるのか。いつもは守秘義務だとか言って秘密にするくせに」
「今日の本気は、仕事じゃなくて趣味だったからね」
趣味?
僕の思考が、その言葉の意味を考え始めるより早く――。
「――フラッタース王国。思った以上にヤバいわよ」
――っ。
僕は、その言葉に息を呑んだ。
いや待て。
そもそも母さんの前では、僕も瑠璃もフラッタース王国のフの字も出していないはずだ。
それは、瑠璃の故郷である、この世界とは違う世界――魔法の存在する世界である『地平世界』の名前だ。
日本と深い交流があるとされている、小さな王国の、瑠璃を含む王位継承試験の関係者の――留学生達の故国とされている国の名称である。
それを敵に回していた? しかも、趣味で? それはつまり、僕のためだと言うことか?
それにしても、本気を出した母さんに『ダメだ』と言わせるだなんて――。
「フラッタース王国という国は、この地球上のどこにも存在しないくせに、確かに存在し実在している」
母さんは、紅茶に静かに口をつけてから、そう言った。
「実在していることは間違いないのに、たどり着けないのよ。信じられる? フラッタース王国の日本大使館のホームページすら存在しているのに、その先に入っていけない。繋がっているはずなのに、断絶しているのよ」
「それは――」
僕は、うまく言葉を返せなかった。
母さん言う『繋がっているはずなのに断絶している』理由には、心当たりがある。
魔法だ。
それが、情報と通信を自在に操る地球世界の魔女ですら弾き返す、未知の通信プロトコルになってしまっているのだ。
地平世界と地球世界は、〈開門〉の魔法を介して繋がっている。その法を知らない母さんがアクセスできないとしても無理はない。むしろ、当然ですらある。
「そんな訳で、『私の魔法』は向こう側には届かない。文字通り魔法のように協力な壁の向こうにいるのか、それとも別世界なのか」
知っていてか知らずにか、母さんの言葉は真実を言い当てている。
なにしろ、フラッタース王国は、文字通り魔法の壁の向こうの別世界にあるのだから。
「それで、ここからが本題ね」
母さんは、まっすぐに僕の目を見て言った。
「そんな相手を敵に回して――あなたは、どうやって戦うつもりなの? どうやって勝つつもりなの?」
は。
はは。思わず笑ってしまう。
本当にこの人は――あらゆる物事を把握しているとでも言うのだろうか。
これが、勢いだけでそれらしいことを喋っているだけだとしたら、笑うに笑えない悪い冗談だ。
本当に。
まったく。
全部、お見通しか。
正直に言えば。
僕は――『その答え』をまだ持っていない。
まだ、持っていないのだ。
「――これから、少しだけ出かけてくる。いつもよりは早く帰れると思う」
〈試練〉や〈仕事〉で駆け回ることもなく、魔法の特訓のために遠出する予定もない。
今日やろうと決意した例の予定も――恐らくそれほど時間はかからないだろう。
「そう」
母さんは、僕からの応えがないことに特段の反応を返さなかった。それすら予想通りなのだろうか。
「気を付けていってらっしゃい。しっかりね」
そう言って、母さんは僕の背中をばんと叩いた。
母さん流のおまじない。
僕がしっかりと進めるように、そして、母さんが僕を信じて送り出すためのおまじないだ。
本当に――。
この人には敵わないな。
さあ。
気持ちを切り替えていこう。
上手く行けば、『その答え』に至る何かを、つかめるかもしれない。