07
バンと、破裂音が響いた。
その音は、聞き覚えのある音量と周波数の組み合わせだった。
以前にその音を聞いた時――事前の動作試験の時と同様に、爆発の反作用が僕の腕を持ち上げる。
火薬の爆発により瞬間的に運動エネルギーを与えられた無数の金属片が、懐中電灯が照らすはずの前方へと射出される。
容赦なく。
男の皮膚を貫き、筋肉を傷つける。
骨を砕くには弱い。
ましてや、殺すには到底及ばない。
偶然の助けを得て、重要な血管か神経を傷つけない限り、これで命を失うことはないだろう。
それでも、無防備な生身の人間の体を傷つけるには十分だ。
顔に向ければ視力を奪い、殺戮の継続を不可能な状況にすることは可能なのだ。
これは、そのためのもの――自作の『散弾銃』なのだ。
次に響いた音は、男の怒号のような悲鳴だった。
「がああああああっ! 痛ってえええっ! お、俺の顔、目が、てめえ、このクソガキっ! ぶっ殺してやる! あああぁぁぁあああっ!」
激痛に、山道をのたうちまわる男。
大声で叫びを上げながら、顔面を抑えた男の両手は、既に鮮血に染まっている。
これを、僕が、やった。
想像していたより遥かに大きな衝撃が、僕の意思と意識を襲った。
自分に向けて拳銃の引き金が引かれた瞬間など、比較にならないほどの絶望感だった。
突然足元に巨大な穴が口をあけたような、視界が一切の光を失ったような、信じて立脚していたあらゆる知識が瓦解して意味不明なノイズに成り果てるような――。
――いや、まだだっ!
僕は、意思の力で胸中で叫びを上げた。
取り返しがつかないレベルで人を傷つけた事実が、僕の思考を奪い去ろうと押し寄せる。
だが、まだだ。
ここで、止まるわけにはいかない。
まだ状況は続いている。
男を見ろ。
こいつは殺し屋だ。
こうしなければ、容赦も躊躇も後悔もなく、僕の命を奪う。僕達の命を奪う。――瑠璃の命を奪う。
それは許容できない。
これまで何人の命を奪ったのかは知らないが、自分の痛みだけはちゃんと認識し、痛みを主張するような――そんな自分勝手で最低な存在だ。
傷ついて――死んで当然の――。
「っ……玖郎、くん――!」
瑠璃のかすれた声が僕の耳に届いた。
止まっていた時間が動き出す。
そうだ。
まだ終わっていないのだ。
ここまでだって想定の範囲を逸脱していない。
最後までやれる。
行ける。
瑠璃を――守れる。
守る。
今も、未来もだ。
僕は、大袈裟に地面を転げ回る男の動きに注意しながら、三歩目を踏み出した。
全身に神経を張り巡らせるように体を動かし、男が取り落とした拳銃を拾った。
重い。
この質量感覚は――金属の比重が予想より高いのか――僕の心が、重く認識させているのか。
だめだ。
集中しろ。
想定通りに――。
続けるんだ。
僕は、あらゆる水分が失われたように感じる喉から、声を絞り出した。
「瑠璃。弁明も説明も後だ。あと一手残っている。瑠璃の力が必要だ。指示を出すから、とりあえず氷結の〈操作〉を解除だ」
背後で瑠璃が息を飲む。
彼女にも分かるはずだ。
僕が取った手段は、決して褒めらるものではない乱暴なものだ。
それでも。
これ以外の選択肢を、状況が許さなかった。
必然だったのだ。
僕は言った。
あと一手必要だ、と。
次の指示を出すから、と。
そう言えば、瑠璃は思うはずだ。
これから、平和的な解決に向かうはずだ、と。
瑠璃なら、僕を信じてそう考えてくれる。その結論に飛び付いてしまうはずだ。
だが。
違う。
そんな道は、この最悪の状況が始まった瞬間から存在していない。
ここで、禍根を残す訳にはいかない。
未来の脅威を残した解決など許容できない。
だから――。
僕は、拾い上げた拳銃を握り、一振りした。
目で見て確認する余裕はないが、瑠璃の〈操作〉を解かれ、拳銃の中で氷から水へと変化したミネラルウォーターが、慣性の法則に従って銃口から飛び出したはずだ。
さあ。
――最終段階だ。
うるさい。
なんだこの音は――ああ、僕の鼓動の音か。
何を、今さら。
その程度で、止まってたまるか。
足が震える。
黙っていろ。
指先も震えている。
お前も黙っていろ。
意思の力で、それを押さえ込み、制御する。
重すぎる拳銃を両手で構え、まっすぐに男に向ける。
向けろ。
――向けた。
さあ。
一瞬でもためらえば、僕自身の心が、思考を裏切って足を止めてしまう可能性がある。
そうだな、認めよう。
思考なんて知らない。
想定なんて知ったことか。
そう叫びを上げて、僕の心が、一瞬先の未来を全力で否定している。
それでも。
それを認めた上で、なお。
止まるわけには、いかない。
心の声を黙殺しろ。
思考すらもはや雑音だ。
必要なのは。
引き金を引く。
それだけ。
だから――。
この瞬間だけは。
思考も。
感情も。
全部なしだ。
ただ、頭をからっぽにして――。
引き金に、力を――。
確実に、命を奪うには。
胸部に二発。
頭に一発。
さあ。
引き金を――。
僕は――。
震えるように微かに動いた僕の人差し指に弾かれ――。
引き金が――。
引かれた。
そして。
銃声が――。
――響かなかった。
発砲音も、銃撃の反動もなかった。
銃弾は発射されなかった。
僕は、男を、殺さなかった。
――思考を取り戻すのに、二秒もの永遠に等しい時間を消費してしまった。
浪費してしまった。
「瑠璃――」
僕は、声だけで、僕の守りたい人に――僕の大切な人に声をかけた。
そう。
引き金は間違いなく引かれた。
しかし、銃弾は発射されなかった。
なぜか。
答えはシンプルだ。
その現象は、立場こそ逆ではあるが、先程この目で見てさえいる。
瑠璃の〈操作〉による氷結が、解除されずにそこにあったのだ。
〈保護魔法〉――この世界のあらゆる人間を魔法から守るための魔法――が創り出した均衡状態。
〈保護魔法〉が作用し、僕と男とを魔法から守った結果として、銃弾は放たれることがなかったのだ。
「何をしている。〈操作〉を解除し――」
僕は、最後まで言葉を続けられなかった。
ばしゃり、と。
僕の顔面に冷たい水が直撃し、中断させたのだ。
これも、瑠璃の〈操作〉だ。
何をやっているんだ。
「瑠――」
さすがに、僕は、瑠璃の方を振り返り――。
ばちん、と。
瑠璃が、僕の頬を平手打ちした。
「何をしている? それは、こっちのセリフです!」
怒声が浴びせられた。
僕は、瑠璃に殴られた。
その事実に対する認識に、理解が追い付かない。
「玖郎くん、今、何をしようとしていたんですか!」
僕は――。
「答えなさい! 今、何を、するつもりだったのです!?」
そんなことは、決まっている。
この状況を打開する、唯一の手段は――。
「この男を、殺そうと」
ばちんと音を響かせて、再び平手打ちを食らった。
ついでとばかりに、〈操作〉された水が、僕の顔面に叩きつけられた。
「頭を冷やしなさい! この愚か者!」
――。
「これが、玖郎くんの言う、二つ目のメリットですか。〈保護魔法〉で守られた人を、傷つけて、命を奪うことが、〈騎士〉にならない理由ですか。利点だと言うのですか!?」
――。
思考のない反射の結果として、僕の反論が声になる。
「何度も、何度も考えたんだ。どれだけ思考を重ねても、どれだけ想定を積み重ねても、結局最後には――この『最悪の状況』を打開するためには、今と未来を守るためには、殺すしか、ない」
もう一度、僕の左頬が音を立てた。
「思考? 想定? そんなものは知りません! そうやって、頭の中で何度も何度も人を傷つけ、命を奪ったから、簡単に『殺すしかない』なんて考えてしまうんです!」
――。
「瑠璃を、守るためには――」
「私が、これを望むと!? そう思ったのですか!? 命を奪うことを! 玖郎くんの手を汚すことを! 私が望むとでも思ったんですか!? その結果に私が守られると、本当にそう思ったのですか!?」
――。
「『殺すしかない』なんて状況はありません! 絶対にです! 例えどんな状況であろうと! 私は――私が認めません!」
――。
「聞きなさい小泉玖郎!」
――。
「『考えるのを止めるな!』」
――。
「この程度の状況で、いいえ、どれほど困難な状況であっても」
――。
「考えて、考えて、諦めずに、最後まで考え抜いて下さい!」
――。
「それから、絶対に忘れないで下さい!」
――。
「『目的を見失うな!』」
――。
「私の目的は、『誰もが誰もに優しくすることが許される世界を作る』ことです。そして、あなたの目的は、そんな私を助けることでしょう。そういう約束でしょう! 違いますか!?」
――。
「そうやって、私に教えてくれたのは、あなたです! 玖郎くん!」
――。
「あなたが、私に教えてくれた大切なことを、あなた自信が勝手に裏切らないで下さい!」
――。
「目を覚ましなさい! 次にすべきことを、考えなさい!」
――。
――。
「この状況だって、もっと別の方法で切り抜けられます! ここには私も、みんなもいます。絶対に! 方法があるはずです! さあ!」
そこまで叫んで、瑠璃は言葉を切った。
真っ直ぐに僕の目を見る彼女の瞳は、珍しく怒りを宿している。
そして、いつのものように、溢れそうになる涙を湛えていた。
僕は、自分の両の手のひらを見た。
握りしめたはずの拳銃は、いつの間にか取り落としてしまっていた。
血が乾き、こびりついて、赤黒くなった手。
汚れた手。
思考の中で、幾度となく汚した手だ。
なんて無価値な手なんだ。
僕は、いつしか、命を奪うことを前提に思考をしていた。
確実に殺す手段を。
ここで命を奪いきる方法を。
いつしか、そこばかりを思考し、想定していた。
殺しすぎて、殺すことしか考えられなくなっていたのだ。
瑠璃に殴られた左頬が痛い。
きっと同じくらい、瑠璃の右手も痛いだろう。
僕の手は――。
何度も何度も汚した手だ。
いいや。
それでも――。
この手は。
瑠璃のおかげで、汚さずに済んだ手だ。
この手の価値は――。
「――っがあああっ!!」
怒号が、僕達を襲った。
反射的に振り返る。
僕の背後で、男が立ち上がり、その右手で、凶悪な長さのナイフを振り上げていた。
血にまみれた顔面をおさえる左手、その指の間から覗く左目は、怒りに焦点を失っていた。
血と唾液を口の端から流しながら、男は絶叫のまま、僕達へと斬りかかっていた。
それを降り下ろす先は、瑠璃だ――。
そして――。
僕は、その危機的状況を全て認識し――。
唐突に、全てを理解した。
ひどく落ち着いている自分に気がつく。
自分の思考が、まるで無色透明の水になったように感じる。不純物がない、粘性も存在しない、完全な純水になったかのようだ。
これまでの思考とこの瞬間の思考は、全くの別物――存在する次元自体が遥かに異なっているかのようだ。
この瞬間の僕の思考は――。
一瞬をどこまでも細かく分割したような刹那の瞬間――それをさらに無数に分割したその極小の時間に、どこまでも思考を展開できる。
幾千の分岐を持つ状況を、幾万でも並列して処理させながららも俯瞰的な視野を失わない。
それを客観的に認識しながら、僕は、男を見た。
極度の集中と、極限まで加速した思考が見せる、停滞を超えて停止した時間の中で。
男の、僕の、瑠璃の、この場にいる全員と、この展望台と、飯尾山と――ありとあらゆる世界を、粒子レベルで把握しているような感覚だった。
全ての粒子が、他のあらゆる粒子と相互に影響を及ぼしあい、共に剛体を作り上げ、反作用や、摩擦や、あらゆる近接力と全ての遠隔力を受け渡し、受け取り、関係を作っていることが感じ取れた。
静止した世界なのに、全ての運動が、ナイフを降り下ろす男の動きも、驚きに体を固くする瑠璃の動きも、背後を振り返る途中の僕の動きも、全てが多次元のベクトルに分解されて、次の瞬間、その次の瞬間、さらに次の――全ての未来の、網羅される分岐を読み取れる予感すら覚えた。
神の視点を得たかのように錯覚してしまいそうだ。
そんな全能の世界の中。
僕は、僕の思考と僕の感情が望むままに。
本当に瑠璃が望むように。
妥協せず。
諦めず。
ただ、瑠璃を助けるという目的のために――。
命を奪わず。
この状況を。
打開する。
瑠璃のために。
そう、彼女を助けるために。
「――」
必要最低限にして最適の動作を選択する。
そして――。
その瞬間は、訪れた時と同様に、唐突に過ぎ去った。
思考が、通常の流れに切り替わった。
あの一瞬の結果として、現実に起こったことは、こうだ。
僕の左腕が、瑠璃を抱き寄せた。
同時に、背後を振り返った回転の動きのままに、右腕がナイフを握った男の腕を弾いた。
「があっ!?」
客観的な立場からは、打ち合わせ済みの演舞のように見えたかもしれない。
それほどに、僕の動きには無駄がなく、込めた力にすら無駄がなく、それでいてタイミングだけは寸分の狂いもなく必要な一瞬をとらえていたのだから。
男の腕は力を逸らされ、ナイフを握ったまま、自分でも制御できない強さで地面を殴り付けてしまっていた。
そして、その瞬間には、僕の視線は殺し屋の男から外れていた。
僕が突き飛ばして、尻餅をついたままの珊瑚を見ていたのだ。
そう、彼が体を起こすだけの時間も経過していないのだ。
大丈夫。
全部うまくいく。
あの瞬間に、全て手に入れた。
まずは――。
「珊瑚先輩。ここから距離をとります。〈靴〉をお願いします」
僕の言葉が届くと同時に。
「っ――〈靴〉っ!」
珊瑚が魔法の言葉を口にする。
その表情が、不敵な笑みになりかけていることに気づいて、思わず僕も笑みを浮かべてしまう。
珊瑚は、僕と瑠璃を、両腕で体当たりするように抱え上げ、一瞬の後に着地する。
そこで、改めて〈魔法少女〉と〈騎士〉が集合した。
ここにいる全員が、僕に力を貸してくれる。
魔法も、そうでない力も、惜しみ無くだ。
全く。
つい先ほどまで、あらゆる困難を自分の力だけで解決しなければいけない気になっていたようだ。
こんな人たちが僕の周りにいてくれるというのに。
「玖郎くん――」
着地すると、瑠璃が心配そうな表情で、僕を見た。
「ごめん。それに、ありがとう。もう大丈夫だ」
そう。
もう大丈夫。
答えには――そう、唯一でもない、最悪でもない答えには、もう到達している。
あの瞬間に、辿り着いている。
「みんなでこの状況を打開するぞ」
僕は、珊瑚につられて浮かべた笑みのまま、言葉を続けた。
「条件は既に整っている。あとは、思考通りに実行するだけだ」
ナイフを降り下ろした男は、地面を強打した痛みに、再度地面を転がっている。
「茜、あそこの木を燃やしてくれ。火力を調整して、山火事にはならないように」
僕は、男の状況を観察するのと並行して、茜に一本の木立を指し示しながらそういった。
飯尾山の中では若木の部類に入るような、背の低い広葉樹だ。一本だけ他の木々から距離を開けて立っている。
あの木を目標にするなら、茜の〈生成〉は生木であろうと、比較的簡単に燃やすことが可能だろう。また、他の木に延焼させて山火事を起こすという事態も避けられる。
「珊瑚先輩は、茜のフォローを。夏の出井浜海岸の時のように、茜の〈生成〉をコントロールして、微調整を試みて下さい」
僕の指示に、茜と珊瑚は気持ち良く頷き返してくれる。
「何か考え付いたんだね。よーし、ようやく私の出番だよ。張り切って行くよー!」
「そうか、〈生成〉をコントロール……。よし、任せろ!」
茜の炎が作り出す轟音が、わずかな時間差の後に徐々に秩序を与えられていくのを感じながら、僕は次の指示を出す。
「向日葵は、〈操作〉だ。男を落とし穴の中に落とす。ただし、急に穴を開けずに、少しずつ地面を陥没させる――ゆっくりと深くするんだ」
「ゆっくりだね。分かった!」
「なるほど、地面が少しずつ下がっていくだけなら、あいつは傷つかないから、〈保護魔法〉も作用しないって訳か」
翔が、僕の指示の理由を言い当てて見せた。
その通り。
定性的な理論だけでなく、僕と瑠璃の膨大な〈保護魔法〉に関する経験論からも、地面がゆっくり降下して穴の底になる程度ならば、問題の魔法は作用しないはずだ。
現実にも。
視力が半分以上奪われている男は、地面を強かに殴り付けた痛みのまま立ち上がれずにいる。その状態のまま、ゆっくりと沈降して行く。
「翔さんは、万が一の時のバックアップです。男の動作――特に、予備の拳銃に注意して下さい。流れ弾に気を付けて、〈盾〉の防御ではなく〈靴〉で回避して下さい」
「いつもの調子を取り戻してきたな。了解だ」
さあ、次だ。
「常盤さんは、〈生成〉と〈操作〉で風向きを調整して下さい。茜が木を燃やして作っている煙を、あの穴へと流しこんで下さい」
僕の指示に、常磐は驚いたような表情を見せる。
「いや、そんなことしたら、あの殺し屋は――」
「死にませんよ。〈保護魔法〉がありますから。酸素不足、あるいは不完全燃焼により発生したガスによる中毒では死にません。ですが、身動きがとれないほどに煙たいはずです」
「それで、押さえ込もうって訳か。でも、それだけじゃ――って、当然考えてるんだよね。了解っ!」
常磐の魔法が、灰色の煙を地面の穴へと送り込む。
ほどなく、男が咳き込む音が穴の底から響き始めた。
「綾乃さんもバックアップです。万が一の時には、〈靴〉をお願いします。それから、麓で待機している滝沢さんに連絡を。僕の次の一手が失敗した場合、男の身柄の確保のために武者小路家の力を借して下さい」
「保険、という訳ですわね。小泉さんのことですから『次の一手が失敗』というのは想像できないのですが、確かに承りましたわ」
綾乃も、快諾の上、穴の中の気配に注意しながらスマートフォンを取り出してくれた。
さあ。
仕上げといこう。
男の動きは封じた。同時に僕達の動きも制限された。
膠着状態とも言える。
男が生きていて、害意を持ち続けている以上、問題の先送りに見えるかもしれない。
だからこそ。
次の一手だ。
「瑠璃」
「はい」
僕の声を待ち望んでいたかのように、間髪置かずに彼女の声が応えた。
「あの男を殺さず、これ以上傷つけず、僕達の誰一人も犠牲にせず、みんなの今と未来を絶対に守ってみせる」
「……はい」
よし。
僕の隣には、こうして瑠璃がいる。
他の〈魔法少女〉も、〈騎士〉も力を貸してくれる。
男のナイフを受け流した瞬間のような全能的思考こそできていないが、ちゃんと考えている。
考え続けている。
目的だって忘れていない。
瑠璃を助ける。
誰もが誰もに優しくすることが許される世界を作るという、瑠璃の願いを、助ける。
さあ、はじめよう。
「ジャッジメント様」
僕は空中に向かって声をかける。
数瞬の間。
ふん。
応じる気はないか。
僕は、瑠璃に視線で合図を送った。
「ジャッ爺。見ていますね、出てきて下さい」
そんな瑠璃の呼び掛けに反応して――。
ポン、という音とともにジャッジメントが姿を表した。
その魔法や能力の全貌が、今もって計り知れない、〈精霊〉の中の〈精霊〉。
瑠璃たち〈女王候補〉との関係から、魔法王国の王族とも深い関係をうかがうことができる、王位継承試験の審判。
そして――。
「お呼びですかの。しかし――小童、〈試練〉の最中に審判を呼びつけるとはどういう了見かの?」
ジャッジメントは、登場早々にそう言った。
そうだな。
その答えは、こうだ。
「この殺し屋の男の確保、および拘束を、地平世界からこの地球世界に来ている魔法使いにお願いして下さい」
僕の言葉に。
ジャッジメントは、緑色の毛の奥から僕を睨み付けた。
瑠璃も、驚きに目を見開いている。
「この地球世界にいる地平世界の人間は、四人の〈魔法少女〉と珊瑚王子だけじゃ」
ふん。
「それは嘘です」
僕は断言する。
「この王位継承試験のあらゆる全てがジャッジメント様単独の力で開催されているとは考えられません。第一に、フラッタース王国という国の存在を偽装するには、魔法の力だけでは足りません」
「な、何を言い出すんですか?」
瑠璃が、話の展開に付いてこれずに目を白黒させている。
「例えば、瑠璃が小学校に転校してくるための手続きには、正式な書類が必要です。留学生という扱いならパスポートや関連する書類も必要です。アパートを借りて住むのも、生活のための資金も、多くの場面で、組織的なバックアップが存在しているはずです」
僕は続ける。
「地平世界で存在している魔法は、基本的に自然界に存在している火や水や風や土、その他の要素を生み出し、操り、門として世界を繋ぐというものです。公的書類の偽造や、それがあると認識させるような幻覚や幻惑というのは、魔法では無理でしょう。違いますか?」
「なるほどな。――よかろう、確かに、この世界には多くの魔法使いが存在しておるよ。王位継承試験の関連ならば、この市の中だけでも百名を越える者がそれぞれの役割を果たしておる」
やはり、な。
この事実は、かなり早い段階から想定されており、夏を過ぎる頃にはいくつかの検証を経て確信に至っていた。
そして、ジャッジメントがその事実を隠したがっていることも気づいていた。おそらく、〈女王候補〉達の緊張感維持が主な理由だろう。
いつかこの情報を足掛かりにジャッジメントと交渉をするつもりだったが、ここでこのカードを使わせてもらう。
「その中には、瑠璃たちの安全を確保するための要員もいるでしょう?」
「――ああ、おるよ」
「では、その人達に連絡を取り、この男の身柄を引き渡せば、瑠璃たちの安全は確保されますね」
「ふむ。確かにそういうことになるな。もちろん、わしから連絡をとることも可能じゃ」
ジャッジメントは、僕の言葉を素直に認め続けた。
なるほど。
素直に認めることで、この情報の価値を下げるつもりか。
悪いが。
想定通りだ。
次の台詞は――。
「じゃが、わしがそれをやらねばならぬ理由はないの。第一、〈試練〉は続いておる。殺し屋の身柄など、地球世界でなんとかすればよかろう」
――当然そうなるな。
警察、あるいは武者小路家の私兵を使って、男を拘束する手段は可能だ。
地球世界の殺し屋への対応なのだから、地球世界の力を使うのも自然と言える。
だが。
それは、瑠璃の望みとは違う。
危険な殺し屋と、誰であれ他人が接触する機会などないほうが良いに決まっている。
そして、その対処方の場合、次に現れる殺し屋がいれば、同等の対処を何度も繰り返す必要ができてしまう。
そんなリスクは、許容できない。
だから。
悪いが、利用させてもらう。
今だけでなく、未来をも守るために。
さあ始めよう。
そのために、瑠璃にもこの場にいてもらっているのだから。
「ですが、ジャッジメント様には、この男がここに現れたという事実に対して、責任がありますよね?」
「なんじゃと?」
驚きを聞き流し、僕は続ける。
「〈試練〉の最中、と先ほど言いましたが、そもそもこの飯尾山には、ジャッジメント様の人払いの魔法が作用していたのでしょう? それなのに、なぜ男はハイキングコースの終着点で待ち伏せができたのでしょう?」
これが、今回の切り札だ。
「今回の協力型の〈試練〉は、各チェックポイントで全〈魔法少女〉が取り組む課題が用意されていました。絵筆岩では向日葵の〈操作〉、爺泣き洞窟では瑠璃の〈開門〉、そして叡知稲荷神社では常磐さんの〈開門〉です。当然、ここ、飯尾山展望台は茜が担当でしょう」
そして。
「茜が見つけるはずだった赤いターゲットジュエルは、クロミが弄んでいました。隠す訳でもなく、無造作に置いてあったんでしょうね」
ジャッジメントの表情は動かない。
「茜の課題は、クロミとの対決ですね」
僕の言葉に、瑠璃が息を呑んだ。
「最初からなのか、クロミの行動がたまたま一致したのかは分かりませんが、茜に割り当てられたのはクロミを退けてターゲットジュエルを手にすることです。そのために、クロミと同行していた殺し屋は山に入ることができた。違いますか?」
「――」
ジャッジメントが口を開くより早く――。
「今の話、本当ですか?」
瑠璃の、低い声が耳に届いた。
「ジャッ爺、答えてください。茜とクロミを、戦わせるつもりだったのですか? 男の侵入に気づいていたのですか? 顔を合わせれば争いになると判っていて――理解した上で、この状況を看過していたのですか?」
「瑠璃姫――」
ジャッジメントが、瑠璃の迫力に圧され気味に名を呼んだ。
「オリジン・ジャッジメント。わたくし、水の宰相が娘、清水・セルリアン・瑠璃が命じます」
高らかに、瑠璃の声がそう発せられた。
「この男の確保のために、人員を要請しなさい。それから、今後一切、この類いのことが起こることは許しません。クロミ本人については魔法世界の人間の意思ですが、それ以外の地平世界の人間が王位継承試験の関係者に危害を加えるような状況になることがないよう、対処しなさい」
凛としたその声は、端で聞いていた僕でさえ膝を地面に着きそうになるほど威厳に満ちていた。
言葉の内容も、僕がこれから交渉で少しずつ勝ち取ろうとしていたものだった。
王族とジャッジメントの力関係か。
何にせよ、これで――。
「――おおせのままに。瑠璃姫」
「……ジャッ爺なんて、嫌いです」
〈精霊〉の応えに、瑠璃は目に涙を浮かべてそう言った。
はは。
それを受けたジャッジメントの表情は、一見の価値ありだった。
なんだ、本当にジャッジメントは〈女王候補〉達が好きなんだな。
しょんぼりとうなだれて、姿を消してしまった。
これで――。
「終わりですね」
「そうだな」
僕は、瑠璃の言葉に、頷きを返すのだった。
やがて。
遠くから、ヘリコプターのプロペラが空気を叩く音が聞こえ始めてきた。
ジャッジメントが要請した、対応要員の到着と言うわけだ。
この対応の早さが、ジャッジメントのせめてもの誠意だと受け取っておこう。
この調子なら、今後同種の最悪の状況がジャッジメントの魔法で回避できると考えても良さそうだ。
これで、一安心か。肩の荷がようやく降ろせたな。
しかも、最悪ではない、考えられる限りの最善の方法で――。
僕は、一つ息をつくと、瑠璃を見た。
瑠璃も僕を見ていた。
「その頬、痛いですか?」
声色に気遣いをにじませて、瑠璃が聞いてきた。
そんなの、決まっている。
「痛い」
「でも、私、謝りませんよ」
「それで良い。問題ない」
その受け答えに、瑠璃が少しだけ笑顔を見せてくれた。
もしかしたら、僕の顔も笑みを浮かべているのかもしれない。
どちらにせよ――。
大きな山場を無事に越えることができた。
そして。
王位継承試験は、まだしばらくの間、続く――。