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偽りの執行人  作者: 亞沖青斗
一章 偽りの秘密文書
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六話

 憶測で物事を判断し、更に荒立ててしまった。時間の経過にしたがい憤懣も薄れ、そのあと急激に自らの言動が暴慢であったと痛烈なまでに後悔する今、女性用トイレの鏡に突き合わせる顔は、わかりやすいくらい真赭色に転じていた。

 労務部厚生課二係に属する者として、不相応な態度だった。そんな自己嫌悪に陥りかけた原因の一つは、やはり恩師でもある住田亜矢子に楯突いたのみならず疑心に染まる眼を向け、かつ激情のまま鬱憤を吐き出してしまったからだ。

 あまつさえ一係の皆の前で、二度と戻らぬ、と堂々と公言までした。鶴の折り紙の送り主の思惑通り、前田晃大から愛想尽かされて戦力外通告など受け、追い出されようものなら目も当てられない。この上での謎解きなど、屋上屋を重ねるようなもので、他人の耳に入ればそれはそれは愚かしい独り善がりと嘲られるだろう。つまり、なりふり構わず関係者に聞き込みしてまわれば簡単に標的までたどり着けそうではある。が、前田晃大のみならず添田人事部長からまでも一部の結果に評価を与えられた自負もある、となれば果然まだまだ自らの推理のみで解決まで運びたいと欲も出る。

 昼食を済ませシニヨンヘアまでも手直しした恭子は、戻った二係居室にてデスクトップPCモニターを前に、勉強がてら、懲戒審査委員会で使用したスライドショーファイルを開けようとする。

 ──あれ?

 マウスの手を止めた恭子の片眉が、たちまち吊り上がる。文書レベルの『秘』のフォルダより更に奥。持ち出し厳禁・懲戒審査委員会説明資料保管場所、と銘打たれたフォルダ内に保存されているファイルの最新更新日時に疑問を持った、その時であった。

「うおい、岩瀬原あ」

 現在は松本と二人で食堂に出かけている前田晃大とはまた違う迫力の銅鑼声が頭上から降りかかった。

「ちょっといいか、お前に言うことがあったんだけど忘れてたんだわ」

 恐竜が現在に生きていればこのような威圧感があったのでは、とそう言わしめる影がデスクに落ち、見上げるとそこには立花優が立ちはだかっていた。顔形そのものに武芸者のような凄味と、間合い内に踏み入れば斬り殺すかの如く気迫を、話す相手の肺腑にしみ入らせる。

「なにがです?」

 にも拘らず、後輩風情の恭子はぞんざいに答えた。実をいうと立花優は、容姿以上に恐れおののくほど三歳の実娘を溺愛している愛妻家でもあり、空手道場の師範として日々子供たちに秘奥技を指南する人情味溢れる三十五歳とのいわれがある。であるだけに器も大きく、また岩瀬原恭子を紅一点と丁重に扱うがため、若干甘やかす傾向もあり、尚且つちょっとした我が儘まで融通が利かせてくれたりもする。

 入社当初、この立花とエレベーターに同乗したときなど恐怖に耐えられず失禁しそうになったくらいであったが、今はそんな内面も知ってずいぶんと打ち解けていた。身の丈百九十センチの立花が、マントのような大きなスーツから、一つの小さな紙袋を取り出す。受け取った恭子は、思わず見張る。紙袋の外装が、鶴の折り紙と同じローズピンクの桜柄だったのだ。紙質も、匂いまでも同一である。

「なにやってんだ、お前」鼻にビタリと押し付けた恭子を目にして呆れ返る立花は「さっきの昼休憩の間に敷島が一係の方に来たらしくてな。これを岩瀬原に渡しておいてくれ、って伝えたらしい」

「敷島さんが、わたしに?」

 辛辣な罵倒を口にしながらも、表面上の笑顔だけは可愛らしい同年代の女性を思い出す。

「岩瀬原に謝罪したいんだってよ。揉め事を収めてくれたのにひどいこと言ってしまいました、ってな。直接、言うのはそれはそれで気まずいから手紙でどうにか勘弁してほしいと、今回は住田さんに渡したらしい」

「今回は? ちょっと待ってくれますか」

 恭子は、スーツのポケットに手を差し込み、それを指先だけで触れる。

「前は違う方法で、わたしに渡そうとしたことがあったってことですよね」

「らしいな。先週の金曜日に、岩瀬原が帰った時間帯を見計らって、廊下の社内メール便入れに贈り物とやらを放り込んでたらしいんだけどな。手紙だけ入れ忘れてたらしいから、もう一回持って来たんだとよ」

「そうですか、なるほど。ありがとうございます」

 当惑と推理が複雑に錯綜する。立花が立ち去ったあと、恭子は紙袋を目線高さまで持ち上げ多角度から観察した。雑貨屋で売っている包装紙を使い、手製の紙袋を造っていると見た。指をひっかける程度の小さな持ち手も含め、糊付けで継ぎ目を固定している。中からは、これも女性らしい可憐な柄の便箋があらわれた。

 岩瀬原様へ、と綴る文から始まる。


《僭越ながら、先日の非礼を謝罪させてください。業務であっても、わたしのためにとてつもない労力と時間を割いて下さったのだと、上司並びに他関係者からも伝えられまして、自分の言動の稚拙さを痛感させられました。この度は、わたしの依願退職届のせいで岩瀬原さんが会社側から責められる形となり、落ち込んでしまっているということまで耳にしまして、どうにかお詫びしたい気持ちとなりました。どうかわたしの心までの贈り物です。受け取って下されば幸いです。表面上だけで粋がっている臆病なわたしをどうかお許し下さい。追伸、依願退職は取り止め部署異動を願い出ることにしています。敷島めぐみより》


 どう反応するべきか、恭子の頭の中で思考が迷走する。

 ──まず整理しよう。

 敷島めぐみが依願退職を取り消したなら、つまるところ自分が関わった担当案件から落ち度が取り除かれ、帰するところ名誉挽回に意気込む必要性までもかえってなくなり、表立って万事解決となる。だがしかし、この桜柄紙袋の一致について、このまま見過ごしていいとは思えない。

 二係事務室は現在、少し離れた位置の衝立で隔てた先にある応接ソファで横たわり早くも鼾を鳴らす立花と、上座のデスク面に両足を乗せて居眠りする佐川のみで、前田も松本もいない。恭子はすみやかに給湯室へ場所を移して、ポケットから例の鶴の手紙を取り出し、敷島めぐみからの便箋と見比べた。

 明らかに、筆跡が違う。双方とも女性らしい整った文字形であるが、敷島からの手紙はインクが黒色で、文字は丸みを帯びていた。一方の鶴の折り紙の赤文字は、どこか媚びていると言い表しても差し支えない耽美さがほのかに感じとれる。となると、先の鶴の折り紙による、前田晃大への陳書は敷島の仕業ではない。そこで恭子は渋面する。ほかでもない恭子だからこそ、敷島という女性の腹黒さについて、身を持って知っているのだ。第二面談室にて執り行った面談の場でも、あれほど痛烈な愚弄を朗らかな笑顔で言い放ってきたではないか。筆跡など他者を使役すれば、どうとでも細工できる。真意のほどは定かではないが、敷島はこうも書いているのだから。

 部署異動を願い出る、のだと。

 もしやおさまらぬ屈辱からいよいよ発露した挑発か、或いは労務部厚生課二係員として試されているのか、いずれにしても、うがった目で見て然るべき対象の女が、あの敷島なのだ。

 次に恭子が着目した点とは、琥珀色石の片方しかないイヤリングである。敷島めぐみは確か面談の日、会社員としては少々華美とされるピアスを両耳に装着していた。この紙袋といいピアスもイヤリングも、趣味が講じての手作りではないのか、との考えに至る。過度のストレスが、敷島本人に加わって訴え出た先の案件でもあるのだ。当然にして、面談の際に聞き出しておくべきだったと、今更ながら悔やまれるここでも、面談員としての不手際に論点が横滑りて、またもちょっとした自戒に陥った。

 便箋と鶴の折り紙をそっとポケットに収めた恭子は、事務室に戻って広い窓ガラスから食堂方面を見下ろす。雨は上がり、屋外の地面は既に乾こうとしていた。上階層からであるし、大勢が往来する従業員らの顔を判別するなど到底不可能ではあるが、遠く先に建つ、大所帯を収納可能とする巨大食堂から姿を現し、やがて近づいてくる二人の男だけが誰であるかは恭子でも断定できた。前田と松本が並んで管理棟建物へと戻るシルエットは独特であるため、これについては確信できる。

 その後方、十数メートル離れた場所には五人ほどで一塊りとなる華美な女性集団がこれもまた目を凝らさずとも他と差異あり、甚だ浮いていた。広報部宣伝課の女性陣である。生え抜きの美しい容姿と、身に染みついているらしき隙ない上品な素行の彼女らに敵う者など、この会社にどれほど存在するだろうか。まして、全員が高身長に加えてモデル並みのスタイルを保持しているというのだから、平凡な男性では不釣り合いとまで、失礼を承知で恭子は思う。

 ひいてはそのうちの一人が、前田晃大に想いを寄せているとはにわか信じ難し。とはいえ、あの付かず離れずとした位置状況は、蓋然性の高さを物語っている。恭子は自分の座席へと戻り、次にはデスクトップPCを操作する。

 社内ホームページから映し出された情報を丹念に精察し、ついに納得へと行き着いた。ホームページ掲載写真の撮影日は、二月十四日とある。まさにバレンタインデーチャリティーイベント真っ只中の光景であった。

 ──なるほど、やっぱりこれは、わたしへの挑戦ということね。

「岩瀬原」と、おりしも目覚めたらしい佐川から欠伸混じりに声をかけられる。恭子は、何事もなかったかのように愛想を浮かばせて「どうかしましたか」と返事した。

「さっきのドヤ顔やめた方がいいよ」

「ドヤ顔なんかしていませんよ」

 声を張り上げるそんな恭子がズームアップしていたPCモニターには、つい二日前の土曜日、総合病院小児入院病棟にて催されたらしい、広報部宣伝課によるチャリティーイベントの様子がまざまざと写し出されていた。滝のように織り成された色鮮やかな千羽鶴が、清潔感の溢れる広い病室に幾つも飾られ、それを目にしたパジャマ姿の子供たちが可愛らしい笑顔を咲かせている。戯れる女性社員五人に加えて、昨今のこと巷で人気が急上昇だと噂の男性アイドルユニットの一人が、爽やかな笑顔で寄り添い立っていた。

 当社製の高度なレーザーダイオード技術を搭載する最先端医療機器を寄付したとのことで、説明では広報部宣伝課女性陣が手製のクッキーを大勢の子供たちに振る舞ったとの記事が掲載されていた。そのうちの一人に焦点を置く要因がある。端正な容姿である男性アイドルの真横では、華やかさに全く遜色ない容姿の美しい当社女性従業員がウェーブがかったマットカラーの長い頭髪を不自然に傾ける。それに紛れ、琥珀色のイヤリングが左耳から垣間見えていたのだった。

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