四話
一欠片の隙もなく身嗜みを整えて参じた場所とは第三会議室で、そう広くはないスペースにはコの字型に並べられた長机があり、そこには人事部長、労務部長、顧問弁護士、内部監査委員長、労働組合従業員代表、専務取締役に加えて、本日は参加していないが代表取締役にまで及ぶ懲戒審査委員会メンバーの錚々たる顔ぶれが属する。
どこまでも張り詰めた空気があまねく逃げも隠れも不可能な見通しの良い一室に、芯のある声が端々まで響き渡っていた。
「ではまず、敷島めぐみが訴えた本件に関しまして、発端から説明させていただきます。営業部第二課サポート係に所属する敷島めぐみより、今年一月二十三日、コンプライアンス委員会に、セクハラまたはパワハラ類による苛めを受けているとの報告がありました。我々労務部厚生課二係は通例どおりのフローに従い、敷島本人、または加害者とされる敷島の同僚とその上司に聞き取りを執り行い、事実を明らかにしてまいりました」
峻厳とした面魂の年輩重役が聞き入るなか、それに取り囲まれる立ち位置で、前田がプロジェクターからスクリーンに映される資料を操りながら本案件の仔細を説明していく。慣れた模様でまるで臆する態度を微塵も感じさせない明瞭かつ一片の淀みない口調で、滞りなく進めていくその様には、手持ち無沙汰感も拭えず傍らでただ眺めるしかできない恭子を切に感心させた。同時にこれを自分がやる日がいずれ来るのだ、と痛感して胃も萎縮する。入社して数度しかお目にかかった試しがない、冷笑を浮かべる添田人事部長や、仏頂面を崩さない國富田労務部長など、雲の上の存在でしかない。
それから社会通念、会社理念、法的観念、などなどに照査しつつ三十分にも及ぶ説明が続いた。
「こちらの岩瀬原恭子が、新しく配属された女性トラブル専門の担当であります」
前田の紹介により懲戒審査委員メンバーの視線が一斉に、直立不動する恭子へと集中する。
「加害者側の複数の社員は、当初自分たちの過失及び悪意からなる言動などの事実を否定していましたが、岩瀬原の緻密な調査により社的理念からの逸脱が証明され、認めるに当たり、結果、本件は無事解決へと至りました。しかし、この時点ではまず、懲戒案件として扱われるべきか争点になるほど、微妙なラインでもありました。ここで担当の岩瀬原が調査及び聴取時に違和感を抱いていた要所を、再び調査対象に挙げて究明したことで更に甚大なる違反が発覚し状況が変わります。つきましては、以上の報告及び、敷島めぐみの同僚である、小笠原大志、田野井翼、浅間山美沙子、営業部第二課サポート係所属の三人が結託しておこなった無許可業務時間外労働と、新規プロジェクト案件資料という極秘文書のプライベート持ち出し違反も含めて処分の検討をお願い致します」
恭子は唇を真一文字に引き締め、まばたきも呼吸すらも停止させていた。
「ここまでの経緯説明の中で、何かご質問はありますでしょうか」
一度区切って前田が首を巡らせたそこで、即座に手を上げた人物こそが、恭子にとってもっとも恐れる存在である。添田人事部長であった。ポマードで塗り固めた黒々とするオールバックヘアで、上等なライトグレースーツを着こなす紳士風の出で立ちだが、眼鏡奥で光る鋭い両眼は射抜くようでいてしかも口元は皮肉に染まっていた。いよいよ、彼が口を開く。
「無事解決したなら、敷島めぐみは依願退職なんて選択を取らないと思うんだがなあ」
この指摘は予想の範疇。突き刺さるような鋭利な眼差しを受け、恭子の背筋が一段と伸びる。
「確かに短期間での調査と報告、自白させた手段は評価に値するだろうね。それに今年一月に異動したばかりの新人が知恵を働かせ、ほぼひとりで成し遂げた点は非常に素晴らしい。観察眼やら推理も冴えたと住田くんからも聞いている。君ら前田や立花の後ろ盾があったとしても、まあなかなかのもんだ。しかしねえ、敷島めぐみが申請している退職申請とそこに書かれた理由に目を通した人事の私が思うにこれは、本人が満足していると終着させていいものか、実に悩ましい……ということだ」
「そちらの件に致しましては確かに仰るとおりです。ただこれは、敷島めぐみ本人の性格や判断にも問題があることですので」これも想定していたようで前田は難なく切り返す。「もちろん、我々の力不足でもあります。敷島めぐみとの対話が欠如していた点は否めません。今後一層、努力して取り組みます」
「そこは前田くんじゃなくて、まさにそこの岩瀬原の担当なんだろう。敷島めぐみの心情に対して、しっかりと寄り添ってはなしを聞いたのかね。落ち度はなかったのか」
恭子は乾いた喉に唾液を送り込むのもやっとで、一言も発することができない。確かに寄り添ってはいなかった、と認めるに値する結果だ。そんな心境を見透かしての厳しい発言が、添田からまだまだ降り注ぐ。
「今の説明では、パワハラを受けていた敷島めぐみにもそうされる原因があったと見受けられるわけだろう。そこは間違いなく考慮されるべきではある。けれどね、そういう輩だからこそ不満を抱いて退職すると、そのあとあらぬことを周囲に振りまいたりするもんだ。そうなったら君ら二係も不本意でしかないだろう。私も同じだよ。つまり何が言いたいかというと、我が社に不利益となる謂れが広まる恐れを防ぐために、案件解決後のアフターケアが万全じゃなかった。と、そうじゃないかな。敷島への正しい対策として、今後の業務でも周囲から異質扱いされないよう、騒動を起こさないよう、問題点を指摘して是正させる。難しいなら適切な部署に異動させる。そう導くところまでが君らの業務じゃないのか」
「そちらの方は、わたしのせいで」と、その時、勇み奮って声を発した恭子であったが。
「人事はまだ敷島の退職届を正式に受理していない」無用とばかりぞんざいに手をはらって添田が遮る。「まだ猶予があるからもう少し本人と面談して、本当に納得した形で終着するようにしてくれるか。その上で退職を選ぶなら仕方がない。不安なら教育者の君も同席するように、前田くん」
「承りました。他に何か質問はございますか」
充分な酸素が脳へと行き渡らない思考のもと懲戒審査は着々と進行し、加害者側の懲戒処分内容まで決定する。そして、恭子の記憶にうっすらしか残らないまま閉会した。