10
「――それは、できない」
そう言うクロミの声色や表情は、ふざけた様子のない、真剣で重たい言葉だった。
「私は、何があろうと、私の使命を全うするわ。最後の瞬間まで――この命が尽きる、その瞬間まで」
僕は、その決意を翻せないことを悟った。
ようやく、クロミの本心に触れた気がした。
その応えには、クロミの全てが込められていた。
そして。
その重さは、瑠璃が胸に秘めた願いの重さと同じものだ。
瑠璃は『地平世界を、誰もが誰もに優しくできる世界にする』という願いのために、自らの生涯すら犠牲にする覚悟をしている。
――そんな覚悟に匹敵するような、ともすれば、それを超越するような重さが、クロミの一声にはあった。
「――革命、か。フラッタース王国は、そんなにひどい状況なのか?」
僕の言葉にこちらを見たクロミの瞳が暗い闇を宿した。
「フラッタース王国の状況がひどいかって?」
その言葉をきっかけに、クロミは話し始めた。
「そうね、地球世界は――少なくともこの国は、天国か楽園のような場所だものね。さすがのあなたでも、想像できないかもしれないわ」
クロミは、座っているベンチの背もたれにのびるように身体をあずけると、自分の右腕で目の上をおおった。
「自由も未来もない、そんな世界よ。食べ物も、家も、安全な水も満足にはないわ。医療も薬もないし、教育もなければ、情報もない。この世界の発展途上国や内戦を抱える国に似ているかもしれないけど、助けてくれる他の国もない。ないない尽くしよ――少なくとも、平民にとっては、ね」
そこで、クロミは一呼吸置いた。
「一番ないものは平等かもね。魔法は、王族と貴族に独占されている。平民は魔法の恩恵を受けることを許されない。使うことも許されない。信じられる? 魔法の才能がある平民の赤ちゃんは、良くて貴族に売られ、悪ければその場で殺されるのよ」
それは、瑠璃から聞く地平世界よりもさらに暗く汚い地平世界の話だった。
これが、瑠璃が立ち向かおうとしている世界、か。
「だが、クロミは魔法が使えるな。隠された子どもだったのか? あるいは、貴族の出とか?」
僕は、口調とは裏腹に恐る恐るその問いを口にした。
クロミの出生に関わる質問――それが、クロミの重く暗い願いに直結していると考えられる以上、必要な問いではある。
一方で、拒絶と、これ以上の情報収集を遮断する危険性も高い。
会話の流れとしては、次のタイミングはない。
踏み込めるか――。
「私の話、か」
クロミはそう言って、言葉を止めてしまった。
早急に話を進めすぎたか。
「そうね、じゃあ、私の両親の話が分かりやすいかな」
いや。
クロミは話を続けてくれた。
どうやら、何から話そうかと考えるための間だったようだ。
「私のお母さんは、行方不明になった風の宰相の遠縁か、病死と言われた火の有名貴族の三女か、出生を認められなかった水の国の外の子か……『そのうちの誰か』よ。ちなみに、お父さんも似たような感じで、四、五人いるうちの『誰か』よ」
それは――。
クロミが話し始めた内容は、僕の想像よりもさらに酷いものだった。
その話が展開する先は――。
「あの人達は、洗脳と麻薬で理性を奪い取られ、朝から晩まで子どもを作り続けている。そのためだけに死ぬことも許されずに生かされ続けている。そんな地獄のような場所で、生まれたのが私よ」
僕は、反射的に沸き上がる嫌悪感を濃縮した吐き気を遮断――しようとして、失敗する。
なんだそれ、気持ち悪い。
「何のためかって? 王族のスケベ爺の道楽――っていうならまだ笑えるんだけどね」
そんな馬鹿げた冗談を言わなくても良いのに。
気遣いのつもりなら、不要だ。
いや、むしろ、その言葉が気遣いの結果だとしたら、その方が残酷に過ぎると言うものだ。
どちらにせよ――。
僕はもう、その答えに考え着いている。
「――革命のため、か」
僕は、奥歯を噛み締めながら言葉を発した。
僕の思考は、その悲劇の構図を正確に構築することができた。できてしまった。
「その通りよ。魔法を操るフラッタース王国に対抗するには、魔法を使える子どもが必要。でも、たまたま生まれた素質のある子を待つ時間はない。それならば作ってしまえば――作らせてしまえば良い、ってね。お母さん達もお父さん達も、誘拐されて集められたらしいわね。革命のために、ね」
僕は、その黒すぎる事実に、感情に思考を奪われかける。
僕の冷静な部分が、それを見下ろしている。
クロミの言葉が、僕を惑わすための嘘かもしれないなどと疑いながら――嘘であってくれと思いながら――クロミの仕種や声の震え、隠しきれずに溢れて流れている涙から、それが事実であると分析している。
ああ、クロミと言う名前は――そうか。
くそ、なんて世界だ。
どこまでも残酷になれるのだと、そう主張でもしたいのか。
「私と同じ境遇の子どもがたくさんいるわ。私のすぐ上の兄は『クロジ』、弟は『クロシ』、それから双子の『クロコ』と『クロム』――」
僕の思考は、クロミの言葉の一瞬前に、その事実に思い至ってしまっていた。
彼女の名前の意味。
同時に、その『番号』の多さに、背筋が冷えるような嫌な感覚を味わってしまう。
ふざけるな。
せめて、名前くらい――。
「ね。分かったでしょう? 千人を超える『革命の子どもたち』は、戦闘と殺戮のために、毎日地獄のような特訓を強いられている。もちろん、今まさにこの瞬間にも、よ。命を落とす子も、数えられないくらいいるわ。そして、その中で、私が一番魔力が強かった。〈開門〉の才能なんかは、それこそ王位継承試験に挑む〈女王候補〉レベルだってね」
クロミの声に、自嘲的な響きが混じる。
「だから、私はここにいるの。この地球世界にやってきて、来るべき王位継承試験を妨害するために、ね」
妨害――それは、おそらく真の目的を覆い隠すための――。
「もちろん、妨害がそのまま真の狙いじゃないわ。私の動きは陽動――異世界にいる〈女王候補〉達にトラブルを起こし、一人でも多くの王族や貴族の注目を集める――その隙に革命軍が決起する」
クロミは、顔をおおっていた腕を空高く伸ばした。
「あーあ、全部しゃべっちゃった」
その声色は、ほんの少しだけ肩の荷が降りたというような、どこか晴れやかなものだった。
そんな彼女に、僕は、残酷だと認識しながら、次の問いを発する。
正義と大義を問う。
「クロミは――そんな境遇で生きているのに、生きてきたのに、それでも多くの血を流してまで、革命が必要だと思うのか?」
僕の問いに、クロミはこちらを向かないまま応えた。
「革命なんてどうでもいいわ。王国のやつらも、革命軍の連中も、みんないなくなっちゃえばいいのよ」
それでも、とクロミは続けた。
「それでも、こんな私だけどね。それでも、兄弟達を守りたいのよ。同じ場所で生まれた、私の可愛そうな姉妹達。もしも私が逃げ出したら、殺されてしまうあの子達を、守りたい――」
そうか。
それが答えだった。
それだけが願いだった。
彼女にとって――クロミにとって、小さな、大切な、世界や国や知らない誰かなんてどうでも良いと迷いなく断言できるほどの――願い。
自分の大切な一握りの人達を助けたいという――ただそれだけの、どこにでもある、ありふれた祈り。
――僕と同じ、想い。
「私の願いはそれだけよ」
そして、クロミの決意は、悲しい回答を選ぶ。何度でも、選び続ける。
僕がそうであるように。
「だから、降参はしない。どれだけ勝算がなかろうと。私がどれだけ傷つこうと。私の命がなくなろうと。私は、絶対に逃げ出さない」
再度、そう言って。
そこで、ようやく、クロミは僕を見た。
「小泉くん――泣いてくれたんだ。こんな私なんかのために」
ああ。
ああ、そうだよ。
悪いかよ。
どうして。
どうしてお前達は、そろいもそろって自分のことは後回しなんだ。
どうして誰かのために、生命や生涯を使ってしまうんだ。使う決断をしてしまえるんだ。
僕は――。
「ありがとう。聞いてくれて嬉しかった。本当は、ずっと誰かに聞いて欲しかった」
そう言って、クロミは無理に微笑んで見せ――その動きで大粒の涙がこぼれた。
「もう行くわ。次に会った時は、敵同士ね」
「――ああ」
そうだ。
例えクロミの事情がどうあれ――僕が瑠璃を助けたいと思う気持ちは変わらない。
瑠璃の理想は、時間こそかかるが、クロミの悲劇を打ち破るものだ。――クロミ自身を救済するものでないが。
「無駄かもしれないけど。一応言っておくわね。今日の話は他の誰にも言わないで。私は〈魔法少女〉達に救って欲しい訳でも、同情して欲しい訳でもないから」
そうだな。
瑠璃どころか茜であろうと、敵対する決意が揺らぐことは間違いない。
それは、クロミの目的である陽動にはマイナスに働くだろう。
全世界に遍在すると言わんばかりに、所構わず聞き耳を立てている〈精霊〉ジャッジメントには筒抜けだろうが――。
「分かった。僕の口からは誰にも話さない」
僕の応えに、クロミは薄く笑った。
「お礼に、〈闇の魔法少女〉のチューでもあげようか? その痛そうなほっぺも治るかもよ?」
冗談めかして唇をとがらせるクロミの様子は、いつもの調子を取り戻しはじめているようだ。
その瞳は、涙で赤く晴れ上がっているくせに。
「不要だ。だが、代わりに――」
「うん?」
僕の言葉に、クロミが小首をかしげて見せた。
僕は、僕の目的を持って、この話し合いを設定した。
投降するよう提案し、クロミの願いの前に拒絶された。
そして、付随して大量の情報を――僕にとって知る必要のあった情報を得た。
一方で、クロミは話を聞いてもらって嬉しかったという。誰かに聞いて欲しかったのだと。
だとすれば、僕たちの間には貸し借りはなしだ。
代償は発生しない。
それでも。
クロミがお礼をすると言い、僕がそれに何かを願えるとするなら――。
「クロミ。もし、瑠璃の命を奪える瞬間があった時、一度だけ見逃してくれ」
それを聞くと、クロミは心から嫌そうな表情を見せた。
「あーはいはい。結局あんたは水のお姫様な訳ね。つまんないのー」
それだけ言うと。
クロミは僕に背中を向けると、振り替えることなく歩き去ってしまった。
気づくと、空は夕暮れ近くなっている。
僕は、上着の襟元を合わせて肩をすくめた。
「……帰ろう。ここは寒すぎる」
収穫は大きかった。
僕が冷静に受け止めきれないほどに。
そして。
――そう。
『その答え』にたどり着くために、僕が思考し、決断すべきことが見えてきた気がする。
「……瑠璃。僕は――」
自分でも意識しないままに呟かれた言葉は、秋の終わりを告げる冷たい風に吹かれて千切れた。




