二話
一月四日、仕事初めからの部署異動とはいえ、実は恭子の前部署と同じく場所は管理棟十二階で、エレベーターから降りた直ぐのここ、通路が左右に分かれる分岐点までは、かいつまんで特異性のない朝の風景だった。去年までは、従業員の給与、保険、労働量、福利厚生の管理など、他に相談から申請手続きまで労務管理全般が業務の主であったが、それは本日から恭子を除く総員十八名が属する労務部厚生課一係の担当であって、もはや部外者となった今、毫も気にする必要はない。
異動先の労務部厚生課二係の業務はつまり、まったく毛色が違うのだ。
恭子は、いつものように物寂しくこざっぱりしたロビーを右には曲がらず、ついぞ今日まで訪れたことすらなかった左側へ伸びる長い通路を曲がり、そろそろと進んだ。ふと、気配を感じ途中で来た道へと振り返る。
すると、エレベーターを出て直ぐの正面壁面に備わる立ち見鏡に、パンツスタイルスーツの女性の姿がかすかに過った。足音の方向からして、おそらく一係に用事があるのだろうと推し測る。こんな時間に来ても、もちろん就業開始はまだ先だが、確認するのも億劫であるし、せっかくの気勢が削がれるのも本意ではないのでここは無視した。
恐る恐ると進むパンプスの鳴らす足音のみが、四壁から跳ね返っては緊張をますます掻き立てる。
角を曲がった壁沿いにはワゴン台があった。その上には、横幅と丈長さ共に四十センチサイズとなる抽斗仕様の箱状レターケースが備え置かれており『労務部厚生課二係宛 社内便置き場』と、各々の従業員名が表示されていた。透明ケースの最上段抽斗から佐川、松本、立花、前田、最下段には岩瀬原の名前も新たに追加されていた。この先は機密性レベルの高い文書を主に取り扱うため、法的遵守も含めて、セキュリティドアが設けられている。重役及び、当該係に属する従業員のみが所有する特殊な社員証磁気カードがなければ、通過不可能だ。
すなわち、先のレターケースは機密レベル外の個人宛書類物を直接本人に届けられないことから、保管中継地点となっている。
恭子は、首から吊るす新たな社員証カードを、壁面に設置された磁気情報読み取り機器に当て、今まさに頑丈なセキュリティドアを開こうとしていた。ピッ、と電子音が鳴り、機械的作動音が発生してから解錠される。
ドアを押し開いた先、目に映る空間──ここが、労務部厚生課二係。通路奥の突き当たりには、物音一つしない簡素なスチールドアが三枚横に並ぶ。
「これが、異動か」
眩暈が起こり、我知らず後退る。
──やっぱり、一係で時間を潰してから来よう。
怖じ気付いてしまい、二係の区域から一度出ようとした。
その直後のこと、前述した心境の乱れもあってとんでもない失態をおかしてしまう。悲鳴をあげれず、絞り出す程度の呻吟のみで助けをこいながら意識を失いかけたそのとき、駆けつけてきた人にからくも救われたのだった。
「大丈夫か、きみ」
安否を問われた恭子は顔面に紅潮を迫られるもしかし、誤魔化そうとシュシュも外れて乱れた茶髪も厭わず、眼前で呆れた面持ちを浮かべる坊主頭の男に慌てて頭を下げた。
「本日付で、労務部厚生課二係に配属されました岩瀬原恭子です。よろしくお願いします」
「なるほど」男は納得の面持ちでこう名乗る。「俺は、前田晃大や。今日からよろしく」
労務課長からの事前情報によると、この前田晃大は歳にして二十九とまだ若く精力的でもあるが、相反してその異様な貫禄と迫力をふんだんに醸し出す厳めしい外見と腹奥まで振動させる低い声に加えて、身の丈およそ百七十五センチを包んだカシミアブラックコート越しでも推察できる体格良しとした武骨なシルエットは、元警察官との情報も納得いく。これが社内で、執行人、などと畏怖と共に噂される人物。とはいえ、恭子もかつては一係で同じ労務部にして、フロアまでも同じであっただけに共用エレベーターでは何度も顔を合わせている。ただし、一係全員が類い漏れず、二係を恐怖に近い対象としているため同調していた恭子も、彼とは会話の一つ試みたことがない。
尚また、昨年と差異ある要素が言葉を詰まらせ、失礼と知りながらも凝視して離せなくなってしまった。ひたいの鋭い斜め傷、下唇の縦傷、その二本に走る切創から。
──どこからどうみてもマフィアだ。
勿論、視線に気づいていたであろう前田であったが、にべもなく背を向けて「案内する」と固まる恭子に追従を促した。
セキュリティドアを再度通過し、労務部厚生課二係の従業員が事務業務に専念する額面通りの事務室に足を踏み入れた。室内にはまだ誰一人出勤していないだけに、ひっそりとした静けさが広がる。一係と同様、寒色タイルカーペットの二十四畳の余裕あるスペースには、事務用スチールデスクが五台隙間なく並べられていた。壁際には天井すれすれ高さのステンレス製書棚が聳え立ち、そこは労務、人事、法務関連の業務などで活用する資料に埋め尽くされる。
「岩瀬原のデスクはここになる」
前田晃大に指示されるデスク面には、備品であるデスクトップPCの他に筆記具入れが備わる程度で、実に味気ない。
「前任者の瀬川真奈美が使っていたデスクになる。瀬川ともまだ業務の引き継ぎが未完了なら、ここに呼びつけて質問してもいい。むしろ、そうしたほうがいいな。一係で、二係の業務内容を話すのは問題があるから」
「はい」
返事をした恭子は、屈託ない笑顔と黒髪ストレートヘアが良く似合う美貌の女性が、仕事に勤しむ姿を眼前のデスクにて想像した。瀬川真奈美という名の従業員は、恭子と同年代でありながら二係で唯一の女性メンバーとして属し、また恭子とトレードする形で新年の本日から一係に異動する人物だ。この二係の係長である佐川喜久の姪である。
「あっちが係長の佐川さんの席」前田が、上座となるデスクを指す。「あれが、立花さんの席。あの人食い鬼みたいな外見のオッサンな」と恭子のデスクの真向かいを指し、次には「主任の松本さんがあっち」それが恭子のデスクの斜向かい。「ここが、岩瀬原の教育担当の俺の席やから、まあ気兼ねなく訊いてくれ」
それから前任者の協力もあり、あれよあれよと一ヶ月経過したが、恭子に任せられる仕事はまだ数少ない。ところがつい先週、突如にしてある一つの案件が舞い込み、待っていましたとばかり、意気揚々と恭子が担当したのだが──結果、惨敗。本日、如何にもその心境をあらわした天候であった。
冷たく濡れひたる駐車場からさんざめく滂沱を傘で受けながら足早にくぐり抜け、労務部厚生課二係にたどり着いた本日も、先ほどの追憶と同じくして朝早く、事務室内はまだ無人だった。特に言い付けられたわけでもないのに、誰よりも一番のりし、ルームライトを点灯させ、空調設備を稼動する。自らに当てがわれたデスクに歩み寄るその時、恭子は視界の端にかすった違和感に気付き、首を傾いだ。
「なんだこれ」
あの前田晃大のデスクのキーボード上に、およそ人柄に似つかわしくない物体が殊更わかりやすく置かれていたのである。桜柄ローズピンクの色紙で折られた、手の平サイズの鶴だった。
不躾と知りつつ興味本位でつまみ上げた恭子は、目の高さまで近づけ、矯めつ眇めつ観察する。
「んん?」
鶴の腹部に何か入っているのか、カラリと音が鳴る。
きめ細かく、折り目正しく、バランスも良く、丁寧かつ綺麗に形成された鶴の折り紙をあの剛毅木訥を絵に描いたような男が造り、よもや自分のキーボード上に飾るだろうか。まして、まるで椅子に座った人へと鶴が顔を向けるかのように配置されていたとなれば、他者からの思惑があると考えに行きついて事足りる。
「いやしかし、じゃあ誰になる」
眉根を寄せる恭子は折り紙を元の配置に戻し、無断で前田の椅子に座って鶴と向き合った。労務部厚生課二係のメンバーは他男性ばかりで、外見のみで判断するのもやぶさかではないが、とてもこれを折ったとは思えない。
「なら、女性から」
一係と二係を統括する労務課長の住田亜矢子は、あきらかに二係メンバーから距離を置いているので絶対とは言えなくとも考えられない。となれば前任者の瀬川真奈美だろうか。しかし、彼女は異動後となった現在、単独でセキュリティドアを抜けることが不可能だ。とそこで恭子が着眼したのは、その鶴の腹部。瀬川の好物である抹茶飴でも入っていれば、二係の男性メンバーに言付けて頼んだとも推理できる。そこで恭子は再び鶴の折り紙をつまみ上げ、隙間程度、指先で抉じ開けた。
「むむ?」
目を凝らす。中に入る物体は、親指爪サイズの茶色石のイヤリングだったのだが、一つしかない。次いで、別の要素にも気づく。折り紙裏の白地に文字が書かれていた。
「なに……二係に異動してきた女性社員」
生唾飲み込んだ恭子は、脇目もふらず、鶴の折り紙を開けてしまう。そこには、端麗なる文字が赤色で書き連ねられていた。
《前田さん、このような手紙を突然送り付ける無礼をお許し下さい。不躾な質問ですが、瀬川さんと入れ替わりに、二係へと異動してきた女性は実際のところどうなのでしょうか。管理棟から出るとき私が見た限りでは、志願したわりにはあまり業務に対する意欲があるようには見えませんでした。余計なお世話だとは思います。決して不快にさせたいわけではありませんがしかし、あなたに私の希望を知っておいて頂きたいのです。
もし、あの方が不適正であるならこの私を引き抜いて欲しい。私ならきっと労務部厚生課二係のお役に立ちます。特別な者しか出入りできないこの固い扉の内側で、特別な権限を会社から付与され、特別な任務をまっとうする自信があります。ご留意よろしくお願いいたします》
「んなんっじゃ、これは」
ひたいに擦り着けんとばかり手紙を睨む恭子の顔面は、たちどころ怒りに満ち満ちて朱に染まる。
確かに自信の希薄さが態度に出ている感は否定できぬ先の一週間であったが、たとえ他人からそう見えたとしても、二係の業務に直接たずさわった経験もない部外の輩に批判される謂れはない。
この手紙の差出人の思惑通りにことが進み、易々ととって変わられたのちに、自分を見下ろして取るに足らないとばかり勝ち誇られる未来が訪れるなど到底容認できまい。もっとも、疑念も生まれた。そこで恭子は怒気を収めて考える。いったい誰がどのようにして、このような謀略を企てたというのか。
文章を漏らさぬよう再度確認したが、差出人の名前は記されていない。とすると、受取人である前田晃大が読んだ際、直感的に差出人を判別できるということだ。しかし、今どきメッセージを伝えるにしても電話の他に社内メール、及びプライベートでの知人であるならスマートフォンを使えばいい。差出人が女性であることも確定的であるし、一係に異動したばかりの瀬川真奈美でもないだろう。
本人曰く独身で恋人もいない前田晃大とて女性の知り合いがいてもなんら不思議ではないが、真心を込めたと言わんばかりの繊細な手書き文字は、他者から見てもただならぬ情熱が溢れていると分析できる。つまり、この女性は前田に好意があって近づきたいのでないのか、ということだ。
イヤリングの固定金具部分から吊り下がる琥珀色石は艶加工されているようで、コーティング層にはアルファベットの『M』の文字が小さく刻印されていた。前田の『M』か、と確然と考え当たる。
──片方だけを持っておけってこと……かな? なかなかのロマンチストね。
しかしながら、恭子の脳裏に浮かんだつい三日前となる金曜日の夜の出来事、居酒屋から出てひとり最寄駅へと向かい歩く帰宅途中の前田と実は遭遇していた。「お、偶然ですねえ前田さん」と、こちらは過去にファッションモデル経験もある容姿端麗な女友達を複数人連れていたにも関わらず「おお、お疲れさん」と軽い会釈と興味なさげな一瞥のみで立ち止まりもせず去っていったあの男を慕う女性がこの会社にいるとなれば、それは驚愕と共に好奇心も湧いてしまう。
単純な便箋ではなく、鶴の折り紙にメッセージを込めるという凝った工夫もある心意気だ。イヤリングをひそめておいた理由は、差出人を明白にするためであり、尚且つ最初から開封させる狙いがあったのだろう。もっとも、三日前となる金曜日の退勤時点では「今日は飲みに行くから」と、いち早く帰宅した彼のデスクにこのような物体はなかったはず。
係長の佐川と主任の松本を残して恭子が退勤した時刻は、前田晃大と立花優の二人が帰宅した後となる、十八時五十分頃。退勤打刻でも、そのように履歴が残っている。壁掛け時計を確認する。
──もう七時半か。あと二十分もすれば、みんなが来る。
それまでにある程度の答えを出しておきたい。
どうしてかというなら、教育者である彼からも助言されていたからだ。謎と感じれば背景を推理せよ。さすれば、今の仕事はもっと面白くなる。したがって、卑劣と自覚しながらも自らを正当化した恭子は、鶴の形をしていた手紙と一つのイヤリングを自分のスーツのポケットに押し込んでしまった。前田に読まれた場合、実際に手紙の内容を検討する恐れもある。二係への異動を後悔する気持ちはあるにはあるが、誰かの思惑にて敗北を期して追い出されるなど屈辱でしかない。
三日前となる金曜日の夕刻からこの月曜日の朝となる、労務部厚生課二係が休日で稼働していない間に何者かが鶴の折り紙を置いたという由になるのだが、その手段と時間帯が定かではない。明確化すれば、ひいては差出人特定につながる判断材料となる。そう勘案に及んだ恭子は、トートバッグからスマートフォンを抜き出した。
「いやいや、待てよ」
少しでも情報を得られまいか、引き継ぎの度に未だ往来する機会もある瀬川真奈美に、あらましを語って尋ねようとしたところで手を止めた。彼女が共謀者である可能性も否定できない。セキュリティドアを抜けての所業となると、労務部厚生課二係全員が条件に当てはまる。それに協力者を仰ぐとなると、手紙を隠蔽した恥ずべき行為を明かさなければならないし、それは信頼を欠く行為となる。
また自分の力で解決してこそ、勝利と云えるのではないだろうか。それでこそ相手を出し抜けるわけだ。尚且つ、このようにことさら目に止まりやすい位置に鶴の折り紙を置いた意図まで鑑みた場合、差し詰め恭子に読まれる蓋然性すら考慮していたとも考えられる。そうなると、次には行動と思考を読まれ、そして先手を打たれて、情報を操作されるかもしれない。
「絶対に見つけてやる。見つけてどうするかって? それは勝利宣言するのよ。わたしの方が有能だってね。あんたの思惑も慕情なんてのも木っ端微塵にしてくれるわ」
不屈の精神が呼び覚まされた。それでこそ、この労務部厚生課二係にふさわしい人材として成長できるのではないか、と今しがた遂に腰を据える決心がついたわけである。拳を固めておのれを焚きつける恭子は、窓ガラス叩く雨音だけが囃となる事務室で独りひっそり不適な笑みを浮かべる。
何故なら、現時点で岩瀬原恭子こそが、当社内で勃発した女性特有の社内トラブルを治める、たった一人の担当者。誇大表現すれば、悪を滅するに必要な特殊権限を社内に限り付与されたのだ。
労務部厚生課二係は正常業務従事困難とされた従業員との対話から原因究明、そして改善へと導く面談員でもあり、また社内で発生する人的トラブルを調査し、懲戒審査委員会への報告、更に処された懲戒内容をルール抵触者に直接下す役を担う、いわゆる執行人にもなる。具体的には、業務中のセクシャルハラスメントからパワーハラスメントという社会通念に反する行い並びに、法律や手順を逸脱した過失、プライベートでの軽犯罪、反省もなく繰り返される交通違反などなど、広義の意味での違反を社規に沿って調査報告するのだ。
一度きりの失敗と重責感に頭を悩まされていたが、それも今日まで。
「我こそは、執行人の岩瀬原恭子よ! 誰の手も借りずにやってやろうじゃあないの」
と、技癢と知りつつもなお勢いに乗って哄笑を鳴り響かせていたその時──
「絵に描いたような空元気やなあ」
やんわりとした苦笑いを浮かべて、その男が入室してきたのだった。