さよなら人類
残念なことにいつしか人類は二つに別れてしまいました
「知っている人」と「知らない人」
「知っている人」は内緒話ばかりをするようになっていき、テレビでは連日くだらないどうでも良い事ばかりが取り沙汰されています
もしかすると地球が終わる日を「知っている人」たちはコソコソと準備を始めているのかもしれません
一部の人間を除く、その他大勢の人類に別れを告げて
秘密基地 2016年4月 渋谷区笹塚
ケンイチはひんやりとしたビルの壁に背を持たれ掛けて空を見上げた
高くそびえ立つビルとビルの隙間から見える四角に切り取られた空
丁度ヒトがすっぽりとはまる空間があって、まるで映画の画角に切り取られたような空を飽きることなくケンイチは眺めていた
何もない青空をしばらく眺めていると白い雲が流れて消えて行く
この場所はケンイチが考え得る誰も見つけることができない自分だけの空間だった
ケンイチは幸運にも秘密基地を見つけることができたのだった
「サード・プレイス」や「社畜」という言葉が流行り始めてテレビでよくこの言葉を聞き馴染んだ頃にケンイチは自分が職場と社員寮の往復になっていることに焦りを覚えていた
仕事が休みの日にあてもなくうろうろと徘徊した結果、偶然誰からも干渉されることはないであろうこのビルとビルの間にある空間を見つけたのだった
コンビニで買ってきたレジ袋の中身を広げるといつものように1匹の猫が近づいてきた
ケンイチはその猫をタマと呼んでいた
ケンイチはこの秘密基地に来るときはいつもツナとタマゴのサンドイッチを買った
レジ袋からサンドイッチを取り出して開封する
ケンイチはタマゴサンドを一口ほおばり、ツナサンドはタマの近くに放った
いつもの儀式だ タマは当たり前のようにサンドされたパンをめくり、ツナを食べ始めた
お腹が空いているときはパンまで食べているのだが通常はツナだけをさらってパンは置き去りになっている
今日はお腹が空いていたのかタマはパンまでペロリと平らげた
ケンイチはタマにできるだけ干渉しないように心掛けていた
この秘密基地で共に生きるためのルールとしてなんとなくそうしようと決めていた
ケンイチはレジ袋からジョージアのエメラルドマウンテンを取り出した
そのころにはタマはどこかに消えていた
エメラルドマウンテンを3回ほど振って缶のプルタブを開けた
良く冷えたエメラルドマウンテンを一口飲み込む
「ふう。」ケンイチはため息を吐いた
張り詰めた肩の力が抜けて一回り小さくなったように感じる
缶コーヒーを飲んだ後に出るこの吐き出された気体が心のモヤモヤまでも吐き出すのならどんなに良いだろうか
ケンイチはもう一度空を見上げながらそんなことを思っていた
(あの人は僕に対してもっと良くなってほしいから自分の貴重な時間を使って僕に対して一生懸命何かを訴えてくれているのだろう)
自分の貴重な時間を使ってまで誰かを正すときは決まって責任を取る覚悟がある人間に対してだけだとケンイチは思う
無責任に相手を直接叱りつけるのはあまりにもコスパが悪すぎる
自分には期待しないで欲しいとケンイチは思っていた
と同時にその人の期待に応えたいという思いが呪縛のように圧し掛かる
ケンイチは相手が自分のためを思って訴えてくれているのか、それとも自分とは全く価値観が違う人で、もしかしたら他人を傷つけて楽しむことができる人なのだろうか
そんなことを頭の中でずっとループして答えのない「眠れぬ夜」の幕明けが始まってしまうことがよく起こっていた
昨日もあまりうまく眠ることができないでいた
秘密基地はそんな状況を忘れさせてくれる場所である
たとえ自分が犯罪を犯したとしてもここに隠れているかぎり警察にも見つからないのではないかという根拠のない自信があった
戦争が起こったとしてもここに逃げ込めば安全に過ごせる
世界が終わったとしてもここにいれば・・・
安心できる唯一の場所がこの秘密基地でありケンイチにとってはかけがえのないとても大切な場所となっていた
ケンイチは持ってきたポータブルテレビの電源をつけてあまり面白いとは思えないような番組をぼーっと視聴していた
やたらとCMが多い最近のテレビ
砂漠の街で疲れた顔をした老人の兵隊さんが肩にライフル銃を担いで、腰に下げたサーベルを音を立てて引きずりながら歩き続けている
老兵が歩くと砂煙が舞ってそれを街のみんなが嫌な顔をして見ている そんなCM
これはティッシュペーパーのCMでなんとも悲しげなBGMが印象的だった
老人の兵隊さんの背中が小さくなるまでずっとカメラを回し続けている やがて強い光に世界が飲み込めれていく 最後は真っ白な画面 そんなCM
まるで強制的に悪夢でも見せられているかのような不思議なCMだった
このCMはたまに流れる
ちょっと前に深夜にこのCMを偶然みて怖くて眠れなくなってしまったことがあった
ケンイチは缶コーヒーを口に含んで空を見上げた
寒くなってきたので家に帰ることにした 30分くらいしかこの場所にいなかったがケンイチはこれで満足だった
仕事の帰り
笹塚駅を降りたすぐの商業テナントの2Fに「から騒ぎバー」というスポーツバーがある
ケンイチはナツミと20時過ぎに待ち合わせをしていた
「ケンちゃんこっちっ!」
ナツミは先に来ていて、ケンイチを見つけると右手で自分の椅子のとなりを叩いて左手を左右に振ってケンイチを招いた
ケンイチはあまり外に行かないタイプの人間だったが「サード・プレイス」「社畜」の影響で本当に偶然で仕事帰りに寄った社員寮の近くにある飲み屋に行ってみたことをきっかけにナツミと出会った
そんなナツミがたまたまやってきたケンイチのことをなんで気に入ったのかはよくわからない
ナツミと出会ってから何度かこのスポーツバーに来ることがあったが今日は早い時間帯の割には客がいて繁盛していた
ナツミはおしゃれできれいな色のカクテルを手元に置いていた
ケンイチはカウンター横の冷蔵庫から世界中から集まったいろんな国のビールを適当に1本選んでスタッフにお金を払った
天井が磁石になっていて開けた蓋をまるで下の乳歯が抜けたときのように振り上げてビールの蓋を天井にくっ付けた いつもの儀式だ 多分落ちてきたことはないだろう
どうやら誰かの誕生日だったようだ その人を祝いたい人たちが我先と盛り上げていたようだった
ケンイチが到着してすぐにその誕生日の人がやってきた
誕生日のその人はスーッと何事もないようにカウンターの端っこに座った
「サキちゃん、お誕生日おめでとう!!」
方々からクラッカーの破裂音がしてそこから誕生会が始まった
ケンイチはナツミに事情を確認した
「サキさんは私の大好きな人、ケンちゃんにも紹介してあげるね」
ナツミに手を取られてカウンターに座っている誕生日のサキさんの所まで連れていかれた
サキさんはケンイチに礼儀正しくお辞儀をしてくれた
サキさんの周りには既にいろいろな人がいてサキさんを祝福していた
何気ない会話は唐突に始まり取り留めもなく誰かがつなげていく
敵も味方もいないビーチバレーのような、会話が途切れないゲームが始まった
「テレビって本当に嘘ばっかりよね、さっき流れてたニュースによれば今日人類が木星に到着しましたって言ってたんだけどあれ絶対に無理だから」
サキさんの隣いるレイコさんが話題を投げかけていた
二人の関係性はよく分からなかった
「知ってる?木星ってガスだから!しかも濃い硫酸の星だから人が行っても溶けて潰れてしまう地獄みたいな星なんだよ」
「へー」
他人は当たり前だけど自分が知らない初めての話を聞かせてくれる場合が多い
それはとても心地よくてずっと聞いていられた
自分が普段観ているチャンネルにはこんな情報はひとつもなかった
いったい彼女はなんのチャンネルをみているのだろう
ケンイチは感心しながらレイコさんの話を聞いていた
ケンイチは店の外に出てビルの共通トイレに行った
少し遠くの方でサキさんを見かけた
まるで学校の廊下のような長い通路でサキさんが誰かと電話をしていた
実際このビルは教室のようになっていて文化祭の出し物のような店が立ち並んでいた
サキさんは油断していると見惚れてしまうほどの神秘的なきれいな女性だった
あのナツミが尊敬しているくらいだから相当だ
電話はサキからしているようだった ケンイチに気が付くと笑顔で会釈をしてくれた
ケンイチも笑顔で会釈をした
サキさんの電話の相手が繋がったようだ ちょうどケンイチは通り過ぎた
声は堂々と大きな声でサキさんは相手に話しかけていた
「サトシ?、お疲れ、今何してるの? あたし今日誕生日なんだ」
「・・・うん・・・うん わかった またどこかで会おうよ」
サキさんは一方的に相手のサトシという男にプッシュしているようだった
(どんなイケメンだよ)ケンイチはトイレで用を足しながらサキの電話越しの相手にほんの少し嫉妬した
時間はあっという間に過ぎていく
気が付くと「宴もたけなわ」なのかみんなで合唱していた
「きょおー じんるいが はじめってー もっくせいについったよおー♪」
隣の人と手をつないでふざけて笑ってしまうくらい上下に腕を揺さぶらせて唄った
全員酔っ払いだ
みんな笑顔でとても楽しかった ケンイチは「外」ではなくてこの空間の「中」にいることを心から実感できて安心を覚えた なんなら勇気も沸いてきていた
生きることは楽しいことだと思った
そろそろ誕生日会も終わる頃にナツミはモテそうな男たちのグループから2次会の誘いを受けていた ヒロさんとセンバさんとナカノさんだ
この誕生日会はヒロさんが主宰していたらしい みんなヒロさんを慕っていた 兄貴肌のナイスガイだ たまにこの場所で会うがしゃべったことは一度もない
「ナツミ 次どこにする?カラオケでいい?」
ケンイチは誘われていない雰囲気を悟ってトイレに行く振りをしてその場をあとにした
「から騒ぎバー」から社員寮までは歩いて5分くらい甲州街道沿いを歩いていけばすぐに着いた
ケンイチは満足していて足取りが軽かった またサキさんとレイコさんにも会いたいなとほんの少し思った 「から騒ぎバー」に通えばまた会えるのならまた行きたいなと思った
こんなにみんなから受け入れられたのはなんだか久しぶりの事だった
帰路の途中
今日は特別とても寒かった
もう4月の下旬だというのに真冬のような寒さだった
こんな日は寄り道せずに早く帰ってお風呂入って温まって寝てしまおう
ケンイチはそう考えていたのだが、後ろからただ事ではないような大きな足音が近づいてくるのを感じて振り返った
「はぁはぁっ…」
「ちょっとなんで急にいなくなっちゃうわけ?」
「全部計画が狂っちゃったじゃない!!他の男から誘われて、明日早いからって断りながら、ケンちゃんとは飲み直そうかっていうのがやりたかったのに!」
ケンイチは目の前の綺麗な顔をした女の人が息を切らしながらとてつもなく変なことを言っていることが面白くてうれしくて、思わず両手を広げて向かい入れる体制をとった
酔っぱらっていると普段決してやらないような行動をとってしまうものだ
ケンイチとナツミは強く抱き合った
それは同性の友達では味わえない友情表現だった
ナツミの香りが脳みその奥部まで浸透してインプレットされてしまう
ケンイチとナツミは甲州街道の車の交通量が激しい場所でほんの束の間だけ抱き合った
「よしっ」
ナツミは納得したのかケンイチと離れた
「飲み直そうか?」
ナツミが当たり前のようにケンイチに言った
「うん」
ケンイチがナツミに返事を返した
「確か明日ケンちゃん休みだったよね?ドン・キホーテでお酒買ってケンちゃん家で飲み直そうよ」
「えっ!ドン・キホーテまで結構あるよ 近くの白木屋でよくない?」
「ケンちゃん知らないでしょ あなたの知らない楽しみがドン・キホーテにあるから」
ナツミのどこからくるかわからない相手を納得させるための発言がすごい自信があって好きだった 少し呂律も回っていないところがなお魅力的に感じた
ケンイチはナツミと一緒に自分の家を通り過ぎて甲州街道と環状7号線がクロスする交差点を右折した
ナツミはご機嫌だったのか嬉しそうにいろんな話をしてくれた
それでもドン・キホーテまでの道のりは遠くて会話が途切れて沈黙することがあった
そんなときはナツミは今日みんなで合唱した歌を鼻歌のように口ずさんでいた
ケンイチはこの道を良く知っていた というかよく歩いていた
環状7号線の道路沿いのビルとビルの間にケンイチの秘密基地があった
職場へ行く笹塚駅の方向とは正反対の道だ 秘密基地に近付くとチラッとタマの事が頭をよぎった
どうでも良いことかもしれないけど、一瞬ナツミには秘密基地のことを話そうかどうか迷った
(もうすぐ秘密基地だ)
しかし秘密基地を通り過ぎたがなんとなくナツミには黙っていた
本当になんとなくだがもし話したとしても大した話ではないような気がした
実際大したことではなくどうでもよい話なのだ
そうこうしているうちに暗い夜道からやがて神々しい光を放つドン・キホーテにたどり着いた
ドン・キホーテではアダルトグッツのコーナーでキャッキャ言いながらはしゃいでいる学生たちを微笑ましく見送りながら地下1階の食品売り場に足を運んだ
ナツミは焼酎のボトルと塩分の高い梅干しを買い物かごにいれて、その他おつまみとなるような乾きものを真剣に選んでいた
(お金だけは自分が出そう)
ケンイチはスマートにお財布を広げるシミュレーションを頭の中で繰り広げていた
「あっ!!ケンイチ?」
ナツミは背筋をのばしてケンイチに尋ねた
「ケンイチの家にお湯沸すポットとかある?」
「…ない」
ケンイチとナツミはドン・キホーテの2階の電気製品売り場に足を運んだ
帰り道は電気ポットとお酒とおつまみが二人の真ん中で揺れながら歩いた
結構重たいし道のりは長かった
ドン・キホーテで流れていた「m-flo」の「How You Like Me Now?」が印象的で耳に残った
「ケンイチ、ファミマ寄っていい?」
「いいよ」
ナツミはちょっと外で待っててすぐ買ってくるから的なジェスチャーをしてコンビニに小走りで走っていった
ナツミはトイレに行ったあと、お菓子コーナーでベビースターをレジに持って行って、おでんコーナーで真剣におでんを吟味して店員さんに欲しいおでんを指差ししていた
ケンイチは寒さを感じていたが、我慢することができた
嬉しさがそれを上回っていたからだ
冬の夜に子どもの頃に観たテレビCMであこがれていた大人の世界を今自分が体感しているのだと思うと居ても立っても居られないほどうれしくなった
山下達郎の「クリスマスイブ」が季節外れなのにもかかわらず頭の中で流れた
焼酎のお湯梅割り
二人はケンイチの家にたどり着いた
家の中は当たり前だが真っ暗でとても寒く、ケンイチは玄関に買い物袋を一旦置いて、部屋の電気をつけてエアコンをつけてこたつの電源をつけた
ナツミは湯沸かし器を箱から取り出して水を入れてプラグをコンセントに繋いだ
ケンイチはテレビをつけた 部屋はなかなか温まらなかった
ベッドに寄りかかってケンイチとナツミは同じ方向を向きながらこたつに足を入れてテレビを見ていた
二人でテレビを見ながら缶ビールを飲んでいると、さっき買ってきた電気ポットのお湯が沸いたようだった
手慣れた手つきでグラスに焼酎を入れて、梅干しを1個そこに放り込み、コンビニでもらってきた割りばしでその梅干しを丹念につぶして、お湯を注いだ
梅干しの果肉で白く濁った熱いお酒 このようなお酒はケンイチは初めての経験だった
寒い部屋の中で梅のさわやかな香りと焼酎を薄めた熱いお湯をすすることで体が温まるのを感じることができた
飲み進めることで塩味が増してゆくのも楽しかった
ドン・キホーテに売っているこの梅干しでないとこの味が出せないのだとナツミは笑顔で言っていた
ケンイチとナツミはお酒を飲みながら、おつまみを食べてテレビを眺めていた
コンビニでナツミが買ってきたおでんの汁にベビースターを入れてふやけないうちにすぐ箸で食べるという食べ方もナツミに教わった
テレビは相変わらず面白くなくて、ケンイチは酔いも手伝って少し眠くなっていた
砂漠の老兵のCMが流れる なんとも悲しいBGMがケンイチの酔いを少し冷ましてしまった
「このCMのBGMは悪魔の歌っていうタイトルで、このCMに出演した人はこのあとみんな何らかの原因で死んじゃってるんだって」
ナツミは淡々とした口調でケンイチにそう伝えた
ケンイチはゾクッとしてナツミの体に近付いた
部屋は相変わらず温まらない、エアコンは壊れているようだった
異常なほど冷たいこの部屋では服も脱げなくてお風呂に入ることもできなかった
こたつと布団にくるまって、何気ない時間が流れた
ケンイチは寝てしまったようで、気が付くとナツミはいなくなっていた
こたつの上には書置きがあった
(今度来るときにガスファンヒーター持ってきてあげるね 夏美)
ケンイチは書置きをぼーっと眺めてもう一度目をつぶった
世界最後の日
ケンイチはあれからナツミに会う事はなかった
たまにナツミと初めてあった飲み屋や「から騒ぎバー」に行ってみるのだがナツミの姿はなかった レイコさんはいつもいた たまにサキさんにも会った
しかし会話の中でナツミの事は話題に出てこなかった
いつしかケンイチは人と会って盛り上がる場所に行かなくなった 避けるようになってしまった その代り秘密基地はことあるごとに出向いた 必ずそこにタマはいた
GWの熱い日に一度だけナツミを偶然みたことがあった
誰かと話しながら甲州街道を歩いていてこちらに気付いていなかったので、なんとなくだが逃げるように隠れてしまった ケンイチは4月の異常なほど寒かったあの日の記憶がよみがえった
「心が痛い」という表現が正しい
ナツミは誰かと歩いている ケンイチはもし隠れなくてもナツミに気付かれずいたとしたら耐えられないだろうと思った 自分を守るために隠れたから気付かれないのも当然だという風にしたかったのだ
ケンイチはナツミに会いたかったけど、会うのがなんとなく怖かった
こんな日もコンビニの買い物袋を持って秘密基地に向かっていた
日々は流れ、あっという間に夏が終わって風が涼しくなった
もうケンイチは普通に過ごしていた ナツミのことはあまり思い出さなくなっていた
そんな秋の夜長のある日の事だった
ケンイチが部屋で寝ているときだった テレビはいつもつけっぱなしだ
ものすごい爆風とともに耳鳴り以外のすべての音がこの世から消えてしまった
窓ガラスが割れて、カーテンがヒラヒラと強風にあおられている
割れた窓ガラスから甲州街道を覗くとみっちりと車が渋滞して人がたくさんあふれていた
ケンイチは今が昼なのか夜なのかもわからない外の景色を見た後に、つけっぱなしのテレビからこの状況を知ろうと思った
テレビはどのチャンネルを回してもまったく同じ内容が流れていた
テレビ画面の左半分は映画のエンドロールの様に世界中の人の名前がずーっと流れ続けていた
右半分の画面にはこう書かれていた
「新しい星へ旅立った人たちのリスト 彼らはずっと内緒話をしていたよ」
ケンイチは急いで身支度をして部屋の外に出た
何も聞こえない世界 みんな空を見上げていた 赤い色をした月が今まで見たこともないような大きさで空に浮いている もう少ししたらこの月は真っ二つに割れそうだ
まるで地獄のような世界が広がった
聞こえないように耳を隠したのだから、見たくないものを見ないようにそろそろ目ん玉も隠れてしまうだろう
ケンイチは自分の目が見える内にあの場所に避難しようと考えていた
いつものコンビニは停電していて店内は暗かったが、いつもの場所にあるいつもの商品を袋につめて誰もいないレジに有り余るお金をおいてコンビニを後にした
環状7号線は信号も道路も何も機能していなかった
道は盛り上がり、車はひっくり返って人の死体が道に放って置かれていた
ものすごい光景を目の当たりにしながらも、心はどこか非現実的でこの先のドン・キホーテをナツミと一緒に歩いたときの思い出が蘇った ケンイチはにやけてしまった
秘密基地に到着すると先客がいた
ケンイチはこのことに今の状況よりも驚いてしまった
そこにはナツミがいてビルとビルの間に挟まれて空を眺めていた
ナツミがケンイチに気が付くと、自分の耳を人差し指で2回トントンと指さした後に両手でバッテンのジェスチャーをした 首を傾げたので質問しているのだろうとケンイチは読み取った ケンイチはゆっくりと頷いた
高くそびえ立つビルとビルの間からは真っ赤な月が見えた
先程からロケットが空を飛んでいる 白い煙が空にしばらく残った
おそらくこのままいくとケンイチたちの体はバラバラに吹き飛んでしまうのだろうというような気がした 実際どうなるのかわからない状況だが、この秘密基地は地球で起こっている爆風から二人を守ってくれていた でもきっとほんの束の間のことだろう
ケンイチは思った ナツミと自分はどっちが先に死ぬのか?自分の体が醜くバラバラになるところをナツミに見せるのは少し恥ずかしいなと思った
でもそれ以上にナツミのそんな状態をみるのも悲しいなと思った
ナツミはケンイチの持ってきたコンビニの袋を興味深くみていた
「ん?」ケンイチはなんだかいつもの感覚があった
サンドイッチのタマゴとツナを取り出す
まず先にケンイチがタマゴを一口ほおばる
ナツミは黙ってそれを見ていた
ケンイチはナツミにツナの方を手渡しした
ナツミはツナのサンドイッチを受け取るとパンをはがしてツナを食べ始めた
ジョージアのエメラルドマウンテンをレジ袋から取り出した
ナツミはいなくなったりしなかった
二人で1つのコーヒーを順番に回して飲んだ
そして世界は闇に消えてしまった
もう何も見えない 手がないので触れない きれいな香りが漂った あの日の香りだ
「さようなら」ケンイチは誰に言うということもなく心でこの言葉を唱えた
休日の午前中
「ケンイチ、シャワー借りたよ」
ナツミの声で目が覚めた
「どうする?今日、下北でマニアックな映画でも観る?」
ケンイチは現実の世界に戻ってくるまでに少し時間が掛かった
「新宿行ってFrancFrancで家具をみて伊勢丹クイーンまで行って、珍しい食材を買って帰ろう。誰もいない道から帰ってこっそり歩きながらコロナを飲んじゃおうよ」
ナツミのスケジュールが具体的過ぎてケンイチは笑ってしまった
ケンイチも起き上がって、まだ湯気が残る浴室に行ってシャワーを浴びた
「今日はいい天気だよ、ケンちゃんって帽子持ってる?」
ナツミはシャワー中のケンイチに話しかけている
「持ってるよ」
ケンイチはシャワーの音でかき消されないように少し大きめの声で答えた
二人は軽く朝食を取ったあと、ナツミも着替えたいということでナツミの家に向かった
ナツミの家は方南町にあって環状7号線のドン・キホーテを越えたさらに向こう側だった
「ナツミさん」
ケンイチは急に立ち止まってナツミに声を掛けた
「なあに?」ナツミが返事をした
「あのビルの間に僕の秘密基地があって、一緒にそこに行ってもらってもいい?」
「ケンイチの大切な場所なの?」
「うん」
ケンイチはナツミにタマを紹介するつもりでいた
空は雲一つなく澄み渡り、風が涼しく、いつものように車が流れて喧噪とした風景が広がっていた
そんな休日の午前中
「ドリカム」の「Eyes to me」がどこかからか流れていた
曲は軽やかで二人の足取りはスキップに近かった
完