15
【玖郎】
電話が鳴っている。
意識の覚醒は一瞬だ。
曖昧に拡散していた自我が、認識できない境界の瞬間を超えると同時に、眠りに落ちる前の自分と今の自分とを結びつけ、意識のなかった時間を補完する。
目覚めに合わせて空調を入れておくという習慣は持ち合わせておらず、部屋の中の温度は低い。
とは言え、最低限の支度を済ませれば自分の部屋に留まる理由はなく、その短時間のためにエネルギーを消費するのも無駄が大きい気がしてしまうのだ。
ん。
予定外の目覚めに、思考が発散しているな。
今重要なのは、こんな早朝にかかってくる電話だ。
目覚まし時計の代わりに枕元に置いている携帯電話が、いつもと違う音を立てている。
時間も、アラームを設定した時刻よりも早い。
この番号に電話をかけてくる人物は限られている。
母さんならば、電話よりも部屋の扉を開ける方が簡単だ。
とすると、王位継承試験の関係者か――だとしたら、相当の厄介事だが。
いや、一番可能性が高いのは――。
ディスプレイを見ると、やはり発信元として瑠璃の名前が表示されていた。
『玖郎くん――っ――』
電話の向こうで、瑠璃は泣いているようだった。
途切れ途切れに彼女が語った用件は――。
王位継承試験の、最終〈試練〉が決まったというものだった。
期日は次の日曜日。
その日は――クリスマスの前々日、か。
本来であれば、三月まで続く予定だった試験期間を大幅に繰り上げての最終課題だ。
試験が終了してしまえば、瑠璃たち〈女王候補〉がこの地球世界に留まる理由はなく――早々に地平世界へと帰ってしまうことになるだろう。
瑠璃たちと企画していた、クリスマスのイベントも、年末年始の予定も、全部キャンセルだな。
試験期間が短縮された背景には、おそらく革命軍の動きを牽制するという目的があるだろう。
クロミによる王位継承試験の妨害を陽動した、一斉蜂起。
革命軍に、どれほどの戦力を集める力があるのかを判断できる情報はない。とは言え、水面下での動きが察知されて、警戒される結果になったと考えて間違いないだろう。
ついに、この時が来たか。
僕と瑠璃にとって――出会った時から決められていた、別れの瞬間が。
電話口で瑠璃をなんとかなだめると、いつもの場所で待ち合わせることを約束して、電話を切った。
そうして――。
僕と瑠璃は、表面だけ見ればいつものように、小学校へと向かう道をならんで歩いていた。
「泣きながら電話だなんて、朝早くから心配をかけてしまって――」
冷静になって反省しているのか、瑠璃は会うなり謝ってきた。
いや。
無理もない、と言えた。
僕でさえ、訪れる別れの時は、もう少しだけ先のことだと思っていたのだから。
まだ先だからと、直視を避けていたことを、起き抜けに突きつけられれば、感情だって揺れ動くだろうし、混乱もするだろう。
「確認するが、最終〈試練〉の舞台は、シーナタワーなんだな」
僕は、一つづつ要点を確認する。
「はい。正確には、シーナタワーと椎名大通り公園だそうです」
「次の日曜、か」
準備をする時間は皆無でもないが、潤沢だと言う訳でもない。
するべきことを精査した上で、取り組む必要がありそうだ。
「何を準備するか考える必要があるな」
僕の言葉に、瑠璃は頷いて見せた。
「そうですね。それを考えるために、いくつか確認しても良いですか?」
ふむ。
〈試練〉の開催を知らされてから、一度感情を爆発させたことが効いているのか、それとも来るべき別れの時について僕よりも覚悟ができていたのか、瑠璃はいつも通り思考できているようだ。
「まずは、クロミのことです。最終〈試練〉となれば、当然、全力で妨害をしてくるはずですよね。きっと、命を奪うことすらためらわないでしょう。私は――」
瑠璃の一つ目の確認事項はこれだった。
「クロミの正体を知る必要はありませんか?」
――。
確かに。
最終決戦に望むにあたり、クロミの存在は不確定要素であり、決定的な何かになる可能性も低くない。
クロミの正体を知っている場合と知らない場合とで、瑠璃の行動や決意に、どんな影響が出るか――。
それぞれのメリットとデメリットを列挙し、検討する。
とは言え、最終決戦の期日が目の前に迫ったと言う点以外の境界条件が変わらない以上、結論は変わらない。
「知らなくても問題ない」
「……わかりました。玖郎くんが、私を信頼してくれていると――そう受けとりますね」
実際のところその通りだったので、少し驚いた。
瑠璃ならばクロミの正体など知らなくても――あるいは、最終決戦の重要な局面でそれを知らされたとしても――大丈夫だろう。
そんな判断が、僕の思考の根底にあるのだ。
瑠璃は、この王位継承試験の短い期間の間に、見違えるような思考の鋭さと、回転速度を手に入れたようだ。
改めて、そんな風に感じさせられた。
「では、二つ目です。玖郎くんが、私との〈契約〉を断って、〈騎士〉にならない三つ目のメリット――その答え合わせをしておく必要はないですか?」
三つ目のメリット、か。
確かに、王位継承試験が終わってしまうならば、隠しておいても意味がないな。
とは言え、そのメリットは性質上これからも準備可能なものである。
その上――僕の個人的な感情で非常に申し訳ないが――できれば発揮されなければ良いと思ってしまうものだ。
それにおそらく、瑠璃はその正体に考え至っている。
つまり。
「改めて答え合わせをする必要はない、な」
僕の答えに、瑠璃はほんの少しの時間を置いて、小さく頷いた。
「分かりました。それを追求しないのは、私の玖郎くんへの信頼の現れだということにしておきましょう」
ん。
なるほど、そういう思考か。
確かに、二つ目のメリットの時の瑠璃の激怒を思えば、そうなるか。
やれやれ。
「それから、最後の一つですが。これは、最終〈試練〉に向けた確認とは少し違うのですが――」
そう言って、瑠璃は足を止めた。
つられて、僕も歩みを止める。
なんだ。
思わず瑠璃の表情を確認しようと、視線を動かし――。
「玖郎くん。私は、玖郎くんのことが好きです」
そんな瑠璃の言葉が、飛び込んできた。
それは――。
「一度だけ、私の正直な気持ちを伝えます。本当は――」
瑠璃の表情は、小学生の告白には、悲痛なものだった。
言うなれば、耐えきれない痛みを、それでも耐えているような。
「玖郎くんが、好きです。ずっと一緒にいたいと思ってしまうほどに。王位継承試験が永遠に終わらずに――あるいは、そんなモノは投げ出してしまって、ずっとここにいたいと思ってしまうほどに。――ずっと、あなたの側に、いたいです」
それは。
あるいは、この気持ちを知っていて欲しかった――なかったことにしたくなかったという、一方的な感情の吐露だったのかもしれない。
それでも――。
「あの、絶対に忘れて欲しくはないですが、何か変わって欲しいというわけではないのです。つまり、その、明日からも、今日までと同じようにしてくれれば十分で――」
「瑠璃――」
僕は、瑠璃の告白をただ聞いて、それで終わりという訳にはいかない。
――彼女の言葉を聞いて、こんなにも嬉しいのだから。
「ありがとう。正直に嬉しかった」
「――はい」
瑠璃は消え入りそうな声で応えてくれた。
「それに、悔しかった。本当は僕が先に気持ちを伝えたかったのに」
瑠璃が真っ直ぐに気持ちを伝えてくれた以上、僕だって負けてはいられない。
言葉にしたのは、間違いなく僕の正直な気持ちだった。
「それはつまり――?」
「僕も、瑠璃のことが、好きだ」
そう。
これが、嘘偽りのない、僕の気持ちだ。
「……うわぁ。あの、どうしましょう。とっても嬉しいです」
そうか。
それは何よりだ。
「……」
ん?
なんだか瑠璃が、もしかしてそれで終わりてすか? とでも言いたげな上目遣いでこちらを見てくる。
ふむ?
「はぁ……。やっぱり、夢の中のようにはいきませんか。玖郎くんは私を奪いに来てはくれないんですね?」
何だ?
「すまない。よく聞こえなかっ――」
「では、仕方がありませんね」
僕の疑問の声を遮って。
瑠璃が、僕の顔を両手で挟み込んだ。
その手は、冬の冷気にさらされた頬に温かく、緊張のせいか力が入りすぎているようだった。
――これは?
瑠璃は、すっと目を閉じて、顔を近づけて来て――。
そのままでは――。
「――」
唇が、触れた。
息が止まるかと思うような刹那の後――。
――目が覚めた。
夢、か。
空気冷たくなった自室、いつもの布団の中で、目を覚ましたと言うわけだ。
そうだな。
こちらが僕の現実だ。
それにしても、全く、なんと言う夢を見ているのか。
フロイトなどを引いてくるまでもなく、願望そのままの夢じゃないか。
認めよう。
間違いなく、僕は瑠璃に好意を抱いている。
好きだ、と言って間違いないだろう。
きっかけを遡るならば、出会った当日、あの図書館裏のベンチに行き着く。
当時の僕が持っていなかった、強い意思を秘めた、青く光る黒い瞳に魅了された。
夢物語のような、実現不可能と思えるような、現実に存在する世界に対する夢を語る姿にも――心を震わせられた。
二番目は嫌だと、一番目になって、地平世界を誰もが誰もに優しくできる世界にすると語った彼女。
心から、力になりたいと、そう思った。
強く意識するようになったのは、飯尾山の〈試練〉、あの最悪の状況の日。
僕の過ちを、心から全力で正してくれた。
思えば、あの時――彼女の存在は、一方的に守りたいと思う対象から、隣に立ちたいと願う対象になったのだろう。
僕の思考がそこまで至ったタイミングで。
電子的なアラーム音が自室に響き渡った。
予兆も予備動作も一切ない出来事に、心拍数が上がることを自覚するほどに驚いてしまった。
僕が目覚まし時計代わりに設定しているアラームが鳴り響く時刻には早い。
加えて、鳴っている電子音の種類自体が違うものだ。
これは、誰かからの着信を知らせるものだった。
おそらく。
電話の向こうで僕を待っているのは、瑠璃だろう。
――これが、世に言う虫の知らせと言うやつだろうか。
それとも、王位継承試験を司る偉大なる〈精霊〉オリジン・ジャッジメントのお告げだろうか。
どちらにせよ。
現実に起こっている状況は変わらない。
確認した携帯電話のディスプレイには、それが瑠璃からの着信だと表示されていた。
【瑠璃】
「――最後の〈試練〉は、次の日曜日だそうです。クリスマスの前々日です」
消して夢ではない、現実の世界で。
私は、玖郎くんと並んで歩いています。
小学校に向かう、いつもの道。
今朝の起床と同時に、ジャッ爺から最後の〈試練〉について知らされました。
予定より早まった最後の課題。
私は、自分でも驚くほど冷静にその事実を受け止めると、玖郎くんに要点だけを電話で伝えました。
玖郎くんも、それを静かに受け止めてくれたようでした。
電話口では最低限の確認にとどめ、小学校へ向かう道すがら詳細を確認するということで電話を切りました。
そして、いつもの道を、いつものように二人並んで歩いている、と言うわけです。
違うとすれば、来る最後の〈試練〉と――避けられない別れまでの時間が明確になってしまったという点だけ。
それだけ、なのに。
まるで、世界が変わってしまったかのように感じてしまいます。
「王位継承試験の期間自体が短縮された訳だな。クロミたち革命軍の動きが、予想よりも強いのかもしれない。どちらにせよ、一年を待たずに最後の課題、か」
そうですね。
期限が早まった背景には、間違いなくその影響もあるでしょう。
ジャッ爺が単独で判断できる内容を超えている以上、フラッタース王国との調整があったはずですから。
「約束の一年には、まだ時間が残されていたはずですが」
「そうだな」
小さく呟いたはずの私の言葉に、玖郎くんは同意してくれました。
「次の日曜となると、準備できる内容が限られるな。何に時間を使うか、考える必要があるな」
その通りですね。
今は、決定事項を恨んでも仕方がありません。
そうです。
勝利のためにできることに、集中しなくては。
「ジャッ爺から聞いている〈試練〉の内容は、やはり競争型です」
私は、できる限りジャッ爺が表現した内容をそのまま再現することを心がけながら、玖郎くんに伝えます。
「集合場所は、椎名大通り公園の南口。集合時刻は、午後五時です。そこから、シーナタワーに向かい、展望フロアの屋上に設置された白いターゲットジュエルを最初に手に入れた〈魔法少女〉が勝ち、と言っていました」
ふむ、と玖郎くんは頷きました。
そして、忘れずにこれを伝えておかなくてはいけません。
「重要なポイントがもう一点あります」
私は、そう前置きしてから言葉にしました。
「――事実上、茜と、誰かもう一人の〈魔法少女〉の決戦になるそうです」
【玖郎】
茜と、誰かもう一人の決戦――。
それが意味するところは、最後の〈試練〉を実施すると言いながら、評価が拮抗している二人の〈女王候補〉の決勝戦だと言うことだ。
そのうち一人は、茜だと伝えられた、と。
残る一人は、瑠璃なのか。
あるいは、向日葵か、常磐か。
いずれにせよ――。
「――やはり、そうか」
僕の言葉に、瑠璃は小首をかしげて見せた。
「何が予想通りだったのです?」
その問いに――。
「――いや。少し考えを整理したい。今は、別のことを考えよう」
僕は、瑠璃の問いに答えることを保留した。
『茜と誰かの決勝になる』という一言が意味するところは、実は大きい。
そうだとするならば――。
やはり――。
――いや。
「今は、〈試練〉までに準備すべき事柄をリストアップしよう」
いつものように、椎名小学校に向かう道。
表面的には、いつもと変わらぬ登校風景だ。
それでも。
それが意味するところは大きく違う。
いつもの、これからも続く学校への道、ではない。
あと五回しかない、瑠璃と歩く道、である。
――っ。
もっと意識して思考をコントロールする必要がある。
僕の感情は、まるで瑠璃との別れしか視界に入っていないかのように、それを回避する方法や先伸ばしにする方法を探そうとする。あるいは、ぐるぐると悲嘆に暮れてしまいたくなる。
それを、どうにか〈試練〉に集中させる。
表面的には、夢で見た登校風景だ。
最後の〈試練〉が告げられ、その対応を話し合いながら学校に向かっている。
それでも。
夢で見た状況とは、大きくかけ離れていた。
現実とは、なんて容赦なく残酷なのだろう。
僕たちは、決戦に向けて準備すべきことを話し合っている。
瑠璃が感情的に泣き出すこともなく。
僕が自分の想いを告げることもなく。
淡々と。
決戦に備えている。
――椎名大通り公園の地図が必要ですね。
――シーナタワーの構造も、頭に入れておくべきだろう。
――水を補給するために、ペットボトルを用意しておきたいですね。
――清掃作業員が片付けてしまう可能性が高いため、対策が必要だ。
――集合場所からシーナタワーへと、直線的に空中を進むことはできないのでは?
――よく考え付いた。そこから、〈試練〉の詳細がかなり絞り込めるな。
――僕たちがとるべき戦略は?
――先に、茜達が実施すると予測される戦略を考えないといけませんね。
――その上で、僕たちのとるべき一手を決めよう。
――琴子さんには、全て話したいと思います。お別れの前に。
――そうだな。一緒に話そう。
――クロミも。きっと現れますね。
――間違いなく現れるだろうな。
「……玖郎くん」
どこか淡々と話し合われていた会話は、できてしまった間の後、瑠璃が改めて僕の名を呼んだことで、色を取り戻した。
気づくと、瑠璃は足を止めていて。
僕は、つられて歩みを止めた。
自然と、瑠璃と向き合って立つことになる。
まるで。
今朝の夢のように――。
【瑠璃】
迫る決戦の予感。
それは、長いようでいて短かかった、王位継承試験の終焉を意味しています。
試験の結末。
クロミとの、戦いの結末。
そして、私の願いの、結末。
私は、二番目の〈魔法少女〉から――。
二番目ではない。
一番目の。
次の女王になって。
フラッタース王国を、誰もが誰もに優しくすることを許される世界に変えることができるでしょうか。
その一歩を、踏み出せるでしょうか。
そんな想いと。
玖郎くんと。
目の前の、大好きな男の子と。
二度と会えなくなってしまうという感情が。
私の中で膨れ上がって、留めきれなくなってしまいます。
玖郎くん。
私は。
あなたに言いたいことが、伝えたいことが、まだまだたくさんあるのです。
私は――。
「玖郎くん。あなたのことを、『玖郎』って呼んでも良いでしょうか?」
【玖郎】
「――構わない。瑠璃の好きなように、呼んでくれ」
夢ではない、現実の世界で。
僕たちが、この時にできたことは――。
感情に任せた告白でも、想いを伝えるための口づけでもなく。
小さな小さな一歩の距離を、ただ歩み寄ることだけだった。
告げられた、最後の〈試練〉。
終わりを迎える、王位継承試験。
それは。
瑠璃の願いの行く先が、あとわずかで決まってしまうことを意味してきた。
積み重ねてきた努力。
願い続けた時間。
決意と。
約束。
そして――。
そして、それ以上に。
最後の〈試練〉は、僕たちの別れを意味していた。
地球世界と地平世界。
日本とフラッタース王国。
この現実世界と、どこか彼方の魔法の世界。
離れてしまえば――。
おそらく。
二度と会えない。
僕たちに残された時間は、本当に、あとわずか。
「――玖郎」
瑠璃が、僕の名を呼んだ。
それだけで。
僕の胸は、どうしようもなく嬉しいのに。
痛いくらいに、切ない。
「ああ。瑠璃――」
それでも。
――それでも、だ。
約束を果たすため。
僕が、瑠璃のためにできることを成し遂げるため。
「行こう、瑠璃」
「はい。玖郎」
――僕たちは、歩き出した。
(『2番目の魔法少女[3]汚した手の価値』――完)




