三話
就業開始時刻午前八時にして、労務部厚生課二係全五名が事務室に揃い踏み、形ていどの短い朝礼の中で係長の佐川から通達があった。
「えー、先週も伝えたと思うけれど、製造部署の一部のほうでハンガーラックにかけていた上着の中から煙草が消えるなど軽微な窃盗事件から始まり、上着そのもの、下駄箱に入れていたブランドシューズ、他に社内便が紛失する事案が相次ぎ、しかもまだ犯人が特定されていない。直接的な金銭被害ではないし、機密漏洩までには至っていないので会社的には警察どうこうより、内々で片付けたいみたいだ。だから、もしかしたらこっちにも案件が回ってくるかもしれない。ひとまずは、二係前廊下にある社内便置き場は使用禁止にして、今日から一時的に一係の事務所に移設させる。社内便を扱う部署にも、私からそのように連絡しておく」
それから、ラジオ体操、続いて業務前の清掃を十分間おこなう。恭子はコードレススティック掃除機を手に、居室内を満遍なく移動しながら、メンバー全員の動向を目ざとく窺っていた。セキュリティドアを抜けられる従業員は、モップがけする佐川係長、窓ガラスをアルコール消毒する松本主任、見かけに似合わず細かく備品整理する立花、そして給湯室の清掃に姿を消していった前田、あとは管理棟のどこかにいる國富田労務部長と住田課長のみ。
佐川喜久という白髪混じりの七三分けと眼鏡くらいしか特徴のない係長は、誰にでも優しい温和な性格でありながら、反面のらりくらりと直面する問題を躱しては巧みな理論で上司に問題を押し付ける技能に長けた齢五十の独身おじさんである。
主任の松本崇は薄い頭髪と見事な中年腹で、プライベートではデリケート性の欠ける口の悪さと腹黒さが原因となって妻娘と別居状態となる三十八歳。元営業部らしい表面上だけは人当たり良い笑顔がせめてもの救いで、前田とは頻繁に昼食を共にしている。
立花優という名前の、三十五歳、既婚、身長百九十二センチ、体重九十五キロとなる偉丈夫は、前田とはまた比類にならぬ強烈な強面に加えて、屈強な筋肉を持ち備えている。
つまり、あの鶴の折り紙が、前田のデスクから消えている状況を目にして反応があれば、その人物こそが『例の女性』から依頼されて行動に及んだと考えられるわけだ。ひいては、三日前の二月十三日金曜日、恭子が帰宅する十八時五十分頃まで二係居室に残っていた佐川喜久と松本崇に条件が絞られる。
清掃中の恭子が盗み見る二人に、今のところ目立った反応は見受けられない。役職者であるこの二人になら部外者が頼んだとしても必然性はあるがしかし、裏を返せばコンプライアンスに厳格な二係の役職者がむしろ疑いもせずことを為したとも考え難い。となれば、そもそも依頼した女性と面識があった可能性も高い。前任者の瀬川真奈美は、佐川のコネ入社らしいだけにその筋が濃厚である。後ほど、業務の引き継ぎ口実で接触を試み、さりげなく探ってみようか、と思案中のそこで窓ガラスを除菌シートで丹念に磨く松本がちょうど近い位置にいたので、世間話をよそおい話しかけてみた。
「松本さん、先週の金曜日もやっぱり帰るの遅かったんですか」
「いやあ、七時過ぎには帰ったよ」松本は外の天候とは裏腹に明るい笑顔で返す。「ほら、今日の懲戒審査委員会で使う資料のダブルチェックをね。岩瀬原も重役にあれこれ嫌味を言われたくないだろ」
「ありがとうございます。ほんとにすみません。めんぼくないです」
恭子当人が直接関わっている事案ゆえ、あざとい演技と揶揄されようが、精一杯の愛想と低頭で余念なく感謝の意を表す。
「いいよいいよ、俺の仕事だしね、ちょっとやそっと遅くなってもたいしたことないよ。まえちゃんに修正を頼むのもめんどくさいから、自分でやっておいたんだよ」
どこまでもにこやかな松本が、少し哀愁を漂わせたその理由は言うまでもなく、独身の佐川同様、帰れば独りの別居状態だからだ。恭子は慌てて話題を切り替えた。
「それでその日は、最後まで残っていたわけですか」
「いや、佐川さんが最後だったよ」
ついと視線を移した先、不意打ちで話を振られた佐川がモップの手を止め、
「私は一係に用事があっただけ。住田さんに話があってね。あのだだっぴろい一係で住田さんも、一人でまだ仕事してたよ」欠伸を噛み殺して言う。「なんだかんだと忙しい人だからねえ、課長代理でもどこかの部署から引っ張ってくればいいのに。じゃないと、二係も一係も同時に面倒見きれないだろう。それにくわえてプライベートじゃあ、年頃の娘をかかえて立派なお母さんしてるっていうんだから、そりゃ旦那も頭が上がらないよ。なあ、松本?」
「佐川さんが課長代理に抜擢ですねえ、なんてお世辞を言おうと思ったのに、強烈な皮肉で耳が痛いでござんす。うちは頭が上げる上げないの前に逃げて来ちゃいましたからねえ、えへ」
「まあ、私も言えた道理じゃないけどな。というか、課長代理なんかなったら私が一係の仕事を把握しなきゃいけないよ。嫌だねそんなの。課長職って、年俸制だから残業代つかないしさ」
「プライベートでも仕事のことを考えてるらしいし」
「そうそう、部長から課長、課長から私に無理難題が降ってくるんだよ」
佐川と松本のこもごもとした雑談に興が乗っていく間、恭子は早々と離脱し、次に持参していた紙袋を持って掃除機作業の不自然なき流れで給湯室へと移動していった。なるほど、と頭の中で恭子は整理する。一係に住田課長が独りだったということは、瀬川真奈美は既に帰宅していて、佐川と松本、そして住田の三人のみが関係者として残っていたことになる。
「お、ここも掃除機かけてくれんのか」
給湯室ではゴム手袋を装着した前田晃大が、億劫そうに、ステンレス流し台の水垢をスポンジタワシにて擦り落としていた。
「皆さんに今日、チョコレート買ってきたんで、あとで食べてくださいね。デパ地下のいいやつですよ」紙袋から取り出した菓子缶箱を冷蔵庫の横に置く。「旬の苺の風味がすごいんです。って聞いてます?」
「ふーん」とこちらも気の抜けた大欠伸である。
「前田さん、前田さん」
顎を上げて鬱陶しい気に一瞥されるも異動から一ヶ月も経てば割りと慣れるもので、恭子は掃除機の手を止めず、その稼働音より小さい声量で言う。
「金曜の夜、会ったじゃないですか。あれ、偶然じゃないんですよ実は」
清掃も終わりがさしかかる前田が手を止めて首を傾げると、恭子もそれに併せてあざとく傾げた。
「確か金曜日に話してましたよね、製造部だった頃の友達と久々に飲みに行くんだとか、その友達が部署異動のことで困ってるんだとか。どこの店に行くんだとかの話まで松本さんと。それでね、わたしもその日、友達と会う予定だったから二次会ついでにその周辺に行ってみたら狙い通りでばったり」
「それで、あんな癪に障るどや顔してたんかい」
「どや顔なんかしていませんが」
「わざわざ、んなことして、なんの意味があんねん」
「いやあ、部署異動で困ってる人の話とかを聞いてみたくて」
「嘘やな。ほんまは別の理由があったんやろ。せやないと、岩瀬原の友達らもあんな顔をひきつらせたりせんはずや」
前田は冷笑を浮かべて、袖捲りからあらわになる筋骨たくましい前腕を組む。易々と看破された恭子であったが、これも想定内、当初は気分転換がてらに集った食事会から、二人の友人が失意に落ちる恭子を慰め、そして遂には愚痴話に登場した前田晃大という異質な男に興味を惹かれたがために、運良く遭えまいかと向かった結果だった。
しかし、恭子は真実を打ち明けず、現状における自身の状況を打破するにうってつけの話題へと偽る。
「前田さん、彼女がいない、って言ってたから、わたしの友達を紹介しようかなあって思ったんですよ。二人ともファッション誌の読者モデル経験があって、しかも彼氏いないんですよう。今がチャンスなんです。気に入った子いませんでした?」
「せやから、俺の顔を見て、顔ひきつらせてたやろ岩瀬原の友達はよ」
興味無さげに嘆息してゴム手袋を剥ぎとり立ち去ろうとする前田は、恭子の操作する掃除機により行く手を阻まれる。
「まあ、待ってくださいよ。そう見えただけで、実は悪くない反応の子もいたんですって。それでなんですが、ちなみに前田さんは現時点で良い関係の女性はいますか」
「はい、岩セクハラ」
「誰がイワセクハラだ」
前田は、次に発する言葉で恭子の心臓を貫いた。
「それより、懲戒審査委員会の準備な」
これには調子を崩されてやむなし。「はあい」と、うなだれて道を譲る。やはりそう簡単に、口を割らせることは出来ないようだ。