一話
時計すらない窮屈な閉鎖的空間で、初めのうち彼女は赤子のように首も定まらず、表情もうちしおれ、顔色も人ならざる者のように青白かったのに、今はもう違う。
「さすが、さすがです。本当にありがとうございました」
「いえいえ、これがわたしの仕事ですから」
飽くまで事務的に淡々とノートパソコンのキーボードを弾き、ことの顛末をあらます報告書作成に集中する。少し華美であるのではないかと見咎めた彼女のピアスは手作りらしく、金銀雑ざる小さな花型の集合体ということから、勤務中に相応しくはなかったが、本題から逸れることも本意ではないし、愉悦に水をさすのもどうかと思ったのでここは許容した。
「もう、ダメだと思っていました。でも、すごいです。地道な聞き取りや調査とか、あと推理であの人たちの悪事を暴くだなんて、もう、本当に感謝しかありません」
彼女の声が嬉々として踊り、表情までも色づき華やいでいく。
「憧れです。岩瀬原さん、さすが、労務部厚生課二係、さすが、さすが女性の救済者」
「いえいえ、とんでもない」
「凄いですよね。だって、今のご時世、コンプライアンス的に男性のかたじゃ踏み込みにくい案件なのに、たった一人で」
「いえいえ」
「岩瀬原さんは、なんでも持っていてうらやましいです。女性としても」
「いえいえ」
「若いのに、あんないかつい男性の中に混ざって、それでも負けないくらい溌剌としていて、頭も良くて」
「いえいえ」
「顔もスタイルも良くて、同じ年齢のわたしなんかと大違いで。恋愛も勉強もスポーツもできるんでしょうね」
「そんなことはないですよ」
眼前の彼女はまだまだ続ける。
「きっと今まで挫折するような人生じゃなかったんだろうなあ。いいなあ、いいなあ」
「いえいえ」
「ムカつくんですよねえ」
「いえい」
「実は後ろから男性に守られていて、相手が歯向かえないように力を貸してもらって、そのおかげで目的を果たせたくせに、自分一人の実績みたいに無い胸張って、その腹立つどや顔を恥ずかしげもなく晒してさ、わかりますよ、だって、あなた、わたしのことをいじめていたあの人たちと同じような得意満面づらしていますもん。小賢しいんですよ、ねばねばの腐りきった馴れ合い集団が、他人を誹謗して嘲笑することまで協調性の一つだとか、社会人の嗜みだとか、ごますり勝者の特権だとか、知能的世渡り上手だとか盲従してる底の知れた溜まりカスが」
表情ひとつ変えず、ただ屈託ない笑みで言い放つその愚弄が、油断していた心臓に幾重も鋭く突き刺さる。血の気が引き強張るこちらの両頬とは真逆にして、彼女の顔色は入室時とは別人のように紅潮していた。
「わたし、もう今の会社辞めるんですよ。馬鹿馬鹿しい」
「え、でも、問題は解決したわけで、どうして?」
「だから、ね?」
彼女はしばし言葉を溜める。
「わたし、実績だとか評価だとかのために、圧迫受けたりセクハラまがいのこと罵られながら必死に仕事してるのアホらしくなっちゃった。あんたがやってるエセ探偵ごっこなんて見てたら、それはそうなるわ。てかさ、あんたそんなんで、給料もらってて恥ずかしくない?」
「いや、これはでも、与えられた、れっきとした仕事で」
こちらの隠しきれない狼狽を見てとった相手は、ここぞと勢いを増す。
「あんたなんか、偽物よ。他の二係の人らと違って偽物なんですよう、ばーか。あんたが辞めろ、この恥知らず。何が女の味方だ」
視界が暗転する。脳細胞に浸透する嘲り声。それが、渇望していたけたたましい電子音にて掻き消された。目蓋を開けてもなんら変わりない暗闇の中で、身を起こす。
そして、舌打ち。
「さあって、待ちに待った月曜日よ。楽しみ楽しみー」
競争相手も不在であるため、適性が認められて問題なく業績を積めば評価は鰻上りとなり、ゆくゆくは単独昇進も夢ではないだろう。との甘言に惑わされ、簡単に部署異動の要請なぞに了諾しなければ良かった。
暁光の兆しもない二月の午前六時、さっそく目覚ましアラームを止め、休む間も無く出勤仕度に動く今は、独り暮らし賃貸アパート一室である。そんな代わり映えない私生活空間ゆえに往生際悪く、内心で嘆いてしまうのだ。
「あー、わたしってば、自分の可能性にのぼせて浮き足立ってるじゃない。もうっ、落ち着け、わたし」
起き抜けの足が重い。引き摺っていると表現しても過言ではない。照明を点灯させたワンルームには、二十代の女性らしい小物や雑貨類が随所に飾り置かれ、それでいて常日頃から怠らぬ掃除のおかげで整理もされ清潔感に充ち溢れていた。手早くスカートスタイルスーツに着替える最中も、胃腸付近に異物を飲み込んだかのような重鈍さを感じ、どうにか吐き出せまいかという願いを込めてしきりに嘆息する。
「いやあ、今日も今日とていい天気ですなあ」
雨である。見ずとも知れる窓ガラスを叩く旺盛なる雑音。起床後直ちに着けたフレームレス眼鏡から、コンタクトレンズに付け替えて、窓外を眺めても、やはり雨である。鏡台に向かって慌ただしくメイクする手を思わず止めてしまった理由はほかでもない、覇気の抜け落ちた自らの双眸に気づいたからだ。故郷の友人から届いた年賀状が、鏡台のかたわらに置き放しで、牛のマスコットキャラクターが笑いかけてきていた。
「わたし、今日も可愛い、はず。自分で言うのもなんだけど魅力は笑顔……ですよねえ」
まだまだ社会人四年目の分際で傲っていた寡聞さ加減に呆れる自分が、鏡から引き攣り笑いを浮かべている。ブラッシングしたセミロングの焦げ茶髪を手慣れた動作でまとめ、これも落ち着きある濃紺色のシュシュで低い位置に結い上げる。
「引き締まっていこう」
シュシュの絞まりか悪く、いまいちまとまわらない。
「前進あるのみ。後悔なんかない」
要するに後悔している。
朝食もそこそこにしてクリームカラーのダウンジャケットを装備し、二の足を踏みつつもなお風雨が吹きすさぶアパート建物の外へと、広げた傘に守られて出る。最寄り駅から徒歩十数分という汎用性のあるこの界隈、かいつまんで不便もなく穏やかな街並みが広がる。なけなしの陽光しかありつけぬ、おしなべて冷罵とした外界は、人々の活動をほとほと億劫にさせるだろう。
「最高の月曜日、って朝だわ」
フロントガラスの雨水かき分けるワイパーの動作までも、どこか不詳不詳押されているように見えてしまう。そんな薄ピンク色の軽自動車にて駐車場から出発し、出勤時通例の渋滞に巻き込まれることなく、濡れしきる国道を走り抜けて三十分もすれば海岸線の道路へと出る。雑然とした雨音に塗り潰される暗澹とした思考をどうにかできまいか、と交差点で停まった車内で、オーディオコントローラーに手を伸ばした。
お気に入りのポップソングがスピーカーから流れるが、その夢心地な世界観とは真逆に殺伐とした現実の象徴をふと思い出す。本日は、朝から教育担当者に付き従い、そうそうたる重役メンバーの前に立たなければならない。
「吐き気がする、じゃなくて楽しみでしかない。そうよね、恭子」
あの渺々たる海洋を渡す連絡橋から、全長千五百メートル伸びる先の埋め立て地へとたどり着けば、大型の工場、倉庫、ビル群まで林立し密集している。そこに、岩瀬原恭子、齢にして二十六が勤務する電子機器部品製造メーカーとして世界トップシェアを争う、神乃城電子機器化学株式会社があるのだった。往々にして海風もたなびく二月十六日の月曜日、あの茫漠とした遠く果ての水平線に閃く落雷を目にした恭子は、これより一ヶ月以上前となる萌芽の瞬間を改めて記憶から呼び覚ますのだった。