麦わら帽子は覚えている
あれは少年時代、夏。私は虫網と虫かごを備えて山道を歩いていた。アブラゼミの声と、山道に群がる陽炎の空気の乱れというのは、気温の暑さと調和に溶けあう中で、私の体を包んでいた。それは現在進行形で二度と思い出せない思い出を、確かに刻み込まれるような、確かな手触りがあったように思う。
私は六センチものクワガタを見つけた。そいつは鐵のように猛々しい、硬い色をしており、その立派にたくわえたハサミでいくつもの夏を裂こうというのか。私はクワガタの胴体をつまんで持ち上げた。クワガタは胴体を内に曲げてその六本の節足を縦横無尽に動かした。緑の虫かごに軽々と入れられると、クワガタは籠の中でしばらく動いていた。
山道は神社へと続く石の階段もあり、私はその石段の数を数えながら登るのだが、暑さに途中でバテたり、虫に見とれたり、同じような石の階段ばかり見るもんだから、頭が混乱して数をちゃんと数えられたことは一度もない。そんな夏を過ごしていたが、私はその石階段を数えながら登っていると、その石階段のはるか先、二十段は先であろうか、そこに人影が見えた、麦わら帽子に、白いシャツに、ジーパン。大人の女性が立っており、こちらを振り向いて階段を降りてきた。私は山道で人と出会うことが久しぶりであったからひどく戸惑った記憶がある。しかも女性が綺麗だったもんで、少年ながらに緊張した。
女性は私の前へかがんで虫かごの中を覗いた。「へぇ立派なクワガタじゃねぇ。ここで取ったん?」私を見上げたその目は綺麗な黒目で、なんだか夏に見るには少しばかり涼しい雰囲気を持っていた。私はもちろん汗を流して、緊張もあって脂汗もあっただろう。一緒の空間にいるのは違和感さえ覚えた。「そ、そうここで取った。ホントはカブトのほうが好きなんじゃけどね、ここらおらんけ、クワガタ極めとる」私はそう言って籠の中で動くクワガタを女性と見た。「そうなんね、ほいじゃけどさっきカブト神社のほうにおったよ。賽銭箱にくっついとってね、今もおるんかな、一緒に来んさい」。
私はカブトが取れるかもしれないとひどく興奮して女性についていった。神社までの長い石階段での会話は、今でも忘れることはないだろう。
「地元の子なん? 私が去年帰ってきたときはおらんかったけぇ、初めましてじゃろ」
「高月小学校行ってる。ここからようけぇ離れたとこじゃけど、この道虫取れるけ好きなんよね。毎年取りに来とる。」
「そうなんね、私も昔はね、よう虫取りに来とったんじゃけどねぇ、最近じゃ面倒も見れんなってよう世話せんくなったよ」
「あんな、昆虫ゼリー入れて、切り株の上でバトルされちゃれば元気に生きてくれるよ。死ぬときは土に埋めるだけでいいんよ」
「私はね、虫でもね死ぬところは見たくないけぇねぇ、もう勘弁。君も、大切な人が死んだりしたら悲しいじゃろ? 私はね、だんだん虫にだってそう思っちゃったけ」
私は「大人の考えは分からんね、死ぬもんは死ぬよ、それをわかって取っとる」とあの時言った。今では、あの時の女性の言っていたことはとても共感できる。女性はそうませたことを言う私にこう言った。
「えらいねぇ、逃げないんね。クワガタも喜ぶじゃろね」
と言って「ここ、ここ。さっきカブトおったよ。ほら、あそこ。今もおる」と賽銭箱に指さした。私も賽銭箱を見て、確かに箱の側面にカブトがいるのが見えた。「ホンマじゃ、おる、初めてじゃ。かっこええのう」と音を立てないように、クワガタの入った籠を彼女に預けてそーっとカブトに近づいた。虫網をゆっくり、籠に付ける。捕まえるのではなく、まずは逃げ道を失くして、網越しに掴む。彼女を手招きで呼ぶ。
「おねぇさん、虫掴めるじゃろ。」とカブトを掴むよう言った。彼女は「嘘じゃろ、私に掴ませてくれるんね、いいじゃろ、少年のために掴んであげよう」と慣れた手つきでカブトを網越しに掴んだ。私は籠の中のクワガタが逃げないように籠を開けて、そこに彼女と一緒にカブトを入れた。すぐにカブトとクワガタはバトルを始めた。
「おう、やっとるやっとる。僕のクワガタとおねぇさんのカブトでバトルじゃ」
と私はキラキラした目で彼女を見た。
これははるか昔の少年時代の話である。私はあの時、突然姿を消した彼女のことを忘れることはない。あの清涼感に包まれた、可憐な彼女は、私のクワガタとの決着を見届けることなくどこかへ行ってしまった。それは二度と思い出せない思い出のようにふっと消えたのである。彼女は今でもあの山道にいるのだろうか。私はそう思いながら、クワガタやカブトの入った昆虫の標本を閉じた。学者になったのはいいものの、最も標本にし難いのは思い出である。だが、その思い出を閉じ込められる、いや、覚えててくれるのがそこにいた昆虫たちなのだ。今年はあの山道へ虫取りにでも出かけたいと思う。彼女がそこに置いていった麦わら帽子を被って。私にあの頃の面影は残ってはいないが。




